Y ペイル・ペリセイド/6

ペイル・ペリセイド/6

 

 壺井あさぎは一人でも、やっぱりずっとお腹が空いていた。

 あんなにいっぱい食べたのに。家の中が血まみれになってしまうくらい食べたのに。生のおにくがたべたくてたべたくて、しょうがなかった。ケータイがないから、どうしようもなかった。本当は携帯電話を失ったお陰で、あさぎはうまいこと捕捉されずにいたのだけれど、そんなことはあさぎは知る由もない。

 ともかく、あさぎは野良猫を囓ったりして糊口を凌いでいた。それでもただこの姿でいるだけでお腹が減るような気がしていた。

 そんなとき、ふと血の臭いを嗅いだ。

「ふあ」

 美味しそうと思ってふらふらと歩いていった。その時あさぎはもう結構遠いところまで歩いてきていた。あさぎは自分が俗に言う「中村紫乃失踪事件および壺井一家消失事件」に関する重要参考人として探されていることに、殆ど無自覚だった。無理もない、あさぎは想像しても仕方のないことは、考えない主義なのだ。

 ――だって、お腹減るし。 

 天性のカンは、あさぎを自然と安全圏に逃していた。それは少しずつ広がる現実の包囲網だった。まるで、誰かが見守っていて、かろうじて生きられる細い道をあさぎに提示してくれているようでもあった。

「――こっち、かなああ」

 特に趣味でもないワンピースで、倉庫の密集した場所にあさぎはやって来た。あやしげな黒塗りの車が出て行くのと入れ違いにそのテリトリーに侵入していく。出始めの月がきれいだった。

「わあ」

 あさぎは目をきらきらさせた。たまたま目をつけたGって書かれた倉庫の鍵は何故か開いていた。何でここに来たのだろう。あさぎは、周りも気にせずにかぶりついた肉を噛みちぎりながら考える。血の臭いだったはずなのに、このあたりでそれは途切れていた。だれか、懐かしい人が呼んでいるような気がしたんだ。古くからの友人が、仲直りしようと呼んでいるような。そんな気がしたのだけれど。

「――――だめみたい」

 くう。とあさぎの腹は鳴く。衝動に任せて食べても食べても、腹の中でどこかに消えていってしまうようだった。のべつまくなし食べているイメージのハムスターが浮かんで消える。天井から降りてきていた肉の塊はもう三本ばかり食い尽くされている。口の中が肉の脂でにちゃにちゃとするばかりで、まったく満たされない。いらいらする。やっぱり人間じゃなきゃ――ダメなのかな――。

 ――シノちゃん。

 そうだ、あのときシノちゃんを食べていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。あんなに美味しそうだったのに、食べればきっと、こんな空腹に襲われることもなかったのに、パパやママをあんな風にしてしまうこともなかったのに。

「……なんで、たべてあげなかったんだろう」

 あさぎはあの時、自分の中で息絶えたシノを飲み込めなかった。一部だけがあさぎの中に入った。それから、何度かあさぎは人を食べたけれど、まったく味が違った。あの時はまったく納得できなかったし、理解出来なかったけれど。

 あれは、人が食事をするくらい、呼吸をするくらい当然で、なければならないことで、引け目を感じる事ではなかったのだと気付いた。

 そして、あさぎは体に残ったシノの一部が、ここに来るように言っているような気がした。それはバカなあさぎの「そうだったらいいなああ」だけれど。ほんの少しこの肉でハムスターみたいに長らえていれば、誰かが助けてくれるのかも知れない。なんて思った。

 気付けば夜で、外が騒がしかった。誰かが入ってきた。人だ、このさい人でも満足だった。「空腹には慣れないよ、だから、ごはんをそまつにしちゃいけないよ」って田舎のひいばあちゃんが言っていた。本当だった。そしてこうも言っていた「お腹が減ったらねえ、ひとはなんだってするんだよ」おばあちゃんは百になる前に死んでしまった。

 ――いただきまーす。

 やっぱり誰かがごはんを持ってきてくれているんだろう。そう捕食するために壺になったあさぎは考える。咀嚼しながら考える。そういえば、この形になってごはん食べられるあさぎはラッキーなのかもしれないって。だって、あのとき片岡さんといたみたいなひとや、あのシノちゃんが、あさぎとおなじばけものなら、やっぱりひとを食べなきゃお腹がすいてしまう。

 シノちゃんは壺になったりはしなかった。だからきっと、あの姿のままで人を食べなきゃならなかったに違いないんだ。

 ――それって、つらいよねえ。

 壺になった時のあさぎの声は、高い「コーン」という空気を刻む音に変わる。その反射でもあさぎはなんとなく世界を感じることができる。その世界は、今まで見た世界とは、まったく違う輝きを放っているような、そんな気すらした。

 

 クミちゃんのこえが、響いた気がした。

 

 丁度、食事も終わったところだった。あさぎはヘンシンを解いて、人の姿に戻る。そう言えば服を切らしていた。着ていたワンピースは無くなってしまった。裸のままだった。でもそんなこと、クミちゃんは気にしないだろうとあさぎは判っている。

 案の定、クミちゃんはそんなこと気にしなかった。あさぎが生きていたことを喜んでくれたみたいだった。だけどあさぎには、クミちゃんのいうことがよくわからなかった。クミちゃんはなんだか、あさぎがいないほうがいいみたいな言い方をするんだ。シノちゃんをどうして殺したのかって言い方をするんだ。

 ――そりゃあ、食べるんだから、殺すよおおお。

 クミちゃんはずっと、あさぎのこととシノちゃんのことで悩んでいるみたいだった。なんでそんなに悩むことがあるんだろうか、あさぎにはわからなかった。あげくパパとママの話までする。クミちゃん、なんでそんなに悲しそうな話ばっかりするのおおお?

 

 こ ―――― ん

 

 あさぎの中にいる壺が、あれを食べようと訴えている。

 

 ――ところで、クミちゃん、一体誰と来たの? どうしてここがわかったの? なんだかすごくおいしそうな音がするんだ、シノちゃんのときみたいなおいしそうな音。あさぎはもうねえ、こうしているよりもツボになっているほうが楽なんだああ。

 だからわかるよ、クミちゃんの後ろにかくれているひと、シノちゃんやあさぎと同じでしょおおお、おいしそうなのそんなところにかくしてえええええ、ねえそれ、ねえそれ、クミちゃんからのサップライズ――――――――うううううううう?

 

 ――いっただきまああああああああああ

 

 花が咲いていた。草原の匂いがした。

 あさぎは食欲に負けて、クミちゃんと話している途中なのも忘れて、クミちゃんの後ろにいるおいしそうなものめがけてツボにヘンシンして飛びかかっていった。これで、ながいながいお腹空いたの苦しみから逃れられるのだと思った。ママごめん、もうぜったいお魚残したりしません――。

 飛びつこうとして、体が動かなくなった。

 あさぎはお預けを食らっていた。草原の匂いが体にまとわりついていた。苦しい。どうしたって取れない。鳴いても鳴いても取れない。それどころかきつくきつくなっていく。食べようと前に進もうとする度に、まだあさぎのはずかしい中身を見せっぱなしになっているのに、このぎりぎりと締め付けるなにかが、あさぎを開いたままにしている。

 ――やめてよ。

 痛い。痛くて仕方がない。あさぎのそこは閉まっていくためのものなんだから、そのまま開いたら――しんじゃうかもしれないじゃんっ! やめて、ねえたすけて、おねがいだからああああ、だれでもいいからあああああ! シノっちゃああああああん! クミちゃあああああん! たすけてええええええ!

 

 ――ガンッ

 ――ガンッ

 

 カミサマ、ホトケサマ。の勢いだったのに。願いが届いてしまったようだった。ツボを金属でカンカンたたく音がして、その度にあさぎを締め付ける力が弱まっていく。今ならなけなしの力を使って人の体にもどって、この束縛から逃れることができそうだった。クミちゃんが、あさぎを呼ぶ音を感じた。クミちゃんがあさぎを助けてくれたのだと知った。やっぱりクミちゃんは、さっきいろいろ言っていたけれど、あさぎの味方でともだちなんだ。

 

 ――クミちゃん、ありがとおおおおおおお!

 

 あさぎは人だったころのかたちにもどって、するすると蔦をぬけて自由を謳歌する。体を動かしたせいか、さっきよりあたまがはっきりしている。

「――あッ」

 しかし、あさぎは足がもつれる。目先も眩む。もう人の体でいるのは限界に近いようだった。とにかく――たすけてくれたクミちゃんにお礼を言おうとした。お礼は、なによりも基本だから。そこをあさぎは欠かさないのだ。

 でも。クミちゃんはアレにつかまっていた。黒くて緑のあの化け物だ。ダメだよクミちゃん、あれにつかまっちゃあさぎとおんなじことじゃん。クミが自分のせいで捕まったとも知らず、あさぎは勝手な事を思う。

 けれど、あさぎには打つ手がない。ツボになったって、どうやってクミちゃんを助ければいいのかわからない。おなかも空きすぎたし。さっきやっつけられたばかりなんだ。でもクミちゃんが――あさぎも――このままだとあの化け物に――食べられてしまう。

「ひ」

 声がでるくらいぞっとする。そうだ。あさぎは「食べる」ことだけにこの体になってからずっと集中してきたけれど。あさぎやあの黒緑のばけものみたいなのがいっぱいいるのなら。あさぎがシノちゃんをたべたがって、結局あのばけものがシノちゃんを食べたのなら――。

「――あさぎも、たべられちゃうううう?」

 もう殆ど無かった血の気が引く。青かった顔が壺になったときくらい白く変わって行く。しかし、いくら経っても、化け物があさぎを狙ってこない。あさぎがばけものを見上げると、そこに。

「――あれ、片岡さん?」

 片岡さんがいた。その波長にあさぎははっとする。ああ、さっきクミちゃんのうしろにいた美味しそうなのは片岡さんだったのか――。と合点がいく。すると、片岡さんも、同じなんだと思う。片岡さんはなにやらばけものと話している。そういえば、あの廊下のときも片岡さんはばけものと喋っていた気がした。

 片岡さんは――いつから――こんな化け物だったんだろう。そんなことをぼうと思っていると。すうとチョコレートの香りがした。靄のようなものが、足下に充満してきていた。あさぎは最初のほんの数瞬「ここ、冷蔵庫だからかなああ?」なんて暢気なことを考えていた。

 そして、あの、電車の中で嗅いだあの香りに辿りついた。

「――――! あああ! あああああああッ!」

 どこにそんな力が残っていたのか。あさぎは全力で後ずさり、もう一度見上げる。片岡さん、片岡千代子。ばけもの。チョコレートの匂い。あれからおかしくなったあさぎ。

 ――もしかして。

 バカなりの頭でいやな想像をしていると、束縛されていたはずのクミちゃんが、落ちてきた。 

「てっ! ――なんだこれっ」

「クミちゃんんんッ!」

 あさぎはクミちゃんの元に駆け寄る。クミちゃんをこの靄に触れさせてはいけないような気がしたから。

 あさぎはきっと――こんな、ばけものになる素養は無かったんじゃないかと思う。

 だって、クミちゃんはなってないもの。シノちゃんはきっとしょうがなかったんだ。でもあさぎが、そうなってしまったのはきっと――アレだ。あのチョコレートの匂いだ。あれを吸い込んでから――あさぎは、おかしくなった。

「クミちゃんんッ! だめえッ!」

「わ、壺井ッ!」

 駆け寄る手が止まる。クミちゃんはあさぎから逃れて倉庫の入り口に逃げていく。――なんで。なんで逃げるの。あさぎは泣きそうな顔になる。あさぎはさっきクミちゃんのいうことがよくわからなかったから、変なこといったかもしれないけれど。そんなクミちゃんのこと食べようとなんかしていないんだよ。

 でもいいよ、そのままクミちゃんが逃げてくれれば――。

「――あっ、クソ、開かねぇッ!」

「――えっ」

 だって、そこを開けて入ってきたんでしょ? とあさぎは口を歪ませる。それじゃクミちゃんが逃げられない。迫る靄を吸えば――ツボになったあさぎはもう、大丈夫ってか、あはは手遅れだけど――クミちゃんはどうなるの? あさぎみたいになる? そうでなくともあの列車のなかにいた人たちみたいになってしまうんじゃない――?

