R グラスランド・オーバー/2

 

 けっぷ。と内側に溜まった息をひとつ。惨劇の廊下からほど遠くない時間と場所。真田瑛子は鉄塔の上で、新しい魔法が体になじむのを待っていた。

 瑛子にとって「食事」はとても疲れる行為なのだ。だから、一度に弱った相手をひとり。それが他の魔法少女たちはともかく瑛子の食事における限界と言って良かった。その分、瑛子は食事において対象の魔法を吸収する特性を持っていた。

「贅をキワめ、ススむにキワまったねえ!」

 この街で瑛子が為し遂げたかったことは、ほぼ上手くいった。その身の余計なものを千代子に押しつけ、また、強力な魔法を手に入れたのだ。自分は傷ひとつ負わずに。

「ワラわないのかい、ボクは!」

 瑛子は笑顔で手を広げる。言葉とは裏腹にいつもの笑みを湛えている。

 この街に来る時そんな遊びをしたようにセーラー服を脱いでみる。今度は意志に反した熱に浮かされてではない。寒暖から身を守る為ではない衣服を脱いでみても、瑛子の意志で見せかけを変えられるカメレオンの表皮のようなものであるから、脱いでみせたところで、本質は変わらない。その下には、人ならぬものが蠢いている人の形をした袋でしかない。

 これも、シャボン玉による透視の異能も、紫乃を食うときに展開した緑色の世界も、瑛子の言うところの「魔法」なる異能のひとつだ。「魔法」の代償は高い。けれど、瑛子は長らえてきた。同類を、生命を求めてたったひとり旅を続けてきたのだ。 

「あはは――ボクは、ボクはまた」

 一糸まとわぬ偽りの裸身から零れる声は、夕焼けを受けて哀愁を含む。体が軽い。さっきまで彼女にかかっていた質量の最後が、魔法と、微かな記憶を瑛子に刻んで消えていったのだ。

 瑛子はまた、ひとりぼっちになった。

「ボクはなにを、モトめていたんだっけ!」

 空虚がある。満ち足りた力で、同じ泥の轍を踏まぬように影の中に生きて、狡猾に、臆病に、大胆に、そして飄々と生きてきた。それが正しかったことはこのからだが証明している。

「でもそれは――それは――タノしいのかなあ!」

 苦悶の表情。それは確かに苦悶だった。口は笑っている。しかし目は悲しみを湛え、陽光の一条ごとが、致死の切っ先であるかのように眉をしかめる。なにが苦しいのかもよくわからなかった。「魔法少女」として目覚めた時にはきっと、持っていなかったものに違いなかった。

 だから、考えない事こそが、思考の埒外に置いて、忘れてしまうことが正しいはずなのだ。

「――正しさか! あはは! ボクら、ノゾむものをワスれちゃいないだろうか!」

 瑛子は笑う。自分を笑う。生きるために生きることを笑っている。そんなのは、違う筈だ。それは紛れで生から遠のくばかりなのだ。腹の中に納めたばかりの彼女が教えてくれたではないか。情欲をかき立てる魔法よりももっと甘くつらく切なく悲しい毒素があるのだと。

 そう、目的を果たしたのだから、さっさと次の街へ渡るつもりだった。あとのことは知ったことではない。なにより、ここまで大事を引き起こしてしまった以上、さっさと風呂敷を畳んでお暇するべきだ。今までしてきたのと同じようにだ。けれど――。

「ああ――そうだ、カレのことが、気になるんだ?」

 引っ張られているな。と瑛子は自覚していた。「轢き貫く右腕の娘(パーニシャス・パープレックス)」のちからに瑛子は惹かれた。それが、そもそもの瑛子の願いか、さっき腹に入れた彼女の強い意志によるものかはわからない。彼女を撃退した「蒼ざめた白磁の壺(ペイル・ペリセイド)」の魔法は、瑛子にとってそこまで有用でもないけれど、溜め込まれた魔力はかなりのものと見込まれた。もし、彼女を食うことができれば、しばらくは狩りの危険を冒さずにいられる――。

 それは、計り知れないメリットだ。

「――けれどね、ボクら。それは、まやかしじゃないか」

 また、雲の間から陽光が差した。まぶしくて手をかざすと掌が熱を帯びた。

「――あ」

 瑛子は手のひらを見つめる。瑛子の手が空気を握り、また離す。温もりが瑛子の中枢に、原初の欲求にずっと貼り付いていながら隠してきた暗闇に光を当てる。

 そう。つい先日。夕焼けの中で手にしたぬくもりの残滓。貪欲を極める度に冷えていくこの体を、つなぎ止めるものを――瑛子は、ずっと、ずっと渇望していたのではないか。

 だから、あの魔法のことがあんなにもうっとうしかったのではないか。

「あははは、これが――これが!」

 笑って、鉄塔からまっすぐに飛び降りる。

 そう、あの魔法はなんだ。素養を保ちながら、悲劇を背負いながら、すっくと立っていた彼女の事が、ずっと瑛子は気になっていた。都合良く表れ、都合良く股を開いてくれた彼女の中に捨てた魔法が、変化――、いや、進化を遂げ「右腕」や「白磁の壺」の発動を誘ったと予測されることなんかは、瑛子にとってはどうでもいい事なのだ。

 直立のまま、すうと重力に引かれる。スカートは翻るものの、裏返ることはない。すわ地面に落ちそうになると、そのスカートの内側からするすると鮮やかな緑色の蔦が幾条も伸びて地面と瑛子の間に弾性を挟んでくる。

「さあ、タノしもうか! ボクらがサダめられるのならば、だ! あははははは!」

 蔦が象ったできあいの椅子に腰掛け、ゆっくりと優雅に地上に降りる。

 同類の屍をいくつ背負っても、すらりと背を伸ばし、笑顔を絶やさずにいられるように。

 

 前に進む道を見失わないように、来た道を引き返す。

 忘れ物を、取ってくるだけだから。

Q ペイル・ペリセイド/5

ペイル・ペリセイド/5

 

 あさぎはそのまま、血の海で朝を迎えた。

 学校にいかなければいけないと暢気に思っていた。べとべとして気持ち悪いからシャワーを浴びようと考えて、全裸だから服を脱ぐ手間が省けたねとばかりにスキップで浴室に行った。

 蛇口を捻って水を浴びる。口の中がねばねばするのでシャワーから直接口に入れる。塩素臭い水と鉄の味が混ざって急激にえずき、タイルに次々と黄色とピンク色のなにかを戻してしまう。口の中が焼き鳥を食べたときのように脂っぽい。

 なにこれ血なの。誰のなの。あさぎはやっと忘れていた昨夜の歯ごたえと惨劇を思いだす。味がわかると言うことは夢ではない。排水溝に流れていく肉片は、今自分の中で昨夜に比べてかりそめの満腹をくれているのは――。昨夜、どうしようもなくなって、前後不覚に陥って、変な夢をみてしまって、心配して入ってきた両親を、あんなにやさしかったパパもママも、シノちゃんみたく、あさぎは、あの、壺になって―――――!

 あさぎは何度も、何度も、何度も歯磨きを繰り返し、その度に吐く。自分の中に入ってしまった罪を、本来、絶対口にしてはいけないはずのものを吐き出そうとする。けれど、排水口に流れていく自分のルーツだったものをあろうことか、もったいない――そう感じてしまう。

 シャワーの蛇口を止めると、どこかで電話が鳴っていた。それはずっと鳴っていたみたいだった。この家全員の携帯電話も鳴っているのか、低い振動音がそこかしこから聞こえてくる。出勤してこないパパを、学校にこないあさぎを心配する電話が、保険の勧誘に混ざって入ってくるんだろう。それをいつもは、ママが取るのだ。もう、それを取る人はいない。

「あ――っ!  ぎゃ――――――ッ!」

 ぎゃあぎゃあ叫んで、またシャワーを最大に捻った。水があさぎに叩きつけられる。

 シャワーに流されるから、泣いたって良かったのに。

 誰もいなくなってしまったから、見られたりしないのに。

 それでも、あさぎは泣けなかった。えずいた拍子に涙はにじんでいたけれど、あさぎはつらいことがある度にビイビイ泣くのが常だ。無理矢理泣くことだってある。小二の時、ママが間違って捨てたリエちゃんとの交換ノート事件の時にはパトカーまで呼んでしまった。

 涙が出ない。嗚咽がタイル張りの浴室に響く。もう、腹の中のものは出せなかった。まだ残っているけれど、あさぎの体は一粒の涙さえ、流すことを許さないようだった。排水口に肉片が詰まり、ごぽりと醜い音をたてる。そのままにするとママに怒られてしまうから、歯ブラシを排水口に突っ込んだ。

 血塗れの自室に戻る勇気は無かった。あさぎはキズひとつないきれいな体をろくに拭かず、髪にタオルをひっかぶせたまま家の中をさまよう。

 ママの服のサイズはあさぎにあわない。非経済的だとママは笑って、あさぎのおねだりを三割くらいの確率で聞いてくれた。ママの好みと折衷すると、ちょっと子供っぽいセンスのものになるけど、あさぎは文句を言いながら着た。お気に入りのそれを着て出ていきたかった。

「あさぎが、パパとママを食べちゃいましたあああ、てへー。しけいですかあああ?」

 警察に電話をしてそう言えば、あさぎのやることは全部終わるのだろうか。「パパとママをたべちゃうなんて、友達をころしちゃうなんて、悪い子だね。ほら、おしりだしなさい、ペンペンですよ、ペンペン」「うわあああああああんんん。もうしないからゆるしてえええええ」

 それで、許してもらえるのなら。

 居間には、アイロンのかけ終わった制服があった。袖を通すとノリが効いていた。

「……どうせ、ばけものになったらああ。服なんかなくなっちゃうんだしいいいい……」

 だから、どこかに行ってしまおうと思った。山の中とかに行けばいいと思った。おなかを空かせて死んでしまえばいいのだ。それまでは生きていこうと思う。それまでに、やることがある気がする。クミちゃんに謝らなきゃ。片岡さんにも迷惑をかけたに決まっている。そういえば、片岡さんの隣にいた人、シノちゃんをつれて行ってしまった人は誰なんだろう。それが全部終わったら、山に行こう。パパにおんぶしてもらって、泣きながら登ったあの山に登りたい。

「わあ、いっぱいやることおお、あるじゃんんんっ!」

 パパの長い財布から札を、ママの財布からキャッシュカードを取る。暗証番号は結婚記念日。玄関のキャリーケースにパパのトレンチコートをはじめその辺のとお茶のペットボトル、風邪薬と胃腸薬、保険証なんかを入れては出す。いざ、準備が出来たと思ったけれど、下着がないのはやっぱり落ち着かなかった。ママのタンスを漁りショーツだけを拝借した。ゴムがゆるい。

 一番奥の、一番派手な奴にした。

 あさぎは玄関を施錠し、鍵を屋根の上に放り投げる。鍵は雨樋に落ちて、そのどこかで止まった。もう帰ってこないから、要らないものだった。

 あさぎは玄関の扉をじっと見据えて直立不動になって、そのまますっとお辞儀をした。はじめてこの家に入ったときの新しい家の匂いを思い出す。幼かったあさぎは、その時パパが泣いていたことを知っている。ごめんなさい、こんなことになってごめんなさい。

「いってきますううううう!」

 ママの「いってらっしゃい」が聞こえる。パパのそっけない「おぅ」が聞こえる。あさぎはいつのころからか、恥ずかしくなて言ってこなかったんだ。

「――行って、きます」

 

 襟を正し、もういちどはっきりと口にする。

 涙はやっぱり流れてなんかいないけれど、壷井あさぎが泣いている。

 

 いさましく、空きっ腹で歩いていく、

P ペイル・ペリセイド/4

ペイル・ペリセイド/4

 

