A ソルベット・リベット/0
燃えさかる炎を少女は眺めていた。
クジライがコーヒーを淹れる時、下唇を突き出しながら眺めてるコンロの青いヤツとは全然違うニオイがした。そいつらは黒い煙をもうもうとあげて、少女の住処を食い荒らしていく。白い家と灰色の壁にまとわりついて何色だったかもわからなくしてしまうのだ。
ほっぺたが熱くなって、まばたきをして、泣きたくもないのに自然に涙が流れて、そこでようやく少女は自分が何かを握りしめていることに気付いた。
これから成長することを期待される華奢でちいさな身体を寄りかからせていた木の――枝と呼ぶにはいささか大きい。目の前の炎に投げ込めば燃え尽きてしまうだろうけれど、自分の身体を支えることは出来るそいつのことを"杖"と呼ぶ事にした。
「大変なことが、起きてしまったわ」
テレビで観たセリフだ。少女はその言葉をカッコイイと思っていたから、それを使えて少し嬉しくなったけれど、口を不用意に開いたことで入ってきた熱気と煙に驚いて、いつから一緒にいたのかわからない不思議な杖と一歩後ろに退いた。
けんけんとひとしきり噎せる。炎は熱くてだらだらと汗は流れるし、不吉なオレンジ色と煙で目が見えなくなりそうだ。きっと煙を吸い込んだり、この中に飛び込んだら死んでしまうだろう。だから、近づいてはいけないし、逃げなくてはいけない。
「――死ぬ?」
こんなにも熱いのに、小さな身体が寒気で震えた。「ねえにいさま、死ぬってどういうことかしら?」少女はそんな質問をしたばかりだ。
「なにもなくなるだろう、ぼくは死んだことがないからわからない。死んだ人は誰も教えてくれない。それが答えだよ、マナカ」
兄は少女相手でも容赦も逡巡もなしにそう答えた。少女は賢かったから、死が個人の終りであり、人はそれを恐れて逃れるべきものだと悟った。そして、人はそれを克服してコーヒーを淹れることまで、少女は繋げることができる。それでも、油断してはいけないのだ、目の前で暴れるこの姿になったら、いかな賢い人間といえども、終わりへと誘われてしまうのだから。
――だのに。
少女は一歩下げた足を前に出す。炎はより一層強く死をくすぶらせているから、それ以上前には進めない。そう、人間は、こんなところに居れば逃げなくてはいけない。緑色のプレートに描かれた人間の模式図はそこかしこで『ここから逃げて生き延びろ!』と叫んでいたはずだ。横を通る度に押したくなる赤いボタンも、天井に点けられたちいさなUFOみたいなものも、すべてこれを支配しコントロールするための装置のはずだ、それに助けられて、思い出や、財産を失っても、この破壊がもたらす最悪のもの。終わり。続きがないこと、続きがないことを知ることもできない恐怖から逃れるはずなのに。
「なんで……誰も、いないの?」
この広い敷地の白い家、にいさまやクジライやミマサカが"研究所"と呼んでいた少女の家が失われていく。少女だけではなく、彼女や、その周りの人々が日々の暮らしを営んでいた。なのに、誰ひとりとして、辺りにはいない。
「兄様! クジライっ! ミマサカぁ!」
返事はない。炎が、全部飲み込んだ。悲観すると、それとともにじわじわとしみこんでくる絶望にあわせて、一歩、また一歩と足が下がる。目が覚めたときに不安すぎて手に取った木の杖をまた強く握りしめる。じっとりと汗が滲む。木材がなけなしの冷たさで少女の冷静を誘う。
少女が倒れていたのは、研究所の裏口近くだった。山の中腹にあることは知っていたけれど、少女は外に出たことはなかった。研究所にはいくつも白い家があったし、知らない人もいっぱい居たし、なにより少女はみんなに大事にされたり、なんとなく遠巻きに見られているのを知っていたので、外に出ようという発想はなかった。友達は欲しかったし、海も見たかったけれど、クジライの買ってくるケーキはおいしかったし、ミマサカの話は面白かったし、兄様のことは大好きだった。
ドアノブは回りがわるく、もう熱を帯びて汗をかいている。手が震えて、滑って、うまく開かない。正門に回ったら人がいるかも知れない。正門なら開いている可能性が高い、炎に巻かれてしまう確率の方が高いだろう。
「あっ!」
少女は、扉を押そうとばかりしていたことに自分で気付いた。なんていう初歩的なミスだろうと自分を戒める。押してダメなら引いてみるのだ。――けれど、引いてもドアは開かない。熱でドアが膨らんだのか、長く使っていなくてドアノブが回らないのか、そもそも鍵がかかっているのか。
「あ、あ、どうしよう」
背中に熱が迫っている。少女は「燃える物もないのに、何故こんなにも炎が大きくなるのか」と疑問に思う。
「うそ、やめて」
炎は、ドアを隠すように生えた樹を飲み込んだ。意志のある蛇のようにとぐろを巻いた炎は、そのまま、少女を丸ごと飲み込んで行く。
少女は、ある程度覚悟し、来るべき苦痛に備えて意識をどこか遠いところにやってしまおうとした、その時。
――"糸"
少女は、呪文を口にしていた。
――"繭"