 あさぎは蒼白になる。クミちゃんを守らなければならないと思った。今自分に出来ることは何か、考える。足りない頭で考える。あのばけものを倒すことか、片岡さんを倒すことか、ツボになって自分だけやり過ごしたらあれ、これなら大丈――だめ、だめだよそれじゃあクミちゃんたすけられないじゃないの。

 ――ああもうううううあさぎはバカだからああああ!

 ――助けて、助けてよ、シノちゃんんんん――!

 よりによって、あさぎは脳内で自分が殺してしまった友人に相談する。するとあさぎが、あさぎの中でつくりだされた、都合の良いきれいなシノちゃんは律儀にそれに答えてくれる。

『バカね壺は。あたしと同じにすればいいのよ』

 ――それって、食べちゃえってこと? 

『違うわよバカ壺、食べちゃダメよ。入れるだけ』

 ――あ、そうかああ。

 あさぎは笑う。なんだ、助けられるかも知れないじゃないか。と笑う。天才的な思いつきだと浮かれて、ついさっき、ひどく怖れられていたことも忘れて、クミちゃんにいきおい抱きつくように名前を呼んでそのまま変身しようとしたもんだから、やっぱりあさぎはバカだった。

 生命の危機を感じたクミちゃんは必死の形相で、手元にあったバールのようなものであさぎをぶったたいた。殆ど壺に変わりかけていたあさぎに、その程度の力はまったくもって痛くはないことだった。しかし、慣れない能力の距離感はまったくおぼつかなくなってしまった。

 そう、あさぎの「壺の中に取り込んで、食べてしまわないようにすれば。きっとクミちゃんをたすけることができるんじゃないのもーやだシノちゃんったらやっぱりあったまいいいいいいいいいいいいい!」計画は部分的成功に終わった。

 

 こ ―――――――― ん

 

 クミちゃんを胎の中で守りながら、ヘンシンした(あさぎ)が悲しい鳴き声を上げている。

 

 充満した靄の中、白い壺が鎮座している。

 その横に、槌田紅実の片足が赤い絵を描いてもの言わず転がっている。

 それでも、靄が晴れるのをあさぎはじっと待っていた。

 

              ◇

 

 靄は晴れていった。

 一旦ヘンシンを解いて、クミちゃんを床におろす。食べずにいることはできたけれど、血がどくどくと流れ出していた。すぐに病院に連れて行かねばならないのはあさぎにもわかった。

 しかし、あさぎの役目はそこまでだった。

 あさぎの目の前には、飢えた同類がいる。片岡さんは、その腕の中で幸せそうな顔でくったりしていた。ばけものも、おなかがすいているなら片岡さんを食べればいいはずなのにそうはしなかった。きっとばけものは人を食べてもちょっとはお腹が満たされる。あさぎも、クミちゃんを食べる可能性を考えないでもなかった。

 でも、クミちゃんを食べても、ダメだ。そんなに長く生きられないし、折角助けたのに、食べ直すとかなにやってんの。でもあさぎは殆どすっからかんなのだ。

 けれど、あさぎとおなじばけものをたべたら。もっともっとおなかいっぱいになるはずなのだ。ほとんどシノちゃんのかけらだけで、あさぎがここまで動いてきたように。

 そしてそれは、向こうも同じだ。

 ばけものは当然、あさぎに狙いをさだめた。スナックを空けるような気軽さであさぎを食べようとしている。でもあさぎだってそう簡単に負けない。あさぎは壺である自分がけっこう固いのを知ってしまったから。

「あはは、ボクはキミにサワっているからね!」

 見透かしたようにばけもののアタックが始まる。背中にクミちゃんを負いながら、あさぎはずっとひたすら耐えている。けれど、ばけものの攻撃はだんだん重くなる。そして、あさぎの動きは段々と遅くなってくる。

 こ ―――――― ん

 あさぎが鳴く。あさぎの不安は自壊ではない、殴られるときに襲ってくるこの「空気」そのもの。シノちゃんに――そう、今みたいに殴られっぱなしになったときと同じ。殴られていることが同じだから、同じ雰囲気なんじゃない。死に吸い込まれるような、恐怖。

 これは――シノちゃんの、ちからじゃないの。

 ――――こーん

 あさぎは力なく、叫ぶ。

 叫んでも、叫んでも。乾いた音が響くのみだけれど、叫ばずには居られない。ねえ、ねえ、あなたの使ってるちからってええええ、いまあさぎを殴ってるちからってええええ、シノちゃんのものじゃないのおおおおおおおおおおおッ!

 あさぎはなぜだか、悔しくて仕方がなかった。

 紫乃を喰った自分が、紫乃の異能で殺されるのは仕方がないようにあさぎには思えた。これがインガオーホーってやつなんだよってクミちゃんに賢いことを自慢してやりたい気分だった。

 ――――こぅ――――ン

 声は乾いた音になる。響いてはいかない。無数の蔦が繰り出してくる攻撃は、ゴルフクラブで叩くかのようにしなやかな軌跡で壁面へ確実に衝撃を与えてくる。固ければ固いほど、その攻撃はあさぎにとって脅威で、まだ慣れぬ身体の動作で衝撃を分散させるのが精一杯だった。

 ――あ、割れちゃう。

 割れたらどうなるのかあさぎには想像も付かない。かつて、人間だった頃に両親と仲睦まじく暮らしていた頃のあさぎは偉いから、心臓とか脳みそとかそういう弱点を突かれたら死んでしまうことを知っていた。けれど、意志を持った無生物の死に値するものは、あさぎの想像を超えたところにある。

「あはは、キミはまだタルまないつもりだ! なるほど、ボクの目はニゴっていた。一番近くて強かったのはキミだ! でも――ボクはその程度でヒシぎはしない――」

 化け物がうたう。あさぎがなげく。

 あさぎのバカな頭では太刀打ち出来ない。シノちゃんが居ればきっと、この化け物がなんなのか判断して、他人事みたいに人を人とも思わない案を出して、クミちゃんがそれを「は――ァ?」って鼻で笑いながらそれを採用するんだ。そしたらきっとこの化け物にだって勝ってやったのに。自分のしたことは棚に上げて、あさぎは声なき声で、叫ぶ。

 ――ダメだよシノちゃん、どんなにあたしが嫌いだって――どんなにクミちゃんが、好きだったってええええ! 死んだら、なああああああんにもならないじゃああああああああああああああああああああああああんかあああああああ!

「――さよならだよ! キミ!」

 蔦の、幾万もの緑色に湿る長い指の群れが、中村紫乃の魔法を纏って、壺井あさぎに致命の狙いをつけた。あのとき、誰も助けに来てくれなかったように、あのでたらめが有る限り、逃げだすことはできず、誰の助けも望めない。あさぎは、頭の中のシノちゃんに一言くれてやる。

 

 ――クミちゃんは、どうするのよおおおおお、バッカあああああああああああッ!

 

 いくつもの物理を超越した質量が、滑らかな壺の曲線のそれぞれに垂直を描いて。まるで大きな夜の花火動画を巻き戻したかのような美しい幾何学曲線を描いて吸い込まれていった。

 

 返事なんか、あるはずない。

 くやしくても、壺は涙を流せない。

 

 

 うしなったものを、とりもどすことはできないんだ。

X チョコレート・ゲート/8

チョコレート・ゲート/8

 

 片岡千代子は壺のアタックを逃れていた。壺に絡んだ蔦を見てすぐ、鉄骨ばかりの倉庫上階に陣取ることを決めた。

 冷凍倉庫といっても高さがそれほどあるわけではない。千代子はその中二階とも言うべき場所から冷気が供給されているのを見つけた。自分の能力を信じ、それを発揮させるべき場所をそこだと定めた。

 壺と蔦が争い、そこに槌田がちょっかいを出して居る間に。ドアを閉め、サプライエアダクトの前で準備を整えていた。

「――――あ」

 先輩だった。千代子の方を見ていなかった。壺に蔦を生やして束縛し、刃物をふりまわす槌田をあしらい、拘束し、やがて、以前とはまた少し違う姿を現した。

 ――ああ。

 千代子はそれに見とれてしまっていた。その姿もキレイです。だなんて、口に出して悦に入っている。いけない、そんな場合ではない。千代子はこんなこともあろうかと、か細い糸を掴んだ時の為の準備をちゃんとしてやってきたのだから。それを活用するのだ。

「――チヨコ! それはどんなアソび?」

 この世のものとは思えない姿の先輩が、千代子に声をかけた。

 釣られて、全員の目がこちらを向いた。全員。というのは先輩、槌田紅実、そしていつの間にか人の体と化した――いや、力尽きて戻ったのか――壺井あさぎだ。なんにせよ、あさぎはその姿になることで蔦から逃れていた。その視線の量に、千代子は臆す。

 ――こんなの、聞いてない。

 想定した取引は、先輩とだけのものだったから。ギャラリーがいてはうまくない。

 先輩は蔦の渦の中からチヨコを見据え、口角は上げたまま眼力を乗せて千代子に告げる。

「――キミも、ボクに抗うかい?」

「あ、抗うなんてとんでも、ありませんっ!」

 尻尾を振って、なんでも言うことを聞く肉の奴隷を望んでしまいそうな全肯定を口にする。もはや、この勢いで告げてしまえば、受け入れられるような気がした。手前勝手な快楽主義を、一時の気まぐれの隙間に滑り込ませるタイミングは、もしかしたら今しかないのだ。

「――いいですか、先輩。あの、お話が、あります。よく見てくださいね」

 腹を抱え、両脚を開いて大地を踏みしめ、クラスメイトの視線を丸シカトすることを決め、借り物のスカートをゆっくりたくし上げながら千代子は重い決意を発露する。

 こんな忌まわしい体にしてしまうような大悪党に遠慮なんか要らない。その前にした決意を、ちゃんと、果たさなければならない。ここまで来た、意味がなくなってしまう。

 帰る場所なんか、最初からありゃしないんだから。

「――うぇ?」

「――――?」

 スカートを上げてみれば簡単なことだった。観客は多い方がいいと思えた。もっといたって、この倉庫の肉全てが、観客だって構わない。千代子は襟元にたくし上げたスカートの裾を止め、マグライトで自らの股間を照らした。

