B ステンドグラス・ストラテジー/1

ステンドグラス・ストラテジー/1

 

 二年生もはやいもので三学期になった。正月も終わった。今年はお父ちゃんのところに帰らなかった。タイミングってやつが合わなかったんだ。だから年賀状が来た。「楽しくやっているか、たまには遠慮せずに帰ってきなさい」みたいな言葉が、べったりとした龍の絵の横で恥ずかしそうにちぢこまっていた。佳恋は慣れない年賀状作成ソフトと格闘したであろう父の姿を想像しながら、それを机の中にしまい込んだ。

 

 二学期の終わりよりもとことん冷えた教室。二学期の終わりとかわらない席。ランダムに決定された配置。一学期は前の席に座った子が雲脂(ふけ)症で辛い思いをした。霜の降りていそうな合板の机にスクールバッグを載せる。久しぶりの教室は、いつもよりざわめいているように感じられた。

「あけおめー」

 だれにともなく声をかける。その声は喧噪の中に埋もれていく。いつもは佳恋も挨拶なんてしない。でも、正月明けの心は少し浮ついていた。ちゃんとした挨拶みたいなことは寮の食堂のおばちゃんと交わした程度だったから、ただの気まぐれに発した挨拶だった。こうした、学園に蔓延する薄情の覆いは佳恋にとって、不思議でもあったが心地よい風情であった。

 それでも、どこか物足りなかった。

「うん」

 隣席の男子がそう返してくれる。彼は佳恋よりもう少し早く学校に来ていたようで、コートを膝の上に掛け、片肘を机についていた。その男子は自分の出した声が、佳恋に向けられるだろう他の返事に埋もれてしまうと思ったのだろう。いつもならそうだけど、今日はたまたま佳恋にアンテナを向けている仲のいい女子などいなかった。

「――あ、あれ、俺か」

 寝そべらせた腕に顔を(うず)めてその男子は佳恋のほうにようやく目を向ける。

「早いね」

「うん、いつも何時に起きてたのか忘れたし、早めに」

「あはは、あるある。私、寮だから」

 寮だから、誰かが急げば急げばいい。気楽なものだった。

「ヤズは寮か、実家帰ったの?」

「ううん、今年はやめた」

「ふーん。大変だ」

「――うん」

 大変なのかどうか自分ではわからなかったけれど、佳恋は少し迷ってそう返した。実際、往復の電車賃を吝嗇(ケチ)ったのは確かなことだったから。それはきっと「大変な」ことなんだろう。この教室の大半にとっては。

 机の脇にバッグをかけ、やっと席に座る。冷気を溜め込んだ椅子にひやりとさせられる。自分の机の上にセーターに守られた両腕を伸ばし、だらしなく突っ伏すと教室の匂いがした。休みの間に埃を吸いながら降り積もっていた霜が空気に溶けているのかも知れなかった。冬に渇かされた掌がほんのすこしの湿り気を喜んでいる。

 教室はすこし騒がしいようだった。それは佳恋のあけおめが悪意無く拾われない程度に砂を削る(さざなみ)だった。

「なんかあったの?」

「んー……? あったというか、これからある、んじゃないかな」

 隣の男子は横たえた腕に埋めたままの顔を、より深みへと沈み込ませる構えだった。握られたままのケータイの画面はとっくにスリープモードになっていた。

「寝るの?」

「寝ない、寝ても起こさないでいい、さむい」

「うん、寒いね」

「――で、転校生だって」

「ふぅん?」

「シバタ情報――つってもさ、さっきキノシタとコムギコが話してたの聞いただけだし――でも、まあ」

「火のないところにムエン仏って?」

「うん、良かったね。女子だってよ」

「えーイケメンのほうがいいなあ」

「嘘付けぇ、ヤズはそんなのキョーミ無い癖に」

 ――そんなことないんだけど。

 佳恋はそう口を尖らせようとして、やめる。軽い沈黙。男子はなくしたボールを探すため、突っ伏していた顔を佳恋の方に起こそうとして、やっぱりやめた。

 今年最初のチャイムが鳴りはじめてしまっていた。佳恋は切断された会話の先を大脳の端っこで広げてみる。

 ――二年の三学期なんて中途半端な時期に、公立でなく、私立(わたくしりつ)の門を叩く転校生。

「――ま、不思議よね」

 謎とか陰謀とかには辿り着かない程度の些細な違和感が滲む。些細な違和感というのは想像の糊代(のりしろ)を引き延ばす。糊代がいっぱいあれば、その色紙で、どんなファンタジックな生き物を作り出すことが出来るだろうか。

 

「――お」

「来たぞ」

 

 教室が静まりかえる。教室の後ろのほうにある佳恋の席からみえる教室の中身は全ての席が埋まっている。小さく纏まった賢き世界だ。満ち足りた人々が満ち足りた未来を得るために設けられた波も高くない穏やかな凪だ。

