K パーニシャス・パープレックス/3

パーニシャス・パープレックス/3

 

 階段の踊り場、中村紫乃の目下には昨夜の黒セーラーがいた。「昨夜は」黒セーラーだったそいつは、紫乃たちと同じ制服を着て不敵にシャボン玉遊びをしていたのだ。

「同じ学校だった――なんてこと、あるはずないよね……」

「どうかな! 意趣をカエしにきたとゾンじているのかな、キミは!」

「――なにか、用?」

「キミこそ! ボクは(あぶく)を吹いているだけだから、気にせずにここをトオればいい! ボクらこそ満ちてなくとも、キミの虚とクラべて、共にタオれてしまうのをノゾむのかい!」

「わっかりにくい言葉使い勘弁なんだけど……なによ、休戦しようって、こと?」

「あははぁ。サツするキミは賢だねえ! 昨日シツしてしまったのは惜しかったよ!」

 自分たちと同じ服で、笑った。ご丁寧に名札を付けていたけれど、そんな珍しいもの付けているのはまるで自分で自分を侵入者だと自白しているようなものだ、それに。

「それ、名前書いて無いじゃない。あんた、何なの、名乗りなさいよ」

「キミは礼儀をベンじないのかな! これはキミらの上級生の証だとオモったけれど!」

 三年を表わす藤がプリントされている。そんなものは飾りだ。

「そんな、購買で百五十円出せば買えるものを信用しろっての」

「あはは、購えるものはすべて安物じゃないか! しかし、昨日のキミはもっとカマえていたね! キミをハバんでいるのは、何か! そう、キミは空腹なんじゃないか!」

「昨夜あなたと遊んだ所為で、ずいぶんとお腹減っちゃってさ。さっきもハムをまるごとね」

 沈んでいるところにやって来た敵は、つかみ所のない言葉で紫乃の弱みを正確に指す。

「あはは、生きていくつもりなら、慣れなければいけないよ。そして、(ともがら)を狩ることをオボえるんだ! そうすればすぐにシビれてくるよ! ボクらのように!」

「狩る――って、何よ。あっ! ちょっと、逃げるの?」

 シャボン玉の向こうで唇に触れる動作を見せたかと思うと、煙のように消えてしまった。威勢の良い言葉の裏で、紫乃は胸をなで下ろし、また、残った単語を噛みしめる。

「――なんなのよ……」

 紫乃は自分の鈍感さにふと気付く。なんでこんな状況を受け入れてしまっているのだろう。さっきまであの女がいた踊り場をぼうと眺めているとじわりと右腕が熱を持ってきた。

「――やめ、保健室いこう」

 独り言のように呟く。そうだ、そもそも保健室に行く途中だった。紫乃は一息ついて石鹸水の臭いがする階段を一階まで下りて、渡り廊下を渡って、保健室までやって来た。その間、誰にも会わなかった。授業が始まっているとはいえ、どこか不思議な寂しさが校舎の中にあった。人の気配は確かにある。けれど、まるで紫乃の周りにだけ誰も寄りついてこないような――。

 あんなにハムを食べたのに、また腹が鳴って空腹を教えてきた。「そんなに腹が減っているはずがない」と教諭の机にあった飴玉を口の中に放り込むが、味覚がおかしくなっているのか、甘みを殆ど感じない。それどころか、空腹感がみるみる膨らんでいく。

「――なにこれ」

 あろうことか槌田の顔がちらついた。さっき、噛みついてしまった耳のことを否応なく思い出す。そうだ、なんであのとき、噛みつこうと思ったんだ? 他愛もない悪戯? いや、さっき、ヤツが指し示した唇は、「お前は、人を食おうとしていたのだ」ということを知らしめようとしているかのようなそぶりではなかったか。それに――。

 保健室の鏡に映った中村紫乃の顔は悄然としていた。いやな事に気付いてしまったと言う顔。ヤツが言っていたあることばを皮切りに、紫乃の脳細胞がどんどんと熱せられていく。

「――狩る?」

 自らの体で生み出せないものは、他者より奪うしかない。だから人は鳥獣穀物を撃ち、飼い、育て、食らう。そうしなければ飢えて死ぬから。生きることを、維持できないから。

 そんな、確信が紫乃を襲う。目の前に転がる飴玉では、明らかに充たせない欲求が紫乃の想像の中で繰り広げられている。欲求は近い記憶をひもとく、同じくらい抑えきれない情動を近日に抱いたはずだ。それは。あの電車の中で、片岡千代子に抱いた、渇望。

「まさか、やだ――は、はは」

 脂汗が沁みる。自分で頬を張り冷静さを呼び込む。なんだそれ、もし、そんな馬鹿げた想像が確かなら、昨日までの自分のからだと全く違う摂理で、この体が動いていることになるじゃないか。そんな、そんなでたらめなことがあるものか――!

 外から足音が聞こえた。半分顔を覗かせる。知った顔が、寝ぼけた表情でふたつ歩いてきた。

 ――なに、その、ユカイな組み合わせ。

 そんなことを考える間もなく、紫乃の内臓が跳ねた。右手が焼きごてを押しつけられたかのように発熱し、消化器だったものたちとともにコーラスを開始する。血がめぐる。槌田のことを考えたときより、もっと熱く早い律動で、今こそ「狩り」の時だと、あるじの体に教えてくれている。食らえ食らえと叫び続けている。

 紫乃にとって、一度目は疑い、二度目は確信。どんなに疑わしくても、現実は、現象は、そう言っているのだから、従わざるをえない。ならば――でたらめでもなんでも、中村紫乃は認識してしまった、理解してしまった。この身体は、いのちを喰らいたがっていると。

「二時間目は――実験の時間だね、片岡さぁん」

 

 生きたまま、同類の、その肉を。

――食らえ。

 中村紫乃の前に、魔法少女(ごちそう)がやってくる。

J ペイル・ペリセイド/2

ペイル・ペリセイド/2

 

 壺井あさぎと片岡千代子は学園前駅ホームのベンチで横に並んで、半人分のスペースを空けてもう小一時間座っていた。その間ずっと対話は無かった。対話になってなかっただけで、あさぎはずっと「ね、ねえ大丈夫ううう?」だの「そ、そろそろいこうかあああ?」だの「く、クミちゃ……槌田さんと仲悪いのおお?」だとか「片岡さんはあああ、最近ハマってるものあるうう?」であるだとかそんな他愛も無い質問を思いつく先から投げかけていたのだ。

 それでも結局、千代子は答えず。たまに「ふ――ッ」っと獣のごとき息を吐き出して天を仰ぎ、何かと会話をするようにぶつぶつと呟いていた。

 あさぎは、その辺りで我慢の限界を迎えた。「きい」とかわいらしい癇癪を起こして、千代子の背中をべしべし平手で叩き、その片脇に身体を挟んで持ち上げる。

「あ、あれ……?」

 千代子は抵抗もせず引っぱればそのまま歩いてきそうな気がした。だけどあさぎはやっと気付いた。千代子が座っていたところに水たまりが出来ているのだ。

 やっぱりこわかったんだよね。そんな言葉をあさぎは飲み込む。さっきの電車は異様だった。降りるときもどこかから「やだ!」「痴漢!」みたいな声が聞こえ、異様な熱を帯びた電車からは同級生たちが異様に赤い顔をして股ぐらをもじもじさせながら降りていった。

 あさぎは、抱きしめられたまま痙攣して動かなくなった千代子を、どうにかホームに引きずって、今の今まで休んでいた。その間ずっと、千代子は下着を濡らしたままで悩んでいたのか。それに気付かなかった自分と、言わない千代子に腹が立った。バッグを二人分かかえて、千代子の背中を押して駅にターンする。

「もー、そんなの恥ずかしがらずにはやく言ってよねえええええ」

「ど、どこに……?」

「トイレだよおお、ごめんねえ気付かなくてえええ」

 千代子は駅のトイレにも臆することなく入ってきた。駅のトイレ特有の鼻を突くアンモニアの臭いで、あさぎは千代子の特性を思い出したけれど特段気にしている風でもなかった。

 あさぎは自分のバッグの中からジャージの下を取り出して押しつける。

「……これ、私に?」

 千代子があさぎのジャージを手に持って、首を傾げながらきいてきた。「だって、そのままじゃ……学校行けないでしょおおお?」そうだ、なんでかわからないけれど、女の子なんだから、濡らしてしまったスカートのままで学校になんか行けるはずがないのだ。学校に着いたら、被服室でも、保健室ででも乾かしたり代わりをどこからでも調達すればいい。

「あ、あさぎのジャージ、いやかなああ?」

「……さすがに、キツいかもしれないわ」

「えへへえ、片岡さん細いからああ!」

 大丈夫だよと言って、あさぎは笑った。千代子も微笑んだようにみえた。

 その笑顔を見てあさぎは嬉しくなる。「ほら片岡さんさああああ、笑ったらやっぱりかわいいじゃあああああああんんんんん」と騒いで、吹っ飛ばされたことも忘れてカラオケに誘った。千代子は困ったような顔で「そういうの、私、今まで縁がなかったから、本当にわからないのよ」と言った。あさぎは、残念そうな顔をしながらも、会話が成り立ったことに感動していた。申し訳ないけれど、お漏らししてくれちゃったことに対して感謝の念すら表しそうな勢いであった。「じゃああさあああああ、今度行こう! あぼちゃかずきアイス食べに行こう! クミちゃんとも行こうって言ってるんだけどすげえらしいんですよおおお!」謎の敬語と単語に千代子の顔面にはてなマークがいくつも浮かぶ。