杖に巻き付いていた一条の細い糸に気付いたのは、その時がはじめてだった。唇からひとりでにこぼれたひとつめの呪文で、糸は意志を持つかのように螺旋を描いて少女と杖を繋ぎ、そのまま力強く放たれたふたつめの呪文で、頼りなく螺旋を描いてふらついていた糸は繋がったまま二手に分かれると、認識できぬほどの速さで互い違いに交錯し、瞬く間に人ひとり入れるほどの蚕繭(さんけん)にその姿を変え、炎が少女を食い殺す前に少女を優しく包み込んだ。
「――!?」
炎は、温度を上げたのか青白く輝くと、そのまま少女とドアを飲み込んだ。ドアは恐るべき速さで炭化し、ドアノブは融解していく。少女を守る繭も熱に煽られてじわりと歪んだ。
少女の身体が動いた。計算と言うよりは、熱の来る方向から逃げようと体重を移動させると、そのまま朽ちたドアを破って研究所の外へと転がり出すことに成功した。
繭の侵食は、止まった。
――"糸""解除"。
口から呪文が漏れた。少女を包んでいた光の衣は解け、元のように糸に戻り、螺旋を描きながら杖の飾りとなって巻き付いた。
「ぷはっ、は。苦しっ!」
夜の森に冷えていく頬にさっきまで浴びていた熱の異常さを伝えてくる。白い土壁がしずかに燃えている。炎は白い壁の内側だけをきれいに嘗めているように見えた。その中にあるものを一つ残らず焼き尽くそうとしているようだった。
「なんで、なにこれ……」
マナカの過去が、燃えていく。
◇
少女の名は、マナカという。
マナカは記憶を辿る、兄様の部屋に行ったのだ。たまたまその日は鍵が開いていたのだ。ミマサカがしてくれた授業の後だった。あとでミマサカが怒られるかも知れないなんてことに想像が及びながらも、兄様を驚かせてみたくて、兄様の部屋に忍び込んだ。兄様はいなかった。その部屋には何度か入った事はあるけれど、難しそうな本ばかりが並んだ本棚、緑のケース、無骨なステンレスの装置がいっぱい、ガラスのドラフトケース。ベッド。小さいときは気にしなかったけれど、ここは薬と緑の匂いがとてもつよい。部屋に入ると違和感を覚えた。兄様は足が悪い。だからいつも杖をついていた。その杖が床に落ちていた。自然木を加工したその杖は持ち手を革で覆って、手にかけられるよう絢爛な紐が付いている。マナカはそれを行儀悪くも、足で跳ねさせて手元に引き寄せた。
「兄様の匂い」
細くて長いものを持たされた子供のすべてがそうするように、マナカも杖を持って、切っ先を掲げる、ジャンプしたって天井にはとどきやしないけれど、兄様の机の上にはガラス製品が所狭しと並んでいる。分厚いラップの帽子を被せられたいくつもの器具を倒して、兄様を悲しませないよう、そおっと遊ぶ程度にはお姉さんなのだ。
その中にアルコールランプがある、使い方はよく知っている。マッチは怖いけれど、引き金を引くだけで火が付く道具の置き場所を、マナカはちゃんと覚えていた。ビーカーに鉄の袴を履かせた自分のコップを取り出す。コーヒーは苦いから、クジライに頼んで買ってきて貰ったココアの粉を用意する。粉をミネラルウォーターで溶いて三脚台の上に置く。
一呼吸。誰もいないのにきょろきょろと首をふってから、むふーと鼻息を吐いておもむろに。
「マジカル・ケミカル・ふれいむおーん」
それでも、恥ずかしいのでちょっと小声で。左手に杖を、右手に着火装置を持って、アルコールランプに火を付ける。魔法だ。教育ビデオの他に、ミマサカが用意してくれた娯楽ビデオの中には、マナカと同じ年頃の女の子が魔法を使ってみんなを助けたり、人類の危機に立ち向かったりしていた。その姿に、マナカは憧れた。
人間は、魔法を使えない。
使えないからこそ、それに憧れる。燃え立つアルコールランプを眺めながら、そんなことをマナカは考える、これだってマナカにとっては魔法のようなものだ、だから、いつか今の世では考えられないような奇跡を、魔法みたいに使えることがあるかもしれない。
だから、マナカは魔法のことをいつも考えている。兄様にもいっぱい話をした。マナカの考えたすばらしい魔法の数々だ。魔法の糸で織られた魔法の布でいつも新しい服を着ることが出来る。魔法の鞄にその服をしまって、空を飛べる靴に変わって、同じ革でできているから鞭にもなって、悪い人とそれで戦うことが出来る。
――そんなになんでもできるのかい。
「もちろん! 私は万能なのだもの!」
万能。という言葉がマナカは好きだった。
沸き立ったココアパウダーと少しのお湯をガラス棒でやけどしないように練り、また、水を足して火にかける。
あとはほんの少し待つだけだとばかり、マナカはベッドに腰掛ける。ベッドというのもまた、マナカは魔法なのだろうと思う。だって、途端に得も言われぬ安堵に充たされてしまうのだから。
ココアなんか淹れてくつろごうとしてしまっているけれど、本当は、計画としてはベッドの下か、本棚の間、ドアの裏辺りに隠れて、自分の居ないときの姿を観察して、じっくり楽しんだところで脅かすつもりだった。
「うん……」
瞼がひっきりなしに降りてくる。
「だめよマナカ、あぶないから火を消さなくては」
杖の持ち手で頭をこつこつと叩いてみる。ここで寝てまっては、当初の目的を果たせないし、クジライが先に自分を見つけたりなんかしたら、また額に「ホットケーキ」とか書かれてしまうんだろう。マナカの頭の中は、バターとハチミツとホイップクリームとブルーベリーのジャムを載せた、贅沢なホットケーキのことでいっぱいになっていく。
目が覚めたら、火の海だった。