「――かっ! か、片岡、なん、なん、それ」

 蔦に束縛されたままの槌田が頓狂な声を上げる。

 槌田の言葉に千代子はガン無視を決め込む。今やっていることは、槌田も、あさぎも関係ない。これは千代子と先輩の取引なのだから。

 千代子がたくし上げたスカートの内側は黒いラテックス製の下着になっていた。それは中心が円柱形に盛り上がっている。見る人が見ればそれは、中に振動する淫具などを装着して愉しむ女性用の拘束具だと一目瞭然だったろう。

 あさぎはわかっていないようだが、槌田はなんだかわかってしまったようだ。このセットは、寮に忍び込んだとき、鷺沢委員長のロッカーで見つけた。というより制服の入った紙袋と一緒になっていたのだから、真面目な彼女の隠れた趣味に想像の余地はおのずと広がってしまう。

 そんなことは千代子にとってはどうでもいい。先輩は――先輩は平然としている。その一挙手一投足が、千代子にとって重要なことなのだ。

「――それが、どうかしたのかい。チヨコ! あの電車のミダらがワスれられなくて、そんな慾にオオせてしまったのを――わざわざボクにロウするために?」

 そんな言葉で千代子を挑発する。

 千代子はそれに対し、ライトの前に卵形のスイッチを取り出し、先輩に告げる。そのスイッチは明らかに、今千代子の内側に入っていると思しき淫具を始動させるための電波を発信する装置に違いなかった。

「――スイッチを押すと、どうなるか判りますか? 先輩」

「――チヨコが、タッしてしまうのかな!」

「正解です。でも三十点ですね」

「ボクは、チヨコの魔法のことをゾンじているのに?」

「はい――取引しましょう。先輩」

「あはは、どんな?」

「私はこのスイッチを、差し上げます」

「なるほど、チヨコは電車のことがよっぽど気に入ったんだ! でもキミは取引とコトす! ならキミがモトめるのは! ノゾむのは、どんなタノしみなんだろう!」

「はい――先輩からは――私に……あの……な、な」

「な?」

 千代子は羞恥から顔を赤くした。それは淫らな格好をしていることが主因ではない。そんなことを聞くためにこうまでして、なんてばかな女なのだろうと笑われるのが、こわくて、はずかしくて、どうしようもなかった。けれど、叫ぶために息を吸って、そのまま。

「――――な、名前、教えて、下さ、い! 先輩ッ!」

 聞いた。あたりまえだ。このために来たんだから。

「あはは! あははははははは! これは、これは傑作だ!」

 倉庫の中に哄笑が響く。取引として成り立たないのは千代子にもわかっている。これは――これも、賭だった。ここまで上手くいったのならダブルアップの成功を信じるしかなかった。なによりも、それを手に入れる為だったんだから。

「せ、先輩は――今、魔法を使われたくない筈ですから。だって、だって、私に捨ててしまうくらい、これは邪魔だったんでしょう? これは、先輩にとって、どうしようもない、毒のはずなんですから! だから! 言うことを聞いて下さい!」

「――あはは、チヨコ。いいね、サカしらをノゾむなら、ボクはそれを尊ぼうじゃないか! そのイサみに敬意を表して、ボクから支ハラいを済ませようか――!」

 先輩は蔦を数本残して収納していく。黒いセーラー服の姿で浮いて、千代子の隣に降りる。

 解放された槌田は肩で息をしはじめた様子のおかしいあさぎの元に寄り添っており、痴女と変態のショーに興味はないようだった。千代子にとってはもう、その方が良かった。

 先輩はスイッチを持った千代子の手を握り、そのまま口を耳元に近づける。

「――真田瑛子」

 ――さなだ、えいこ。

 もうそれを耳にしただけで宇宙に上っていきそうな、千代子の恍惚の顔だった。鼓膜を震わせたのは、まごうことなき先輩の名前に相違なかった。ずっと待ち焦がれ、五文字か四文字か三文字か想像し続けて、含む濁音を幾つまで許すかの会議を開催し続けて、ようやく聞こしめした思い人のお名前だった。いっそ、そのまま宝箱にしまっておきたいくらいだった。

 ――やった。やっと名前教えてもらえた。まあそんな言ってしまえば普通の名前なんですからはやく教えてくれればよろしいのに私はこんなかっこうまでしてこんなことまでしてくろうしてきかなければならなかったのかしら。ああもうそんなことよりフヒィーやーだ私ったらはしたないなんておよびすればいいのかしら。真田様? 瑛子様? さなえー? ちょっとかわいさを出してさなP? なによそればかにしているのあなた瑛子様を! ああ、やはりこれがいいわ、瑛子様瑛子さまえいこさまえいこさまえいこさまえいこさまえいびいいいいいいいいいいいいいいいああ口に出してみたいこのお名前びいいいいいいいいいいいいいいなあにちょっと誰ですかやかましいんじゃありませんか人の体のなかで。え? 

 び――――――――――――― ン

 千代子がまんまるな目で真田瑛子を見ている。そこには端正な顔。緑青の髪。黒いセーラー服のスカートからはいっぱい蔦が生えていて、どうやら意識通りに動かせるらしい、素敵。そして今手を繋いでいただいており、その中には千代子が魔法を発動させるためのスイッチがあって、それを押されると千代子の××××の中に入っているぶるぶるでちょめちょめなピンク色の某がコンマ三六パーミニッツで振動しだすわけで――。

「――何でオンになってますか?」

「――だって、好きにしていいんだろ! チヨコはえっちだなあ!」

「え、だって、瑛子さまはそれ、この魔法がふあ、ふあ、あ、あ、あえーこさ、あ、ふあもう、私、あっ、あっああ、ひ、い、い……」

 ――だって瑛子様は、この魔法が毒で、困るから、私をゴミ捨て場にしたんでしょう?

 言葉にならない。今こんなものが発動してはまずい。マジメに填めてしまった貞操帯はなかなか外せず、中のそれも、鷺沢の趣味なのか言葉ではとても表現できないくらい縦横無尽に動いてたまらない。そして、瑛子が手を繋いでしまっている以上、物理的に快楽を引っ張り出すそのスイッチを離さない以上。もはや千代子の魔法が暴れ出すのを止めるものはなかった。

「あはは、チヨコはごうつく張りだ! ボクはキミがノゾむものをほんの少しだけどユズってあげたんだ! なのに! キミは脂をマブした蛸みたいにキミの財布にしまいこみたがる!」

「ちが、違います! くれてなんかいないじゃな――! ひ、あ、ああああ、もう、あっ」

 足ががくがくとする。ライトなんかとっくに落としていた。

「いけません、だめ、逃げて!」

 チョコレートの、靄が。

「キミはボクにユズられたままじゃない――こんなに――シメってきているじゃないか!」

 車内や公園で発したような薄いものとはちがう、煙幕レベルに濃い桃色の蒸気が、冬のニューヨークの路上か、忍者映画の煙幕か、それくらいの勢いで千代子の中から発せられた。

 それが千代子に瑛子が捨て去った魔法だった。心を乱し、淫す。瑛子がその魔法にこっそり付けたその名前は『燃え焦がる無差別の愛(チョコレート・ゲート)』――。

「あっ――あ――――ぃっ――――」

 千代子は自分の身体を抱く。吸った者を淫心に導くこの魔法は、呼吸するものすべてにその影響を及ぼす。術主であったとしても、いや、術主であるからこそ、よりいっそうの悦楽で宿主を充足させ、服従させようとする。

 大気に噴き出すように拡がっていく。イチゴ牛乳を水槽に零したらきっとこんな風景が広がっていくだろう。サプライエアダクトの前で、閉め切った倉庫の中で、空気より僅かに重いその靄はあさぎと槌田のいる地上にも容赦なく襲いかかる。

「――な、なんだこれッ!」

「クミちゃんッ!」

 下階から悲愴な声が上がる。濃いその靄は視界を完全に殺していて様子はわからない。

「あはは、これは仕様がないね!」

 ――そりゃそうだ。と千代子だって思う。こんなものがめくらめっぽうに噴出されても、教室でいかがわしい書物を眺めるしか能のない想像力豊かな男子どもを喜ばせるだけだ。

「達しっぱなしなのかい、チヨコ!」

「え、瑛子さまあ! ごめんなさい! こんな、こんなつもりじゃなかったんです!」

「なんだい、チヨコ! ボクにどんな詫びをハイらせるつもりなのかな!」 

「詫び……えっ、あっ! わ、私を、連れて行って! くださ――ひッ!」

「ぶふぁ」

 瑛子が、鼻から漏れる変な声を出した。様な気がした。そんなことにはおかまいなく千代子は続ける。自分を苦しめるべく握られた手を離れないように、握りしめる。

「そ――そうでないと、私はずっと、これを出し続けますからッ!」

 千代子のもはや理路に外れた激情に従って靄が濃くなる。けれど、これは瑛子に対しての脅迫になるはずもない。冷静に考えなくたってわかることだ。最初から取引にすらなっていない。この呪いを、祝福を譲られた自分が一番良く判っているのだ。

「あはは、だったら、なおさら連れて行かないほうが良いじゃないか! ボクが既にシャしているものを! キミはボクにヒロえというのはどんな道で理だろう! 色にオボれた人形を連れゆく道にタノもうというのかな!」

「ち――ちがいますっ、ふあ、ふあああ、また、また―――――くる……んんッ! ンッ!」

 千代子はもう何度も、何度も、何度も達している。その度に血管が焼き切れそうになる。瑛子はこの魔法を嫌ったわりには、この靄の中、平然と千代子の手を握っているように見える。

「ボクはもう行くよ――。おなかもすいてきたことだ!」

「まって――、拾って欲しいのは魔法じゃありません――私が」

 そんな混乱だけを主張して、得られるものなんて、あるものだろうか。

「――私、を――――ッ!」

 二度目の主張は、だから途中で消えゆく。手に力が入らない、このまま離れたことにも気付かずに、空気のように、靄のように解かれてしまうのか。

 ――いや、いやだ、いや――おいていかないで!