 ――シノちゃんに、壺め壺めと言われすぎたから、ついに壺になっちゃった。

「変な、夢みた」

 病院のベッドで意識を回復したあさぎは、傍らの母親と刑事達にそう告げた。誰かが騒いでいた気はするし、養護教師が卒倒して、野次馬に来た一年生が次から次に顔面蒼白で、あたりの血の臭いに加えて胃酸の臭いが廊下に充満したことくらいの記憶がおぼろげにあると告げた。

 レントゲンには人間と寸分違わぬ健康な骨が映った。あんなにつけられた青あざも、擦り傷も、はがれた気がした頬の皮膚なんてものもなかった。あんなに痛かったのに、あんがい人間の体なんてものは丈夫なんだな。あさぎは、脳天気にもそう思うことにした。

 警察の質問は実際わからなかった。先生の質問に答えていくとまず薬物(ドラッグ)を疑われて検査、その後は心療内科(カウンセリング)に回されて質問攻め。授業よりもテストよりも疲れた。なんだかわからないけれど、おとがめはなさそうだ。やった。

「何、食べたい?」

 運転しながらママが聞いてくる。元気のないあさぎを気遣ってくれているお節介なママだ。

「おにく」

 そう答えた瞬間に、脳裏に蘇ってしまった。自分が壺だったこと。あのとき体の中に入ったなまあたたかい血の滴る生肉のこと。途中で誰かに取り上げられてしまったけれど、いままで食べたどんなものよりもおいしかった。今、考えなくてはならないことはいっぱいあるはずなのに、頭に浮かぶのはずっと「おなかすいた」「おにくたべたい」の二本立て。ママはスーパーに寄って割り引きシールのついてない国産牛肉を買ってくれた。

ホットプレートの上で焼かれる肉のことを考えてみる。おいしそうだね、と理性がささやく。おいしいはずでしょうと言っている。

 でも、あさぎの本心は、本能は、ついさっき確かに壺になっていたあさぎの正直な体は全くそんなまがいものの肉など求めていない。アレを食べたい。おなかがすきましたと、どうして求めているものを食べさせてくれないのですか、とあさぎの肉はずっと訴えている。

 ――食べないの?

 食卓を囲んでママの声が聞こえる。パパの心配する声が聞こえる。パパは言っている。あんなことがあったのに肉とかおまえどういうだってしょうがないじゃないのこのこがそんなわけあるかばかなにがばかなんですあなたなんかなにもしらないくせにこんなときばかり――。

「やめて」

 あさぎの一声で食卓は静かになった。あの惨劇について触れてこないやさしいパパとママはいつもあさぎのことを第一に考えてくれる。話さないでいいなら話したくないからありがたいし、なにより、あさぎにもまったくわからないことばかりなのだ。焼かれた肉を一口含む。

 大丈夫、これだって肉だ。変わらないよ。あさぎが本当にたべたいお肉とは違うけれど、お肉だよ。だって人間だって。牛肉も豚肉も鶏肉も魚肉もいけるでしょ? だから大丈夫だよ。食べたことないけれど羊肉も馬肉も犬の肉だってかわいそうだけど食べられるんだよ! だから、栄養になるよ!

「お、おいしい?」「――うん、醤油とバターの味がする」

 ぜんぜんたのしくない。

 あさぎにとって食事は人生においてそれなりに楽しいイベントの一つだった。クミちゃんや、シノちゃんと食べるお弁当や食堂のごはんはおいしかった。やっぱりクミちゃんはいっぱいたべたし、シノちゃんはよくクミちゃんにおかずをあげていた。シノちゃんがきっと自分で作った、あのピンク色の具が入った創作玉子焼きを食べたかったのに、分けて貰えなかった。

 今になっては、まったくそれがほしくないんだ。

「――あさぎ? どうしたの」

 たのしくないのが、こんなにもかなしい。

「無理もないだろう、あさぎ、無理をしてはいけないよ」

 あさぎはごめんなさいって謝りながら少しずつ肉をほおばった。タレもつけず、よく噛みもせずに飲み込む。食欲をそそるはずの油のにおいが鼻につく。どうしてそんなダサいの食べているの? と体が訴えている。火を通したらなにもかもダメでしょう! としかりつけてくる。

 どうして、食堂の明かりは今日に限ってこんなにも暗いんだろう。パパのグラスに入った「まがいものではなく正しい」ビールはまったく減っていなかった。ママのしらたきと野菜ばかりの皿もまったく減っていなかった。国産黒毛和牛があさぎの皿の上で泣いている。

 食卓を「ごめん、もう食べられない」と腹を鳴らしながら自室に下がった。布団を被って眠ろうとして、思い出してしまう。中村紫乃のことを。壺になった自分のからだの中で、その上の方にある出口に向かって脱出しようともがく彼女に対し、補食のために為すべきことを為したことを。明日になればきっと、カガクの――血液鑑定とかDHAとかなんかそういうので――あの血が「中村紫乃」のそれだと確定してしまうんだろう。そしてみんなは友人を亡くしてへたりこむ槌田紅実の姿を見ることになるんだろう。

 クミちゃんは、自分のことをかばってくれるだろうか。全身にその血を浴びたあさぎのことを、信じてくれるだろうか。あさぎがやったことを、許してくれるだろうか。考えるほどに眠れなくなる。

 冷静に考えれば、人が壺になんかなれるはずはないのだ。でも、あさぎは、確かに壺だった。でも、壺だったかどうかに関係なく、あれはセイトウボウエイだったんじゃないかな。「マジかよ、お前自分の罪を自覚してねーの?」クミちゃん、そういうけどさあああ、あさぎすっごくいたかったんだからねええええだってさあシクミちゃんはウツボカズラっていう植物がいるの知ってるううう? あさぎもおお、シノちゃんにきいたんだけどねええ。あさぎはねええええ酸なんか出さないよ、魔法なんだよ、魔法は痛みをなくすから、それがさーっとしみていったら、ゆっくりと内側からすりつぶしてもいいし、あなをあけてもいいし、たべやすくしてからゆっくりゆっくりゆっくり内側からこんなにいっぱいいいのかなってくらいすいとっていくの。あの女があさぎをいっぱいなぐったりいじめたりツボって呼んだりした数だけ生えてくる。しっぺ返し。足を引っかけたのも、クミちゃんと手をつなぐのをジャマしたのもぜええええんんぶちゃんとかぞえておいてよかった、そのぶんあの女に穴をあけたよ。いっぱいいっぱいすりつぶしてやったんだよおお。穴からはいっぱい血がでるしぺったんこにしてもかわだけがちぎれずにのこるしでもちがそんなにでないところもあるよねちがでないところでもいろんなものがでるよあぶらみがあってもいじめちゃだめだよあんまりだいえっとしてるとおにくまですかすかになっちゃうからそのてんこのこはとてもじょうできみられることをいしきしたゆうとうせいはあさぎとちがってたべるところがとてもおおくてとてもおいしそうにぜんしんくしざしになっていったよたべないのたべないのはやくたべないととられちゃうよおなかがすいちゃうよおなかがすいたらたおれちゃうよたおれちゃうよたおれちゃったらしんじゃうよしんじゃったらどうするのしんじゃうまえにたべなきゃだめだめだめだめたべたいたいたいたべたいたいたいたいがぶりくいつきたいたいたいじゅるりのみほしたいたいたいたいどうしてたべないののののののおおおおおおおおおおおおおおおおお! どうして!

 

「――――――っ?」

 

 あさぎは飛び起きた、悪夢を見ていた、ような気がした。

 眠れないと思っていたのに、いつのまにかあさぎはまどろんでいた。ものすごく悪い夢を見た。夢を見るためにさっきまで思いを及ばせていたおぼろげな記憶がその悪夢に無理なく繋がっていってしまう。そんなことあるはずない。

「おかーさーんんん?」

 つん、と鼻を突くものがある。臭いがする。口の中がむずむずする。夜更かしをして昼に起きたときの口の中みたいになにかが粘ついている。いやな気分だ。まだ夜中だけど洗面所で口の中を洗いたい。あさぎは部屋を出る。ドアノブがぬるりと滑る。足でなにか絵の具のような濡れたものを踏んだ気がする。きっと食べかけの菓子パンでも踏んでしまったんだ。

 でもおかしい。あさぎは菓子パンをあけたらきっと食べきる。「三回に分けて食べるから! ちゃんと食べ方を変えて楽しむんだから!」と決心していても、一気に食べて後悔する。

「おと――さーぁん? パパああああ?」

 いつもなら寝ていたって飛んで来てくれるのになにかおかしい。暗いのが悪い。目の慣れてない暗闇は恐ろしい。ドア近くの天井に貼られた夜光の星の光では弱すぎる。だからあさぎは文明人らしく、人間らしく、照明のスイッチを入れようとドアの近くを探る。いつものように、秋口から春になるまでは学校から帰ってきて部屋が暗いからそうするように。だから暗闇の中でわかる。スイッチはいつもと同じ場所にある。

 だから、躊躇うことなく、疑わず、ごく自然にそのスイッチを押したんだ。 

 グロウランプに通電する、サーキットが完成する。蛍光管内のフィラメントが電子をはじき出して、管の内面に塗りたくられた塗料をまばゆく発光させる。

 人の叡智。

 炎は回転に、回転は雷に、雷は灯に、そして、あさぎの部屋を白く照らす。

 すぐに、目が慣れてくる。そうしたら、すぐにオバケは消えてしまうのだ。こわくなんかないんだぞ。やさしいパパの頼もしい声は魔法の言葉なのだ。

 ――そういえば。あさぎは文明人のくせに、パジャマを着ていない気がする。フードの付いた洗いにくいオーバーオールのパジャマで、ママが洗うのを嫌がる。けれどあんな面倒なものを脱いでしまうなんて、寝相が悪いにもほどがある。

 

 ――そういえば、そのに。

 

 悪夢から目を覚ました時、あさぎのおなかの減りはほんの少しだけ収まっていたっけ。

 だから、あさぎにはきっとわかっていたことだったのだ。あの時と、同じだったから。

 だから、

 予感があったから、

 生きてしまうから、

 あの晩餐はあんなにも悲しかったのだ。

「――――――ぁ」

 目が、慣れた。現実があさぎに容赦なく入ってくる。

 薄いブルーを基調としてたはずのあさぎの部屋が、そこに映るはずだった。

 あさぎが幼い頃、アフリカの豊かな草原に見立て走り回った緑色の絨毯は、赤茶に乾いた死の大地に変わっていた。くすんだ土は、あさぎの足下だけ彼女の汗を吸い取って、ほんの一瞬だけ生きたルビーの色に戻る。泣き叫ぶ為に開かれた唇の周りの筋肉に引っぱられた乾いた赤茶色の絵の具が、ぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちていく。

 

 獣の、臭いがする。

 

 

 小さな体が赤い海の底に、

 ゆっくりと沈んでいく。

O パーニシャス・パープレックス/4

パーニシャス・パープレックス/4

 

 懐かしい、夢を見ていた。

 槌田に勉強なんか教えていた。

 それは遠い昔のようで、最近のことだ。

 この学校に入ったことを後悔していた頃。家庭の事情で中学三年をまるごと棒に振った為に妥協した自分の判断を呪っていた頃だ。周りのレベルが低きにすぎて、目立ちたくもないのに、中間試験で一位を取ってしまった。特に力を入れたわけではなかったのに、ほぼ全教科。さらに悪いことに、その時仲が良いと思っていた級友に、素直にそうと言ってしまったのが中村紫乃が犯した最大の失策だった。時既に遅し。たちまち、ブラックリストは更新された。「キャー! 見てみてクミちゃああああああんん! これ全部同じ名前すごおおおおおおおおおおおおおお!」廊下に貼られた順位表の前、吹聴する知らないでかい声が事態をさらに悪化させる。「おまえうるせえよ、壺井、てめーの名前はどこにあるんだよ」「あるわけないじゃあああああああああんん、だってクミちゃんだってあるわけないでしょおおおおお?」「あ? てっめー言ったなおい」「あーやめてやめてぐーはやめてぐーはいたたたたたた」「お?」

 それが、槌田との邂逅だった。

「あ、あんたが中村だよな。これすっげーじゃん、頭いいのなー。全部、ってそうできることでもねーよな。な、なんかコツとかあんだろ? 今度あたしに教えてよ。頼むわ」

「えっ?」

 廊下の前でみるみる増幅していく「異分子を排除しようとはたらく力」の中、紫乃にとって、槌田紅実の無邪気さが浮き上がった。乱暴でも敵意を含まない言葉がものすごくありがたいと思えた。横で跳ね回ってるちっちゃいツーテールを視界から意図的に外しながら、紫乃は紅実の笑顔をぼうっと眺めていた。

「いいよ――喜んで」

 中村紫乃はきっと、嵐の中に浮かぶ木の板に恋をしていたんだ。

 

 

 中村紫乃はどこだかわからない場所にいた。

 視界は暗いままだ。意識をふと、遠いところに置いてしまうようにぼかすと、暗闇の中にはちかちかと反転した花が回転してるのが見える。お手軽な万華鏡だ。下らない。これは目をつぶったときに脳に送られる信号、それを「見える」とは言わないだろう。

 紫乃は意識を深淵からたぐり寄せる。

 ――誰か、いるの?