 教室の窓が開いても、エアコンが止まっても、ちょっとした停電が起きても、誰かの教科書が一冊ばかり失せても誰も騒ぎはしない。この国のどこかで一日百人のお父さんたちが自ら天に昇ることを選ぶことより、誰かが流行の風邪をひくことや、あの大学の要綱に一つ科目が追加されることにわずか(どよ)めく静寂(しじま)なる世界。

 満を持してエイリアンが訪れる。

 

 ――ハジめまして。

 

 担任が新年の挨拶と連絡事項を前置きとしている間も、明らかに廊下に待たされているその誰かの気配をクラス中が探っていた。担任はうんうん頷き廊下にむけて手招きをひとつした。廊下に待たされていた転入生が敷居を跨いだ。

 それは果たして女子だった。くろいくろいセーラー服だった。

 異変はすぐに訪れた。エイリアンが教卓の横に立ったとき、足を揃える位置を直したとき、既に黒板には名前が書かれていた。担任は微動だにしていなかった。『真田瑛子』と記されたその字は少し丸みを帯びていて、しかしイリとヌキがはっきりとしたものだった。音もなく、名前が刻まれていた。

 教室はわずかにざわめく。「あれ、書いてあったっけ?」「バカ、手品じゃねえの」「いや、俺寝てたし、興味ねえし」「バッカ、見ろよマジかわいくね?」「そんなお前の方がかわいいよ」「止めろそういうのマジ殺すぞ」「おいお前らうるさいぞ、いまプリーツのシワ数えてんだ!」

 男子は総じてバカだった。

 

「ボクは、真田(さなだ)瑛子(えいこ)とモウします!

 

 細められた目に喋っていたクラスの男子五人が射すくめられ過呼吸を起こし、発せられた語尾の震えた声に女子二人が血中の二酸化炭素濃度を上昇させた。濃い緑色にも見えるその髪にやられた男子は卒業の日に三十ページの恋文を渡すことをスケジュール表に書き込み、素っ頓狂な自称「ボク」には十人弱の女子が数年前に封じ込めたはずの反感や嗜虐心を苦笑に変えて引き攣る口角に浮かび上がらせた。

 佳恋もクラスメイト達の例に漏れない、彼女の佇まいに酔うが如き眩み、蜃気楼の如き空気の淀み――眠すぎる五時限目の公民の如き茫洋(ぼうよう)の海に沈みそうになってしまう。

 転校生――真田瑛子の自己紹介は自称が「ボク」などというきょうびアニメヒロインだってろくすっぽ使わないようなものの上に、違和感を覚えるイントネーションを時折混ぜてくる――といった表層の特徴以外は普通の枠に収まる自己紹介だった。

 だから、転校生の自己紹介はずいぶん不用心ではないかと佳恋には思えた。前の学校ではどうだったのか知らない。けれど、こんな閉鎖された空間に来る際に、同性に疎まれるような容姿や、つけ込まれるような言動を併せ持ってやってくるというのは自殺行為にも等しいのではあるまいか。

 ――でも、そんなのだから来たんじゃないかな

 そうだ。と佳恋は思い直す。教卓の傍で目を細めっぱなしで線のような月のような笑みを浮かべ、エイリアン然としている真っ黒いセーラー服は変人に違いない。そして、人間は異物を吐き出すように出来ている。中から追い出したり殺したりしてしまう。けれど、この空間はそうではない。

 ――ここは、もっとつめたい。

 だからきっと、彼女はそれを知ってやってきたのではないか。安全だと判断してここを選び、ここに入り込むことを勝ち得たのではないか――ここは異物を磨り潰したりはしない。そんな暇があるならば、さっさと自分だけ上の方に行ってしまうのだ。後ろを振り返ったりはもとよりしない。手を掴まれれば振りほどきはしない。けれど、その後に手が離れても気にしない無情の群れなのだ。

 クラスの連中は、今も静かに値踏みをしている。

 ――ふうん。

 佳恋は鞄からメガネケースを取り出し、中身を広げる。赤いセルのメガネ。手に持ったまま教卓に目をやる。対象は緑色の髪の下、細められた目から覗く緑色の瞳。

 佳恋は、メガネをかけた。

 メガネをかけると視界が(くら)む。佳恋は既にコンタクトを装着しているから当然だ。これは佳恋が以前から使っているメガネで。だから、レンズが二重にかかって視界が歪む。今の二倍ほど目が悪くなったらこの度でないとダメになるのかと考える。いやいや、目の悪さは倍とかで比べられるものじゃないだろう。

 

 そして――佳恋の歪んだ視界には、歪んだものが映り出す。

 

 チエが机の中に隠しているいちごポッキー。ハマセンが定期入れに隠しているおっぱいパブ嬢の名刺、最低。マユゲムが鞄の中に隠しているエッチな本、誰かと交換するのかな。秀才カナセさんが財布の中に隠しているオタクショップの会員証、でも、みんな知ってるよ。ユウジが机の中に隠している英和辞書、これ盗品? ロポ助――エロボンスケベの略――が財布の中に隠しているコンドーム、アテはあるの?  鉛筆。CD。現金。スタンガン。願書――。