「でも、彼女はきっと私のことがきらいでしょう。私も苦手だもの、無理よ」

「そんなことないってええええ! きっと仲良くなれるよおおおお!」

「……。学校、向かいましょうか? 今からなら二限目に間に合うかも知れないわ」

 かったおかさんんまっじめえええええ。なんて声を上げて、話を逸らされたことにも気付かないあさぎは、どうやら元気になってくれた千代子の手を引いて、学校に向かった。手を引くと少し驚いた顔をされたけれど、昨日みたいにロボットみたいな目をしてなかったから、とても嬉しくて飛び跳ねた。学校に着くと、あさぎに勢いよく手を引かれた千代子は結構息が上がっていた。靴を履き替えながらあさぎは脳天気に尋ねる。

「あれええ、やっぱり具合悪かったあああ? 今からでも帰る?」

「いいえ……なんと表せばいいのか、寒気のような……ものが……?」

 口の中に虫が入りこんだようなしかめっつらで、千代子は辺りを見回す。靴箱から曲がって右、保健室のある職員棟に続く廊下を首だけで覗き込み、こくんと唾を飲み込む。

「そおおお? じゃあ、保健室で風邪薬もらおうねええええ」

 あさぎは廊下を行く。千代子は無言のまましばらくあさぎを追って、保健室の手前で止まる。

「――どったのおおお?」

「いえ……なにか、イヤな感じが――空気が、重い……」

 確かに、校舎はずいぶんと静かなように思えた。けれど、この時間に保健室の辺りをうろついているものはそういないから当然で、片岡さんはカンジュセイが豊かなんだなあとあさぎはへらへらと思う。そういえばあさぎは保健室に入ったことがない。本当は健康診断の時に入っているんだけどその自覚がないから、今ちょっとわくわくしているくらいだ。

 そんな平和な頭だから、自分たちに危険を及ぼす敵が、半分だけ開いたドアの隙間から覗いているのを直前まで気付かなかった。それは、あさぎの知人にして、槌田紅実の友人。

 

 中村紫乃がゆらり、獣の瞳で待ち構えていた。

I パーニシャス・パープレックス/2

パーニシャス・パープレックス/2

 

 中村紫乃は、一晩を耐えきった。

 

 まんじりともしない夜を過ごした。恐怖もあった。けれど、空腹が何より大きかった。冷蔵庫の前でたっぷり三十分葛藤し、負けた。肉が食いたかった、どうしても肉が食べたくてしょうがなかった。こっそりと肉を焼いたつもりでも家人が起きてきて弁解する羽目になった。

 不思議なことに、焼いた肉には興味がなくなった。それよりも起きてきた家人を――その――食べたくてしょうがなかった。ロースハムをひったくって、それを舐めながら夜が明けるのを待っていた。右手がじくじくと痛んだ。

 朝になって、家人が出して来た歳暮セットをそのまま小脇に抱えて学校に向かった。

 家にいると、何か、大変な事をしでかしてしまいそうだったから。

 ――これじゃないなあ。

 ハムを包装ごと囓り、ビニールを吐き出す。

 残りのハムをゆっくりと咀嚼し、どうにか満足を得ようとする。この病的な衝動は一体何なのか、ぼうとした頭のどこかで紫乃は精一杯考えていた。

 原因はただひとつしか考えられなかった。昨夜のアレだ。

 だけど、昨夜のどれがこうなのか――。これではまるで薬物中毒者のそれだ。紫乃はそんなものに触れたことも無いし、興味を持ったこともない。そういうものから離れられなくなってしまった欲望に弱い人々が堕ちて行くのを眺め「自業自得」と笑うタイプの人間だ。

 だから、今の状況は屈辱だった。

 たとえば、昨夜の電車での出来事。あれは直接関係がないと仮定。あの時、自分の中で目覚めたこの――いまハムを握っている右手――が、この病的で錯誤した渇望を励起してやまないのだとしたら――。

「――切り落とせば、いいじゃない」

 そうだ、元から断てばいいだろう。ぼうとした紫乃の頭にはそれが名案に思えてしまう。

 そこで、チャイムが鳴った。

「じゃあ、またあとでな」

 槌田の声が聞こえた。ああ、そうだ、ここは学校なのだ。自分の教室だ。あとで? ここは自分の席だろう。そして、右手にあるのはハムだ。目の前に居るのはなんだ。肉だ、肉が喋っている。肉が行ってしまう。肉が喋るはずがない。食料が喋るはずがない、なあ中村、てめーおかしくなってんじゃないのか。

 そんなことはない、お腹が空くのは、消費した分だけ食べるのは正しいことでしょう――。

 後ろの席から聞こえるのは今日提出するはずの課題について。

「あ、壺。ノート」

 そういえば壺井にノートを貸していた。先週末に返ってくるはずだった。あいつはまったく忘れた素振りで、今日もまた返ってこなかったらどうしてくれようか考えている。

 考えれば考えるほど、壺井の笑顔ばかりが浮かんでくる。へらへらとしまらないあの笑顔だ。

 紫乃はいつからかその緩みが許せなくなっていた。自分は何を怒っているのか。そもそも頼られることに悪い気はしなかったのに。それは、槌田の隣で犬のようにまとわりつく壺井を見たあとでもだ。最初は、自分だけが知っている聖域を侵されたなんて、しみったれたことは重いもしなかったはずだ。むしろ、ともに楽しめる仲間が出来たと喜べるだけの度量と余裕を、中村紫乃はかつて持っていたはずなのに。

「――槌田?」

 槌田にかけた言葉のつもりだったけれど、反応は無かった。

 槌田は行ってしまったようだった。始業ベルの残滓とともに肉も、手の中のハムも無くなっていた。濡れたピンクの糸が、小動物のハラワタのように指に絡む。

 甲高い声の豚肉が来たと思ったら、担任だった。

 

                                       

 

 一時限目を耐え、紫乃はふらふらになっていた。それでもどうにか登校時までの人事不省から逃れ、意識を保ってていた。けれど、そこが限界に思えた。紫乃は二時限目の開始を告げるスピーカーのノイズと同時に机を立った。

「保健室――」

 だれにともなくそう言うと、周囲の生徒の何人かが「はあ」みたいな気のない返事をした。こいつらが自分のことを好いていないのは知っている。好かれない理由も知っている。このクラスに滞在しないのも、問題児寸前の素行を隠さない槌田紅実の傍にいるのも、文句の付けようがない成績を維持していることも、どれが発端かは知らないことだけれど、そのどれかとすべてが、紫乃の孤独を創り出していた。

 保健室に行く途中で、紫乃は槌田のクラスを覗くことにした。朝方には肉のことばかり考えていて槌田に不義理をした。せっかく自分の所にきてくれたとのに、気もそぞろだった。

「まずったなあ」

 きっと槌田は多少イラッとしながらもさばさばと悪態一つでいなしてくれるだろう。そういうところも、紫乃の慕う槌田が持つ魅力の一つなのだ。もうチャイムは鳴っていたから、授業が始まっているかもしれない。こっそりと覗いた教室は暗かった。

「あ、そっか、体育か」

 それでも覗いたのは無駄ではなかった。お目当ての娘は突っ伏して寝ていた。

「おっ、おやおや、槌田さんはおサボリですか……」

 魔が差した。紫乃もいつもだったらそんなことはしない、そして素行の悪くなりきれない槌田が授業中に教室で寝ていると言うことは、なにがしかの理由があるに違いないのはわかりきったことだったはずなのに。寝ている槌田に沸き上がるような魅力を感じた。そう、さっきハムを食べながら考えて居たんだ。目の前にあるものの方が、何倍もおいしそうじゃないかって。

 だから、癖毛ショートの間からのぞく、形のいい耳に噛みついた。

「イっ……! だ! だ、なっにすんだ! てめえ!」

 当然槌田は怒った。癇癪を起こしてしまった。そりゃ寝てるところに痛みが来たらびっくりするし、キレたって仕方ない。紫乃だってそう思う。槌田はキレた時、手元の物を投げつける癖がある。今回はたまたまそれがペンケースだった。

「わ」

 紫乃は驚いていた。歯に残るやらかい肉の感覚に。そんなことをしてしまった自分に。驚きから覚める間も待たずに、ペンケースは紫乃に一直線で飛んでくる。だから、紫乃は自分の顔を守るために、右手を突きだしていた。昨日目覚めた、人ならぬ力を宿した右手を。

「――――えっ?」「あ?」

 驚く声は、同時だった。

 ぱァン。と破裂音がして。槌田のペンケースが粉になった。

「……なん、それ。あれ、中村? 今、なに、何した? 手品?」

 槌田は深い瞬きを何度もして、今目の前で起きた現象に、怒りを四散させ、キツネに摘まれたようになって虚空と紫乃を交互に見やっている。

「え、ええっ。あの、いまのは、その」

 まずい。紫乃は知っている。この言い訳し辛い状況でしどろもどろになっている相手を見るのが、槌田はなにより嫌いなことを知っている。槌田はええかっこしいだから自分の言葉で他人が戸惑うのがとてもきらいだ。そして紫乃は臆病だ。だから、ほら――そうやって睨み付けるように顔を崩した後の悲しそうな罵倒を聞くわけには――いかなかった。

「ごめんっ!」

 紫乃は居たたまれず、脱兎の如く廊下に逃げだした。なんてこった。

 階段まで走って、後ろを振り向いた。槌田は追いかけて来てくれなかった。ただそれだけのことだった。でも、表面張力いっぱいにまで満たされた水を零すのにはその衝撃で充分だった。よく持ったと、誰かが誉めてくれるのを待つだけの資格はあるはずだと思えた。

 熱持つ奇妙な右手を、恨めしそうに眺め落とす。昨日自分の命を拾ったこの右手を、今は切り落としてしまいたい気持ちでいっぱいだ。

「……やっちゃったぁ」

 誰が中村紫乃に降りかかってしまったこの悪意の数々を理解してくれるというのだろう。家にいるのは一方的な理解者、学舎にいるのは平凡な聖職者だ。そのどちらも中村紫乃の現状を、落ちていく地獄のことを理解しやしないだろう。