 声は出ていないようだった。返事も聞こえないようだった。

 視覚も触覚も感じられない今の状況では判別がつかない、何故その判別がつかないのかもわからない。冷たいコンクリートに囲まれているのか、濡れた土の上に曝されているのかどうかすらも知るに至らない。

 静寂が続く。これでもかというくらいに続く。紫乃はそれでもひたすら待つ、こんなとき体感よりも短い時間しか経っていないことを知っている。だから、ひたすら待つ。

 それは長い時間だった。せめてと思い紫乃は思索に耽った。最初の記憶。両親と姉ともうひとりとだれかと行った海の記憶だ。潮と空と埃の臭い。足下で引いていく砂の感覚。目に沁みる水の奥底。そこから断片として続く中村紫乃の記憶と歴史が続いていく。齟齬、成長、絶望、工夫、怠惰、報復、迂回、直進、怨嗟、嫉妬、夢想、堕落、平穏、発見――それが繰り返されてうしなうべきものを差し出すと、そこはたゆたうみどりの海の上だった。

 ――あれ。

 紫乃は違和感を覚えている。この思索にはなにかが足りない。何かが、まるで脳か魂かの一部を持って行かれたかのように、この中村紫乃を構築している一番新しい柱がいない。

 だから、今再生されている紫乃は偽物だ。

 ――だれ、これ。

「キミだよ」

 その声に紫乃は聞き覚えが有るような、そんな気がした。だけども紐を付けた記憶を辿ろうとすると、その先がまるで斧ですっぱり切られたように無くなっている。

 ――あなた、誰!

「あはは、キミは知っているはずだよ」

 ――知らない!

「キミの恨みと羨みがあったから! カレらはあんなにマドいクルしんだんじゃないか! もちろんボクはキミのこともワスれちゃいない。でも、誰よりも悪魔にアイされてしまったのはキミだったというわけさ! カレらは祀でもないのにハフりをハタしにオドる! そう、キミのところにも! ボクらのように! なのにキミはワスれてしまったんだ!」

 誰だろう、これ。相手を存在しないかのようなその口調がテンポが紫乃を不愉快にさせてゆく。だいきらいな誰かの――誰だ、誰だか判らないが、ともかく誰かだ! ――ように焦らせる。血のにおいがする。獣のにおいがする。

 草の匂いがする。

 ――ここは、どこ?

「あはは、いちばん難しいところからタダすキミは、そのワタりをカザし、ノガれることをノゾんだんだろう! でもどうかヤスらぎを! でもキミは、ハカりもしないんだ!」

 意味の取れない言葉が、紫乃の恐怖を呼び覚ます。足の付け根から、耳の裏に至るまで、恐怖が毛穴に刺さる小さな槍になって、その中にある生命を殺す。そして感覚はその片っ端から死んでいく。闇の中に紫乃の無言が響く。その言葉は中村紫乃を超えるおしまいそのものを、どこまでも確定させるためだけに綴られていく。

「おかしいとはオモわなかったのかな? だって、これはまたとない幸運ではなかったのかな? それとも、キミはなにひとつオボえやしないんだろうか! だからそんなに、のんびりとした顔でいられるんだろうか! ボクは疑問をカクせないんだ、キミが疑問にオモわないことがどうしてもワカらないんだ。だってキミは、あんなに穴だらけになった! どうしてキミは、あのときからずっと意識をツナぎ止めていることを、疑いをイダかずにいる!」

 言葉が紫乃の中にただ沁みてくる、ただ沁みるだけで、紫乃の体をすりぬけてどこかに消えて行ってしまう軽い言葉たちだ。自分の手足も認識できない今の状況で、自分を混乱させる、耳を塞ぐこともできないそれらは、紫乃にとって暴力であり、攻撃だった。攻撃には、悪意には、自分を脅かすものは、ちゃんと除外しないといけない。自分は普通に生きているだけなのに、攻撃してくるものを排除しないと、平和に生きられないから。

 ――あなた、敵なら――殺さなきゃいけない。

 そう、いましがた、紫乃がその右のかいなで粉砕してしまった、あいつのように――。

「あはは、だれなのかな、それは! キミはどれで、それを為すのだろう!」

 ――誰って、あれよ。あいつ――あの――。

 記憶が、走るための足が、声を出すための口が、怒る為の思考が、足りない。

 ――中村紫乃には、なにももう、残っていない。

 そんな恐れが、なにもできない無力感が、じわりと広がっていく。

 最後に紫乃が手に入れた物理の埒外にある力は、今まで紫乃が手に入れてきたものを、ケータイも、誰かの筆入れも消し飛ばしてしまったのではないか。

 ――いや、最後に手に入れた異能は、まだ、この――右腕に宿っているはずだ。

「キミは謬った! キミの魔法は、右のかいなは、とっくに失われているんだよ!」

 ――なんで?

 しかし、力があったとして、それを伝えるものが無ければ――無用の長物にすぎない。熱は産まれなかった。目覚めた日に、敵を撃退し、いやなヤツをたたきのめした力は、あんなに頼りにしていたのに、これから、うまく使っていくはずだったのに、どこかに行ってしまった。

 握る拳なくして、かなう力ではなかったのだ。

「さあ、うしなわれたのは、腕だけかい―――――?」

 感覚がないのでも、届かないのでも、なにかに拘束されているわけでもない。地面についた尻、何かにもたれかかった背中、首の下から反応が返ってくる。だけれど、腕と足は返事をしない。自分は今怯え、興奮をしているはずだ。にもかかわらず心臓の鼓動が聞こえてこない。やかましくビートを刻んだりしていない。そう言えばいつもの倍くらい呼吸がつらい。紫乃の左肺はどこに、ある? 心臓は?

 

 触れたくても、それを確認するための手足は――?

 

「あはは、それはオモいから、置いてきたじゃないか! あはは! あはははははははは!」

 哄笑がうちがわから響く。教室のピエロを笑うような声がする。

 ――誰か知らないが黙れ。その声を吐くのはあたしのほうだ! 

「よすんだ、ええと。――シノ。その血は、キミの血じゃない。何もボクは吝嗇(りんしょく)に拘るわけじゃない。その血はボクの血だから、キミがそれを呼び込んでしまえば、キミをユルさず血肉にオオせてしまうから! ああ――キミにはここが、どこに見えているんだろう! 暗闇の世界をどうロウじているんだろう! 穴だらけのキミの体は、どうやって魂をツナぎ止めている? せっかく手に入れたタヨりがいのある力は、いったい、どこへ蒸発してしまったんだっけ!」

 言葉がじわじわと、紫乃が――とっくに失われたことを、教えている。

「キミもきっとヤサしすぎたんだ」

 落とすような声が響き終わると、真っ暗な視界の中に花が咲いた。

 

「 見 え 「 る !」え「り? う 」 ?」

 

 紫乃の脳の処理が限界になった。眼球を押しつぶされるような圧力。そして熱さ。そこで紫乃は体に起こっている違和感から、またひとつ絶望の存在を知る。――もうとっくに、眼球すらなくなっていることを知る。

 眼窩に内側からかかる力は、眼球があったところに何者かがうごめいているために起こっている現象だった。なでつけられる内側の肉、眼窩の中で蠢く肉、両方の感覚が流れ込む。唯一の突起たる水晶体が幾幾節にも別れ、殖えたあげくに荒らし回る。穴を通って異物のにおいが漂う。それは水の、潮の臭い。顔のどこかにある傷にその潮が沁みて痛みが響く。

 眼球を犯されていた。正しくはとっくになくなっていた眼球があった場所を何者かがその隅々をみずからの体になじませるがごとくに蹂躙している。

 そしてその生き物が内側を蠢かせる度、ちか、ちか、と光が入ってくる。光なんかないのに、残された神経に直結させた眼球の代わりに住み着いたなにかが光のありかを送ってくる。痛い、白すぎる光の信号が生きている神経を次々に焼き殺していく。左右いちいちの誤差を単分子ワイヤーのごとき刃に見立て、完膚無きまでに網膜と脳細胞に止めを刺していく。

 

「ど かう な。あ らた し い、せ界!」

 

 紫乃の頭の中では、花火が打ち上げられている。緑色の花火だった。その緑色はきっと、今までみてきた色に例えると黒に近い気がした。いま送り込まれている情景――緑色のモノクローム。エメラルドグリーンの都。そんな物がでてくるおとぎ話のことを紫乃は思いだしていた。

 ――でも、だめ。あたしにはもうだめ。だって、打ち鳴らす靴がない。ライオンもブリキもカカシも連れていやしないひとりぼっちなんだ。ふたりの紳士が顔を突き合わせてブツ切りの内臓に花を咲かせる陳腐なロールシャッハテストがエメラルドの都なんだ。笑える。

 その子宮と流血と卵と蛾と鳥と救世主と試験紙は、やがて紫乃の知るものへ変わっていく。

「さあ、キミの目はそろそろ自分と他人の区別が付けられるようになったんじゃないかな! カレらの赤子が長くて短い年月をツイやし、ようやく手に入れるボクらの力だよ!」

 声がする。ひどく頭に響く。それは紫乃の内側にも響いてそのズレが、残された感覚の手がかりになる。この体で意識があることが不思議なくらい、あらゆるところが死んでいた。

 コピーを繰り返したビデオ映像みたいに、摩耗した映像が網膜に映し出されていく。

 紫乃は察する。もうこの目で、かつて自分がみていた世界の様子を知ることはできないのだと。この視界は、自分の脳では理解できないほかの要素で構成された視界なんだと悟る。

 ――きれい。

 (うすぎぬ)一枚隔てた先の視界を眺めている。映画のスクリーンの向こう。緑色に焼けたプロジェクタ。少女のシルエットを焼き付けて、コマ送りの恋愛劇場が繰り広げられている。

 それは、中村紫乃の記憶だった。誰かが、外部からあたかも紫乃の記憶と偽って与えられている記憶だ。本物はもう、穴だらけだから編集されているに違いないのだ。

 ――そうだ、名前も忘れていた。あさぎ。壺。あのストライクの瞬間に、ぜったい殺せると、良い気分になって、そこで落ちてる片岡を食って、なんて思ってたら、光って。――光ったように見えた。あいつは――その少し前の自分のようになった。

 紫乃がさんざんなじり倒した通り、壺になってしまった壺は、壺の内側に中村紫乃を囲い込んで、この世ならぬ腹の内側、次々と迫り来る陶器のパズルによって、体中に穴を空けられ、磨り潰された。魔法の右手は、無力だった。

 ――あっけない。

 とっくに、死体だったんだ。

 そこにやっと思い至る。

 涙が流せたら、泣いていたと思う。

 

 蓋は閉じ、檻は処刑場に。

 

 目の前で笑っている緑色の――本当にどんな色かはわからないけれど――女ではない。自分がよく知る相手のはずだ。あさぎ。かわいそうなあさぎ。おろかな紫乃が逆恨みしてしまった、かわいそうなくらい頭の悪いあさぎは、きっと、自分や目の前の緑色の女と同じような物になってしまったんだろう。なんて馬鹿げた悲劇だろうか。

