N テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/3
テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/3
今から――あのトイレの中で。
年下の子に弱みを握られたあたしが――。
甘い声をあげて、それを全部映像に残されて――。
今度は、街中を、コート一枚で――。
寒くて――、粗相してしまう八頭佳恋――。
そして、お仕置き――。
その予告みたいな映像を、他人事みたいな総集編でずっと夢と見ていた。あの四階のトイレに行く途上で、佳恋はずっと、自分のそんな行く末を頭の中で想像していたんだ。
「――あれ」
八頭佳恋は、トイレでも、図書室でも教室でもないところにいた。草原のようだった。まるで夢の中か、幼い日の記憶のような曖昧な世界の輪郭。
白黒かと思えば、ふかいふかい緑色の空間のようでもあった。認識するとこの緑色はすぐさまはっきりと、零した水性絵の具のように拡がっていき、のぼせかけていた佳恋に、即座にある人物のことを思い出させた。
「――真田さ……!」
声が出た。明らかにおかしい世界の中で、声が出ることを不思議に思った。意識できないというよりも「意識が向かない」世界。佳恋が生きてきた中で思い当たる節はひとつしかない。
「――ようこそ、カレン! キミのノゾんだ。ボクの景色だよ!」
案の定だった。
しかし、佳恋は今四階に向かっていたはずだ。施設棟の四階に。結と逢瀬を重ねたあの場所で、結に最後までシてもらって、育て上げられた風船を空に放って、飛べるはずだったんだ。
「――あなた、なんなの。結は」
さっきまで――いや、あれからどれくらい時間が経っているのか、まったく佳恋にはわからなかったけれど――あんなに佳恋を蝕んでいた熱は、もうどこにも見あたらなかった。
「――ボクは、ボクさ」
声はするが、見えない。どこからの声かもわからない。そもそも、声なのかもよくわからない。ただ、その端に残念そうな感じがあることに佳恋は気付いた。
長く付き合ったわけではないけれど、それはとても珍しいことなのではないか。口には出さなかったけれど、直感で佳恋はそう思った。
「ここは、ノドかで――ワルくなかったんだ! けれど――ああ、これは、カレンをナジっているわけじゃないんだ。でもね――ボクはキミらのムツまじさに、カスかにサワられてしまったんだよ――」
「――なんの」
「ユイは、かわいいからね」
佳恋はその名前を聞いて、胸の内がぐるぐるするのを感じる。わけのわからない真田なんかに、その名前を唱えられるのがひどく癇に障るのだ。そして真田が、自分たちの逢瀬のことを知ってしまっていることも――いまの一言で視えてしまった。
「真田さん、あなた――! ゲッ」
縄が佳恋の喉を捕らえていた。
「アバれないで! 今ボクはコウじているんだ。キミのショし方を! 本当は、あのミダらの続きをキミにテイしてからでも、カマわなかったんだ!」
「――ゲ」
いつのまにか佳恋の四肢は封じられていた。それは数多の縄のごときもので、結が縛ったそれらとは違う無数の蹂躙だった。たどたどしさも、それによる微笑ましさもない。ただ緑色の縄が、ありもしない服の中へずるずるとためらいもなく、じらしもなく、ただ犯すために入り込んでくる。そこには快楽も痛みもない。ただ押しつぶされそうな圧迫感。
「――イッ!」
女同士のじゃれ合いでは、生まれない痛み――。
「――これくらいは、モラってもいいかな」
「なんで――ひどいよ――」
「ああ、キミはニラんでる。ボクをコクでハクだとソシる! もっとハヤくツカえにナラえばゼンだったのだけど! ――このフルえをボクはオソれたんだよ、カレン――これはボクのマミれなのかもしれないね。ボクもまだ、ボクのままなんだ」
錯乱したような言葉を、真田瑛子は朗々とうたいあげる。悲しそうな口調を隠しもしない癖に。踊るように楽しそうな仕草で佳恋を追い詰めていく。
数多の緑色の縄は、結が結んでくれたたどたどしいものとはまったくの別物だった。色も温度も、表皮に生えた繊毛すらもすべてが劣っていた。
真田瑛子が踊る度に、一本一本が意志があるかのように。指先や目や唇や、舌や髪の一本一本の先が揺らめくのに合わせて、今佳恋を侵略しているすべての指先が荒々しい蹂躙を完成させようとする。
「ツラいなあ」
歪で、歪んで、焦点も輪郭もはっきりしないこの世界の中で、死の予感だけが確かなものだった。
「――もうツイをヒラいてシマおうか。さあ、目をヒラいて――カレン!」
言われずとも佳恋の目はまだ開いている。
背景には変わらぬ緑色の草原、緑色の空、雲の形は古城のようでもあった。ぼやけているのは佳恋の能力が故か、何もわからない。目を細めると何かが結像したような気がした。
「――――ぁ?」
一瞬の少女。一瞬の屋上。佳恋の首を絞めているのは、ささくれだった縄でも、繊毛を生やしたしなやかな蔦でもなかった。それは、たった二本の細い腕。ダサくて緑色でもないくたびれた黒髪の少女が、奥歯を食いしばりながら細い腕に精一杯力を込めていた。
こんなかよわい拘束、すぐにでも抜け出せてしまえそうに思えた。
「あはは、モガいていいよカレン! でも、キミは相手にされなかったのに――。カナわぬシタいなのに――。ムクわれぬオモいだったのに――。それが、キミだったんだねえ――」
俯いていた少女が顔を上げる。まるで幼いが、それは確かに真田瑛子のものだと佳恋は判じる。
次の瞬間、その顔はずるりと溶ける。六方にシンメトリックな線が刻まれ、肌色が鮮やかな緑色に染まっていく。顔の内側に蔦で出来た渦巻きが生まれ、収縮し、内側の収束点からそれが開いていく。
それはもはや、何者でもなかった。その奥は、まさにあの転校の日に佳恋が見たものと同質の――。
ばけものだった。
その奥の奥から、煤けた声が聞こえる。
「――カレン、キミは――ボクをどこまで、ロウじてくれたかなあ!」
何を間違えたかも、わからない。
返事はもう、どこにも無い。
捕食者と、熟れた餌がいるだけだ。
◇
真田瑛子はひとり施設棟の屋上にいた。
誰も見ていないけれど、はしたないから口を隠してげっぷをひとつ。悲しいけれど腹も膨れた。なら離れるのが瑛子の決まりだ。
くろいくろいセーラー服をはためかせて、早すぎた目と彼女の名前が、瑛子になるのを待っている。
魔法少女がひとり、かりそめに充ちている。
そうやすやすと、泣いたりしない。