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L ステンドグラス・ストラテジー/7

ステンドグラス・ストラテジー/7

 

 八頭佳恋にはもう、三条結の言うことを聞く以外の選択肢はなかった。

 佳恋がこの沼の中に沈まない選択肢はいくらでもあった、選択肢のどれかはもしかしたらこれよりも救われない悲劇が待っていたかもしれないけれど。

 最後の選択肢はとっくに過ぎてしまっていた。それがどの時点のことかなんて、当事者の佳恋にはわからない。けれど、佳恋がこりゃヤバいかもなんて思ったとき、既にスカートには(いかり)がくくりつけられていたんだ。

 錨は底につくまでは――また鎖を延びきらせるまではその存在を主張しない。腰から泥の中に引き込まれたときにはもう。心電図はフラットを表示していたんだ。ハチミツのごとくあまいあまい塩水が、肺をゆっくり満たしていく。苦しくないくせに、こんなにもキモチいいのに、佳恋の身体は確実に水の底に沈んでいくんだ。

 佳恋のうすっぺらいスカートの中では安っぽいピンク色の錨が、笑い声をあげている。

 

「――――ふぁ!」

「せんぱい、静かにしてください、はい、この問題教えて下さい」

 二人は放課後の図書室にいた。佳恋は結の座る机の横に立っていた。図書室に人はまばらながらも、誰もが行儀良く作業や、それぞれの想像の世界に没頭しているようだった。

 それは、二人にも当てはまる。

「ふ――っ……」

「せんぱい、聞こえますよ」

 いたずらな声音とともに、結の暖かい吐息が耳にかかった。佳恋の肌は、つまり耳までも張りつめた状態になってしまっているから、声を押し殺すだけで精一杯だった。

「――うそ」

「うそなんかじゃないです」

 ――疑うんですかぁ? 

 せめてもの平静さを結は乾いた声で打ち捨てる。横に直り佳恋のリボン端を握ってぎゅっぎゅっと引っぱってくる。それだけで佳恋は鼻の奥から熱の塊を垂れ流しそうになるのだ。

「やめ、やめて」

「それじゃあ、きこえませんよ」

「やめて、やめて――ください」

「もうひとこえですね」

 ぐっ。

 リボンが引っ張られる。傍目(はため)にはリボンを結びなおしてあげる先輩後輩の仲睦まじいやりとりに見えるだろう。

 リボンはやがて襟の中に消えていく。引っ張られたリボンに伝わった力は佳恋のうなじを責める。けれど、それだけじゃない。リボンは背中で、上着の内側、ブラウスの外側の隙間を縫うナイロン線に繋がり――腰骨のまた隙間から侵入し、佳恋の全身を下半身から持ち上げるように締め付ける。

 ナイロン線の先に繋がれた縄によって。

「おねがい、おねがいだから」

 たまらず、佳恋は結の手を掴んで、制止しようとする。

「はい、はい、先輩かわいいですよ。そんなにせっぱつまっちゃって。あれ、あれあれなんですかこの手。ナメてるんですか? やくそくしましたよねー」

 そう、この遊びの間、佳恋の手は結に触れてはならない。そういう約束(ルール)を決めておいたのだ。

 だから結はお仕置きの実行にかかる。結にとっては単純な話だ。一緒に決めた約束を破ったのは「先輩」のほうなのだから。

「え、えっ、あっ、やめ」

 佳恋の能力はこの数日で劇的に変化した。変化したのは、きっと結のせいなのだ――。誰彼構わず見ることが出来た隠しものなのに、今では、結が「隠そうとしているもの」しか見ることが出来なくなってしまっていた。

「だめー……ぇ」

 きりきりっ。

 そして、メガネなんか無くても、結のものなら見えてしまう。

 だから、結の身体にかけられた縄も、結が握っているプラスチックのダイアルスイッチも、それによって振動をはじめる結と佳恋の内側の振動体も、すべて(つぶさ)見えてしまうのだ。

 ――――ッ!

 佳恋は歯を食いしばる。身体を強ばらせると全身の縄が締め付けて、さらにその振動体を敏感な場所に押しつけてしまう。

「せんぱい、どうしたんですかァ?」

 結のイタズラな声が、リボンを操る手つきを変える。

「やあ……っ。あ。あ。」

 緩急の付いたたかが二往復、それでも、衆人の目がある中で禁忌を犯している――という状況は、佳恋を思いの外敏感にさせた。腕が跳ねる。シャープペンシルが転がって、落ちる。