 ――壺、あんたもすぐにこうなるんだ。

 紫乃の借り物の視界に女が近づいてくる。察する。自分はすでに死んでいるのか、殆ど死んでいるのだ。なんらかの意図があって生かされたフリをしているけれど、それも長くは持たないだろう、だって、あんなにもはっきりとした死の記憶があるのに、死んでいないはずがないではないか。だから、中村紫乃の人生はこれでおしまいなんだ。

 ――なんだ、つまんない。 

 自分が選んだこの方法は、自分が掴んだこの力は、誰も幸せになんか、自分も好きな人も、好きな人に好かれるにっくきあいつも――しあわせになんかしや、しないじゃないか――。

「――キミ、なんか宗教はある? あるならあわせてイノるけど! ――ないよね! じゃあ、それでは、さよならだ! ハフりもキヨきもオボえていないボクだけれど、ここだけはきっとシカとしたことだから! もう一度いま一度手を宙にカカげて! トナえて! みなさまあなたさまお元気で、どうかどうかお元気で! キミをボクらにイダくために!」

 気に触る声も、かろうじて流れていた緑色のサンドストームも、ぷつんと音を立てて消えていく。アナログのテレビが帯びた静電気が収束と拡散を経て、大地のゼロボルトに薄まってしまうように。

 これで終わるのだと、中村紫乃は思う。諦め、目をつぶるとそこに視界が開く。はっきりとした景色が広がる。女はいない。代わりに手足のなくなって体にいっぱい穴をあけて、目をくぼませた哀れな死体が転がっている。さっきまで自分が着ていた物なのにひどく懐かしい。その後ろに果てしない緑色が広がっている。視界が、勝手に移りゆく。

 草のにおいはしないけれど、太陽のにおいはしないけれど、温度すらも感じないけれど、今、自分を食いつくした緑色の捕食者が見ている景色とつながった。

 紫乃にはもはや、そんなこと知るべくもない。

 それに――一瞬だった、認識したかどうかも、その景色に、そこにあったなつかしいものすべてが、本当になつかしいものであったかもわからず、溶けていく。その明かりが乏しくなっていく。終える。体に染みついたロックミュージックのナンバーを想う。

 

 

 中村紫乃だったものは、帰るべき場所へ

 へたくそなゴスペルを、遠くに聞きながら。

 

 

    〈パーニシャス・パープレックス 了〉

N ブラックスミス・スクラブル/2

ブラックスミス・スクラブル/2

 

 槌田紅実は教室でひとりきり。昼下がりの五歳男児のような二日目の下腹部と格闘している。さっきは珍しく授業をサボった中村紫乃が来て、機嫌の悪いところに悪ふざけしたからキレたら、なにやら不思議な手品を披露したあと、思い詰めたような顔をしてどっかに行ってしまった。

 もしかしたら気分の悪ィあたしの気を紛らせようとしてくれていたのだろうか、だったら悪ィことしたなとか今更になって考えている。

 保健室に行くと言っていたような気がするけれど、槌田は保健室が嫌いだ。病院がそもそも嫌いなのだった。

 いろんなことを考えてみた。どうせなら楽しいことがいい、そう槌田は考えた。

 まずはあさぎが行きたがっていた甘ったるいのが売りの本末転倒なベーグル屋のことを考えた。あずきかぼちゃベーグルが人気商品でたべたいたべたいたべたいいいいいと言っていたっけ。あさぎはその商品の名前を「あぼちゃかずき」なる意味の不明なものとして最初発音するので判読に困った。ぽくぽくしてて甘くてクリーミーで濃厚で薫り高くて甘いんだそうだ。あさぎの表現を解読する限りではどうやら「二回分甘い」ということしかわからない。

 でも、今度帰りに寄ってみるのもいいかもしれない。

 次に中村がおすすめしていた音楽アーティストのことを思い出した。ガリ勉だと思ってた中村は意外とそういうのが好きだった。「どうせクラシックしか聞かねえんだろおまえみたいなんはよ」それに対して中村は無言のまま、珍しく不満の感情を含ませて、槌田の耳に自分のカナル型を両側から差し込んだ。そのときの槌田を「少しおびえてた」と中村はこっそり評した。

 意外なことにそれはパンクかロックか知らないけれど「どう、太鼓を激しく打ちならすような音楽は」という回りくどい中村の言葉に「悪くねーじゃん。もっと聞きたい」と言った。そんなに遠くない過去の話だった。中村のしてやったりな顔がちょっとムカついた。

 中村は、甘いものイケるんだろうか。

 壺井は、音楽を聴いたりはしないんだろうか。

 暇なときに思い出す、他愛もない話だ。

 暇だと腹は痛くなる。

 槌田はまだ気を紛らわせていたい。たった一人の教室で気を紛らわせたい。槌田に限らず現代を生き抜く女子高生にはちゃんと人類最大の敵に対して立ち向かう武器がある。それはケータイだ。半分バイト代、半分親に持ってもらっている。プライドと現実が半分半分だ。たまに全部持ってもらったりしている。ふがいない事だと思う。

 メールボックスには他愛もないメールがきているかもしれなかった。しないといっても女学生であるからして、中村やあさぎやその他少しばかり付き合いのある相手から他愛もないメールが来る。槌田は無精だが「あー」とか「すげー」とか「やべー」とか「マジで?」とか「ところで試験範囲どこだっけ?」くらいは返す。件数としては一日五十件くらい。返事をしないとだいたいあさぎがうるさい。一度メールしなかったらあさぎがものすごい心配そうな顔をして休み時間に現れた。あさぎにとって、これは生きていることを常に確認しておくためのツールなんだと、そのとき槌田は実感した。

 

「――あれ?」

 

 不在着信に気付いた。ついさっき、それも中村からだった。さっき中村がガラにもなく仕掛けてきた度のすぎた悪戯を謝ろうとでもしたのかと予測する。留守電には何も入ってない。

 空メールまで入ってい。なんで空メールなんだよ。と槌田は悪態を吐く。

「あいつ、頭いいくせに、こういうところマジで駄目だよな!」

 空メールも、不在着信も、それなりに前のタイムスタンプを示している。

 その続きは送られて来ていない。

「ったく、しゃーねーな……」

 コールバックしても結局中村は電話に出やがらなかった。舌打ちをして悪態をついて、それで終わらせる。けれど、腹の中で誰かが鐘を衝いている。血が降りてくる。血塗れの槌田の腹の中でじわじわと一人きりの教室の中で、違和感と気色悪さが繁殖していく。砕かれた筆箱、空メール、朝来なかった壺井あさぎ、同じく来なかった隣人。ハム。

 

 ――人を食うような、肉食獣の目。

 

「――いいや、もう。腹いてェし」

 ――そう、こんなもんは、杞憂ってヤツなのだ。 

 そう言い聞かせて机に突っ伏す。

 

 

 

 どこからかサイレンの音が聞こえる。

 耳を塞いでも、迫ってくる。

 

 

M チョコレート・ゲート/5

チョコレート・ゲート/5

 

 片岡千代子が目を覚ますと、そこに壺があった。

 大きくて白く、触れずともつるつるした手触りを約束してくれるような形をしていた。それは藍色の顔料で幾何学的な唐草にも似た文様が描かれていた。奇を衒ったわけでもないシンプルなその佇まいは、大きさにこそ目をつぶれば誰かの家の庭とか玄関に置かれていてもそう違和感のないまごうことなき壺――そのように寝起きの千代子には思われた。

 ――思われた。というのは、千代子がそれを「壺」らしい、「壺」のような気がすると判断したときには、もう壺は壺でなかったからだ。

 あまりにバカらしくてちょっと信じがたいが、この壺は光とともにまっぷたつに割れた。音とかそういうものはなかった。それも「割れた」というより「分かれた」と言う方がきっと語弊が少なく伝わるんじゃないかと思う。そして、一瞬で消滅した。

 壺が消えたあとに全裸の壺井あさぎが呆けていた。彼女の体は血塗れで、口からはゼリー状になった何かが漏れ出て、ぺたんと座ったその膝の上には――。

 千代子はそれが、なんなのか正確には判じ得なかった。けれどあまりにそれは不吉なものだた。内臓のようなものと骨のようなものが穴だらけになっていて、つまり、人体のなれの果てのように見えたのだ。

 壁に穴が空いて空洞と配線が見えてしまっていた。千代子が紫乃に殴られた跡だ。こんなになるくらいの力で殴られたのに、千代子のからだに痛みも傷も残っていなかった。

「夢……?」

 軽く首をふる。壁の穴も、壊れた保健室のサッシも、血まみれ全裸の同級生も、それらが夢でないことを証明している。何かがあったことだけは、明々白々たる事実なのだ。

 それにしてもおかしかった。傷が残っていなくても、あの遅く、腰の入っていない拳が当たるはずなんかないと、千代子は高を括っていたし、あの軌道は避けていたことが、確定していたはずだったのだ。なのに、体が目に見えない力に吸い寄せられた――。

「そんな、まさかね」

 あさぎの惚けた目にふと、光が戻った。

「あれ……片岡さんん? なんか、怒ってるのおお?」

 ピンボケた質問を、ぺたんと座ったままあさぎが放つ。

「怒ってないわ」

 ――何が、起きているのか。

「あれ……あたし、裸? もおおお……。なに。あれ、なんで。ね、片岡さん? ……おそいよおおお。あさぎがあんなに呼んだのに。なんだろこれ、なに、なんかキショいねええ」

「壺井さん、あなた」

「……あれ、よんだっけかなああ? あれ、でも、無事だったんだあ心配したんだよおおお」

「ええ、でも、あなた」

「良かったねええええ。あさぎは……なんで、え……えええ? ええええ? うぇええッ?」

 あさぎは、こんな時でもその甘ったるい喋り方を貫いていた。虚な目のままで、混乱に混乱を重ねてどんどんと表情を暗いものにしていく。

「聞きなさい! あなた、それはなんなの……?」

 千代子にはあさぎの問いに答えるすべはない、だから従って問うしかない。その膝の上の「何か」の正体について。問うても仕方のないことのようだけれど。自分が気を失っていた間はそれほど長くないはずだ。そのわずかな間に何が起こったのか、当事者しかわかるはずがない。

「え……? ええ……ッ? シノちゃ……ん……?」

 いや、当事者でなくとも答えは自明だった。さっきまでここにいて、いまここにいないもの。ならば、残酷な消去法がここにあるものの正体を如実に示すではないか。

「――まさか」

 そんなまさか。が千代子の全身を巡る。

 こんな短時間で? なんで? どうやって? いつ? 誰が? 誰がって、口からそれを垂れ流して、全身を赤く染めているこの女しかいないではないか? いや、どうやって、なんで? 