 瑛子はそこで、響く。

「あはは――! チヨコ! それはいい手だ! ハカらずもタエる一手だ! それでこそボクがユズった甲斐があるんじゃないかな――! そのノゾみが!」

 ぐっと、手が握り返される。これなら、離れない。千代子が破顔する。千代子はあの日の、帰り道の、ずっと繋いで汗ばんだ手と、やっと手を繋いでいる。

「先輩――ッ!」

 だから、少しだけ戻る。瑛子はそれを聞き逃さない。

「それはタガえだね、千代子! キミがヨドませた靄をヌグって! ボクをサケぶんだ!」

「ああ――」

 千代子は置いて行かれなかった。自分が持てる全てを動員して、見捨てられるわけにはいかなかった。糸が細くても、なにがなんでも。賭に勝った。でもきっと、まだ罠が、いくつもの意地悪な罠がこの先には潜んでいるはずだ。千代子は絶頂の中で、その絶頂によるきらめきすらも利用して、頭を回転させる。望むものを考える。

 ――私が望むものと、あなたが、望むもの――。

 手が解かれる。

 顔を上げると、抱きとめられた。役目を終えた貞操帯は振動体ごととっくに抜け落ちていた。

 答えは出ている。千代子はその口を開く。魔法に惑わされていようと、利用されていようと、何であっても構わない。ここに――望みがあるかぎり――祈りや呪いなんて不確かなものではなく、この愛しさを達成させるのに、この名を呼ぶことを――

 

 ――厭わない。

 

「す、好きですッ! 瑛子、ちゃん――ッ! きゃ―――――――――――ッ!」

 

 面を上げる。千代子は、その時の瑛子の笑顔を忘れないと、誓った。 

「ああ、ああ! エラんだのはボクじゃなかった! かといってキミでもない! ボクらは等しくタガえてしまった! ボクは常にエラんでいるつもりでいた。オゴるボクすらもボクらだった! キミはエラばれたよ――――千代子っ!」

「あ、ああ――」

 千代子はその言葉を、告白を聞きながら気絶していく。その背中を瑛子が蔦で抱きとめる。大事な首はみずからの手で。チョコレートの香りをさせた禍々しい人騒がせな靄は、あるじの失神を知って、収穫もそぞろにざわめきながら千代子の元にずるずると帰っていく。

「――あは、ボクも今日はだいぶツカれた!」

 瑛子は千代子を抱えて独りごちる。いや、それは独り言ではない。愛し合う二人の他に観客が二人いたはずだ。靄に巻かれた魔法少女と、ただの少女が。

 

 

 ――――コ ―――― ン

 

 靄が晴れていった。

 千代子はまたぐらと口元からあらゆる汁を垂れ流しながら、瑛子の指先に包まれてすうすうと寝息を立てている。その音を邪魔する甲高い音が響く。

「あはは、なぜキミはトンじなかったのかな! あの靄の中でマギれることも! ボクらのどちらかを食らうことだって!」

 一度落ちたはずの壺が再び、宙に浮いていた。

 こ ――――― …… ん

 壺の発する音は先程と比べてもはや弱々しいものだった。艶も褪せているように見える。浮いた壺の底から血が滴っている。点々と続くその先に、少女の足が見えた。腿から先に続く胴体は離れた場所に落ちてうずくまっている。

 瑛子はそれを見とがめる。こころなしか声が冷たく響く。

「それは、キミのともがらではなかったのかな? キズつけるだけでナガらえることもカゾえられないキミをミトめることはできない! けれど、カレもそうさ――キミのこと、そんなにキラいじゃなかったんだろ? カカわらずにいたかったけど、キミとボクらを取り持つ半身がサケぶから、ボクは生きる為に、キミを食らおうじゃないか!」 

 瑛子は蔦を一本、螺旋を描かせながら自らの周りに巡らせて独りごちる。瑛子はあたかも前からの友人であるかのように壺に語りかけている。瑛子の周りを巡る蔦はいつの間にか二条に増えている。それは四条に、八条にその数を殖やしていく。

 壺はそれに応じる風も無く、コーン、コーンと鳴くのみ。

 蔦が巡る。幾条も巡る。それはいつからか倉庫全体を覆うように駆け巡り、壁も、天井も、床も、緑色に染めてしまう。まるで、最初からここはそうだったのだと、はじめからここは、彼女の腹の中だったのだと言わんばかりに。そして、名乗りを上げる。

「――ボクは、真田瑛子だ。キミは?」

 

 ――――― こ ―― ん

 

 力弱く、しかしはっきりと通る音でひとつ壺が鳴く。まるで、会話が有るかのように。

「あはは。そうか、ならばさいわいだ! ボクも欲を張るとしよう! イノるかな! サケぶかな! 輩とボクのなかにシズむのか――さあ、エラぼうじゃないか!」

 宣戦布告は済んだ。真田瑛子はあの少女が宿した異能をその指先に宿らせ、圧縮した冷たい空気を無数の槌に仕立てあげ、目の前でただ嘆き続けるだけの、無能で鈍足極まる力尽きかけた壺に目がけ、ただひたすらに叩きつけていく。千代子をその腕に大事そうに抱いたまま。

 

 魔法少女たる、そのために

W ブラックスミス・スクラブル/5

ブラックスミス・スクラブル/5

 

 槌田紅実はもうどうにかなりそうだった。コンクリート剥き出しの床に座って小便を漏らして救われるならそうしていただろう。けれど、歯を食いしばっても、自分を虚勢で大きく見せても、絶体絶命の窮地で為す術もなく流されていくしかできない。

 さっき自分の身に起きたこともそうだ。これで自分は終わるのだと思った。あの時中村を助けられなかったから。中村と同じ方法で、中村と同じく友人に食われて死ぬのだと。

 なんてお似合いの最期だと思った。夜の食肉倉庫で、いろんな肉や血と混ぜられ同じものになってしまうんだと思った。刑事から漏れ聞いたあさぎの家族のようになってしまうのだ。

「――んだってんだよ」

 もはや槌田は、悪態をつくのが仕事の音楽プレーヤーのようになっている。 

 槌田のからだのどこにも血は流れていなかった。膝をついた身のままでそれを見上げる。槌田は薄暗いこの倉庫の影の中にいた。とんだ怪獣大決戦だ。弟がせがむので観に行った怪獣映画の一シーンみたいだ。きっと、放射能の影響でこんなことになってしまったんだろう。

「そうでなきゃ、へんなもの拾って食べたんじゃねえのっ!」

 そんな悪態をついても、通じるのか判らない。通じたとしても、彼女は――かつての友人・壺井あさぎは見るだにそんな状況ではない。

 閉じたと思った壷が、閉じずにその内側を晒している。

 そこに緑青の蔦を挟んでその動きを止めている。

 

 コ――――――ン

 コ――――――ン

 

 壷が槌田を見て、恨めしそうに鳴いている。

 槌田は後ずさる。そうするほどに床が冷たい。

 ぎりぎりと蔦が壺を引き締める音がする。

 

   コ ――いた――い―― ン

   コ ――やめ――て―― ン

 

 壷の鳴き声、エレクトーンに収録された音源アイスブロックみたいな音。その合間に、かすかに、しかし確かに声――あさぎの声を聞いた気がした。

 槌田の目の前であさぎだった大壺にからみついた蔦。甲子園球場や東欧の城に絡みついているような蔓。それは意志をもった動物のように高速でうねり、壺を締めあげていた。

「どんな怪獣映画だよ、これ……」

 槌田は息をのんでいる。目の前で繰り広げられる怪奇に頭がついていかない。難しい、こんなことが、あるはずない。なんにせよ、今さっきまで槌田を食おうとしていたその忌まわしい壺を、倒してくれそうなんだから、これはいわゆる救いの手なのではないだろうか――。

 だとすればこれは、喜ぶべき事なのではないか――?

 

 コ ――たす――けえ――てええ―― ン

 コ ――クミ――――――――ちゃ―― ン

 

「――え」

 

 壺がこっちを見ている気がした。凝視したところで、壺に顔はないから、表情なんかわかるはずもない。気の遠くなりそうな深淵空間を覗かせる壺の中にずるずると蔦が入り込んでいく。深淵はその度に色を、蠢きを変える。その蔦は壁全体から生えているようにも見える。

 どこからきて、どこにいくのか、わからない。寒い。

 そう言えばここは食肉倉庫なのだ。寒いに決まっている。歯がかちかちと鳴り出す。いまのうちにわっとドアを飛び出して帰りたい。横目で見ると入ってきたドアはいつのまにか閉まっているし、どこからか冷気が入り込んでいるわけでまったくもって暗いし寒い。こんなわるい夢のことを忘れて、暖かいベッドで眠りたい。槌田は思う。あたしは悪いことなんか――たとえば、人を殺したりとか、あまつさえ人を食べたりなんかしていないんだ。

 なのに、なぜこんな目に遭っているのだろう。

 逆に、それを、そんなひとでなしをしてしまった悪い子はそれができない。平穏を、日常を享受する資格がない。だから人でなく壺になればいい、壺になって、人を食べて、でも、おとなしくしてなかったから。だから。 

 ――だからそんな目に、あっちまうんだ。ガキでも知ってる理屈だろ。人を殺しちゃ、ゼッタイにいけねえんだ。

 

 コ ――――――…… ン

 

 壺の音が弱々しくなっていく。さらにミシミシと何かが軋む音が聞こえる。しなやかな無数の蔦が、壺を割らんばかりの勢いで締め付けているに違いない。それはじわりじわりと獲物が弱るのを楽しんでいるように見えた。あの蔦は、あさぎを殺すのを楽しんでいる。

 ――ひでぇ。

 声に出ない。しかし、槌田の中に生まれたそれは哀れみだとかそういった類の想い。それに気付いて口を抑える。俯いて自分を言い聞かせる。

 ――なにがひどいものか、よく考えろ槌田。あの壺は得体は知れないが、あさぎだ。壺井あさぎなのだ。中村を殺し、親を殺し、見も知らぬ誰かを殺し、そしてそのはらわたを食い破り、咀嚼し、飲み込む化け物ではないか、なにを同情の余地がある、それにあの壺はさっきも、友人であるおまえ自身ですら取り込み食おうとしたではないか。

 理性の声が聞こえる。その通り、全くその通り。そして一番正しい道は、こんな信じられないこと忘れて、メールの事など忘れて、中村紫乃の無念と、壺井あさぎの説得も全部忘れて、まだ死んでない今のうちにここから逃げ出して、何不自由ない人生の続きを送ることだ。こんな悪夢、自分に関係のないことだと叫んでしまえば、楽になれる。

「――し、知るかっ、ボケェ」

 すっくと立ち上がって槌田はあたりを見回す。無骨な道具箱がその中身をぶちまけ、ドライバーとかネジとかが散乱する中、ひときわ目立って肉切り包丁のお化けとも表現できそうなものが転がっている。マグロを解体するにはいくらか役不足そうなそれを、手に取る。

「こいつで、おあつらえむきだぜ」

 ――おあつらえむき? 何に向いているって言うんだ。かつらむきか何かと間違えているのではないか。これはダイコンじゃなく、肉を切るためのものだ。獣の肉をぶったぎるための道具だ。そうだろう? では獣の肉というのはどこにあるというんだ。獣とはなんだ。獣とは人類の敵だろう? ほらツチダクミ、さっきお前を食い殺し、己の欲望のためだけの為にかみ砕こうとしたものが、敵なんだろう?

「―――――はァ?」

 不敵に笑う。吐いた息が白い。鼻に抜ける人を小馬鹿にした下品な笑い。賢しらな中村のジョーク、あさぎのその日三度目の一生のお願い、槌田たちをクスクスとわらったあばずれの性根。先公、世界、両親、それもこれも全部、こいつ一本でたどたどしく笑い飛ばしててきたのだと、槌田は吠える。

「そうだなァ、壺井はよー、さっき、確かに、あたしを殺そうとしたんだろうよ……中村の上さ、あたしまで。あんなに懐いてくれてたと、思ってたんだけど、なあ」

 刃を振りかぶる。気持ちに助走をつける。

「でも、さぁ? 聞こえちまったしなァ?」

 ――はやくしろ紅実。壺が割れたら、あさぎの命も終わる。そうすれば中村のカタキが討てなくなっちまうんだぜ。それってダメじゃね? ほらさ、思い切れ、やると決めたらやってしまえ、迷うな、そうだあの蔦の走っている繊維と垂直に、豚の骨まで切り落とすその刃を槌斧の如く振りかざし念じろ壺め、壺め、この壺め! 『砕けろ!』と――!