 紫乃は自分の居場所に後悔はない。学ぶべき場所は自分で選んだ。帰るべき場所は自分の思うように作り替えたという自負がある。わずかな孤独を感じようとも、現状なんてたった数年いるだけの腰掛けなのだ。理解者なんて、ほんの少しで良い。けれど、紫乃が最適化したはずの、この期に及んで紫乃の孤独を浮き立たせている。

 要らないものを捨てたら、それが必要になってしまった。

 それぞれの教室から講義の声が聞こえる。

 こんなことで、打ちひしがれるような人間になるつもりはなかったのに。

 紫乃は階段の手前で項垂れ、涙を流している。すんすんと鼻を鳴らしている。槌田はペンケースの事なんか気にせず寝てしまっただろうか。もう来ないのだ。お腹は減るし、体はおかしいし、槌田には嫌われる。でもあの壺なら、こんな絶望も笑って誤魔化してしまうのだろう。槌田はそれを悪態ひとつで許すのだ。もうやだ、もうたくさんだ。泣きそうになる。不安で押しつぶされそうになる。紫乃は携帯電話を取り出す。そう、槌田に謝ろう。そして相談をしよう。昨日の夜のことを、魔法の右手のことを。それからずっと自分を苛むこの食欲の事を。

 電話番号を選んで、コール。

 五回鳴らして、反応がない。紫乃はそれ以上コール音を聞いているのに耐えられなくなって通話ボタンを押した。それは、そうやって依存するのは、壺と同じように槌田に負担をかけるやり方じゃないかと思ってしまったのだ。

 槌田は着信履歴を見て気色悪いと言うだろう。でももし、たまたま出られなかっただけなら、メールのひとつでも送っておかないとならないだろう。でも、画面を開いたところで本文になんて書けばいいのかわからなくなってしまった。

「あっ……」

 手が滑って、空メールを送ってしまう。自己嫌悪で涙がこぼれる。

 階段がもう、怖くて下りられない。

 悪いことは、続けてやってくる。

「――あはは、随分とシメっているね、キミ!」

 踊り場から聞きたくない声が聞こえた。背筋が伸びる。口の中に苦い物が溢れてくる。

「――あ、あんた……っ」

 黒いセーラー服が、下から見上げていた。

 

 この学校の制服をまとい、

 シャボン玉をくゆらせて、

 緑青の髪をたなびかせて。

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 悪夢の二日目だった。

 

「うぜー」

 小さい声で漏らしたはずの独り言が教室にはっきりと響いてしまう。特に親しくもしていないクラスメイトがさっと一瞥し、また視線を規定の位置に戻していく。牽制の儀式は終わりだとばかりに。その不愉快な視線の群にちくちくと刺され痛む部分をさすりながら、今度はちゃんと聞こえないように舌打ちをする。それというのも、いつもならだれかしらがその視線を遮ってくれるのに。今日はいないせいだ。

 最近はずっと、この机の周りに人がいたんだ。壺井がまとわりついて来て、中村が射殺すような目で睨む。なんで嫌いあってんのにこいつらいっしょにあたしのとこ来るんだろって槌田は思っている。そして、横の席でシンキくせー片岡がわざとらしく溜息なんか吐く。

 ――おまえらなあ、自分のクラスにいねえと友達なんかできやしねえだろ。そう言おうとしてすんでのところで止めてきた。自分はこんな性格だから、中村や壺井が自分のところに来ることで、彼女達に悪いことをしているのではないかという臆病が、たまに浮かんで消える。

 だから今朝は誰もいなくて静かで良いはずだった。なのに槌田の心は晴れなかった。習慣になったものが喪失して不安になった。どうでもいいぜと強がりながら、ふとするとそんなことを考えている自分はまったく強くなくてイヤになる。

 壺井が風邪を引くのも考えにくくて心配になるが、中村は今日学校に来ているのを槌田は今朝方確認していた。その時の様子を思い出して、槌田の心はさっきからざわついていた。

 

 今朝、隣の教室を覗くと、中村はもくもくとハムを囓っていた。ハムだ。お歳暮にもらったはいいが、ともすれば冷蔵庫の中で卵パックのうしろに追いやられてしまいそうな丸ごと一本のヤツ。塊に残る歯形を隠しもせず、黒板の向こう側を見つめながら一心不乱に咀嚼していた。

「……なんだ、あれ」

 だれにともなく呟く。扉を開けてすぐに座っているそのクラスの受付役が「さあ……? 朝、来るなりアレよ。ニオイしてやんなるなあ。槌田さん、オトモダチでしょう?」とか言うもんだから、槌田はそいつを一瞥し、わざとらしく机にバッグをぶつけてやってから中村の机に向かった。「コワーイ」なんて声が聞こえる。

「おーなっかむらァー。てめー朝からナニ食ってんだ」

 もぐ、ごくん。

「……あら、槌田。早いじゃない」

 もぐもぐ。

「もうベル鳴るぜ、中村こそメシ食ってる場合じゃねーだろ」

 もぐもぐ、ごくん。

「……そんな場合、よ。これが……食べずにはいられない、的な」

 もぐもぐ、もぐ、もぐごくん、もぐ。もぐもぐ。

 中村は会話する間すら惜しむように、のべつまくなし食べ続けている。こんなことは今まで無かったし、中村の槌田に対する反応も、いつもより淡泊な気がする。

「朝、食わなかったのかよ? ヤケ喰いすると、あとで後悔するぜ。あたしもさーこの前あったじゃんミクラステーキの開店五周年のアレ皿の底にまだ肉が圧縮されてんの正気かよって」

 もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ、もぐもぐもぐもぐ。

 中村は頷いて返事をしたように見える。ただ、咀嚼が終わらない、ハムスターみたいにずっと口をもぐもぐさせている。朝なら食べたよ。と目が言っている。だっておなかがすくんだもん。そう言っている。やがて全てが腹の中に収まり、たこ糸が口からずるずる出てきた。

 ごくん。と喉を鳴らして、名残惜しそうに指をぺろりと舐めて、ようやくまた口を開く。

「……肉、食べたくて……しょうがないんだ……」

 口を物欲しそうに開けて、中村が槌田を見ている。上目遣いでさっきまでずっと黒板を見ていたはずなのに、とろりとした目は槌田に焦点が合っていた。同性とかそういうの関係無しに――槌田にそのケはないはずなのだけれど「うわあ、すげえエロい……」と思わせた。

「……すこし、たべさ――」

 手持ちぶさたになった右手をにぎにぎして、中村が口を開きかけた。そこで、鐘が鳴った。

「ん、じゃあ、またあとでな」

 中村はなんて言おうとしたのだろうか。その瞬間目の色が変わった気がした。薄ら寒い風が吹いた。懇願する目が、獰猛な肉食獣の目に変わったような――。

「あ、そうだ――壺、ノート」

 去り際に、中村はそう言葉を置いていった。それをはっきりと聞き取れなかったし、目は明らかに槌田を向いていなかったし、始業の鐘は鳴っていたから、槌田はそのまま教室を出た。

 そういえば先週、中村は壺井にノートを貸していた。なんだ、あたしがいなくったってふたりはそこまで仲が悪いわけではないのだろうか。そんな風に思う。

 ――でも、いねえときは「壺」呼ばわりだもんな。

 あさぎのクラスも覗いたが、その時、まだあさぎは来ていなかったように見えた。

 ウザいけれど、槌田は壺井あさぎのことを気にかけていた。壺井をみていると、槌田はおてんばだった妹のことを思い出すのだ。世話を焼かすだけ焼かせて、二度と会えなくなった。

 だから、あさぎがまとわりついてくるのをほんとうはやめさせたくて仕方がなかった。槌田は女々しい気持ちになんか、なりたくなかったから。勉強を見てやりたかっただなんて、後悔してる自分が心底嫌いになりそうだったから。

 

 二限目の授業が始まる。

 いけ好かないタッパのメガネ女が座っていない左側から日光がよくあたる。だから眠くなる。いや、左側だけでもなくやたらと教室がスカスカだ。体操着を着たクラス委員長の鷺沢が槌田に声をかけた。

「槌田さん、次、体育よ?」

「ああ。そっか」

「槌田さんは重いんだっけ? 休んどく?」

 腹をさすりながら、気の回る委員長に返事をする。

「まあな、休んどくわ。行かなきゃ駄目か?」

「いいわよ、言っといてあげる。嫌でしょう?」

「ありやとー」

 さすが話が早い。だが、鷺沢委員長は一瞬不思議そうな顔をした。なんだ、感謝の言葉なんて珍しい。鷲沢はそんな軽口を叩いても良かった。しかし、そうしなかった。月に一回くらいしおらしくなったってなにをか悪いことがあろうか。よく知らない委員長に軽口を叩かれたりしたら虫の居所が悪くなることだってあるかもしれない。だったら、触れてやらないのがオトナというものだろう。そう思ったのかもしれなかったから。鷺沢は一言だけを足した。

「保健室、要る?」

「いらね」

「そう、お大事にね」

 槌田は鷺沢の社交辞令を聞いて笑みを返す。そのときはもう鷲沢は背を向けていて、友人と一緒に体育館へ向かうべく廊下へ出るところだった。

 槌田を残して教室には誰もいなくなった。今日に限って、誰もサボらなかった。つまらない。愚につかぬ恨み言を側溝に流し込もうとしても、誰もそれを聞いてくれはしない。

「――ん」

 そして、ふと気付いてしまう。

 槌田紅実は今、こんなにもさみしい。

 

「――ばッからし」

 

 スカートなんて気にせず、足を机の上にのせて、

 廊下に吐き捨てずには、居られなかった。

 

 

G チョコレート・ゲート/4

チョコレート・ゲート/4

 

 夢のように明るい通学路だった。電車でまどろむうちに、夢のようにおぼろげな記憶になってしまっていた。けど、先輩の白い指と不思議な言葉、甘い声、眠そうな目、緑青の髪、チョコレートの香り。そのすべてに愛された。片岡千代子はまさに、天にも昇る心地だった。

「ああ、世界が輝いているだなんて、ひどくバカバカしい言葉だと思っていたわ……!」

 昨日までは、家を出たとたんにその空気がいやなものに思えたのに。他人が吐き出した空気を峻別する方法をずっと考えていたのに。だのに今朝は、汚らしく臭い唾液を吐く隣家の駄犬すら些末な事に思えた。あの犬を呼吸できないようにしようとすら思っていたのに!