「――だって」

 狂人と化した友人を、この少女は自分で屠ったというのだろうか。こんな無惨な、肉片。べったりと髪についた赤。どろどろに溶けた皮と脂。特大の里芋と慈姑の煮物に食紅で色を付けたんだけど、ゴメンちょっと煮すぎちゃった。とでも説明された方が、よっぽど通る惨劇の証。

「それ、それは、……な、中村紫乃なの?」

 唾液がやたらと重く、苦く感じる。

「わかん……わかんないい? わかんないよお……うぇ……クミちゃん……シノちゃん……たすけてよぉお……」

「わかんないじゃないでしょう……!」

 ヒッ。と怯える声がして、あさぎの体が縮こまる。あらぬ方を向いて恐怖を訴える。

「ぶたないでええ……もう……呼ばないからああ……」

 

 ――あはは。

 

 千代子の体が急激に熱を持った。

「い、今、何か?」

「知らないいい……あさぎじゃないよおお……」

 溜息をつく。「あさぎじゃない」なんてことは判っている。愚かな質問をしてはいけない。あさぎと肉片から目を離し。辺りを見回す。体の奥底から、熱が漏れてくる。

「あっ……」

 それを見つけたとき、漏れた自分の声があまりにも抜けていて、千代子は思わず自分の口を手で塞いだ。  

「あはは、なんて顔をサラしているのかな、チヨコ!」

 緑青の髪が後ろに立っていた。

 首回りに腕を回され、あの日の草原の薫りがする。なぜだか千代子はひどく泣きたくなる。

「え……あの……」

「どうしたのかな、チヨコ! イタみはオサまったかな!」

 その姿をちゃんと収めようとしても、その彼女の腕が振り向くことを許さない。

「あの……」

「あはは、左腕もナオしたつもりだったけれど! いやいや、そんな余裕をカザすにはカレの残りはワズかに過ぎた! チヨコ! キミらはもはや間際にナズんでいるんだ!」

「あの……名前……を」

 先輩がなにか、警告をしているようだったが、千代子は昨夜からずっと、なによりもこの人の名前を聞きたくてしょうがなかったから、質問をそこに差し挟んだ。

「チヨコ! いけない子だ!」

 だけど、先輩はそれを知ってか知らずか意地悪をする。

「先輩……」

「キミは、そこで友人がタオれたというのに、ボクの名前を先に知りたがるの?」

「そんな……意地悪仰らないで……」

 千代子は唇を波打たせて俯く。首で組まれた先輩の腕、その先の指が、千代子を服の上から淫らな手つきでまさぐる。あの日繋いだ手のひらのごとく、指先の一本一本が波打つ。それに触れようとすると、先輩は「シーッ」と子供がやるように声で制止した。千代子は大人しくされるがままになって、手を下ろす。先輩の言うとおりにすることは、千代子にとってとても安らげることだから、そうする。千代子の視線の先には、まだ錯乱してぶつぶつとなにかを言っているあさぎと、肉片になったらしき紫乃の姿がある。その傍らで、名前も知らぬ先輩に体をまさぐられている状況はあまりにも異様だった。

 そこで死んでいるらしき中村紫乃のことは可哀相だが、人なんて毎日どこかで死んでいるではないか。それがたまたま半径三メートル以内の場所だった、それだけのことではないか。

 なのに、千代子こんなにも心をかき乱されている。血のにおいをこんなにも嗅がされて、今にも内蔵まで一緒に吐きちらしてしまいそうなくらいなのに。これらのせいで、先輩との再会を楽しめないことが憎らしくすらある。

 そんな千代子に反応したのか、あさぎが我に返り千代子たちを見る。

「甘い匂い……誰? ……片岡さんんん? と、ともだちいい?」

 あさぎが怯えている。なにも怯えることはないのにと千代子は思う。だって。

「だれって、先輩……えっと、その? 先輩ですよ」

 名前を知らないから、千代子は口を尖らせてそう言う。制服を見れば一目瞭然のはず、同じ学舎の友に、そんなに怯えるものでないと。こんな状況で千代子に笑って声をかける胆力に驚くのもわかるけれど、それこそが魅力なのだと。

 そして、自分の胸元を示す。そう、先輩は名札をつけているから、学年がわかるのだ。名前は空欄だったけど。しかし、千代子が背中に背負ったままでは胸元が見えない。

「――あはは」

 先輩は千代子の意図を酌んでくれたのか腕を解きバックステップ。ああ先輩、その剛毅にはお見逸れ致しますけれど。この状況を御覧になって、笑っているのはどうかと思います――。

「――片岡、さんん?」

「――――?」

 振り返った千代子は言葉を失った。一度振り返って、血まみれのあさぎを一瞥。シャッターをかけ、リセットしたつもりで二度先輩を見ても絶句の原因は変わらずそこにある。

 名札? 制服? それっておいしいい? とあさぎの目が聞いている。聞き返したいのは千代子の方だ。名札はどこにもなかった。いや、名札なんて取っていることもあるだろう。そうではない。制服が、千代子が着ているものと同じではなかった。千代子やあさぎや、そこでズタボロになって転がっている中村紫乃の――この学校のそれとは明らかに違う。真っ黒なセーラー服だった。刺繍なんかどこにもない。漆黒の上をその緑青の髪が泳いでいる。

「セーラー服……? 黒い……それ……それえええ?」

「そう、チヨコ。どこにボクが上級生だというしるしがあるんだろうね? キミはとても愛らしいけれど、きっと自分がシンじたように他人をツクりかえてしまうんだ!」

 先輩は笑顔を湛え、大仰な仕草で淡々とうたっている。

「せん……ぱい?」

「魔……女……?」

 あさぎの口から不思議な言葉が漏れる。

「なるほど? どうして、そうオモうのかな!」

「だって……黒セーラー……シノちゃんが言ってた……それにいいい。あさぎ、聞いたもんん……乱交パーティーのひと? そうでしょおおお?」

 あさぎの口から眉をしかめる言葉が出てきた。

「あはは! ああ、それ! チヨコにミツいだそれの話だよ! まさに!」

「なに、それ……」

「えっ……お、怒ってるのおおお?」

 あさぎは千代子の詰問に怯え、詳細を語ろうとはしない。先輩は魔女と呼ばれて上機嫌――のように見えた。

「化け物とオソれられるより、余程にね! ああ、でもボクはボクらのことをこう呼んでいるよ――魔法少女って! でもこんな呼び方は羞をフクむじゃないか! だから化け物のほうがどうしても態にイタるんだ! カナしいね!」

「先輩……?」

 セーラー服が翻る。それを追うべく千代子が動く。しかし、指を唇に当てて、先輩だったひとは告げる。呼び方がわからないから正しくなくても「先輩」と呼び続けることを選んだ。

「ウゴいちゃあ、だめ」

 その言葉が、千代子の奥底に届く。

 昨夕、空の井戸につるべと共に落ちたほんの少しの呼び水が、井戸の奥のまた奥に隠れ住んでいた水をあとからあとから湧き立たせたように。それと逆のような一握の氷が、千代子を凍り付かせてしまった。

 予め決められていた約束のように。

「良い子だね、チヨコ! ボクの魔法をひとつ継いだキミを、再び食らうつもりはないから!」

「なん――」

「キミも、キミも、そしてカレも!」

 動けない千代子の前で、楽しそうにちちちと折った指を振る。腰を引いて、髪を揺らめかせて。そういえばその緑青の美しい髪の色が、昨日よりも褪せているように見えた。

 千代子はそんなことに目がいく。そのうちに段々と、段々と、先輩の言うことが沁みてくる。

「魔法――――少女?」

 口にするほどに甘ったるいその言葉。凛とした先輩が口にするほどにそれは歪に聞こえる。ファンシーでリリカルで、夢見心地なその言葉を担う何かが、今千代子たちの目の前に広がる惨劇を仕立て上げたというのだろうか。

「そう!」

 やっと言ってくれたね、とばかりに、嬉しそうに笑う。

「魔法少女! 可愛らしいだろう? ボクらはずっと憧れていたじゃないか! 万能を! 夢想を! だけど、そのオモいがタドりつくことなんてなかっただろう!」

「――彼女も、そうだったのですか?」

 千代子は噛みしめて、肉片を指さす。震えている。

「そう!」

「あの子も?」

 指を指されて、びくりとあさぎが怯える。

「そう! あはは、キミは、まるで他人事のようだね。カレもカレも、キミでないものにボクの恵みはツウじてなかったんだから!」

「先輩……も?」

「そうでなければ、こんなにカタることがあるだろうか!」

「私も――なんですか」

「秤でハカればそうなるねえ! チヨコがボクの言葉をシンじるなら、だけど!」

「それはその――先輩が、私を、その――」

「チヨコ、そこまでだよ!」

 手の平と笑顔が千代子の言葉を遮る。

「な、なぜですか?」

 千代子は食い下がる。そこは最も知りたいところなのだ。

「時間切れ、だから」

 先輩は重力がなきがごとし、ふわりと千代子を飛び越して血まみれ全裸でへたり込む壺井あさぎの隣へ着地。血に触れるのも構わず、中村紫乃だったものに触れる。

「このままメッしてしまうのはあまりに勿体ないから! そう、そこの肌を衆人にサラそうとしているキミ! この哀れな子の名前をオシえてくれるかな!」

「……え?」

「あはは、わからないかな、この壺のキミがアヤめた子の名前を聞いているんだ。何故かって、友達だったんだろう? 友達は、友達の喪いをきっとカナしむものだから! ああ、そうだったね。ああ、白無垢にオオわれてこそ乗る気分もあるだろうさ! でもねチヨコ! 穴と血にマミれてクズれゆく優等生! 剥かれてなお白い劣等生! そして、名簿のどこを探しても名前がない上級生! シタいを込めて借衣をシメらす同級生! フーダニット! だ!」

 そう言いながら、あさぎから遺体を取り上げた。

「――あ、シノちゃんん……」

 あさぎが、何をか言おうとして、手を伸ばす。その手に体液の雫が落ちて、手が止まった。

 その手に、黒いセーラー服を着た魔法少女が、無情に語りかける。

「キミはもう、手をハナしただろう! キミのカタりをホドくのは、キミのノゾみなのかな!」

 先輩は蛇の目で、笑う。あさぎはそのまま蛇に睨まれたカエルのように怯え、頭を抱えて血の海の中で震えだした。

「あ、ああ……ひ……」

「つ、壺井さん?」

「チヨコ、動いちゃダメだよ」

「や、や。あさぎ……あさぎわるくないもんん。壺じゃああ……シノちゃんがあああ……」

「壺井……さん」

 あさぎは血の海の中で痙攣を始め、やがて卒倒する。千代子はただ言葉の戒め一つで、かけよることも出来ずに佇んでいた。

 先輩はこの狂気の風景の中、惨死体を抱きながらどこ吹く風で千代子に告げる。

「じゃあ、チヨコ! ボクはこれをモラうからね! キミにミツいだそれは、キミをエラんだみたいだから! カレのさいわいをイノってあげよう!」

 相変わらず何を言っているのかよくわからない。だけど、先輩がこれからどこかに去ってしまうことは、察せてしまう。

「先輩――!」

 だからせめて声をだす。臆病な足が、血の海を渡ることを拒んでいても。

「いけないな、チヨコ。その呼び方はもうタダしくないんだろう! ああ、チヨコ! そこはシンじるべきだったんだよ! ほら、人のキタる音がする、叢を踏みくだく踵たちはザワめく! こんなに破滅の音がヒビいてセマっているのに、どうしてキミらそんなに平然としている! キミらはすぐにつるし上げられる! キミらの足下に積み上げられた桑の葉はたちまち炎にツツまれる! キミらはなかったことにされる! キミらではないものに!」

 校舎に響く鐘の音が聞こえる。静寂の時が終わる。

「カレの魔法はとっくにホドけている! 誰にもオカされない場所で二人きり! 清かなネガい! こんなにも飢えているのに、打棄てるのは何故!」

 先輩はあさぎと千代子をそれぞれ一瞥した。先輩であろうがなかろうが、級友の死を弄んでいようが関係ない。そばに駆け寄って、あの真っ黒な制服の裾を掴みたい。

 けど、千代子の足は言うことを聞いてくれやしない。

「ああ、ボクもこれ以上ここにいるのは得意じゃないからね! さよならだ! また会う日まで、キミらがスコやかでいますように!」

「まって……まって……ッ!」

 さよならの言葉で縛が解け、千代子は駆けた。血と臓物の海の中に靴を浸しても、とっくに間に合わなかった。千代子ではなく死体を抱いて、先輩は行ってしまった。

 千代子の上履きが、血だまりを踏み抜いて赤く染まっていく。

 

 先輩は廊下のどこにも居ない。

 血の臭いが残る。全裸の少女が残る。また名前を聞けなかった千代子の後悔と慙愧が残る。

 

 魔法は解けた。 魔法少女は、薄暗い廊下の隙間に溶けていった。

 

 リノリウムが血と少女たちを拒んでいる。

 

 理性のしもべたちが音を立ててやって来る。

L ペイル・ペリセイド/3

ペイル・ペリセイド/3

 