「うっせえな、黙ってろ! 今やんだよ!」

 内側から聞こえる賢しらな声を一喝。そのまま槌田はリズムを取る。自分のジャンプでは届かないだろう高さを、三角跳びで飛び越える。高さを味方につけ、狙いをつける。自分の身に宿ったエネルギーをまるごと、想いごと乗せてぶちまけるだけ――!

「――うらああああああああっ!」

 ぱつん。――と、拍子抜けするくらい楽に、蔦は切断された。

「――お、いける!」

 槌田は勢いにのって、叫ぶ。また振り下ろす。

「あさぎィ!」

 念じる必要もなく、バツンバツンと景気よい音を立てて、切れていく。もう一度振りかぶってダマになったところを切り落とす。壺に刃は通じないから、あさぎに遠慮することなんてない、傷ついちまっても、そんなのは勲章だと思えって後で言ってやる。

 だから、

「あさぎ!」

 また叫ぶ。

「聞こえるか、あさぎ! 今、助ける!」

 念じる必要も、願う必要も、呪う必要もない。

 壺井あさぎは、槌田紅実に助けを求めたんじゃないか。

「なら、やることは一つっきゃねーだろ――ッ!」

 叫び、三度目の凶刃を確実に蔦の上に振り下ろす。

 ――あはははは! わかったよ! それがキミのダンじ、サダめた賢しらだとアカしてあげるから! ああまったく、ボクの不明にタガわないよ!

 声がした、その声はどこから聞こえたのかわからない。その声は部屋全体から響いたように思える。そう、壺を取り囲む無数の蔦が生えてきているのと同じ場所から――。

「なんだ――!」

 蔦が目に見えぬほどの早さで槌田の体に巻き付いていく。巻き付かれて気づく。この蔦は緑の臭いがしない、螺旋を描いて巻き付くそれらは、葉か棘のようにみえたそれらは、よくみると蠢いている。それぞれの部位が意志を持っているかのように蠢いている。まがまがしい蕾。

「あ、ちきしょ、このおッ!」

 槌田の抵抗も空しく、槌田を無力化しながら、蔦の芽が次々と咲いていく。その芽の中には肉が詰まっている。棘のあるライチの実を剥いたあとのような白くぬらりとした肉。その肉は丸くまったくの球形。それは五つに分かれる、枝になる。それぞれが五つに分かれる。それぞれはそもそもの枝に張り付いたところをもっとも心臓に近い左腕を軸として、人の体のように五つに分かれる。連鎖する増殖。すぐに網に成長する。網は何のために網であるのか。

 獲物を包み、獲物の動きを止め、獲物を無力にするためだ。

 最後に、ひときわ大きい蕾が生成され、その中から――人のごときものが粘液にまみれ生えてきた。槌田は知らないが、それは先日この町にきたばかりの魔法少女、真田瑛子だった。

「げッ! ひ、人?」

 それが、口を開く。

「――――さ、キミのノゾみをもう一度だ! それとも――諦めるかい?」

「―――――ッ!」

 槌田はその異常を見て絶望する。全身が怯えて、震えて、手が付けられない。武器は落ちた。敗北を悟らされる。とっくに、気づいているべきだった。これは化け物なのだ。人間と同じリクツではない、まごうことなき化け物だ。だったら、人間が敵う道理はないではないか。

「あははははは――どうして、オビえているのかな? どうして、クジけてしまったのかな? 勝てるとオモっていた! あはは、ボクはカマわないよ。シボる刃を当てたのはキミの頤でなかった! 指と喉と腸のボクをアヤめた! その咎からノガれたいとキミはヨクすのかい! でも残念だ! キミがどれほど悔いることがあっても! ボクらは弱いから、カエってはこれないんだ! キミのことをもっとよくゾンじることができたことをさいわいとオボえて、ここでラクそうじゃないか! さあ!」 

 陽気な魔法少女(バケモノ)のうたが倉庫全体に響く。蔦と網を通してここにいる全員に届く。その演説とも歌ともつかぬ死の舞踊が、この倉庫で最後の花を咲かせにきた。

 全ての蔦が、槌田に狙いを付ける。バケモノでないから、今まで見逃されていた槌田は、羽虫のように無視されていただけなのに、蚊のようにわずかに血を吸って逃げれば良かったのに、調子に乗って分不相応のダメージを与えてしまったから。

 周りに吊された肉のように、静かになってしまうのだ。

 

 

 

 時を同じくして、静かに

 風上の魔法少女が動き出す。

V チョコレート・ゲート/7

チョコレート・ゲート/7

 

 壺が鳴っていた。

 片岡千代子は頭を抱えた。どうやらジョーカーを引いた。

「――なんてこと」

 槌田紅実がナナメ後ろで言葉を失っている。藍色の文様に新鮮な赤茶のシミを隠さない巨大な白磁の壺が、非常誘導灯ばかりのうすぐらい倉庫の中でコーンコーンと音を立てていた。

 千代子の記憶に僅かにその壺はあった。壺井あさぎ――。あの廊下の惨劇で目を覚ましたとき、全裸のあさぎが現れる前に一瞬だけ目に焼き付いたシルエットはまさにこれだった。

「な、なんだこれ」

 横で槌田が怯えた声を上げる。千代子は眉をしかめる。

「……見ての、通りよ」

 ぶっきらぼうな声を出して千代子は周りを確認する。食肉工場の倉庫。冷気。腕ほどもありそうな巨大なフックに掛かった肉が所狭しと並べられており、その中心に壺がいた。

 今、ふたりの目の前で人を食い終わった、ばけものだ。

 コーン。と高い音が室内に響く。肌に沁みる冷気がさらに増すようだ。

「なんの音……だよ」

 いちいち驚かれても、千代子だってそんなこと知っているはずがないのだ。返事もせずに千代子は傍らの階段に身を隠そうと走る。

「お、おい! おかしいぞ、こいつ!」

 槌田の声が千代子を制止した。うんざりとした顔で走りながら一瞥すると。あわや、壺が鈍い光を発していた。千代子はそのまま物陰まで走りきって、改めて壺を見る。

「あっ!」

 千代子には覚えがあった。それはあさぎが壺から元に戻ったときの光だ。

 予想は的中した。壷は光の中で粘土のように形を変え、人間に似た形になり光を落ち着かせた。そう見えるようになった頃にはあの「コーン」という甲高い鳴き声は止んでいて、真っ赤で全裸のあさぎがこちらに背中と尻を向けて立っていた。

「つぼ……い? あさぎ? あさぎか……?」

 ふらふらと槌田はあさぎに近づく。制止しようとして千代子は逡巡する。冷静を手に入れねばならないと、ぐっと手を握った。

「おい――! 壺井!」

 あさぎは赤く染まった自分の手をイヌがするようにぺろぺろと舐め、べとつきすぎる手を嫌って、汚れてなかったわき腹にこすりつけてから、槌田の方に振り返った。

「あっ、クミちゃあああああんんん」

 いつものように笑っていた。彼女の笑顔を彩っていたツーテールは無く、後ろに流していた。あとは血まみれで、内臓の臭いを体中からさせていることくらいしか変わりはない。

 けれど、槌田は再会もあさぎの生存も喜ばず、伸ばし掛けた手をだらりと垂らしてしまう。

「なあ――壺井なのか?」

「うんっ、あさぎだよおお! どうしたのおクミちゃああん。みってのとおりじゃああん!」

 小動物のごときぴょいこらとジャンプすると、血糊が周囲にピピッと撥ねていく。

「なにしてん――」

 槌田のかける声は震える。きっと槌田は信じたくなんかなかったんだ。けれど、目の前を歩いていた老警備員が磨り潰されていくのを見てしまった。床に流れている赤いものは、周りの食肉から流れ出たものでなく、人間から流れ出たものに違いないのだ。

 あさぎはあっけらかんと答える。

「たべたよおお?」

 小首を傾げて、かわいらしい仕草で言う。当然でしょって笑う。口の周りが赤い。笑うと乾いた血糊がぱりぱりとひびわれる。あさぎは指でそれを痒そうに刮げ取り。ツメの間に挟まった赤い汚れをしげしげと見つめた。

「……くった?」

「うん、たべたんだああ。でもねえ、おかしいんだよねえええ。こんなにたべてもねえ、ここにあるのはだめなんだよおおお。もうううおなかぺこぺこでこまっちゃうううう」

 槌田の顔がみるみる曇っていく。

「食った……ってのか、さっきの人、お前に、なんか、したのかよ……」

「なんも? でもねえ……なんでかなああ。やっぱりおなかすくんだよねええ」

「いつから……そんな……」

 槌田はもう、聞きたくないのに口が勝手に疑問を挟んでいる。そんな有様だった。

「あの日からだよおおお。あさぎが――シノちゃんを、食べちゃった日からだよおおお」

 あさぎは笑っているようだった、千代子からはあさぎの表情はよく見えなかった。ただ、口調はどこまでも底抜けに明るい。あの時にあさぎはいくばくか精神をやられてしまうのだろうか――千代子は二人のやりとりを覗いながら、他人事のようにそんなことを考えている。

「おまえ……壺井……それ言うために……呼んだのか?」

 呼んだ? というところに千代子が反応する。なるほど、槌田は壺井に会いに来たと言うことだったかと得心しかけて、疑念を抱く。

「えええ? なんのはなしいいいい?」

「って……お前、お前が呼んだんだろ! ここに! わざわざ何度も遠回りさせて!」

 そう、それはおかしい。槌田を尾けていたがために振り回された千代子は思う。あさぎはそこまでバカだと思ってもいないが、策略を巡らせるタイプではないだろう。

 あさぎのような単純バカが人をおびき寄せ、なおかつわざわざ遠回りなんてさせるだろうか? 何のために? そんなことを考える千代子をよそに、あさぎと槌田の会話は続いている。

