C ステンドグラス・ストラテジー/2

ステンドグラス・ストラテジー/2

 

 一月も半ばだった。

 八頭佳恋は憔悴(しょうすい)していた。一つ前の授業はわかりにくいと評判の化学だった。コロイド溶液は我々でチンダル現象は人間社会の隠喩ということらしかった。なによりも罪なきクラスメイト達を憔悴させるのは長ったらしい小数点以下の並びや、想像の枠を超えた乗数ではなく「チンダル現象」を失敬なイントネーションで連呼する禿頭(とくとう)教師の性根だった。

 しかし、佳恋を(むしば)んでいるその憔悴は「ワシももう十年ばかり『チンダル』でのう! フォッフォッフォッフォーッ!」によるものではない。男子ですら苦笑を通り越して世を(はかな)みながら天を仰ぎ天井のシミで精神(ロール)鑑定(シャッハ)している。

「――ふーっ」

 ため息が出る。佳恋も天を仰ぐ。呼吸をするのをど忘れした身体に一から呼吸の方法を教えなおす。ボールペンを筆入れにしまい、次の授業の準備をしようと顔を上げる。

「カレン!」

「――ッ、はい」

 名前を呼ばれた。佳恋の尻がふわりと持ち上がる。声をかけてきたのは目下佳恋の懊悩(おうのう)を深刻にさせている張本人だった。

 しかも下の名前だ。下の名前で呼ばれるのは親しみの証だと思っている。でも、いま佳恋の名前を呼んでくれちゃった一月の新しいクラスメイトに親近感などは抱いていない。それどころか、はじめて見えたあの日から、佳恋の胸に(くすぶ)りと懊悩(おうのう)を与え続けているのは他ならぬこの敵意(・・)だ。

「カレン! 次の授業、ボクははじめてなんだ。そう、要領をオシえて!」

「――いいけれど、次は」

「グラマーかな!」

 横一線に裂けたような口から、歌うような言葉が漏れる。この降って沸いたような同級生はなぜだか佳恋につきまとっていた。席が近いから当然の帰結に見えるのだろうけど。

「英語は、得意分野ではないのよ」

「それは残念! でもボクよりは上手くコナすね!」

「――そんなことないわ、本質の見えないものは苦手なの」

「あはは。カレン、キミは謙遜をシキるね。――それなのにメガネはかけないんだ!」

「――えっ」

 ――ギぃ。と椅子の足が不吉な悲鳴を上げる。床の木目ひとつ分の後退。目を合わせないようにしていた異邦人(ストレンジャー)の顔を恐怖から見上げる。真田瑛子の顔は穏やかで企業パンフレットの表紙みたいに微笑んでいる。

「かけてただろう、メガネ。オボえてる、キミはそのままでもボクの顔を見ることが出来たのに、メガネをかけた!」

「えっ、あ、うん」

 なんだ、なんなの――? だとして、それが、何――?

 佳恋は混乱していた。このエイリアンになにを言われているのか判断が付かなかった。

「ああ、授業がハジまってしまう! 次の授業では――何を――用意すればいい?」

「次は、グラマーでしょう……あなたが今、教えて欲しいって言ったんじゃない。どうしたの?」

 真田瑛子は一層目を細めて、その分だけ薄く口を開ける。白い歯が見える。

「なんでだろうねえ、キミ。キミなら、知っているかなあ?」

 そしてチャイムが鳴る。彼女が転校してきてからこっち、佳恋はこういった揺さぶりか追及のごとき行為に晒され続けていた。聞きたいことがあるならスッパリと聞いてくればいい。そうすれば佳恋にだって打つ手はある。

 しかし真田瑛子は、のらりくらりと、臨界間際(クリティカルポイント)の水風船にマジックインキで落書をするようなことしかしてはこなかった。割れることを望んでいるのではなく、水風船の中で遊ぶ水の様子や、ペンの摩擦でひりだされるゴムの悲鳴を楽しんでいるように佳恋には思えた。今の質問のように。

 先日、佳恋は油断していて、クラスメイトのある隠し事について、うっかり知った口をきいてしまった。佳恋の油断は、そこに「居なかった(・・・・・)はず(・・)の真田瑛子」がいたことだ。自然に話題を逸らそうとしたけれど、真田瑛子は佳恋を見逃さず、 ヒマワリのように笑ってこう言った。

 

 ――あはは、まるで探偵のようじゃないか!