「あっ、シノちゃんん」

 あさぎの安堵した声に、千代子が先客――中村紫乃を一瞥する。あさぎはその一瞥に不安のサインを感じ取った。実際の所、千代子は自分の記憶をたぐって、紫乃が隣の席によく訪れる二人組の片割れであることを思いだしただけだ。

「今来たの? もう、二時間目だよ」

「うん。ま、まいっちゃったよおおお」

「参ってるのはこっちよ……壺」

「ふぇ」

 面と向かって壺。ときた。

 あさぎは紫乃のそんな表情を別の場所で見たことがあった。

 あさぎはうるさいし、目立つ。それが優秀であろうとバカであろうとそれなりに目立つ。そういうものは嫌われる。みんなで仲良く袋の中で、外から見えないように擦れ合っていなくてはいけない場所なのだ。だから、あさぎはその資格がない。この袋のなかではおとなしくしていなさいよ。そんなことばを投げつけられたこともある。

 その時にもあさぎは「壺」と呼ばわられた。

 槌田紅実を通して得た友人である中村紫乃の相手を、実際あさぎは得意としていなかった。もちろん、同じくクミちゃんを慕う者として、仲良くできれば「みんな一緒でよかったじゃあああん」って言えるのだろうって、あさぎは脳天気に考えていた。

 シノちゃんはあたまがいい。だから、頼るのがいいと思った。クミちゃんだって、シノちゃんの賢さを茶化しながらちゃっかりそのおこぼれに預かっている。

 それにあさぎは知っているのだ。そんなときのシノちゃんは、誇らしさでいっぱいの、とても良い顔しているんだってことを。だから、あさぎは先日はノートを半ば無理矢理借りてみたりした。心のやりとりは物のやりとりだと思った。

 あさぎはバカだけど、わりと打算で生きている。シノちゃんがあさぎに軽くでも「貸しを作った」ことで、自分への態度が柔らかくなることを、期待できるくらいにはかしこい。

「シ、シノちゃあああん、あの、あのねえええ?」

 でも、バカだから。返さなければならないはずのノートを忘れてしまえば元も子もない。

「――ちゃん?」

 紫乃の声は冷たいままだった。よりいっそう、悪くなっているようにすら聞こえた。あさぎは言ってから思い当たる。紫乃はあさぎが下の名前で自分を呼ぶことを嫌がっていたけれど、あさぎも名前で呼ぶことこそ、友情の第一歩であると信じてきたから。ちゃん付けで呼んでしまう。これにキレてくるときは、危険信号だった。今日はちょっと、ヤバそうだった。

「――なあに?」

 視線を向けられた千代子が、あさぎにクエスチョンマークを送る。あさぎは無知を装い、へらっと笑って、シノちゃんに向き直る。

 紫乃が千代子を嫌っているのもあからさまにわかった。だからこんな、獰猛な視線を送られ続けているんだろう。だって今は二限目の授業中のはずだ。なのに。わざわざ、こんなところであさぎたちを待ち伏せしているのはいったいなんでなんだろう。

「あ、な、中村さんん……?」

 さすがのあさぎも、いやな予感しかしなかった。ここは譲るしかないと判断した。けれど、この呼び方は、口にするほどに他人行儀が進行して、かろうじて繋いでいた手が解けるような気がして、とても気が進まない。それがどうしても顔に出る。

「なに、そのふゆかーいそうな顔は」

「そ、そんなこと無いよ、シノちゃ――」「あ?」

「うう……ごめんん」

 気圧されてあさぎの声が震える。

「これ言うの、何度目かなっあ」

「あ、う……」

「――ねぇ、そこ、どいてもらえないかしら」

 置いてかれていた千代子が、澱んだ空気に切り込んでいった。

「あ、片岡サン。保健室は空いているよ、入らないの?」

 紫乃は開けたサッシの溝に背中をあずける。そして、片足を膝の高さまで上げ、スライドしきった引き戸のゴムに靴をかけている。保健室に入る為には、そこを抜けるしかないのに。

「ご丁寧に、どうもありがとう。けれど、私は『どいてもらえるかしら』と、尋ねたのだけど?」

 千代子は鼻から息を吐いて、廊下の反対側に背中を預ける。持久戦の構えだった。

「ね、片岡サン。なにその格好。あ、聞いちゃ悪かった?」

 紫乃が千代子に水を向ける。あさぎが千代子を窺う。

「構わないわ。――私、具合を悪くして倒れて、汚してしまったの。壺井さんが親切にも貸してくれたんです。ですから、私もはやく着替えたいのですけど?」

 千代子は超然と腕を組んで構えた。パツパツのジャージと合わない佇まいだと紫乃は笑う。

「じゃあ保健室に用があるのは片岡サンだけよねえ……あたしさー、そこの壺に用事があンの」

「そう、でも先程も言ったのだけれど。この下ばきは彼女のものなのよ。それに彼女には、代わりのものを持ってきてもらう筈になっていてね。だから、彼女は忙しいの」

 あさぎはそれまで、はらはらとそのやりとりを見守っていた。口を挟みたくてもちょっとそんな雰囲気じゃなかった。シノちゃんはいつも必要以上に意地悪だ。クミちゃんのいるときはいつも寡黙でやさしい空気をまとっているのに。それよりも、千代子が自分の肩をもってくれているらしいことが、あさぎにとっては意外だった。もしかしたら「面倒な事に巻き込まないで」という意思表示かも知れなかったけれど。

 どちらにしろ、折角出してくれた渡りに船と、あさぎは判断した。

「そうだよおお、だめだよシノちゃんん。あさぎは片岡さんの面倒みなきゃっ、だしいい」

「壺ちゃん」

「うぐ――ごめ、ごめん」

 槍は構わずに続いて飛んでくる。

「壺、ちゃん。ねえ。ナメてんの? バカなの?」

 有無を言わさない威圧。紫乃は千代子を見据えたままだ。

「ねえ、保健室であたしと勉強会、する? したい? したいでしょう」

 その槍には毒が塗ってある。しかも刺されば効くようななまぬるい毒ではない。その槍を投げたときに既に毒は全身に回りはじめている。なぜってその毒は日々積み重ねられてきていたから。あさぎの身体にずっと、怯懦とか恐怖として塗り込まれてきたものだから。

「い、いらな。大丈夫だからああ」

「無用よ、えっと――シノチャンさん?」

 保健室に入れず痺れをきらした千代子が、抜き身で切り込んでいった。

「なに?」

 あさぎに向けていたよりも敵意と侮蔑を濃く煮詰め、冷蔵庫で一晩冷やした声が響く。たった一言なのに意志を持った毒蔦のように広がっていく。

「そろそろ、通して欲しいわ。あなたも、元気そうだから保健室に用は無いでしょう?」

「ふぅん、そんなしゃべり方すんだ。あんたってずいぶんとおしゃべりだったんだ! 知らなかったなあ。昨夜はさあ、なんかお楽しみだったじゃん。電車でさあ」

「……ん? あなた――何の、話ですか?」

 千代子は動揺を飲み込む。あさぎは千代子の顔がみるみる赤くなっていくことが気になった。けれど、紫乃はそこを深く追求せず、矛先を執拗にあさぎに向けた。

「なに、壺はこんな辛気くさいのとつるんでたの? 槌田と一緒にいるくせに? こいつとお? あたしはともかく、槌田のことなんてどうでもいいんだあ?」

「……ぐあい、悪そうだったから、連れてきたんだもんん」

 あさぎはばつがわるくなる。槌田がこの隣人を好いていないのは知っている。無愛想だし、さっきも電車ではしばらく変だったしだ。でも、それでも、同級生なんだよ。とあさぎは思う。

「ふぅん――壺さァ、前言ったじゃん。あたし、嘘は嫌いなんだ。本当のこと言っても槌田に言ったりしないよお。聞かれたら別だけどねーェ」

「あさぎはあああ、みんな、すきだもんん」

「子供かよ」

 忘れて聞いた試験範囲情報があからさまに間違っていても。座ろうとした椅子がその場所になくとも。ふと人に呼ばれている間に、開いた覚えのないメールが開いていても。そして。

 真っ白なノート(・・・・・・・)を貸されても。あさぎは友達であることを失いたくないと思っていた。

「――ね、中村さん。なんで意地悪するのおお?」

 このいわれのない悪意に耐える必要が、あるの?

 誘われた言葉なんだろう。そう思う。シノちゃんはあさぎの方から断絶を引き出したいんだ。ほら、なんでそんなに笑顔なの、シノちゃん。あさぎはもう、泣いてしまいそうだよ。

「やめてよーツボちゃんそんな言い方するの。でもねえ、ぶっちゃけあたしもさーあ。あんたみたいなのとつるんでるっておもわれるのヤなのよね、いいかげんっ」

 なんだツボちゃんって。あさぎは心臓からいやなものが胃にドリップされるのを感じる。ダイエット中の朝につい何も口にせずにコーヒーを飲んだときの胸焼けをずっとひどくしたような胸のむかつきを覚える。なんでこんなにイライラするのか、あさぎにはわからないけれど。

 けれど、あさぎは覚悟をキメる。

 ――それなら、あたしだって言ってやる。言ってやるんだから。

「――げす、どいて頂戴」

「ひぁ?」

 あさぎより先に、千代子が口を開いていた。あさぎは片岡千代子についてのイメージをまた修正する。この人はなんか意外と優しいとか潔癖とか孤高とかは本質なんじゃなくて――。

「は、なに?」

「もう、足も痺れたでしょう? 教室に戻ったらどう、優等生さん?」

 寄りかからせている足に力が入っている。髪が流れて目を隠してしまっていたけれど、眼孔から漏れ出る敵意をあさぎは敏感に感じ取っている。

「……なにか、言いたいことがあるの? 片岡サン。あたしはネクラのあなたが、日本語をお使いあそばしているらしいことがおもしろいわあ。で、なんつったの?」

「下衆、よ」

 ――あ、片岡さん、さっきより笑顔。

「――よく、聞こえなかったな。片岡さん、ちょっと、言いたいことがあるんでしょ? 言ってみなさいよ。こっちにきて。あたし、今ドアのところから離れられないのよね。それとも、日本語通じないの? そこのツボとあんた、ご同類なんでしょ?」

 聞こえない筈がなかった。千代子は凛とした宣戦布告を叩きつけたのだ。

「もしかして、耳がお悪いのかしら? あなた、なにをさっきから怯えているのですか? ジメジメと愚にもつかないことを言い続けて、彼女に何を求めていらっしゃるの? 呼び方が気にくわないなんて、とんだ言いがかりではないの。道を、開けなさい!」

 その布告は千代子の口から確かに発せられていた。静寂を冷たい廊下に呼び戻す凛とした声だった。千代子はそのすらりとした背を廊下の壁と数ミリ離し、垂直に立った。凜気がすうと立ち上る。死すら連想をさせそうな黒髪の闇がリノリウムに吸い込まれていく。

「ひ」

 あさぎは恐怖による声を漏らし、その緩い口を両手で閉じる。また一歩そこから下がる。

「やめて……? なにを? 何をですかァ? 片岡サン? ねえ、ちゃんと言ってよ。ところでもう、授業は二時限目の、ねえ。始まってる気がするの、片岡さんそんなに具合悪いのなら、はやく保健室のベッドで休みたいんじゃないの? でも、わざわざあたしたちの中ァ入ってきてさあ――あたしは、片岡さんがどいてくれるだけでよかったんだけどなァ――。でも、このさい一緒でもいいのかなあ――な、あんたから、喰ってやろうか?」

 シノちゃんの気配が、明らかに歪なものに変化した。ぴくり、千代子が反応する。

「し、シノちゃんッ?」

「それ呼ぶなつってんだろ! うるっせええええッ!」

 がん。

「――ひ」

「……っ!」

 声にならない悲鳴は、あさぎのものだ。保健室の横の壁が不様に凹んでいた。千代子も目を見開いて体を震わせた。それは、女子学生の力で凹むようなものだという認識のないものだ。現に、モルタルの壁だけではなくサッシの金具まで見事に曲がっている。