「え――? でもあさぎのケータイはシノちゃんに壊されちゃったんだもんん!」

「……壊され……って、おい。だから、やったのか……?」

「ちがうよおおお……でも……あさぎがこんなになっちゃったのはそれもあるかもお?」

「はは……。あのさ、何度も聞いてさ。すまねぇけど。ちょっとさ、はっきり言って欲しいんだ。あさぎはその、――たのか? 中村を、中村紫乃を。さっきみたいにして!」

 はっきり。そう伝える槌田の文言こそはっきりしない。苦しそうにぼかされてしまう。

「そう、そうだよおおお。壺井あさぎがっ、中村紫乃をたっべましたあああああ!」

 対照的に選手宣誓のような通る声。甘く鼻に掛かった幼い声は。かつての級友をその胃の中に収めたことを。そしてそれを恥じることはないのだと言っている。

「っはは――そっか、そりゃそうだわ。食っちまったら、そりゃ。のこんねえよな。マジで……? 骨まで? なんで、ころ――殺したんだよ! そんなに、そんなに!」

 あさぎが頷くと、槌田は膝から崩れ落ちた。その弱さに千代子は呆れる。一拍おいて、呆れている自分の方がおかしくなっているのだと認識を改める。

「そんなに……きらいだったのかよ……」

 一歩。あさぎは進んで、血まみれの手を槌田に伸ばした、首の回りにそれを回す。千代子は思わず「あ、死ぬ」と呟いた。あさぎはその細い首を磨り潰すことなく続ける。

「ちがうようう……あさぎはねええ。シノちゃんのこと、きらいじゃなかった。好きになりたかったんだようう。だから、そんな目で見ないでえええ」

「――しんじられっかよ」

「――だよね……ころしましたああああ」

「そうか」

「あさぎが……やりましたああああ」

 あさぎは、口の中に爆弾を仕掛けられたみたいな顔をして、そう言った。

「でも、あさぎはあああ――」

 爆弾を仕掛けられた顔は、崩れない。

「いいよ……もう、そういうの」

 槌田の掌が、あさぎの肩まで上がる。

「――クミちゃんは、しんじてくれないいい?」

 肩にかけられようとしたその手は、友に触れられず、力なく血の海に戻る。「見なければ信じられたけどよ」なんて言葉が浮かんで細かい棘に変わる。

「クミちゃんはあああ、あさぎを、ころしたいい?」

 あさぎの声は穏やかに、槌田に問いかける。

「殺したい。でもさ、殺したらだめだろ。壺井はあたしの友達だったじゃねえか。中村もだ。だから友達ふたりをうばったおまえが……許せ、な……い……」

 槌田の矛盾に、あさぎがそれを笑う。

「あたまいいなああ、あさぎはあああ、クミちゃんがなにいってるのかわかんないいい」

「ばーか……」

「ねええええ、なんでええ泣いてるのおおお。クミちゃん」

「なんで、殺したんだよぅ」

 声が震えているのは、槌田だけだ。

 槌田の声が震えるほど、あさぎの声ははっきりしてくるように、千代子には思えた。

「あさぎはころすつもりはなかったもんん。でも、体が勝手にね。そしたらねええ、きっと、いけないこと考えたから神様とかがすごく怒ってえええ、あさぎを、こんな目にあわせてるんだとおもうんだああ。でもさああ。だったら、だったら――クミちゃんを、そんなふうに泣かせないようにしてあげられたらよかったのにねえええ」

「泣いて、ねえよ」

「うっそつきい」

 あさぎの目に大粒の涙が浮かんで、音もなくさらさらと頬に伝っていく。槌田は目の前で起きていることに収拾がつけられない。ものすごく残酷な人殺しが、壺になって人を食うらしい。泣き虫のそいつが、目の前でほろほろと泣いている。

「泣くなよ……お前が、悪いんだろ……」

 あさぎはひとつ鼻をすすると。きょとんと槌田の方に向き直る。短い舌を伸ばして、唇の横の涙をひと舐めした。溶けた血糊が唇を染めていく。

「しょっぱい? あハぁ? いまあさぎは、泣け――――」

 

 ―― こ   ――――――――――    ん

 

 急に訪れた静寂と、高く響く不吉な共鳴音。それを聞いて千代子は総毛立った。動物的な危険を感じて、槌田からさらに距離を置いたところに跳ぶ。

 ――なんだクミちゃん、わかったふりして、わかってないんだ。

 どこからか、声がする。あさぎの口はもはや動いていない。

 声帯と空気を震わせて鼓膜を響かせる、それが音になる。当たり前だ。だから、いま聞こえてくる信号のことを「声」と表すのは適当じゃないのかもしれない。その「声」は鼓膜でない場所を響かせる。確かに音は鳴っている、でもその音はこの声じゃない。周りすべてに反響を矯正し、状況を捉えようとする潜水艦のピング音。

 その音が――全身の皮膚から染み入り、覚えのあるあさぎの声に変換される。

 ――それはね、あさぎだって

 響く。

 ――あさぎみたいな、ばけものだって

 槌田は、駄々を捏ねる年下の少女を大丈夫だとあやすつもりか両手を、広げて、前へ。

 ――うごいたら、おなかが、すくんだよおおおお?

 それは遅かった。空振りだった。

「――――――あ、さァ、ぎッ!」

 声を、腹からふりしぼる。やっと声がでる。でも、その声も遅すぎた。その声が、ほんの少し早く絞り出されていたとしても、目の前にはもう、槌田の友人だった壺井あさぎはいない。

 水カッターできれいに分かたれた白磁の壺が、あさぎの立っていた場所に鎮座している。

「――んだ、これ」

 槌田が立ち尽くしていた。千代子は物陰から現状を把握するのに努める。目の前にあるのはなんだ、ゲームかCGか、催眠術か、それともなんだ、思いつかない、もしかして目の前で起きているアタマのイカれた画家の絵みたいな光景が――ゲンジツ。ともかく、槌田は今、食われるのだろうと、確信した。

  コ コ ―――――――――――― ンン

 分かたれた左右がそれぞれに共鳴している。そして、左右それぞれが発する悲鳴のハウリングが一つに合わさるところを探知。二つに分かたれたものが一つに戻るのはあまりにも当然で、当たり前で、そこにたまたま何か邪魔なものがあったとしても、構わずに元に戻る力を持っていることが、わかってしまう。半分の壺を結ぶ直線の上で、槌田紅実が呆けていた。

 千代子は刮目して、その瞬間をただ、見ていた。

 ――終わった。

 突風が起き、衝撃に襲われたたから、千代子はそう感じた。べたべたと倉庫に吊された肉が床に落ちていくのを見て、それが槌田だったものだろうと誤認した。軽く手を合わせた。

 だが、白磁の壺はその内側に渦巻く深淵をさらけ出したまま停まっていた。モーターを無理矢理止めているようなうなり声が聞こえてくる。それはあさぎの苦悶のように聞こえた。

「――――んだよ、これ……」

 命を拾った槌田が次々と襲い来る怪異、人の身ではあずかり知らぬ超常に「頭から女神様でも生まれそうだ」って顔をして手の平でそれを覆っている頃。

 片岡千代子は目を天上の月のごとくまんまるに開いて、口元に忍び寄る笑みを隠さず、歓喜を噛みしめていた。何故かって――。

 草原の匂いがするから。

 白磁の壺を、あの愛しい緑青の蔦が締め上げていたから。

 赤い糸を、たぐり寄せたのだから。

U チョコレート・ゲート/6

チョコレート・ゲート/6

 

 片岡千代子はどうしても、先輩に会いたかった。二度も名前を聞けずじまいだったから当然だ。先輩に会って名前を聞いて、唇を奪った責任を取らせなくてはならないのだ。この恋路を何が何でも果たさなければ気が済まない。理由に足りていて、けれど、方法に飢えていた。

 先輩のくれたこのちからと向き合うべきだ。そう千代子は考えた。魔法と呼ばわられたものの、千代子の尺度では明らかに呪いに属するこの異能。廊下での惨劇を過ぎてもずっと、体から吹き出るチョコレートの香気纏った靄は、千代子の脳髄を隙あらば犯そうとする。気を抜けばすぐ、前後不覚に陥り情欲の奴隷になってしまう危険な性質を胎んでいた。しかもそれは、この香気を吸った他人をも巻き込むらしい。

 思い出すだけで目覚めそうな靄を、弱いうちなら円周率と歴代天皇の暗唱で霧散させることを覚えた。引き替えといわんばかりに、腹のあたりがさみしくなる。かつての空腹とは違うけれど、欠如を補填したいとからだが願ってやまなくなる。

 そう、先輩は言っていた。魔法少女は――同類を食う――と。そして、あの日中村紫乃が見せた衝動、壺井あさぎが見せた惨状。この数日、千代子が果たしてきた実験によって導き出された仮定――。

 それは、千代子にとって辛い仮定だ。けれど、千代子を取り巻く現象の数々はその仮定をほぼ正解だと叫んでいる。この呪いは面倒なものなのだ。先輩の言った「魔法少女」の業は千代子をも等しく蝕む。食欲、それも人の肉をだ。肉は長らく忌避してきた。獣を連想させる肉を食べれば、千代子に傷を負わせたあの遠い夜の記憶が吐き気と共に蘇るから。

 だが、千代子は先輩に呪いを貰った日から何度も肉を食べた。食べては吐いた。肉に対する忌避感が失せたはずなのに、体だけがそれを覚えているかのように。だが、呪いは「食わねば死ぬぞ」と千代子を脅し続ける。その衝動は最終的に人に、及んだ。

 思い返せば廊下の時も、情欲の影でその食欲はいた。壺井あさぎを、燻蒸肉の臭いをさせた中村紫乃を、どこかで食べようと思っていたのではないか?

 千代子は自分の現象を、あのときの廊下の現象とつなぎ合わせる。壺井あさぎの変身と凶行。中村紫乃も、ああなってしまうまえにあさぎを、千代子を「喰う」と言っていたではないか。先輩は中村紫乃だったものを、持って行ってしまったではないか。――食べる、為に。

 千代子の推理は続く。彼女たちがもし、魔法少女(バケモノ)で、自分がもっているのと同じ衝動を抱えて生きていかねばならないのなら――。

 お互いを、食べないと生きていけない。それが叶わなければ代わりに人の肉を喰らう。食わなかったとき、その衝動に狂わされて死ぬのか、飢えて死ぬのかはまだわからない。

「――狂った仮定ね。穴だらけ。それでは、私たちは減る一方ではないの」

 千代子はまだ、人を食っていない。

 千代子もまた空腹に襲われることは変わらない。しかし、千代子の魔法は違う手段で、その空腹を満たす手段になっているのではないかと、千代子は仮定し、また、確信していた。

 あの日の、夜。

 千代子は離れで先輩のことを想ってさめざめと自分を慰めていた。それは油断だった。千代子は電車の中で起きたことを教訓として、もっと慎み深くあるべきだった。なのに、先輩と再会できてしまったばかりに起きたのは意図せぬ発動。そして、あの忌まわしい日の再現。全身の肌が粟立つ獣慾に千代子は晒された。片岡千代子の魔法は、中村紫乃のように相手を打ち負かす武器にはならないガラクタなのだと知った。千代子はただ、力弱いひとりの少女として、甘い靄の中で得たくもない快楽に弄ばれ、さんざんに陵辱され尽くした。靄は、千代子の中枢をなだらかに麻痺させていたからか、精神は安定していた。理性はずっとそこにあって、自分の上で体液を撒き散らしながら踊る獣を観察していた。忌まわしい。忌まわしいのに千代子の体は先輩のことを想ってひとり慰めた時のごとく反応した。それは暴虐が力尽き、粘膜が爛れ、舌を噛むことを考えても、理性に反して一種の満足感が恍惚とともに千代子を満たした。

 まだ足りない。と呪いは言っているようだった。

 そのまま、靄をまき散らしながらふらふらと夜の公園に出向いて慰みものになった。それは男女も畜生も関係なかった。千代子は、先輩のことを思いながら充ちていく。

 靄がハチミツのように濃く、曙光を淀ませていた。

 神々しい光を背後に自分の周りで腰を動かす有象無象を横目に、千代子は笑えてきた、なにが魔法だと思った。こんな自分すら守れないもののなにが、力なのか。人の理性を奪い、おびき寄せて情欲の虜にし、乱痴気パーティーをところ構わず開催させてしまうゴミのような――。

「――あ」

 乱痴気パーティー。思い浮かべた言葉に千代子は思い至る。生臭いものが、ぱかりと開けた口にしたたり落ちるのも構わず考える。その空いたところにすかさず別のおぞましいものがさし込まれても、思考は途切れない。そうだ、壺井あさぎが口にしていた噂にもいた。錯乱したあさぎは――そこに黒いセーラー服がいたと、口走ってはいなかったか。