 甘い接吻がよみがえる。飄々とした、それでいて力強く響く声が囁く。昨日、先輩はどの駅で降りてしまったのだろうか考えているだけで胸が苦しくて眠れなかった。名前を呼ぼうとしても、教えて貰っていない昨日の愚かな自分を火あぶりにしてしまいたかった。

 片岡千代子は今までそうしてきたように、仮の家から孤独な一歩を踏み出す。しかし、昨日までの重く沈むような一歩ではない。世界が敵でも、どうということはない。

 決意と目的があれば、進む道は、こんなにも明るいことを知った。そうだ、今日は――

 

 ――先輩を捜しだし、名前を聞くのだから。

 

 

 千代子は自分でも、脳天気だったのだろうと自省する。昨夜の異様な出来事をもっと恐れるべきだったのだ。けれど、もはや後の祭だった。

「は……はっ……」

 千代子の中で情動が渦巻いていた、チョコレートの香りが辺りに渦巻いている。昨日の電車の中での先輩との情事やキスの時と同じ香り。そして、あの時にはじめて目覚めさせられた甘い劣情が千代子を支配していた。問題は、ここが自室でもなければ二人きりの車両でもなく、絶賛芋を洗い放題な通勤電車の中だということだ。

 ――これは、一体、なんなの。

 何がスイッチになってしまったのか、この香りは関係があるのか、劣情が先か香りが先か。電車の振動、自分の心臓の音、そして、無遠慮に千代子の体をまさぐってくる同乗者たち。

「――止しなさ……い、あ、もう……触らない、でッ……!」

 か弱い声は制止に届かない。耳元で「誘っているんだろう?」なんて囁く強者までいる始末だ。まったく、これだから男は汚らしいとばかりに睨め付ける。けれど、昨夜までの千代子ならその下顎に掌底が入っていたところなのに、いいようにされるがままだ。通学電車であるから、きっと見知った人もいるに違いないのに、誰も止めようとしない異様さ。

「~~~~~~~~ッ!」

 覚えたての千代子にまだ強すぎた刺激は、声にならない嬌声に変わる。正面斜めから胸の中にナマで手を入れ、千代子を自分に引き寄せていた男性はその声に我に返ったのか、足と体を横に退けた。支えを失った千代子は、その影にいた小さな同級生の上に倒れ込んでいった。

 千代子の体を蹂躙していたすべての肉が一斉に離れていった。その、倒れ行くほんの一瞬の間隙にぬるりと産まれたものがあった。いや、それはずっとあったものだ。刺激が失われることによって、空虚はその存在を自覚させてくる。寂寥。骨が、臓器が、脳が、体中を流れている醜い血の群が皮膚と粘膜がより強い刺激を求め「さみしい」と大合唱している。

「――か、片岡さんんんっ?」

 覚えのある声だ。千代子は淫欲に正気の殆どを支配されながらも気丈を装う。その声が言うがままに地べたに落ちた体を立て直し、浮かされた体温に散らばってしまった正気を、やっとのことでかき集めた。

 声をかけてきた少女はまだ倒れている。倒れた対戦相手に手をさしのべるのは道理だから、したがって千代子はそうした。少女は差し出した手を取ってくれない。

 ――早く手を取ってくださいな、ウスノロ。

 なんてすっとろい。ああ、これは昨日突き飛ばした同級生だ。だから怯えているのだろう。観察すれば、臆病を含んだ瞳に千代子の顔。そこには、今にも涎を垂らしてしまいそうな、だらしのない、しまりのない、とっくに溺れ果てた女の顔が映っていた。

 刺激を期待している、牝の顔が。

 乱れた制服が示すように陵辱に甘んじながら、嫌悪感を覚えていたはずなのに。昨日の、甘い情事を思い出しながら、どうにか耐えていたはずなのに。体の熱も、緩んだ口も、甘い匂いも、千代子が誰彼かまわず発情してることを証明していた。なのに、誰もこの体に触れてくれようとしない。あと、あとほんの一押しで、素晴らしい恍惚にたどりつけるはずなのに。

 ――先輩、ごめんなさい。

 焦らし上手がやっとその手を取ってくれた。期待以上の電流に手先がしびれる。その磨耗は瞬時に分裂し、千代子の体の中で繁殖する。耳、鼻の奥、首と肩の境目、背骨に沿った内側の線。すべての神経をかじりながら、千代子の奥を侵略し、やがて発見した未踏の鉱脈に、見境も容赦もなくその鋭いくちばしでもって、楔をしたたかにうちつける。

 千代子は腕の中にその小さな肉を抱きしめる。抱擁せずには、体の中で次々と噴出してくる情と熱の逃がし場所を見つけることができなかったから。その逃がした場所は、何故か、よせばいいのにまた強く千代子の体に刺激を与えて、安寧に満ちた呼吸すら許さない快楽の連鎖を容赦なく産み落とし続ける。

 チョコレートの香りが、一層強くなる。痺れる思考のどこかで、追いやられた理性が現状を把握しようとする。その健気な考察は、いつ強烈な刺激にかき消されてしまうかもしれなかったけれど。このチョコレートの香りは、先輩がさせていた香りは、キスした時に流し込まれたこの香りは、まるで自分の体にその居を移して、こんなにも、自分の体を、世界を作り替えてしまったようではないか、と。

 自分だけではない。衆人が、サラリーマンが、老婆が、クラスメイトが、この異常な靄に影響されて、浮かされた目をして、粘つく視線で千代子を舐るように眺めているような、そんな視線を体中に感じて、千代子の体は快楽を求めて痙攣を続ける。理性は影に隠れて、ずっとそんな自分の体を俯瞰している。こんな体にしてしまった先輩のことを思い浮かべている。

 ――こんなに心地よいのだから。ああ、この腕の中にいるのが、このちんちくりんではなく、先輩だったら、どんなに、どんなにか幸せだったろうか。どんなに心おきなく貪ることができていただろうか。歯を食いしばって耐えたりせずに、舌を差し込もうとしただろうに、邪魔な衣服なんか、脱がせてしまってくれとお願いしていただろうに。

 

「片岡さんんん、大丈夫だからねえええ。もうすぐ駅着くからねええええ」

 

 やさしく頭を撫でられて、先輩を幻視した千代子は絶頂に達した。

 

 やがて、聞きなれたアナウンスが流れる。抱き合う二人の同級生をよそに彼女たちは、千代子のただならぬ様子に声をかけられぬまま、たまたまそばにいた学友同士、その様の怪しさについて歓喜と羞恥と興味を混ぜてささやきあいながら車両から降りていく。同じく熱に浮かされたものたちも、自分には関係がないことだと言わんばかりににやけた笑いを浮かべながら。

 戸が閉まるすんでのところで壺井あさぎが降りていく。その手の先には、根の生えたように動かなくなった千代子が半ば引きずられるようにして、どうにかホームに倒れ込んだ。

 恍惚のさめやらぬ頭で、あふれ出した粗相を吸い取りきれず不快をもたらす下着を認めながら、片岡千代子はぼおっと考えている。あんなに快楽をむさぼったのに、まだ消えぬ疼きを治めるためにどうすればいいものか考えている。

 

 飲みきったはずのトマトジュース缶の内壁にこびり付いた果肉をこそげとる方法を、

 ずっとずっと考えている。

 

 

 理性と魔力をたらふく吸った靄が、千代子の中に帰っていった。

 黄色い線の内側に、雫が落ちていく。

 

F ペイル・ペリセイド/1

ペイル・ペリセイド/1

 

 壺井あさぎはちっこい。ちっこい以前にとてもやかましい。そしてやたらと動く。授業中でも何かにつけ動いていたがる。ネズミとかリスみたいな小さい動物はでかい動物であるところのゾウとかクジラにくらべてせせこましく動き回る。動き続けていないと、常に餌を得る為に動いていないと死んでしまうから。もちろん、人間においての大きさの違いなんてきっとそんな大したものではなくて、動かなくて死んでしまうなんてことは無いだろう。そんなことはいくらおバカの壺井あさぎでもわかっている。

 でもあさぎは声を出す。大きくリアクションを取って自分の存在をうざったいくらいにアピールする。そうしなければ、自分が消えてしまうとでも言わんばかりに。それは悲鳴のように。叫べば叫ぶほど、人はその叫びに耳を傾けなくなるものなのに。

 あさぎには友達がいる。クミちゃんとシノちゃんだ。シノちゃんはシノちゃんって呼ぶとなんでか怒るし、たぶんあさぎのことを好いてくれちゃいないから、なるたけ中村さんって呼ぶのだけれど、そういうのって他人行儀で好きじゃない。ともかく、これから仲良くなればいいのだ。クミちゃんとだって、合同体育の時に暴走していたあさぎを叱ってくれたのが最初だ。