 

 佳恋はあの日見たものに確信が持てないでいた。けれど二度目を見ようとしていない。怖ろしい。八頭佳恋はいくつも怖ろしい。真田瑛子が怖ろしい。初めての日に垣間見てしまった、あのエイリアンの内側が怖ろしい。それを見透かしているかのような彼女が怖ろしい。得体の知れないものである筈なのに、知っていることを知られているはずなのに、敵意を持たれているはずなのに、まだ生きている自分が怖ろしい、それだけの恐怖を前にして、のうのうとしている自分の性根が、怖ろしくて怖ろしくて仕方がない。

 

 とっくにグラマーの授業は始まっている。

 真田瑛子が流暢な英語を、でもやっぱりアクセントの歪つさを教師に注意されながら、でも直さずに読んでいる。

 そのひとつ前の席で佳恋は考えている。 

 昼休みになったら、真田瑛子に声をかけられる前に逃げよう。高いところがいい。

 

 

 そう決めた手前、昼休みは一人で施設棟四階にやってきた。

 鍵の掛かった屋上よりも、静かで風のない場所だ。全面ガラスで景色もいいのに、マジックミラー仕様で外からは見えないようになっている。この曜日にはだれも教職員が居ないことは、意外と知られていない。かくいう佳恋も、この場所はメガネの能力で知ったのだった。

 サンドイッチとあげぱんをひとつずつ平らげる。その頃になると、尻に敷いたハンカチの下、床から冷気が滲みて座っていられなくなる。立ち上がるとタイツにまとわりついていた湿気が気化してなおさら寒くなった。

 目下の校庭では、食の早い生徒達が食後の球技を楽しんでいた。おおよそは男子だが、たまに女子が混ざっている。その殆どが四限か五限が体育で、ジャージを着ている生徒だ。制服が混ざっている時は、だいたい隅の方で羽根つきがごとき優雅なバドミントンが催されている。

「――あ」

 校庭の中にひどい違和感があった。

 真っ黒なセーラー服が舞っている。

「――真田」

 好色な男子達が黒い街灯に夜の蛾のごとく集まりだしていた。真田瑛子は校庭でのなんちゃってバレーボールに興じていた。他に女子も居るけれどもちろん下にジャージを穿いている。真田瑛子に無理矢理連れてこられたのか、制服のままでへっぴり腰だったけれど。

「――――」

 男子達が(どよ)めく。真田瑛子のスーパープレイ――ではなく、それに伴って、彼女の長いスカートが(ひるがえ)ったからだ。いかに長目だからといっても、跳んだり跳ねたりすればあわよくば見えてしまうだろう。

「……恥ずかしくないのかしら」

 手の平サイズの野菜ジュースを啜りながら、佳恋は思う。

「――あ」

 そこでふと思い出す。これはチャンスではないか。

 佳恋は手提げに入れてあったメガネを取り出す。この距離なら、遠目ながらも真田瑛子に気付かれず、あの「わけのわからないもの」をもう少しじっくり観察することが出来るに違いない――。

「――く」

 視界が歪む。

 球遊びに興じる転校生を、その歪む視界の中心に据え――。

 

 ――見ているのは、自分だけだとオモったのかい?

 

 そんな声――が――。

 やにわに聞こえたと思った。その時は既に遅かった。校庭にいるあまたの生徒の目が真田瑛子のそれになって、一斉に佳恋に向かい――見開いた。

「――ひいいッ!」

 たまらず佳恋はメガネを外した。勢いよく外したものだから(つる)が鼻先を引っ掻いていった。心臓が懸垂逆上がりを試みて、失敗して落ちたくらいの衝撃だった。コンタクトだけを通した佳恋の視界には、全くさっきと同じ、穏やかな校庭が拡がっている。

「な、に?」

 手が震えている。でも一瞬だった。視界は歪んでいたし、なにかを光の加減で見間違えたのかも知れなかった。そういうことはある。あまりにも佳恋は真田瑛子を怖れすぎて、見えもしないものまで頭の中で創り出してしまったのではないか――。

 取り落としていたメガネを拾う。

「――もっかい、もいっかいだけ……」

 佳恋の好奇心は、意外と強くゆるがない。

 幼い頃、彼女の父親は「母親に似たんだナァ」と苦そうに零した。佳恋はその事を覚えていないのだけれど。

 メガネを再びかけて、校庭を見据える。

「――ひ」

 真田瑛子が明らかに佳恋を見ていた。やさしそうな顔をして、目は笑っていた。口はほんのりと空いていた。飛んできたボールを見ずにトスをあげた。

 歪んだ視界の中で、真田瑛子の輪郭だけが枠を(ゆるが)せにしていなかった。マクロ写真で彼女にピントを合わせたかのようで、見てきたものの中ではじめてだった。転校の日、彼女だったうすら気味の悪いモノは、切片すらも、彼女のどこにも見あたらない。

「なん――で」

 ここに自分が居るのは、見えないはずなのに。

 まるで歪んでいるのは「ボクじゃなくて、世界だよ」と佳恋に言いたげにしている。

「え――」

 校庭の真田瑛子が指をすっとあげた。

 明らかに四階の、遮光シート越しの、そこからは見えないはずの佳恋を指している、そして口をぱくぱくとして何をか言っている。

 

 ――うしろに目をソナえないのはなぜ!

 

「えっ!」

 後ろから――いや、脳の内側から反響する声。

 佳恋が振り向くと、誰も来ないはずのこの施設棟四階に、誰かがいた。

 女生徒だった。 

 丁度階段を上がって来た女生徒は、佳恋の歪んだ視界の中で体中に赤い縄をぐるぐると巻き付けていた。