 魔法少女に混乱をもたらし、計算を狂わせ己の身を貶めるだけの魔法。あの人に抱いていた怒りは、ひらめきによって理解に、悲しみに、そして迷いに変化していく。

 他人の体液に文字通り溺れ、空腹の失せていくみじめな体で千代子は考えを纏めていく。そう、この場所に先輩がいたのだとすれば。何を考えたのか、考える。

「せんぱいは、これがいらなくて――、だから――」

 かちかちとピースが埋まっていく。

「適当に、だれでもよくて、たまたま、私をつかまえて――」

 作らなかった方が良かったパズルなのかもしれない。

「この力を、私に捨てたのですね――」

 できあがった絵に絶望と名前を付けた。

 ろくに動かない方の腕を首元に当てる。力は入らずとも苦しくて、食道からさっき飲まされたろくでもないものの臭いが上がってくる。いくら咳をしても粘つく喉。しかし、こんなもので呼吸は止まらない。死ぬ理由には足らないではないか。

「ああ――」

 やがて、際限なく情欲を弄ばれた累々は砂利の上で力尽きていく。はだけた胸も背中も起伏を繰り返している。空腹はどこにもない。このからだは、あんなにも忌避した人の熱と汚れで充ち、喜んでいる。捨てられたもので救われ、迷わされ、貶められ、また救われている。

「……ちきしょう」

 ぽつり汚い言葉を吐いてみると、少しだけ強くなったような気がした。

 怒りも悲しみも迷いも、全部混ぜたその薄汚い塊を胸の裡に収めてみると、すんなりと入っていくようなそんな気持ちになった。

 泣きたくて、ムカついて、どうしていいかわからない。自分をこんなに弄んで、ほったらかしにした先輩の声が浮かぶ。あの人はどうするのだろう。こんな破滅的な時、何を思うのだろう。こんなものをいっぱい抱えていたあの人は、きっと――きっと? 想像もつかない。

「――あはは」

 そうだ。きっと、笑うしかないのだろう。だから、先輩は笑っていたじゃないか。

 

「ああ、ああああ。あははははははは、ちきしょう! ちきしょう!」

 

 千代子は今一度、汚い言葉を吐く。

 あまりにおかしくて、笑えるように。

 

               ◇

 

 道を決めてしまえばどうにかなると、千代子はどこかで高を括っていた。だから、いざ行動に移そうとなるとどうしたものか迷った。なんといっても千代子が探しているのは「魔法少女」なのだ。どうやらその端くれになったとはいえ、その魔法は捜し物に全く向いていないと思われた。だが――千代子はそこで自尊心を爆発させる。それは端から見れば盲目な恋の思い込みでしかないのだが、どのみち結果はオーライだった。

 千代子は同じ制服――それはだいぶ汚れてしまっていたけれど――をカサに学校の寮に侵入すると、またぐらにツバで濡らした指を差し込んでかなり強引に魔法を発動させた。淫靡の花園と化した寮の中で、第一侵入先の宿直室で拾った簡易酸素ボンベを片手に理性を保ちながら、みるみる獣と化した女子たちの間を縫って目当ての部屋に転がり込んだ。槌田紅実と少なからず関わりのあった委員長鷺沢の部屋であった。人の名前やツラを覚えない千代子になじみがあったのは、彼女の背格好が学年を合同にした列で前後する程、たまたま似たものだったからだ。

 鷺沢本人は今、食堂で開催されている淫らなサバトの主役となって、体中を水浸しにしている。大人しく、理知的で穏やか、万人に慕われる人格者が率先して嬌声を挙げていた。

 窓から脱出し、チョコレートの靄を回収する。魔力と呼んで差し支えなさそうな、なけなしの充足感。そして全身を荒縄できりきりと締め付けられるような容赦のない快楽を取引し、そのおつりに鷺沢の制服を一着、その他必要そうなあれこれを失敬した。

「――ふぁ」

 一段落したところで甘い吐息。唇を舐める。千代子は快楽を楽しみコントロールすることもある程度出来るようになっていた。他の生き物を身の中で飼っている感覚に近いのではないかと千代子は推論する。生き物であるから、たまに言うことを聞かないけれど。生き物であるなら――千代子は、そういった愛玩動物の類が嫌いではあるけれど――意志を通わせ、従えることができるのではないだろうか。やはり左腕が、疼く。

 

 鷺沢の制服は過不足なかった。アンモニア臭い自分の制服を川辺で焼きながら、地図と住所を照らし合わせる。住所は槌田紅実のものだ。この騒ぎで、もっとも多くの人物と関係を持っており、なおかつ安全なのがこの隣人だ。

 千代子の目的は一にも二にもなく、先輩との再会である。見つけて、会って、そしてどうするのか。そんなの、わかるはずない。恨み言を言うのか、それとも、友達の敵を討とうとでもしてみようか。

「討つカタキなんて、ありゃしないけれど」

 そもそも、あんな神出鬼没の魔法少女(バケモノ)をどうやって見つけるというのか。先輩は「千代子のことを食べることはない」と言っていたように思う。逆に言えば、他のものは食べる可能性があるということだ。千代子の仮定「魔法少女が、魔法少女を食う」ことが正しいなら――。

 あの日、何故か食べなかった食べ残しを、取りに来る可能性があるのではないか?

 そう、壺井あさぎ――。彼女につながる――槌田紅実。

「――遠いわね」

 千代子は、溜息を吐く。胸の奥が焦げきってかさかさと痛む。

 けれど、ともかくこれしかなかった。

 そして同時に、盲目の恋は確信している。

 槌田紅実に殴り飛ばされ、死にかけていた千代子を治療した、その優しさを担保にして。

 

「――会いにきて、くれますよね? 先輩」

 赤い糸はきっと、繋がっているのだと。

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 槌田紅実は倉庫の建ち並ぶ場所にいた。

 指定された場所は倉庫だった。名前を聞いたことがないけれどどうやら食肉業者の冷凍倉庫らしかった。

「……やっぱハメられたんじゃねえかなあ」

 槌田は頭を掻く。セキュリティ会社のシールがそこらにギラギラ貼られていて、勇んでやってきた槌田のやる気をはなっから折って回っている。着けばもう十時半近くで、だいぶ暗くなってしまった。迷走するメールの場所指定に翻弄され、お陰でずいぶんと歩かされた。

 やっぱり帰ろうかと挫けかけたとき、またメールが来た。

 ――ここの倉庫はセキュリティがかかっていません。

 ――シールだけなので安心です。G倉庫です。

「……マジかよ」

 並ぶ倉庫。月明かりと携帯の光を頼りに歩く。セキュリティがないとかいうのは本当なのかわからない。けれど、警備員の姿ひとつ見あたらなかった。

 槌田は背筋に薄ら寒さを感じる。背後に視線を人の気配を感じて振り返るけれど、そこには闇があるのみ。携帯の光を向けても何も見あたらない。奥歯を食いしばっても、「尻尾を巻いて逃げ帰り、布団を被ってガタガタ震える」が第一希望に踊り出てしまう。

「ま、ここまで来ておめおめ帰るのも、なんだしな……」

 下唇を噛んで、なけなしの勇気を振り絞る。この世ならぬ者の存在がこの携帯の光がとどかない夜の闇の向こうにいる気がして仕方がない。デカい長方形のケーキ箱みたいなコンテナ倉庫が威圧感たっぷりに並んでいるのもまずい、その隙間になにかがいる気がしてしまう。

「どれが……Gだって……?」

 ――みっつだ。

 槌田は先に決めてしまう。みっつ。みっつさがして、G倉庫とやらが見つからなかったら帰ろうと槌田は自分に約束する。人気のない闇の中、最初のコンテナ倉庫の壁を探る。

「……あちゃ、ビンゴ」

 引き攣った笑いが出る。悪運だろうか、月明かりの中に浮かぶGを早速引き当てた。念のために隣の倉庫も確認してみると同じフォントのFがいる。どうやらこれで、間違いなさそうだと思った。指示をくれていたメールはもう来ない気がした。この中にいる。

「なんだ……鬼が出るか……蛇が出るか……ってか」

 ゆっくりと倉庫の鉄扉を前に押す。

「……あれ」

 開かない。では、と後ろに引いてみる。

「おいマジかよ……鍵かかってんじゃねえのか……」

 隙間からは薄く灯が漏れている。罠にしろ、招待されているにしろ、客が来ているんだから錠前くらいは開けておくものじゃないのかと悪態をつく。最初は音を立てないように試していたのに、いつのまにか槌田の頭には血が上ってギシギシと音を立ててしまっている。だから、槌田は後ろから忍び寄る気配にまったく気づいていなかった。

「……それ、横にスライドさせるのではないの?」

「ゃ――――ィひイッ! ――!」

 この世のものとも思えぬ声が槌田の頭から出た。腰を半分抜かして膝をすりむきながらFのマークが付いた倉庫の方へ体をゴロゴロ転がしていく。転がりながら槌田は考える。――なんだ、いまのなんだ。今の声、何だよチクショウ。やっぱり罠だったんだああもう大人しく警察に相談しときゃ良かったん――。

「ちょっと! あなた! 静かになさいよ……!」

 ――静かにだとちくしょう! ああ、やっぱり口を塞ぐ気だな! この世のものでもないくせに……指定革靴なんか履きやがって! ――……。

 槌田は毒づき、暗闇を倉庫外壁のトタンにぶつかりながら歩いていく。その中で自分が怯えているものの歪さに気付く。それはこの世ならぬものでも、警備員でもなかったのではないか。証拠に、どこかで聞いたような声を掛けてきたではないか。指定革靴なんか、履いちゃって。

「あなた……槌田!」

 呼ばれて振り向くと、下側から光に照らされた少女の顔が闇の中のちょっと高いところに浮き上がっていた。暗闇の中でよくあるイタズラではあるが、今のビビり若干入った槌田にはちょっと刺激が強いところに刺さった。角度がともかくまずかった。アオリでちょっと顔を前に出したところだったから、生首が闇の中で浮かんでいるように見えてしまった。

「あっ、ひっ、あ――――ッ!」

 槌田はもはや泣きそうになっていた。あーばかあんぽんたんとーへんぼくやっぱり化けもんじゃねえかアホーッ! を悲鳴に乗っけたつもりになり、この上は舌を噛んで化けて対等の立場になってからタイマン張ろうと考えるに至ったところで、がっしと肩を掴まれた。

「ちょっと……! いい加減に落ち着きなさいなっ」

 そいつの懐中電灯が落ちる。明かりに照らされればわかる。それは見たことのある顔だった。

「――お。お前ッ! か、かか、かっ、片岡!」

「ご挨拶な反応ですね……」

 片岡千代子が、ご丁寧に制服で立っていた。槌田は今までビビっていたことなどどこ吹く風で跳ね退き、片岡をぐっと睨み付けた。

「……ふん」

 千代子はそんな槌田に鼻をむけると、落ちた懐中電灯――マグライトを拾い上げて、くっとひねって消してしまう。

「わ、わ。なにすんだ」

「別に、なにもしはしませんよ……あなた……意外とおビビりさんなんですね……。存じませんでした」

 そう言ってマグライトを再点灯、小馬鹿にしたような片岡の顔が浮かぶ。

「――うっせ」

 ――そんな顔、できたのかよ、お前。

「シッ!」

「ンだよ!」

「聞こえないのですか? 足音!」

 片岡は押し殺した声で槌田を制止したあと、すぐさま槌田の手を右手で引いて、倉庫の切れ目に駆け込み、マグライトを消し、さっきまで二人がいた場所に顔をゆっくりと覗かせる。その一連の動作に槌田はぎょっとさせられる。