 あさぎがはしゃぎ回っていたところを飼いウサギのごとく簡単に首根っこ持ち上げられて、お尻パーンされて「おまえうるせー」と怒鳴られた。その時はクミちゃんのことなんかぜんぜん知らなくて、あさぎはきーっと癇癪を起こした。みんな「こわーい」って言って「調子乗りすぎ」なんて声がかすかに聞こえた。あさぎは、叩かれたお尻がもう痛くはなかった。

 次の休み時間、暴力女が廊下で窓を開けて空を見ながらぼーっとしているのを見つけた。よかった、教室の中じゃなくてよかった。あさぎはとてとてと隣にすり寄ってみた。

「なんだてめー、うぜーぞ」

 口汚くても、拒否はされなかった。

「…………」

 あさぎは何も言わずに、見上げてみた。

「さっきのはてめーが悪いんだぞ、うぜー」

 あさぎはそれでも無言で、にへらと笑ってクミの横に頭を寄せる。騒いでいない時間がないあさぎを知っている級友が居合わせたら、保健室に放り込む程のの異常事態。

「……ンだよ、あっちィーよ、マジうぜーぞ。なんだよ」

 言葉のぶっきらぼうさと裏腹に、あさぎはクミちゃんにぐしゃぐしゃと髪をなでられた。何も言ってないのに。「うぜー」とは言われても「あっちいけ」とはいわれなかった。

「んだよ、なに見てんだ」

 クミちゃんはわかってくれているのだと思った。だってあさぎはずっと叫んでいた。ずっと大きな声を出して、大きな仕草をして騒いで騒いでやっと誰かが疲れたような声で「あなたはいったいなにがほしいの?」と聞いてくるのだ。そのころにはもう、なにがほしくて騒いでいたのかなんて忘れているに決まっているじゃない。みんな意地悪だった。でも、クミは意地悪じゃない。話す前に、騒ぐ前に、わかってやれると言ってくれているのだ。

 よかった、まだあさぎは頑張れる。声を涸らさなくても生きていけるんだ。

 その休み時間のあいだ。ずっとクミの手の中で頭をなでられていた。本当に珍しいことに、その休み時間の間、壺井あさぎは一言もしゃべらなかったんだ。

 

 

「ひぁぇえええああああっ?」

 壺井あさぎは、ちっこい。

 だから、駅で急停止したときだって、人に流されてしまう。足が付かないこともある。

 だから、自分の倍ほどもある――本当のところは倍もあるはずがないので、せいぜい三割増程度の――同級生の体が、床に落ちていくのを止められなくても仕方のないことなのだ。

「むぎゅううう」

 だから、声を上げてもつぶされてしまう。あさぎはご丁寧に自分で効果音を発しながら地球の引力がいかに残酷かをその身で知る。背中から甘い香りを放ちながら落ちてきたのは女学生だった。その細く不安定そうな長身の身体を支えようとして一緒に倒れてしまいながら「あ、昨日あさぎをはったおした片岡さんだあああ」とやっと気付いた。

 学校駅まではまだすこし、朝の電車は『お客様体調不良』を発動することなく運行を続ける。

「――か、片岡さん? 片岡さんんん?」 

 声を掛けてもぐったりしていた。片岡千代子の体は重かったけれど、タッパから想像される重さよりははるかに軽い。そして香水か、薄くチョコレートの香りがした。

 ――ざわり。

 あさぎの胸がにわかにざわめく。それはその香りの所為なのだけれど、あさぎにはそれが原因であることはわからなかった。そんなことより、千代子の体を――支えきれずに床に叩きつけられてしまった千代子の膝とかそんなところを気にしていた。

「ね、ねええ、大丈夫うう? いたくないいいい? すいませええええん! 誰かああ!」

 電車の中でもあさぎは声のトーンを落とさない。見ると千代子の衣服は非常に乱れている。胸元ははだけ、スカートはずらされている。まわりの乗客は――なにか後ろめたそうな、キツネに摘まれたような顔をして声も手も貸そうとしてなかった。

「なによおそれえええ!」

 あさぎは周囲をキッと睨む。その中には同じ制服を着ている学友達も居る。こんな辛そうにしているのに、彼女はビョーキっぽいところあるから電車とか苦手なのをみんな知っているはずなのに。確かに片岡さんはキツいけど、こんな時にまでハブるつもりなのか。

「……だ、だいじょうぶ……だから」

「片岡さんんん!」

 千代子が言葉を吐き、それを聞いたあさぎが破顔する。ともかく意識があれば大丈夫だろうとあさぎは思う。同時に自分の中にある罪悪感に気付いてそれをナイナイする。実はさっき、一瞬、手に力を入れるのを一瞬ためらったのだ。昨日の放課後のこともあって、千代子の体に触れるのが怖かった。だから、膝を打たせてしまった。

「ひ、ひざとかああ……その……服とか……だいじょぶ?」

 あさぎは目のやり場に困っている。気付いてみれば、熱でもあるのかと誤解してしまそうなほど、扇情的な身体だった。目を逸らしたあさぎの頭上には、週刊誌の下品なあおり文句がこれみよがしに靡いている。「わがままボディの戦略! エロ女のこのポーズはヤれる!」あさぎはまるで、男子高校生みたいにツバをのみこむ。同性の、同級生のあられもないその姿をあてはめてしまう。それは自然に、周囲の無関心な群れの態度の理由に繋がっていった。

「――かっ、片岡さんんんん! もしし、もしかしてええっ」

「ふ、あっ……ご、ごめん、なさい……」

 肩を掴むと、なにやらほんのりと熱っぽい声と共に謝罪されてしまう。眠そうにゆらゆらと首を揺らすと、やはり焦点の合わない目を泳がせながら呟く。

「え……――ううん? なんでもないのよ……なんでも」

「ほ、ほんとおおお……?」

 あさぎはその言葉を、疑念の先に予想されるものを飲み込む。二人はまだ床に座り込んだままで、それは相当に異様な光景だった。傍目には人の波に押されてバランスをくずした学生程度にしか映っていないから? そんなわけあるか、片岡さんは、なにかされてしまってたんだ。

 人々の横顔を詰る視線で追っていると、千代子がすっと顔を上げてあさぎを見た。

「あ、片岡さ――? た、立てる?」

 ゆっくりと。千代子は床に手を付きなおすこともなく、誰かの手を借りることもなく、ゆらり体の重心を動かして音もなく立ち上がっていった。電車は走っているのに、その力の所在を感じさせることのない優雅なたたずまいに見えた。艶をふんだんに含んだ漆黒の髪が踊る。

 今時黒髪とかどうかしてる。女の子はたしなみとして多少なりとも色を落とすものだと、あさぎは知っている。学年に何人かいる黒髪の子たちの黒髪は決して美しいとは言えない。

 しかし、今日の千代子のそれには価値が、威厳があった。昨日までの千代子がそうであったか定かでないけれど、メイクの跡があり眉も整えられている。黒髪は深い艶と闇をもって、波のようにうねり、制服の後ろで凪を保っていた。

 けれど、なにより目だった。とろんと泳ぎながらも、何かを求めているような潤んだ目で、笑ってあさぎを見下ろしていた。それだけで、無性にドキドキさせられてしまった。

「手を、貸しましょうか?」

 千代子の差し出した手にあさぎは尻餅のまま頷こうとして、躊躇う。

 千代子の目はまばたきの度にぐるぐると移動し。息も頬も熱を持っている。あさぎはいつもだったら考えたりせず「ねーねーねーもしかして、風邪でもひいているの片岡さんんんんっ!」と車内であることも省みず、気軽に、ゴールの途中まで並べられたハードルをなぎ倒しながら爆走して痛いツッコミを貰うパターンなのに。「ね」の字も発せずにいた。

「――――はい、遠慮なさらないで」

 返事のないあさぎの前に、手が差し伸べられ続けている。この行為がそもそもおかしいのだ。あさぎは知らない振りをしていてもちゃんと知っている。千代子が他人と手を繋いだり、電車の席に座れないくらいビョーキな潔癖があることを感づいている。隣に座っているはずのクミちゃんが、そのことに頓着してあげないのも知っている。だから、昨日のあさぎがふっとばされたのは当然のことなのだ。

 でも、あさぎは、片岡千代子と友達になりたかったんだ。だから。

「あ、ありがとお……おおぉ」

 胸の奥で鳴る警鐘をシカトしてあさぎは、差し出された手を握った。おっかなびっくり握り、ぴょんと自分の身を車内に立てる。ツーテールが元気に跳ね終わる。周りに存在した緊張が解けて人の群の輪が縮むと、あさぎは千代子の腕の中に収納されてしまった。

「お、おはよううう。片岡さんん」

 千代子の体に包まれたあさぎは彼女が震えているのに気づいた。あさぎは、さっき見えた千代子の表情や態度は、彼女が持つ不器用さ故の苦悶の現れではないのかと思った。自分のように考えたこの潔癖症の少女が絞り出した、ささやかな勇気ではないのか、と。

「ええ――おはよう、ございます」

 なら、同じだ。車内で悪戯をされて、こんなに震えて、孤独を味わってなお、毅然を保とうとするデカいくせに健気な少女を助けられるのは自分ではないのか? あさぎは内なるその声に押される。――そうだよ、だって、手を取ったのはこの壺井あさぎなんだから。

 繋いだままの手をぎゅっとたぐり、その華奢に身を寄せる。

「――――~~っ!」

「どうしたの、どっかいたいいい?」

 ふるふると首が横に振られる。

 やがて、千代子の手があさぎの背中に回されて、背丈の差の分だけ抱えるように抱きしめられる。それはいくぶんかキツくもあったけれど、じぶんがよしよしをしてあげられているかのようにあさぎには感じられた。言葉にしなかったけれど「安心して」と言ったつもりで。

 

 自分がかつて、クミちゃんにしてもらったように。泣くほどうれしかったように。

E パーニシャス・パープレックス/1

パーニシャス・パープレックス/1

 