 中村紫乃の右手が重苦しい空気を吸って、文字通りごうごうと唸っている。

「――なに、威勢良かったじゃん。ビビったの?」

 そりゃあ、ビビるってもんだ。とあさぎは超ビビっている。あきらかにそこは異空間だった。「なにこれええええ、撮影いいいいい?」ってはしゃいで、カメラを探すフリをすれば、みんな笑って丸く収まるのではないだろうか――。

 あさぎは口を開かなかった。何を言えば、この場所を切り抜けることが出来るのか考えても考えても、バカだから、どうすればいいのかさっぱりわからなくて、千代子を見上げた。

「――怖じ気づいているのは、どちらかしら」

 それでも、千代子は超然とした態度で紫乃を挑発していた。

「……あ、どういうことだよ。おい、潔癖ネクラ。言ってみろよ」

 あさぎは片手で顔を覆う。それ言っちゃダメでしょシノちゃんって感じだ。千代子は気にしない風で言葉を続ける。

「……中学の時、おもちゃのモデルガンを貰って、学校でちらつかせる男子がいたわ。改造してね、それで空き缶に穴を空けていたの。……あなたは、それに、そっくりね」

 千代子はそうかまして、上品に笑った。あさぎは笑うしかなかった。

 あさぎはもはや怯える先が増えすぎてしまっていた。紫乃だけじゃない、こっちにいる片岡千代子という同級生も恐るるに足る異常な人なんだ。そう確信した。はやくだれか、早く誰か来てこのよくわからない状況をなんとかして欲しいと願うしかなかった。

 願いは、かなわない。

「――――~~ッ!」

 挑発に乗った紫乃が保健室の入り口から跳ね、廊下の白線をまたいで、一歩半で千代子の目前に至り、下から瞳孔を全開にした猛禽の面を突きつける。

「やるってことだよね、、ネっクラちゃ――ん!」

 千代子はそれに臆さず弾丸を放つ。

「やめて、あなた口が臭いからここまで臭ってくるんですもの。たまらないわ。だから、いつもみたいに、おしゃべりを先にその子に取られてしまうような、寡黙で繊細なあなたでいてほしいの。――あと、申し訳ないのだけれど。もう一度言うわ。そこをどいていただけないかしら。私、悪いけれどベッドで休みたいのよ。小さいナイトの好意を無にしたくないの」

 その眼光は最後にあさぎを向いた。

「ふぇ?」

「ぷぁッ? ナイトぉ? あははははは! やっぱあんた、アタマおかしいわ。じゃああんたはプリンセスか? じゃあ城にでも引き籠もっていればいいじゃん! 学校とかさ、あんたみたいなプリンセス様にはお似合わないでございますですよ! あははははぷぁははは!」

 いつものあさぎだったらそれだけでゲラゲラ笑って楽しい気分になれていたと思う。そんな楽しそうな声を出せるのなら、その中に毒がいっぱい混ざっていなければ、敵を見るような目で見てこなければ、きっとシノちゃんとも「ちゃんと」仲良くなれたはずなのに。

「なあに、それがあなたの鳴き声なの? きっと天然記念物になれるわよ」

 ――片岡さんも、そんな風に挑発をしちゃだめだよもおお。人がおもいきり繰り出したものは、たとえ当たらなくても「いいパンチだね! ぐふっ!」と不敵な笑いを浮かべて、倒れてあげなくちゃあ。あーあ、シノちゃんもう笑いっぱなしで聞いてないじゃんん。

「空気を汚すのは、そろそろ気が済んだかしら? あなたが臭いのはわかったから、そろそろ道を開けてくれない?」

「あははは、ごめんねプリンセス片岡さぁーま。ぷっはは。こちとら人間サマだからさ、ちょっと高貴な方には耐えられないかもね。どうぞどうぞ、おまたせしてすみません。もうそっからでてこなくていいようにしておいてあげるよ。ぷぁはははは」

「くすくすくすくす」

「――あはは、は、は……?」

 紫乃ちゃんがあまりにも楽しそうに笑い続けていたから「もしかして気が済んだのかな?」って、本当に楽天的にあさぎは思ったんだ。核戦争のボタンは押されなかったんだ、良かったって。でも、その瞬間だ。自分のお気楽さ加減が身に沁みた。

「ぎゃッ?」

 発生者不明の悲鳴。同時に、さっきのドアが壊れた音よりも数段濁った悲惨な音が届いた。

「――――ひ! き、き、ぎ、ぎゃ――――――ッ!」

 現状を認識したあさぎの悲鳴。千代子は床に落ちている。その前の壁はひしゃげていた。あさぎは悲鳴を上げながら、バラエティ番組で芸人が水風船をぶつけられるオモシロ動画のスーパースローなんか思い出していた。笑ってられない。だって、水風船は千代子の方だったから。

 叩きつけられた壁には幾条ものクラックが走って、砕けた壁の塗装は土煙みたいにまいあがり、下で妙な形になって倒れた千代子の上に雪のように降り注いでいる。

「ア――……」

 紫乃が声をあげる、低く通る声。紫乃というよりも、紫乃の腕がそんな音を上げているかのような呻きのごとき周波数。その右手を中心に空気が歪んでいるのが判る。

「あんたがっ、悪いんだからねえ……」

 後悔しているかのような言葉。裏腹に紫乃は笑っていた。口角から涎が垂れ、リノリウムに水糸となって落ちていく。千代子はピクリとも動かない。

「休みたかったんでしょっ? あんたにはお似合いのベッドじゃない?」

「か、片岡さんんんッ? ――ぎッ?」

 硬直から我に返り、千代子に駆けよるあさぎに、物理的な衝撃が走る。いくつも星が見えて、あさぎはふらついて、頭から廊下に倒れ落ちる。その頭を紫乃が踏みつける。埃と髪の毛の混じったゴミの塊があさぎの粗い吐息に吹かれて舞った。

「し、シノちゃんん……」

「……何回目、だっけかなあー? 五回目? 五回目でいいかもう、ざっけんなもう、ねーぇ、あそこのゴミはちゃんとさん付けなのに、なぁんであたしはちゃん付けなのかなあ、壺ぉ」

「だって、だってええ、友達だよおお、誰にでもつけるわけじゃ……いたたた! いたいいい!」

 ぐっと顔が足で床に押しつけられる。暴れる体は紫乃の片足で制御されている。ちょこまかと動いているつもりなのに重心を動かしても、まったくもって逃れられない。

「だァ――れがっ」

「やめ、やめえシノちゃあん!」

「六回目ェ!」

 数えられている。この数字になにがあるのか知らないけれど、ただあさぎは不安になる。紫乃の陰湿な振る舞いを見てしまった以上、さらに不安になる。さらに、そんな陰湿な女が、その暗さを見せつけるようにしたということは、それを見せたすべてにしかるべき痛みが彼女の意志によって、報復という名目で与えられることは想像に難くなかった。

「うれしいでしょう、壺。数字が増えるの。あんた、カラオケで高得点出すの好きだつってたもんねえ! 槌田より数学いいの出たってこのまえメッチャ喜んでたもんねーえ!」

「す、数字あさぎは苦手だからあああ、わ、わかんない、かなああ?」

「まあバカだもんね、壺はほんとバカだもんね。でもあたし、壺と遊んでる暇はないんだァ、あんな大きな音あげちゃったから。さっさと証拠を隠滅しなきゃならないよねえ。あたし、昨日からさあ、変な女に絡まれるし――そもそも、その女が電車の中で変態――そうそう、そこで倒れてる女、変態なんだよ。壺は知らないでしょ? もしかして仲間なの? 知らない顔だ? 知ってもしょうがないよねえ、ああ、壺なんかにこんなしょうーもない説明してたらもう、お腹空いちゃって――! ああそうだこれマジ笑えるんだけど あたし、昨日からハム三本くらい食べちゃってるんだよ! 三本! どんだけってえ感じっ! 三枚じゃないんだよ!」

「さ、三本てえ……ちょっとたべすぎだよおお」

 あさぎが顔を踏まれたまま笑うしかできなくて気丈にへらへらと笑う。暴れても仕方がなさそうだからおとなしくしている。顔を動かすとまた強く踏まれてしまうから、紫乃の顔は見えない。どんな顔をして脈略のない話をしてるのか判らない。

「でしょおお? でもハム食べ終わったらやっぱりお腹すくじゃない?」

 紫乃の話がわからないことが一番の恐怖に変わる。だって、シノちゃんの話はいつも、わかりやすかったはずなのだ。口数がいくら少なかろうと、明晰であったはずなのだ。

「だから食べなきゃ。食べたいもの食べるのが本当は健康にいいんだってっ。で、どっちが先?」

 紫乃が首を十度ばかりかしげながら、さっき言葉だけを前に押し出すような不愉快な笑い顔のまま、全く笑っていない目であさぎを見ている。あさぎからは、見えない。

「どっち――ってええ?」

「わかれよ壺。どっちが先に、食べられたいのっ? 聞いてやってんのよ。あいつ、返事できないから、あんたの希望が優先されんの。慈――――悲、なの。漢字で書けるゥ?」

「えっ? ――いた、いたたた! いたいいたいいい!」

 また強く踏まれる。あさぎだって女の子なのに、顔をこんなに踏みつけるなんて酷いと思う。それはさておき、シノちゃんは今「食べる」とか物騒なことを言った気がする。ハムの話をしてたかとおもったのに、その対象はあさぎと片岡さんに移った。

「うるせえよ壺、どっちがいいのかってきいてんの、それとも壺は壺だから耳とかないの聞こえないのっ? 食う代わりにその口に土持ってきて詰めてさあ! 花でも活けてやろうかっ! うわー、今想像したら似合う! ちょお似合う! マジ壺だわ! ――ねえ、何がいい?」

 もはや殴られる方が、考えないで済む分マシと思えた。

「な、何ってええ?」

「花、の種類だよ」

 鼻で笑い、不愉快さを隠しもしない、聞くだけでおなかがぐるりと裏返りそうな声。 

「ふぁ」

 足が、顔から離れた。あさぎはゆっくりと起き上がる。頬を触るとゴミが落ちた。靴の裏と同じ模様のでこぼこが出来て熱を持ってしまっている。髪ゴムの位置はずれるし、きっと髪にゴミはいっぱいついているだろうしサイアクだ。

 さらにサイアクなのは、シノちゃんの顔がぜんっぜん笑ってないところだ。お腹なんか押さえてるし目が据わってる。アフリカのはらぺこのライオンの目をしてる。テレビでみた。動物園で見たライオンとは違う目をしていた。

 ちらりと後ろを見ると、千代子はさっきの位置から動いていなかった。

「壺さァ。まさか、これで今日は終わりだとか、おもってんじゃない?」

「――え?」

 そんなわけがあるか。でもあさぎは考える、少ない頭で考える。こんなに騒いでいるんだから、なぜだか人が来なくても、いくらなんでも、そろそろ人が来て助けてくれるはずなのだ。この異常な状況とシノちゃんとかわいそうなあさぎと片岡さんを助けてくれるはずなのだ。そうだ、片岡さんは本当にヤバいかもしれない。だってさっきから全然動いてないし。あっ。

「だ、だってほらああ、片岡さんそろそろ動いてないし――、ちょっとヤバめっていうかあああ。救急車とかああ……あっ……ほらあさぎが呼……ひぅ!」

 あさぎがポケットに手を入れた瞬間。紫乃の顔が目の前にあった。漏らしそうだった。

 紫乃はそのままゆっくり、左手であさぎのアゴをホールドし、ポケットにいれたあさぎの腕を右手で取り出す、触られた部分に熱と風を感じる。ポケットの携帯電話が抜かれる。

「だぁめだろお? おイタしちゃあ……」

 笑顔。右手で携帯電話が取り上げられる。ひょいっと持ち替えられて掌の中に。何の手品かわからないが、触れた携帯電話が、目の前でさらさらと粉のようなものになっていく。

「すげ、ペンケースと同じだ。分解、しちゃってるのかなぁ。これぇ……?」

 他人事のような独り言が紫乃から漏れる。

 あさぎは、この期に及んでもまだ、紫乃が正常の範疇にいることを期待していた。しかし、そうではなかった。もはや、とっくにおかしかったのに、ようやく気付いた。手品でもなんでもない。握っただけでなんで、あんなことになってしまうんだ。

 あの手に触ったら、自分もそうなってしまうのではないか。

「ひ」

 あさぎの背骨から漏れた怯えは喉に充ち、味を悟らせる余裕ももたせずして溢れ出す。そのときにはもうあさぎの全身は毒に侵されて使い物にならなくなってしまっていた。心の底からの恐怖は目の前をまっくらにするのだと知った。あさぎ自身の身体が産み出した毒と、紫乃の槍が穿った傷から止めどなく溢れ出す毒が、あさぎを蝕み続けている。

「さって。わかってるんでしょ? これから、あたしがどうするのか……さ」

 あさぎは首をふる。こんな時、ピンチの時に戦える方法をたった一つしか知らない。準備をする。きっと自分の顔は、何ひとつ戦う方法を知らずにいた理科室の白ネズミのようにこわばってしまっている。それでは補食するものにとって、自分はエサですと公言するようなものだ。

 だから、笑え、笑って全部誤魔化せ、全身で、示して訴えろ。飼い犬のように腹を見せて許しを乞うしかない。あたしはあなたに危害なんか与えない、と。笑顔を作って。目を潤ませて。卑屈に背骨を曲げて。動物の赤子のように小さくかわいく捕食者の慈悲を待つしかない――!