「お前……」

 槌田は片岡に声をかける。

「何ですか……今、音立てない方が身のためですよ……」

 たしかに片岡の言うとおりだった。音と光が近づいてくる。

 じわりと近づいてくる誰かの気配を探る片岡の横顔のあたりを、慣れてきた目と月明かりで眺めながら槌田は「あれ、なんでこいつのこと嫌ってたんだっけ?」なんて気分になっていたし同時に「こいつ、こんなんじゃなかったよなあ?」という感想も抱いていた。

「おまえ、ホントに片岡か?」

「……どういう、意味? ああ……生きていれば、変わるものではないかしら?」

 抑揚はない。表情は判らないけれど、また鼻で笑われたような気がした。

「あのさ……おまえなのか? その、殺したの」

「――私は、まだ。しッ!」

 否定。そして空気を吸う音。「まだ」ってなんだよ。

 槌田は壁の向こうを下から覗き込む。光が見える。老いた警備員が首を傾げながら見回りをしていた。懐中電灯の光をちらちらとさせて戻る途中。老警備員はさっき槌田が開けあぐねた扉の前でふと立ち止まった。

 そこは警備員たちにとって特に気にするべきでない場所。開いていようが、閉まっていようが、明かりが付いていようが、特に管轄ではないから責められはしない。だが、老警備員は立ち止まり、しばらくぼうっとそこに立っていた。

「……あの扉、開いてるわ」

「……閉まってたじゃねえか」

「横に引けば良かったんです。」

「……あ、そういうことかよ」

 槌田は自分の顔が赤くなるのを感じる。ここが暗闇で顔を見られずに済んで良かったと思う。

「なあ、尾けてきたのか、おまえ」

「そうよ……あなた、本当に気付かなかったの? あの人、入ったわ。何故ここに来たの?」

「お前こそ、なんでだよ。あたしは、その、呼ばれたから――」

「! ――だ、誰に……ッ?」

 通路を見ていた片岡がすっとこっちを向いた。表情が判らないほどの暗闇なのに、槌田はその眼力に気圧されているような気がした。だからつい、そのままのことを喋ってしまう。

「つ、壺井に」

「壺井……ああ、壺井さん……? そう……あの子」

 片岡の声色に今までのものとは違う柔らかさが浮かんで、少し訝しげな色を混ぜて消えた。加えて期待とは違う答えに対する失望の色が見て取れる。

 槌田はその反応に意外さを覚える。

「あの日、一緒にいたんだろ? 」

「そうよ……ここに壺井さんが居るの? それなら、好都合ね」

 どうして、当たり前の事を聞くの? と、これ以上話すことはないと言わんばかりの口調だ。

「好都合って、なんだよ」

「壺井さんには用はないのだけれど……いいえ、あなたに話す必要がないわね」

「……ああ、そうかよ。ほんとシンキくせーなお前」

 片岡と会話するのは癪だったが、もうひとつだけ聞いておかねばならないことがある。

「なあ、中村のことは? あそこに、居たんだろ?」

「――知らないわ」

 逡巡があった。それが「そんなヤツ知らない」なのか「どうなったか知らない」なのか「とても言えない」なのか槌田には判別が付かなかった。

「……ねえ、おかしくはない?」

「何がだよ」

 槌田は、目の前にいるこの片岡千代子の変貌こそおかしいと思っている。そういやさっき槌田の手を掴んで走った。こいつはいつも他人とかそういうのに触れることすら怖れて、びくびくと生きていたではないか。アルコールの入った小瓶を、持ち歩いてたではないか。

 それが今は、まるでイキイキしているように見える。

「あの警備員、出てこないわ」

「中、全部みているんじゃないのか……? 結構広いんじゃねえか」

「はたして、そうかしら」

 すっ、と扉の方に歩いていく。

「おい」

「確かめるだけよ、あなたは来なくても良いわ。だって、まだ生きてるんでしょう?」

 片岡の手でマグライトが再灯させられる。片岡はこっちを向いている。凛とした、思い詰めたような表情で。その顔で『まだ、おめおめとおまえは生きているのか』とそう言われたような、気がした。友人を失って、まだ。

 じゃあ。

「な、なあ、片岡」

「なに、あなたもう――帰ったらどうですか? 呼んだ人はここに居なかったのでしょう?」

 面倒くさそうに片岡は振り返る。マグライトの灯が足下を照らす。槌田の足は震えていた。弱さを照らしてなお平然とする片岡千代子が凛々しくて、だから悔しくて震えている。

 槌田は片岡に尋ねる。うつむき加減で、頭を垂れて。

「いま、どうしてるんだ。お前……」

 片岡も失踪していることになっているのだ。ただ、失踪届も出ていないと刑事は言っていた。だから気になった。気にしようと思った。こんな性格の悪いヤツ、誰も気にしてくれるヤツはいないのではないかと、槌田は思ったんだ。

「それが、あなたに何の関係が? 」

 瞬殺だった。振り返りもされなかった。本当になぜそんなことを聞いたのか後悔する。もっと重要な事を言うのではなかったのか。片岡は返事をするのも無駄だったと言わんばかりに小首を傾げ、疲れたように息を吐き、そこで満を持して綺麗に回れ右をした。

 その溜息の付き方だけは、以前の片岡と似ているような気がして、すこし槌田は笑む。

 俯いた首を上げると片岡はもう、開きっぱなしのG倉庫扉前に差し掛かっていた。つばきをひとつ飲み込んで、槌田は片岡を追いかけた。

 

「血の臭いが、するわ」

 

 片岡の押し殺した声。タイミングはきっと最悪だった。横にスライドして開いていく扉の中では、趣味の悪いグロテスクな演劇のクライマックスがまさに上映中だったのだ。 

 肉の潰れていく音がして、すり切れた皮膚と、苦悶の表情が渦巻く陶器に飲み込まれていく。

 

 

 大きな白い壺が、人を食っていた。

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 あの日から、槌田紅実の周りは静かになった。

 

 事実だけを述べるならば、白中、学内の血の海の中で全裸の女子高生が倒れていた――。これだけでワイドショーは総動員だ。それに加えて、その血は誰のものかわからない。時を同じくしてその女子高生と関係の浅からぬ同級生・中村紫乃が失踪している。猟奇的でミステリアスな事件が憶測と嬌声をまぶされ、無責任な喚声が響いていた。

 中村紫乃をその現場にいた者以外で最後に見たのは槌田紅実だ。事件直後錯乱状態だった壺井あさぎは一旦自宅に帰されたものの、その翌朝家族全員がまるごと消失した。大量の血液で部屋は真っ赤だったという噂。あさぎの自慢する三人きりの仲良し家族のうち、二人分しかDNAは検出されていないという。廊下の状況と酷似していることから、目下警察はあさぎの行方を探している。監視が甘くて責任問題にも発展しそうだと刑事がベラベラ喋っていた。「あさぎはバカだし、そんなことできるはずねーだろ!」と紅実は叫び、取り押さえられた。

「じゃあ、クミちゃんはさァ」「その呼び方やめろや、オッサン」「失敬、じゃあ、誰が友達を殺したのかなぁ?」「そんなの……あいつだよ! あいつ! 片岡!」「ふーん、本当に?」

 あいつがいかにいけ好かなくとも、こんな怪奇事件を起こせるようには思えなかった。

 その夜、当の片岡千代子も消えてしまった。時を同じくして、彼女が身を寄せている遠戚の家の近くの公園で、先日隣町で起きた野外乱交パーティー騒ぎとよく似た事案が発生した。その片岡千代子の見張りに付いているはずの刑事がその現場で下半身丸出しにしていたもんだから、捜査本部は大苦笑中ということだ。詳しく聞いても刑事はニヤニヤするばかり。

 片岡千代子はもとより他人と接触が薄かったためか、事件後、あらぬ噂を立てられていた。しかし、噂ばかりで彼女についてはどうも報道があさぎの件がセンセーショナルなこともあってか、他人に比べてぼやけているように感じられた。

 結局、噂ばかりが暴れ出す。事件の朝、電車の中で――その――かなりいかがわしい行為をしていたとか。そしてそこにはあさぎも居たらしいこととか。この辺りのいきさつはよくわからない。その電車はあさぎが全裸で見つかった二時限目よりもだいぶ早い――ダッシュせずともどうにか間に合う朝のラスト一本だったし、それに乗り合わせた乗客はこぞって肝心なところをぼかして他人事のような供述を繰り返すばかりだったという。

「は――……」

 槌田紅実は行き詰まっていた。ポテト菓子をついばみながら、溜息をついていた。

「ん?」

 携帯電話が震動した。知らないアドレスから、題名のないメールが届いた。

 ――クミちゃん?

 舌打ちをして即座に閉じる。まったくタチの悪いいたずらだ。だが「クミちゃん」はアタリである。そこに敬意を表して槌田は渋い顔のまま、ベッドの天井に足を伸ばしながら「誰?」とたった二文字の返信を決める。予想に反して、返事が来た。

 ――壺井あさぎです

 槌田はもう返事をしなかった。けれど、続きのメッセージは続々と届く。

 ――いろいろ、あやまりたいことはあるけれど

 ――いまからいうところににきてください

 あさぎのメールがこんなテンションであるのを槌田は見たことがなかった。だから偽物と断じることもできた。あさぎがしきりに「クミちゃん」と呼んでいたことは、誰でも知っていることだ。だから、例えば、この騒ぎの渦中で唯一「生き残っている」槌田を追い詰めたい奴が居たとしたら――こんなメールを出してくるかもしれない。

「はー……そんな暇なヤツ、いんのか?」

 それに、クラスとか学校の中にそのイタズラの主――もしくは主犯がいて――その上でこのメールを寄越すとしたら、きっと槌田が学校にいる間にだ。反応が見えなければ、こんな悪戯はつまらないに決まってる。

「一番良いのは、警察……か」

 ニヤニヤ笑いの刑事を思い出す。癪だが、あのおっさんにこのアドレスをくれてやれば、持ち主を割り出してくれるのではないかと思えた。

 だが。槌田は思い直す。中村のからっぽのメールを思い出す。あれが、本当は空ではなくて、もし、中村のまわりくどいSOSだったとしたら――。

 実は、その事がずっと、後悔になってこびり付いていた。中村が消したペンケースは返ってこなかった。大した物が入ってたわけではない。でも、あれを「まあいいや」と軽んじてしまったがために、中村は消えてしまったような気すらしていた。

「……しゃっ」

 時計を見る。午後九時。ここからは不良の時間だ。

「上等だろ……」

 窓の外を見る。昨日まであからさまに隠れることなく槌田家に貼り付いていた黒いクルマが停まっていない――。好都合。

 槌田は準備もそぞろで、家を飛び出した。

 その後ろからひたひたと忍び寄る影に、気付かずに走る。

 

 その影も槌田も知らない。

 電子機器を一本指でおっかなびっくり扱う真田瑛子が、電柱の上を舞っていることを。

 月明かりの下に巣を張って、楽しそうに笑っていることを。