 中村紫乃は、最近やたらと腹が減るのだった。

 腹が減るということはエネルギーを使っている証拠で、良い代謝が自分の身体で起こっているのにまず間違いないはずだ。しかし、どうも力が余りすぎてている。うたたねした二限目には、マーカーを二つに折っていた。そんなところに回されるなら、もう少し出るところが出てきても良いだろう。と、男装とも見まごうばかりの自分の身体のラインに悪態をついてやる。

「ふん、ちゃんと餌やってんだから。頼むわよ」

 言ってからもう一言付け足す。

「……ほどほどにね」

 本気で悪態をつくほど、紫乃は執着があるわけではなかった。ただ、食事と言う行為に必要性を感じていない以上、効率の悪い行為に金銭を費やさせられるのが癪に触っていた。

 腹が減るのはここ最近のことなのだが、なにが原因かはよくわからない。部活はおろか、スポーツを自主的にやっているわけでもない。生理周期とも特に関係ないような気はしたが、データを取っておく必要はあるかもしれないと紫乃はぼんやり考えていた。

「――牛丼、ねえ」

 紫乃のまなざしは駅前の牛丼チェーンの店内に注がれていた。ワイシャツの前を開け、髪の色を抜いた汗臭そうな男子高校生たちが、牛丼屋の一角を支配している。

「――食べたいなぁ」

 そう、嗜好も変わってしまった。なにしろ肉を食いたいのだ。牛・豚・鳥・羊・兎。血の滴るような新鮮な肉にかぶりつきたい。数週間前はビスケット栄養食を囓り、昼休みが終わる前に塩飴を一つ舐めればそれで何もかもが足りていたのに――。

 しかし、女子学生の身空でひとり牛丼チェーンに入ることなど出来るはずもない。いや、気にせずに入る同輩がいることは知っているけれど、紫乃のような性根にはいささかハードルが高い。なにより――本当に欲しいのは、そんな紛い物ではないのだと、紫乃の体は叫んでいた。

「やっぱり、一緒に帰れば良かったか……」

 後悔先に立たず、早めに別れた友人の顔を思い浮かべる。

 ――槌田紅実。あのきっぷのいい同級生となら、牛丼屋だって気楽に入れただろう。けれど、こんなくさくさした気分の時に、彼女のオマケと一緒に居たくなかったのだ。そう、壺。壺井あさぎなんて名前はあるが、あんなちんちくりんは壺呼ばわりで充分だ。やかましいしうるさいし空気は読めないしで、いちいち癇に障る。紅実の手前、友達付き合いを装ってはいるけれど、言葉を交わすほどにストレスがたまる。

 先々週貸したノートだって今日も返ってきやしなかったのだ。二週間もの猶予は必要なく、二時間ばかり教科書とにらめっこすれば、誰にでも達成できる簡単な課題なのに、あのツボは「ええええええ、こんなのむりいいいいいねええええええシノちゃんんんんん! たっすけてえええええええええええ! ど―――せおわってるんでしょおおおおおおおおおお!」と。

「あ――――ッ! もう! あンの!」

 その甘えた態度におぞけを感じて、とうとう我慢出来ずにいつもの通じぬイヤミを通り越して、一発体に教え込んでやろうとした時、ふと紅実が不思議そうに見ているのに気付いて、毒気を抜かれてしまったのだ。ポケットから取り出した懐中時計は、予備校の始まる時刻が近いことを表していた。

「コンビニ――かなあ」

 時間がないからダメなのであって、牛丼屋に入れないからじゃない。と何を説得したいのかわからない言い訳を呟き、紫乃は予備校方面の電車に乗った。

 

 

 甘い匂いで、目が覚めた。

 中村紫乃は端の席の無機質なパイプに寄りかかって寝ていた。紫乃の通うターミナル駅の次の駅は、それまで乗ってきた乗客ががらりと変わる人の少ない区間だ。

「あれ?」

 しかし、この時間に人の気配がしないのは異常だった。右を見る、隣の車両には人がまばらながらも居る。この車両にはなぜか自分だけ。左の車両が最終車両。そこには――。

「――――うぇっ?」

 目を疑った。ついでに正気も疑った。コントかマンガみたいに目をこすって二度見した。それでも気の迷いでもまやかしでも、いかがわしい映像作品のゲリラ撮影でもないらしかった。

 少女がくずおれていた、その横で黒いセーラー服の少女がくずおれている少女のスカートの中、その柔肌に手を――差し込んでいる。

 うわ、ヤバイ。ヤバイ。ヤバイってえ。と三回繰り返す。好奇と興味の色が薄まっていく。何度繰り返したって、電車の中で繰り広げられているのは、あからさまな女性同士の濡れ場であった。紫乃が何度頭を回転させても、ラブホテルに迷い込んだわけではなさそうだった。

「だ、誰か、」

 人を呼ぼうとして声が止まる。確認のためもう一度。ドッキリだったらコトだ。余計な事というやつを紫乃は嫌うから――なんというか――同意の上だったら、まあ、不干渉ってやつを貫いても良いんじゃないかという日和見的な考えが、紫乃の思考を支配しかけていた。

「……あ、れ、片岡……?」

 黒いセーラー服でない方の少女がくったりと頭を上にあげた。槌田紅実の隣という至極羨ましい席にいる同級生。いつも彼女と位置を替わって欲しいと願っているが、そんなワガママが通らない事も紫乃はちゃんとわかっている。にもかかわらず、あからさまに紅実を避けている彼女を、やはり紫乃は好きにはなれなかった。

 だが――。それにしたって特に個人的な恨みがあるわけではない。どこの制服とも知らぬ黒塗りの少女に――その――イタズラされて人事不省に陥った同級生を、他人ならいざ知らず、放っておくのも人の道に反するように思えた。

 それに、どういう理屈か人が入ってこないこの二車両に助けを呼び込み、同級生が晒しているこれほどの痴態を衆目に晒すのも気が引ける――。できるなら、穏便に。穏やかに。

「――よし」

 紫乃は当該車両に乗り込み、黒いセーラー服に、思い切って声を掛ける。

「ちょ、ちょっと、あなた! それあたしの、その、えっと友達なんだけど――」

 どうにも間抜けな名乗りだが、勢いを付けて紫乃は続ける。

「あなた、何――?」

「――――ン?」

 紫乃はその光景が纏う異常さに、声を掛けたことを後悔した。やっぱり余計な親切心など出すべきではなかった。黒いセーラー服の目は普通ではありえないほど不穏な眼光を湛えていたし、髪の毛は黒だと思って近寄ってみれば深い緑色をしていた。

 ――イカれてる。

「キミをマネいたオボえがない――!」

 そう大仰な、海向こうの人みたいに大仰なジェスチャをして、緑青の目がぱちりとひとつ瞬くと、その鮮やかな目の色は落ち着いたように見えた。

「――あ、あんた何、鉄道警察がすぐ、来るからね! 大人しくなさい!」

「オビたえいのはこっちだよ! キミ! そうか、キミはカレのコレだろうか? あはは! ボクはこの遊びに興じすぎたのか! 油をダンじたのか! それともキミ――」

「え、ええっ? なに、なにあんた!」

 黒セーラーはひょいひょいと紫乃の周りをスキップして、意味の取れない言葉を紫乃に投げつけ続ける。どうやらその言葉は投げつけることだけに意味があるのか、紫乃に意味が取れるような内容ではないことを察する。

「そういうの、イライラするんだけど! その子になにしてくれてるのよ!」

「キミは――、カレのナニになるのかなあ!」

 すこし烈しくなった言葉にも怯むことなく、朗々と黒セーラーは跳ねる。

「ナニって……なんだろ……ああ、クラスメイトよ! クラス違うけど! 同学年の!」

「そうか! いい、それはカマわないよ! 蛍雪のともがらもきっと麗しいだろう! でもね、ええと、キミ! キミの名前はなんだったかな! そう! そんなことよりボクの気になるのはそんなことじゃない! ああ、この線を、枠を、どうしてニジることが出来たのか――!」

 黒セーラーは一歩下がる。静かに響く声だけれど、でも明らかに叫び騒いでいるこの車両に、二つ向こうの車両は気付かない。それどころか、あれだけの乗車率なのに、誰ひとりとしてこちらに移ってこようとしないし、気付こうともしていないようだった。

 そういえば――駅は一つ通り過ぎて、紫乃の降りる駅は過ぎている頃合いのはずなのに、まるで駅が無くなったかのように止まらない。

「な――なんなの――……ここ、どこなの?」

「キミは知らずにその足を踏み込み、険をオカさずにはいられない毒にアタるのかな! コクるのみだ! 石橋はタタくものだ! コワしちゃいけないけれど、慮るまでもないからね!」

 黒セーラーの隙を突き、紫乃は片岡の横たわっている座席の傍へ駆け寄り、声を掛けた。

「片岡ッ! 起きてよ! 逃げるよ! ほらぁ!」

 片岡は、肩を揺さぶっても起きる気配はなかった。紫乃は舌打ちを一つ。長身の片岡を背負って逃げるのは難しい。肩を触った手がしっとりとした。

「冷たっ……うわ、汗? すごっ」

「カレはずっと、気をやっているから! ものすごいミダらだった! トロけるくらいに!」

 気をやる。とはなんだ。最初に見たあの光景。スカートの中に差し入れられていた指――。

「あんた――、な、ナニ? 色情狂ニンフォマニアかなんか?