 そんなものが、歪んだ視界のなかで写真のネガのように浮かび上がる。3Dゲームの特殊効果のように。

 

 ――そう、これは、隠されたものだけが見えるメガネ。

 

 宝物と呼ぶにはあまりにもささやかな能力だった。この現象に気付いた日、佳恋の心はいくぶんか躍った。誰にも責められないくらいささやかに踊った。

 しかし、そのささやかさに佳恋はすぐに落胆した。こんなものは祝福に非ず、ろくでもない呪いだと思った。メガネをかけなければ起きない現象であることは不幸中の幸と信じた。ケースにしまいながら願った。

 これがもし、試験の解答を教えてくれる能力であったら。そして、世界の真理を教えてくれるような能力であったら良かったのに、と。

 教科書を隠されるような悲劇に出会ったら、その時にまた使おう――なんて、軽い気持ちで封じた力だから、メガネを持ち歩いていた。だから軽い気持ちでまた封を解いたのだ。

 いま教壇に立っている緑色の髪をした少女に覚えた違和感の正体を、わずかでも知ることが出来たなら、この能力を持っていた意味があるのではあるまいかと佳恋は考えた。

 ――本当に? あなたはせっかく手に入れた能力を、使う機会を(うかが)っていただけでしょう。本当は、そんなもの知らなくたって良かった筈じゃないの。

 どこからか声が聞こえる。

 佳恋は構わず教壇を、転校生を見据える。零したミルクを意地汚く(すす)るわけにはいかないから

 

 ――視た。

 

 すぐに、後悔した。 

 

「――ッ?」

 

 それは、教壇の上にいるものが人間の延長だという確信がどこかにあった。――おまえはバカか八頭佳恋。たった十数年生きただけの経験で、人間の隠すものすべてを知った気でいたのか――。

 喉がはしたなく鳴った。隣の男子がケータイから目を離し、佳恋を一瞥する。

「あれ、コンタクトじゃなかったっけ?」

「――ン」

 声が出なかった。誤魔化したくてコホンと一つ咳払いをした。

「うん、コンタクト。だからダブルだし目がクラクラする」

「ふぅん。――なんで」

「暇つぶし」

「あ、そう」

 そう悪意なく鼻先で笑うように言ってケータイに目を落とした。転校生には興味のないそぶりだった。ふるえていたことは、ばれていなかったと信じたい。

 佳恋はくじけてメガネを外した。視界が戻って行く。自己紹介は終わろうとしていた。

「外国暮らしが長く、わからないことも多いですが、一日もハヤく皆さんの中に溶け込めるようにしたいとネガっています。よろしくおネガいします――」

 席は佳恋の後ろだった。氷で作られた生ける釘が、滑るようにひたひたと歩いてくる。今見たものが近づいてくる。

 

 隠されるべきものは世の中に、色々あるだろう。

 

 例えば、ポケットの中に隠したタバコ。

 例えば、血流の中に隠れたクスリのヨドミ。

 例えば、腹の中に隠された、子種や、生命の痕――。

 

 そんなものなら、まだ佳恋は救われた。

 それは、どんなに悲しくても見苦しくても汚らわしくても、この世に有り得るものだから。

 

 だけど――!

 

 佳恋は弱々しく息をつく。後ろの転校生は気づいているか、席の傍にかけた鞄はどうしてそんなに重いのか、あなたが纏っているその制服は、どうしてそんなに黒いのか。その髪はどんなトリートメントをすれば保っていられるのか。ペンキ缶をアタマから被るのか、それとも、銅をふんだんに含んだ水道水でも利用しているのか。

 

 隠されたモノはいつも歪みの中で明らかに一層歪んで主張していた。だけど、そこに隠されているのものはいつも「この世のもの」だったからアタリをつけるのは簡単だった。

 ――しかし。

 佳恋は転校生に隠されたそれ(・・)を思い出す。

 

 ――(たと)えるなら、濁った湖水を顕微鏡で覗いた時のような

 

 それともまた違った濁りだったけれど「混沌」と字面で表すよりはほど近いと思える。それ(・・)ネガ写真のごとき逆転の色をしていた。彼女の身体全てが、纏うものすべてが、彼女にとっての隠された(・・・・・)モノ(・・)のようだった。歪みの中でそれを咀嚼(そしゃく)し、消化し、再構成し、排泄し、蔓延させている工場のごとき――。

「なによ……それ……」

 ――バカな。

 

 きっと何かの見間違いだ。

 見ろ、八頭佳恋。転校生は一時間目の授業が始まるまでのこの僅かな時間を見計らって、彼女に集まってきたクラスメイト達とあまりにも普通に会話をしているようではないか。そっちを向かないのはむしろ不自然ではないか。

 そんなこと言われたって、佳恋は後ろを振り向けもしない。いつのまにか佳恋の後ろに(しつら)えられていた座席にはゆるやかな笑みを(たた)えて、明らかに人でないものが座っているのだ。

 

 それでも。

 佳恋のうしろに何がいても。

 何事も無く、日々は過ぎていく。