「落ちちゃいましたね、拾って、せんぱい」

「えっ……あッ――――ッ」

 手を伸ばしても届かない。床に落ちたそれを取ろうとすれば屈まなければならない。急に屈めば、縛られる。

「はやくしないと、こう――」

「えっ――、だめ、これいじょう――ゆ」

 その時、隣を通った生徒がシャープペンシルを拾ってくれた。

「どうしたの?」

 その生徒は一年で、三条の知り合いだった。

「ん、先輩に教えてもらってんだ」

「へー、でも三条さんって部活入ってたっけ?」

「ううん?」

「じゃ委員会――? なんか先輩具合悪そうじゃない?」

「私がぜーんぜんできないから、頭痛くなったんですって、ね。せんぱい。ごめんなさい」

「――え、はい。ごめんなさい」

「なんですかそれ、先輩おもしろーい。三条の成績上がったらあたしにもお願いしますよ」

「う、うん。いいよ。人におしえてあげられることなん――」

 善意が終わる前に、結がかぶせてきた。

「えーッ! わたしの成績なんて、そう簡単にはぁ――」

 結は話に合わせながら、了解メールを打つときくらい気楽に、手軽に、しぜんに、一瞬で無駄なく鞭を降りあげてノータイムで降りおろしていた。

 黒くて無骨で――でも安っぽい作りのダイアルがその目盛を無機質に増した。

 ――ぁ、くる。

 それが佳恋には見えている。

「――上がらないぞ」

「ごけんそーん」

 ぴりっ。

「――――ッ!」

 信号が飛んできた。その指令はとてもゆっくりとやってきた。佳恋は電波を感じるタチだ。だから着信やメールがきたときは、本人曰く「ピリッ」とした感覚があるのだ。さっきからちろちろと(な)めるようなふるえを佳恋に与え続けてきていたショッキングピンクが容赦なく(は)ぜる。来ることがわかっていたのに――いや、だからこそか佳恋は身構えていたみずからの躰、その表皮で最も敏感な部分への責めを、完璧に味わってしまう――――。 

「あ、あっ――――ふぁ。だめ、だめ……! ――ぇッ!」

 スカーフの先につながれた赤い縄。それと肉の間に小さな爆弾は仕組まれている。さっきからずっとじわりじわり引かれ絞められこすられていた躰と縄の間。そこに(おり)となり溜まった情動が、衝動が、劣情が、衆人環視の中にある事実が、急速に発酵をはじめ、全てがひとところに集まって――、

 

 ――すうっと引いていく。

 

「――どうしたんですか。せんぱい」

 佳恋の身体は小刻みに痙攣している。

 振動は、止められていた。

 結の同級生は、軽く挨拶して行ってしまっていたようだった。三条が楽しそうな目で佳恋を見ている。

「バレてないですよ、良かったですね」

「――あ、うん。え……なんで」

「なんで――? なんでって、なんですか。せんぱい」

 結は本当に楽しそうだった。

「なんで――なんでだろうね……」

 佳恋はヒクつく身体をおさえようとして、もう完全に図書室の机に中腰で突っ伏している。とても真面目に後輩に勉強を教えている様には見えなかった。 

 敗北しかけた自分が、現実に引き戻される。いや「敗北しかけた」なんてうそ、うそだろうよ佳恋、あんたはとっくに敗北を喫している。ただ、目の前の勝利者は、あんたの支配権を実力で勝ち取った王様はね、タダで畑を耕させちゃあくれないってことなんだよ。こうやって、領民は、領民であることを教え込まされるんだ。

「ど、どうもない……よ」

 この強がりになんの意味があるのか、佳恋は王様の顔を見てしまった、今は佳恋が刃向かったような言葉を吐いたことに、不満の表情を見せている。けれど、ほんの一瞬だけど、もしかしたら本人ですらもその表情を見せたことに気づいてないんじゃなかろうかって間。見せた、嗜虐。

 ――あたしは今から、この嗜虐に晒されるんだ。

 ――今、自分はどんな顔をしているんだろう。

「先輩、四階行きましょう――? 今日は、火曜日ですから」

「――え?」

「だって、まだでしょう? 先輩。あたし、やさしいんです」

 

 ――いいんですよ、付いてこなくても。弱みなんて、どこにもないんですから。でも、そしたら、明日の朝まで、ずっと、そのままでいてもらいますからね――。

 

 そんな風に耳元で囁かれたって。

「やだ――」

 この縄は、解けないんだ。

 

 ――せんぱい、いいんですよ。狼なんていなかったんです。

「して――」

 手が、掴んでいた。結の上着に縋って皺を作る。あの日、あの場所で逆だったように。そしてこれからあの場所で落ちる。八頭佳恋は落ちる。今ここでされたように、目の前の賢き狼に舌なめずりされながら、全身に蛇をのたうたせて。

 

 

 想像しただけで、顔がほころんでしまう。