 紫乃は怯えを覚える。相手がひとりで、女子学生で、だから自分と対等だろうなんてとんでもない。少し頭が弱いのだろうと判じ、どうして後一歩踏み込まなかったのか。そうすればあの言葉に辿り着いたはず。「紙一重」だ。常人のあずかり知らぬところで音もなく巡る強靱な線。

 紫乃はそれの正体を知っている。――狂気。

 紫乃の喉が、口腔に溢れていた唾液を飲み込む。 

「あはは、キミはなぜトドまっているのかな――! なぜ、わざわざ声を掛けたのかな――! どうして――ボクの心臓に杭を突き立てなかったのかな――――!」

 黒セーラーは笑っている。指の銃で自分の胸を指している。もう片方はポケットに。

「なに言ってるの、あんた、おかしいの?」

「――学校ではナラわないのかな! 先手必勝!」

 その声に呼応し、突然、紫乃の目の前がぐにゃりと歪んだ。

「――うわッ!」

 跳ねて、後ろに跳び、尻餅をつく。

 黒セーラーが二人にふえて、世界が虹色に歪んでいた――ように見えた。

 ――が、紫乃にはすぐにネタが割れた。何のことはない、ただの石鹸水の膜が張られただけのことだ。デコピンで目の前の膜を割ると、黒セーラーは駄菓子屋で売っていそうなシャボン玉セットを持って笑みを湛えていた。

「ほうら、やっぱりカクしていたじゃないか!」

 カンに触るしゃべり方だ。おちょくられているようで、気分が悪い。

「あんた――何者?」

「――? キミと、同じだよ!」

「……あんたみたいなのと、同類になった覚えはないっ!」

 紫乃の左手は自分のバッグの中に差し込まれ、催涙スプレーに辿りついていた。

 紫乃の計画はこうだ。やたらと長い駅間距離だけど、どこかで必ず止まるはずだ。その時にこの化け物に、これを吹きかけて、人を呼び、できれば片岡を連れて開いたドアから逃げる。

 逃げられなければ、この黒セーラーが、一線を越えないのを願うしかない――。

 シャボン玉が二人の間を横切っていく。

「なるほど、瓦斯ガスか! それとも柑橘シトラスの風景をトドけてくれようとしてるのかな!」

「なっ――!」

 バレている。いや――、そんなのはハッタリだろう、推理の範疇だ。しかし、油断を討ち取れなくなったことに、紫乃は歯がみをする。

「キミのほうが利しているだろうに! 乙女のようにオビえをカクさない! なぜキミはサソうのだろう! なぜ石をマモらないの! そんなにチヨコがキラいなのかなあ!」

 紫乃はその物言いに違和感を覚える。片岡の名前を知っているらしいこともそうだが、それだけではない。もはや違和感なんて概念そのものが黒いセーラー服を着ているごとし目の前のこいつは、しゃべるほど、何かを勘違い――紫乃と黒セーラーとの間になにかの共有情報があるべきものとして話を進めているような気がしてならない。

 そして、この黒セーラーはそのありもしない共有情報をこそ、怖れているのではないか――。

 喉が鳴る。

 紫乃は口角を片方だけ上げる。

「ほら――なんで、やっちまわないのかなって。そいつ」

 そして、精一杯悪どく演じる。とにもかくにも情報が欲しい。まったく駅に着きそうもないこの列車と、無様な片岡と、それらの原因であるのだろう黒セーラーとを繋ぐものは、一体全体、何だというのだ。

「――ボクも策を失うことはあるから!」

 自嘲だ。そこで紫乃は察してしまう。わからないけれど、想像できてしまう。

「そんなのって、さ――勿体ないじゃん」

 紫乃は自分の適応力に、柔軟な思考に感謝する。こんな状況を待っていたと言わんばかりに脳が働く。謀るときは、相手の智慧を量るべし――。思わせぶりな言葉で、思わせぶりな言葉を引きだして、推測しなければならない――。

「ボクが捨てる神なら、キミはヒロうつもりかい! あはは! ボクができなかったことを、キミがギョするのも、悪くないだろうね! 今のボクにキミをトドめるのはできないから! あはは、なにせ捨てたばかりだから! ミチていないのはイナめない!」

 ビンゴ――。

 ヤツは後ろに下がった。この黒セーラーは怯えている。紫乃は奥歯を噛みしめる。――しかし、それがわかったところでどうする? 紫乃にこの異常者を追い返し、安全と平穏を取り戻すだけの力は催涙スプレーにも、紫乃本人にもありはしない――。

 ――ないなら、そう見せるまで。

 紫乃は不敵に笑う。これは虚勢だ。こめかみをズームさせてみれば冷や汗が流れているし、くるぶしは震えているし、胃の内壁は酸で爛れてしまっているのだ。

「はン、あなたが捨てた物を、どうしてあたしが拾わなきゃいけないのよ――」

 それでも、強がる。

「あはは! まったくその通り! そしてボクをネラう! 正しいよキミ! この土をニジるキミの方が明らかにウバうに長けているだろうからね!」

「そうよ、判ってるじゃない。おとなしくなさい――!」

「でもさ、キミ――それでは腑にラクさないだろう!」

「なにが、よ」

「なればこそさ! ボクは不意打ちにサラされていなければならなかった! キミがボクを見ノガす理由はどこをサガせばシマってあるんだろう!」

「――それ」

 未だに起きやしない片岡を指す。

「あはは、そうだったね。キミとカレのなかだちにトナえたい暗がりもあるけれど! それはボクを説くに相応しい!」

「わかったんなら、さっさと」

「あはは、キミは気付いているんだ。ボクらが恐れをイダいているのを!」

「じゃあ、おとなしくあたしたちを解放しなさいよ……えっと、それで、見逃してあげる」

「……キミは望みをシッしてる! ハイってきたときと同じようにするだけなのに!」

 後ろがない、と断じている割に、この黒セーラーは退かない。有利なものが攻めてこない所に疑念を抱いているのだ。それは当然のことだ。しかし、紫乃はそこを判断できてしまうこの女に、恐怖とともに、敬意が産まれてくるのを知る。

「人が欲しい物に、興味なんて、ないから」

「―――――そうなんだ!」

 アハハと、そこで笑う。紫乃はたじろぐ、選択肢をわずかばかり違えたと感じる。彼女は素直に引き下がらずに、理由をまさぐってくる。

 攻め方を変えるんだ、紫乃。と自分に言い聞かせる。そして煙に巻いてしまえばいい。誰しもが望むものを想像しろ。誰しもが望むだろう価値、そんなもの――アレしかない。

「……そうね、じゃあこれくらい、出して貰おうかなァ」

 精一杯悪い顔を作って、あくどい声で、指を三本立てて、黒セーラーの前に振りかざす。

「――んっ」

 黒セーラーの鼻が、すん、と鳴った。もう一押しとばかりに紫乃が続ける。

「これだけ出せば、見逃してあげるって言ってるのよお?」

 鼻から抜ける甘えたような声を出してみる。ドラマでだってきょうび遭遇できやしない化石みたいなセリフに反吐が出そうだった。これだけ自分を捨ててるんだから、通じて欲しかった。

「――――なんだい、それ」

 黒セーラーは語気を弱めて紫乃に尋ねる。紫乃はそれを、脈ありと――、黒セーラーが交渉のテーブルについたのだと勘違いしてしまった。

 そう、これなら。これは常に価値であるはずだ、と。狂っても、落ちても、いつなんどきでも『これ』を要求しておけば、理由として成り立つに違いない。と――思ったんだ。

「なにって――わかってるんでしょお? とぼけないでよ。オカネよ。お、か」

 最後まで、紫乃はセリフを言えなかった。

 彼女たちが棲むのは、そんな世界ではなかったのだ。

「――あははははははははっ! それはダメだよ、キミ!」

 紫乃の顔が凍り付く。不吉な哄笑に気圧されて蹈鞴を踏んだ。

「え―――――」

 頬の横を線が通り過ぎていく。一瞬後に、牧場の土がごとき味がした。バッグを盾にすると、緑色の線が頭を逸れながら走り、持ち手が切り裂かれていった。

「ひッ!」

 悲鳴とともに、バッグが床に落ちた。そこが紫乃の限界だった。悲鳴なんか上げてしまってはいけなかった。それは、さっきからずっと怯え、恐怖に晒されているのが紫乃のほうで――、目の前の得体の知れない黒セーラーに対抗する手段なんか、なにひとつ持っていないことを、証明してしまっているのだから。

「そんなものをヨクしてどうするの! キミのノゾみはそれで購える些細ではなかった! どうしたのかな! もしかしてキミ、まだ、気づいてないんじゃないか!」

 地面に刺さった緑色の枝が巻尺のように戻り、再襲。

「ッ……、砂……?」

 埃立つ地面を転がり、砂にまみれながら紫乃は考える。ここは、電車の中では無かっただろうか。なぜ、太陽の恵みを受け、バクテリアの巣になっているような豊かな土と草の香りが鉄と埃の替わりに充満しているというのか――。

「言っただろう! クギったばかりのボクも、気をアラげずにはいられないんだ!」

「――なんっ、なんなのよおっ!」

 もはや、そこは電車の中ではありえなかった。緑色の草原、緑色の木々、森、水のせせらぎ、遙か彼方に揺らめくエメラルド色した中東風情の王宮、太陽も照っていないのに燃えるごとく山吹色に輝ける空――。

「何って――! あはは! そうか、まだこれがなんなのかもワカらないんだ! ハイれどもノガれらないのはどんな気持ちだろう!」

 絵空事の如き異様な風景画の表面で、紫乃と黒セーラーが死の舞踊を舞う。緑色の線が次々と飛んでくる。それは明らかに紫乃を刺し殺すために投げられてくる凶刃――。

 そのはず、なのに。

「――遊んでるの?」

 紫乃はそれらを軽々と避けながら、小学生の時のドッジボールを思い出している。体力バカな男子の球ほど避けやすい。思考が漏れてくるから。それでも、パスを回されれば意識が逃げるから当たってしまう。同時に、どうしても自分で当てなければ気が済まないヤツの球は直線的で読めてしまう。