「ねええええ、シノちゃああん。やーだよキレっちゃあああああ―――! あ」

 言ってる途中で「あ、しまった」と思った。

 あさぎは、どうしたってバカなのだ。

 物理の授業をちゃんと聞いておけば、こういう時、きちんと対処できたのだろうか。

 宙に浮いた体が、頭から廊下の壁に向かって落ちていくのを、止めることができただろうか。

「ッッ!」

「っひっと――――――――――つ」

 殴られた。熱さを覚えて、その後じーんと痛む。呼吸が苦しいと思ったら鼻血が出てた。

「なんで誰も来ないのかなって思ってるでしょ?」

「うぇぷっ。う……うう……」

「思ってない? まーたまたァ。誰も助けに来ないよ。壺もさァ、ニヤニヤわらってないでさ、泣いたりわめいたりしてよ。あたしもさっ、悪いと思うんだよね壺ちゃんには。でもさ、なんだか知らないけど、ずっとおなか減っててさあ。そのせいでガラにもなくイラつくんだよね。そう、ごめんねえ壺っちさあ、こんなひどい事しちゃって、これってあたしが悪いんじゃなくてさ、あるじゃない? お腹減ってるとこうイライラって、イライラって、ぜんぶぶっこわしたくなんの。でもさああんたがわるいんだよね、ほらあんたノート返さないし、白いから大丈夫だとでも思った? ほーら壺のくせに調子に乗るんじゃねえってことっ! 痛い? ねえ、痛い? 痛いかってきいてんだよ返事しろよオラぁぁアァッ! ふった――――――――――ァ――――――ッつ!」

 さっきの携帯電話みたいに、砕かれていないだけマシなのだろうか。これで手加減されているのだろうか。鼻血がぽたぽたと床に落ちる。口の中も切れているし、鼻も曲がってるかも知れない。ヤバい、目の上が開けられないくらい腫れてきてしまった。

「――意外と、気分いいものねえ」

 襟を掴まれ引き上げられる。口が寄せられる。

 ――年末の拳闘をテレビ観戦しながら「ぎゃーいったそおおおお!」とか、げらげら笑ってて、本当にごめんなさい。

「まだ食わないから、安心して。もうちょい楽しんでからにするから。大丈夫っ、だって御馳走はもうひとつあるんだもの!」 

「片岡さんの……言ったとおりだった」

「なに? やっぱあんなのに優しくしなきゃよかったって? ぷぁはは、あいつ言いそうー、だってプリンセスだもんねえ。それくらい言いそうだよね」

「――シノちゃん、口、ハムくさい」

 言ってやった。紫乃の笑顔が止まった。そのまま髪がわしづかみされる。体が持ち上がる。

「――――」

 がん。

「――ッ?」

 がん、がん、がりっ。

「――――ッッ!」

 一度目は額。二度目と三度目はこめかみ。四度目はぶつけられて下の方に引っかくように壁に頬をこすられていった。悲鳴も出せやしない。

 あたまいたい。ほっぺが熱い、のになんか水っぽい。きっと血が出てるんだ、きっと、皮が剥がれたり焼けてしまったんだ。どうしよう、痕がのこったら、どうして、くれるんだろう。

「さーいきーん、瓶ジャムのフタが開けやすくなったからさあ。変だなって。はい、み――――っっつ。ねえ、ジャムはなに味が好き? あ、いいよ返事しないでも。いつからなのかなあ。あれーそういやいくつまでかぞえたっけかなあ、はいみ――――――――――――――っつ! あたしはねえ、ジャムはやっぱりイチゴだよね、イチゴ大好き。アンズも悪くないよね。なんでこんなにぐっちゃぐっちゃなんだろう、ジャムってさ、ぐっちゃぐっちゃのどろっっどろなのに甘いよね。はいよ――――――――――――ぉっっっつ。壺ォ、あんたも甘いから、さ、いいジャムになれるんじゃない? でもねおなか空くんだよね、論理的でしょ? でもあんまり痩せないの、でもおなかは空くんだよ、ムカつくッ……ち。……ねえ、今のちゃんと入らなかったよね、ダメだよー、ツボは割れなきゃあ。ゲームの勇者だってちゃんとひとんちに入ってツボ割るでしょ? 中身を探すでしょ? あんたもさあ、ほら、見せてみなよ。ちゃんと言わなきゃね。はいもっかいよ――――――――――――――――っっツァ! あたしは『うまくやってた』んだ。あんたはそこに土足で入ってきたの、うぜーぇったらない、わっ」

「っ」

 あさぎはボロ雑巾のようにうち捨てられた。

「今ので、いつつでいいわ。あたしやっさしー。とりあえず後一回かなー。壺って、もしかしてほんとに壺なの? なんか丈夫じゃん?」

 げらげらと笑われている。本当に壺だったら、もしあさぎが――言うとおりに本当に壺とかそんなんだったら、殴られても――紫乃の言うとおり食べられても。痛くないんだろうか。

 くやしくも、ならないんだろうか。

 あさぎはくすんだ視界に暴虐の主を収める。廊下を見回す。おかしい。本当に誰も来ない。

「気付いた? 誰も来ないの」

 シノちゃんはなにかしたのだろうか。なんにせよ、あと一回でこの地獄は終わるらしい。ついでに関係も終わってしまったのだ。あっさりだ。クミちゃんとも、シノちゃんともずっと仲良くなって一緒にいられると思ったのに。趨勢は簡単に残酷に決してしまうのだ。もし生き延びたとして、それで、クミちゃんのところに泣いて戻ったりしたらこの暴君に今度こそ殺される。そうなったらあさぎはたった一人で生きていかなきゃならないんだ。

「いたいでしょ。避けようとしているのわかるぞーっ」

 痛くてしょうがない。じんじんする。全身が痛い。痛みは時間が経てば経つほど痛くなる。唇が腫れてしまっている。頬の内側が切れてしまって血の味がする。瞼が腫れて視界がすごく狭くなってしまっている。髪を捕まれて引っ張られたから抜けてしまった頭皮にしびれるような痛みが残っている。

「これってさ、魔法なんだって。あいつ、ほら、あの黒セーラー服が言ってた」

 体の内側も鈍く痛む。呼吸が苦しい。胸の下に浮いたあばらぼねがなにかおかしい。わずかに動く左手で探ってみると、ふれた瞬間に刺すような痛みが走る。これってきっと、折れている。シノちゃんの言っている事はよくわからない。黒セーラーって誰のこと?

「今さあ、壺っち殴ってて判ったわ。これはさあ、空間を区切って。そこに負荷をかけて、この拳を中心に集めてんのよ」

 ――なにいってんのかなあ。

「空間を区切っちゃうから、その時点で誰も来れなくなるってこと。すっげ、――ほら、最初に黒セーラーに出くわしたときにあいつすごい驚いてたじゃん?」

 ――知らないよそんなの。だから、誰なのそれ。

「それってさ、この魔法のちからなんじゃないかって思うんだあ。そう、怖がってたんだよ。あたしの考えだと、あれも空間に干渉している。だから……まあ、今度は逃がさないってこと。でさあ、あの黒セーラーの、緑のヤツ、あれもあんたの友達なの? なあ、黙ってんなよ」

「――――」

 返事しようにも、あさぎの声は出ない。緑色のひとなんてしらない。それって、なんでもやりとげちゃう眠そうな恐竜の子供? それとも赤い帽子のイタリア人を乗せてる方? そんなものが友達だったら、今助けに来てくれてるんじゃないの?

「――はやく、やればいいじゃんん」

 知らないという返事の代わりに、そんな諦めが出てきた。

「――なに、壺っちはやく死にたいの? 食べられたいの? まあちょっと待ってよ。あたし、壺っちには積もり積もっていろいろ言いたいことがあるわけよ。今はね、あたしが考えてることを整理する時間なわけっ……まあでも、いい加減お腹空いたしね、壺っちも覚悟出来てるみたいだしさあ、ねえ、食べられるのってどんな気分? あ、返事しねえと蹴んぞ」

「――さい、あくうう」

 蹴られるのはイヤだし、返事をなんとか絞り出す。だのに。

「あっそう。で、さっきの続きね。ドーン」

 腹に固い物が潜り込んでくる。そこはさっき最初に一番強い力で殴られた部分だ。いたい。青くなって、もしかしたら紫色になってしまっているんだろう。固いものは靴だった、中村の靴は踵を支点にして、うつ伏せにひっくり返っていたあさぎの体を表向きにひっくり返す。。

「なに、その目。解放されると思ってた? おあいにく様、あと一回残ってたでしょっ?」

「~~けはッ……、あッ、ゲッ」

 呼吸すらむずかしくて、のたうち回るほど全身が痛い。もういいでしょ、楽にしてよって気分なのに。こんなに性格悪かったのかよ、こいつ、ちきしょう。うらむからねええ。化けてでてやるんだからねええッ!

「終わらせっか。じゃーまずは腕がもーうね、熱くなっているので、空高くかっかげまーす」

 助けは来ない。どうしてかこない。誰も――。

 暇な教師も、サボりの生徒も、養護の福見も、クミちゃんも、倒れたままの片岡さんも、世の中にあまた存在しそうな正義の名を冠した誰も――。

「つぎに、この空間の中の空気を重くしまーす。あたし以外は全員遅くなってもらいまーす」

 こんなひどい目に合っているあさぎのことを、本当に知らないの――?

 こんなに痛いのに、だれも知らないふりをするの?

「その空気の力を腕にあつめて殴るとすごくいたいでーす。さっきの携帯は、空間の空気の力を一気に使うとああなるんですねえ。すごいねえ、魔法。まあ安心して粉々にしない程度にしないと、食べられないし? わかる? これは慈悲なのよ、お友達、でしょ?」

 そこでシノちゃんは一旦、止まった。くう。と何かカワイイ音がした。

「笑っちゃうよね!」

 講釈の通りなら、必ず当たる殺人の為の腕が、あさぎをめがけて振りかぶられた。とても女子高生の物とは思えぬ膂力によってトリガーが引かれる。腰が捻られてスカートが舞う、清純の白がとても滑稽に映る、リノリウムが摩擦熱で悲鳴を上げ、黒い焦げ跡を残す。いわく魔法の右手を中心に張られていた結界が、そこに力となって収斂していく。単純な暴力の象徴になった拳は、磁石同士が吸い付くように、寸分ねらいを違えず猛悪な殺意を乗せてあさぎの鳩尾に落ちていく――。

 

 

 誰も、