 今、紫乃を襲っている殺意もそんな様だった。

「あはは、キミもハヤい! こんなボクのザマをみてワラうかい! でも、籠にトラわれているのはどちらだろう! ボクの籠もクラぶるべくもなく脆いけれど! 牙なき獣はどちらが泥をススるだろうか!」

 そう――黒セーラーの言うとおりだ。ジリ貧。さっきの異様な車内でもそうなのに、この異常な空間はどこが出口なのかすらも判らない。喩えるなら絵画の中、どこともわからない地平線が永遠に続いているのだろうという感覚。目の前に何度となく迫る緑の凶刃よりも、その果てを見せぬ世界の方が紫乃の理性を蝕んでいく。

「しぶといねえ、キミ」

 焦れているのだろうか。黒セーラーはずっと笑みを絶やさない。意外そうなイントネーションを含ませて、緑色の線を自らの傍に戻していく。それら幾条もの蔦が彼女のスカートの中、襟袖の暗がりから生え、それぞれが意志を持っているようにうねうねと蠢いている。それぞれの動きを把握しようとすると、たちまち気分が悪くなってくる。

「――気持ち悪、ッ」

 悪態に無言の笑みが返り、その直後に蔦が舞う。植物かどうかも判然としないが、高速で空を切る縄跳びのごとき悲鳴を纏って、紫乃に襲い来る。

「――――はッ!」

 右手を地に付け、服が土に塗れるのも構わず気合いを入れて回転し、避ける。

「見かけに寄らないのかな――! キミみたいな枠にはカタいはずのことじゃないか!」

 それはきっと、殺す為の、息の根を止める為の一撃だった。紫乃にだってそれはわかる。なのにそんなものを避けられるのが紫乃自身不思議だった。

 顔を守るために右手を前にする。すぐに次撃は来た。

 ――見える。

「こっちッ!」

 さっきよりも速い一撃を、さっきよりも楽に避けた。地に付けた右手から熱を感じる。

「……ん?」

「……これはコマってきたね! ボクのそのトボけが偶さかであることをボクはネガうよ!」

 今度こそ苦虫を含んだような声色。けれど表情は変わらず笑みを湛えているし、攻撃の手は緩まない。――どころか、いっそう苛烈になってくる。いつ、討ち取られてもおかしくはない。

 ――なのに

「お、遅いッ!」

 紫乃は右手をかざし、果敢に言い放つ。嘘ではない、まったくもって遅く感じる。目の前の空気が――かざした右手の周囲が重く歪んでいる。この重みと歪みが、自分に利をくれている。右手が軽いのか――右手以外の世界が重いのか――。

「――はは――なんか、いけそうじゃない? これ、楽しくなってきちゃったかもっ!」

「これはもはや、タタえるべきかなあ、キミ!」

 少しずつ理解が及ぶ。右手だ。この右手が――目の前の黒セーラーに打ち勝つ力を持っているんだ。どうしてこんな力があるのはわからない、まるでマンガみたいだ。

「けど」

 とっくに、マンガみたいな状況なのだ。ならば、マンガみたいなこの状況を理解していかなきゃならない。物理の問題と同じだ。現実世界ではあり得ないことでも、そこにある定義の存在を疑っちゃいけない。観察されたことは、まごうことなき現象なのだ。

「意味を、考える――!」

 まずは現象。右手をかざすと遅く見える。実際に遅くなっているのかは判らない。けれど、この右手がキーなのに間違いはなさそうだった。

「あはは、余裕そうだね! キミ、スクわれないように!」

 黒セーラーの軽口。彼女自体は動かずに両の手をぶらぶらさせたまま、周りに侍る枝と蔦の群れを縦横無尽に操り、紫乃の心臓を突き刺そうと差し向けてくる。

「はっ」

 避ける、避けていける。避けるだけならもう簡単でかすることもない。あとは、この状況を打破しなければ根比べになる。そうすると、紫乃が隙を突かれて負けてしまうだろう。

 ――考えるんだ。

 右の拳が呼応して熱を持つ。パソコンのCPUみたいなものだろうか。紫乃は必死で考える。なにかの演算をこなしているから、自分の処理能力が高くなったりしているのだろうか? 

 ――この右手が、空間を歪ませているとしたら?

「――じゃあ、さ。試験テストしてみよっか

 紫乃は実験を志す。実験とは、自然現象から導き出される仮定を現実に移して追認してみせる行為だ。その繰り返しで人類はここまで発展したことを、紫乃は知っていた。

 ――この右手は。

「いくよっ!」

 黒セーラーが目を見張った。そのタイミングを紫乃は見逃さなかった。僅かばかりの油断があったかも知れないけれど、紫乃の決断は間違った物ではないと確信する。そのままあるじを守るように突き出された長い緑の指、その一つに右のかいなを叩きつけていく。

「――――うひゃ」

 黒セーラーの悲鳴――。悲鳴かどうかはわからないが、余裕の笑い声ではない。紫乃の右手が触れた枝は、触れた場所から破裂して消えた。正解を選んだ手応えに紫乃は昂揚する。

「――いけるっ、命乞い、しろおっ!」

 実験は成功した。想像通りのシナリオに沿った結果を得た。気の大きくなった紫乃は、形勢逆転を目指して上から目線の言葉と拳を振りかざし、敵につっかかっていく。

「――あはは! これはやられたなあ! こうまで耐えたキミの盃! なんてことだろう! でも、これ程のサカしらにボクをくれてやるのを佳しとするわけにいかないよ!」

 だが、黒セーラーの口から漏れたのは命乞いではなかった。

 そう、仮に、紫乃が戦い慣れていたら。人智を超えたひらめきを兼ね備えていたら。車両を移る時に右腕が呈したサインに疑問を抱き、そこに辿りついていれば。紫乃自身が立っているまやかしの地面にその拳を突き立てることで、黒セーラーを止めることが出来たかも知れない。

「――ツイえたね! ボクの勝ちだ!」

 だが、今度こそ黒セーラーが早かった。早かったというよりも、準備が整ってしまった。

 黒セーラーの全身に向かって、紫乃を取り残したまま世界が収斂していく。

「――あ」

 紫乃は目の前で畳まれて行く世界――さっきのシャボン玉のトリックとは違う現象だ。折り紙で丹精に作った箱庭を、赤ん坊が握ってくしゃくしゃにする。

「しまっ……」

 ――逃げられてしまう。

 そう直感できた。なんてことだ。勝てるはずだった。ここはきっと「勝たねばならない」ポイントだった。奇策は二度と使えない。彼我の戦力差は埋められない。もし、もう一度やりあったら、自分はきっと負けてしまうだろう。逃げられてしまうならば、せめて、いまの状況を少しでも頭に叩き込んでおかないと――。

 だが、それは駄目なあがきだった。演劇舞台は全てポリゴンテクスチャの切片になってかさぶたみたく剥がれ落ちていく。摂理の切り替わる瞬間、根源の恐怖が束になって免疫のない紫乃に悪夢の形を借りて襲いかかった。

「あ、あああ、ああ――――ぎ、ィ――――――ッ!」

 視神経と脳のキャパシティが焼き切れた。声を出すと精神が軋んだ。その隙間に潜む深淵の子すべてが、紫乃を一斉にのぞき込んだのだ。体内の水を一気に水銀に置き換えられたような概念や常識なんて拠所が丸ごと裏返る感覚に、紫乃の意識は耐えきれずにロックした――。

 

 

 錯乱から醒めると汗だくだった。荒い息をしながら床にへたり込む紫乃の前に、ブラウスの前をはだけ、スカートをめくり上げられたままの片岡千代子がむずがっている。

 床も天井も外の景色もいつもの車両。隣は無人だが、二つ向こうの車両には人が確認できた。

「……なに、これ」

 紫乃は片手で頭を抑え、申し訳程度に片岡の服を整えてやる。右手の熱は、とっくに治まっていた。あれはなんだったのか。生きていることとか神にでも感謝すればいいのだろうか。

 片岡は起きなかったし、さっきの黒セーラーもどこにもいなかった。ずいぶんと長い間乗っていたはずの電車は、いつのまにか進行方向が逆になっていた。時計は一時間ばかり乗っていたような針を示していて、紫乃をさらに絶望させた。

「――遅刻だわ、こりゃ」

 紫乃はうんざりして鼻息立てながら寝ている片岡を見据え、語りかける。

 「ねえ、あんた、なんなの。あれはなんなのよ。あんた、なんてものに引っかかったの? 宗教? 返事なっさいよいつまで、――なんで起きないの――起きないなら―――――食」

 紫乃は、無意識に片岡の頬に手を伸ばしていた。そこが柔らかくて美味そうだ、と――。手と同時に喉笛に口を持って行きそうになっていた。肌に手が触れ、すんでの所で正気に戻った。

「え、なに……あたし、え。やだ」

 紫乃が自分の口をその手で押さえていると、駅に着いた。

 駅につくと車両に普通に人が乗ってきた。隣の車両からも人がなだれ込んできた。「あれ、今日は空いてんなあ」なんて暢気なスーツ男性の流れを、持ち手の切れたバッグを小脇に抱えたまま強引に遡り、片岡を置きざりにして、歯を震わせながらホームに降りた。

 紫乃は傷だらけの前衛的なバッグを抱えたまま、ふらふらとベンチまで辿り衝き、くずおれる。バッグを力一杯抱きしめる。中の小さな弁当箱の角が腹に食い込む。腹が鳴いている。さっき遭遇した異常と、今紫乃を襲っている異常が、紫乃の不安を増幅してやまない。

 

 ――あんなに怖い思いをしたのに。

 ――こんなに、こんなにも、腹が減っている。