I ループロープ・インファント/0

ループロープ・インファント/0

 

 三条結はクラスの誰よりも進んだ女だった。

 むろん「勉強が」ではない。そういうものには倦んでいた、お勉強は好きではなかったけれど、そこにあるものを理解するだけでいいなら簡単な事だった。誰よりも進んでいることは、結に取って楽しいことではなかったから、それはしなかった。

 結には余裕があった、飽くなき暇があった、服を選ぶのも、自分を飾ってみるのも楽しかった。髪を短めにした、両端で止めるのをやめ、色を少し抜いてみた。小学生の頃の自分よりも、明るくなったような気がした。

 実際、明るくなった。「できちゃう」ことに何故かくっついてくる引け目も、陰口好きのおしゃべりたちに(いだ)くうすぐらい気持ちもみんな軽くなった。

 

 羽が生えた女の子は、空が飛べるようになったと勘違いしがちなんだ。世界がきらめきとときめきでみちみちていると勘違いしがちなんだ。はじめて見たものは全部珍しい。校則に触れぬように、バレても指摘されぬくらいの、チクられないほどの爽やかさを自作のケーキにトッピングして楽しむ。うまく出来た日ははしゃいでしまう。結はそのころはまだ、自分がやったことが世界に及ぼす意味をわかっていなかった。

 だって、おいしそうなケーキは正義だ。いつだって正しいに決まっている。食べる人? ふーん、なにそれ、あっ、きみは知らないんだな! ケーキはなあ、すっごく楽しいんだぞ!

 

 三条結と名前の付いた新作のケーキに惹かれてやってくる美食家がいないはずはなかった。結は賢い子だった。そして同時に好奇心もあった。だからこそ、肌で感じていないことはどうしたってわからないと悟ってもいた。

 例えば最初っから最後までラブとラブで終わるあまたのマンガ。従姉の家に泊まった際に、ベッドの下に隠されていたロマンチックな秘め事を官能的に綴った書物などだ。

 その時にたまたま声をかけてきたのが、よくよく見れば首の後ろに黒子毛のあるがごとき三十過ぎのおじさまであったとしても。結のことを甘いだけのスイカ頭と思っていたとしても。とりあえず、顔くらいは好みの俳優に似ていたと思ったのだ。勘違い、してしまったのだ。

 

 なんたって、結には羽が生えていたから。

 

 はにかんだようなこまったように口元をゆがめて、そのくせに目だけはキラキラさせて。降りるには難しい軽薄な階段へと、手を(ひ)かれてしまった。残酷さと必死さを押しつけられた白粉(おしろい)の匂いまみれのプライドで丸め込んだクラスメイト達は、いいとこ手を繋いだ止まりに決まっているのだ。漂白剤の匂いがともすれば興醒めを誘うプラスチックみたいなベッドの上で反り返りながら、三条結はせせら笑う。

 ――きゃあ! ああ! やつらめ! ざまあみろ! これが空の上なんだ! 教科書にはほっとんど書いていないんだ! 知らないでしょ、ミキは一生知らないでしょ! すごいんだよ! こんなにすごい! 書いてあった書いてあったわ! 天にも昇る心地って! やった! 全部揺れてる! 中からみずがもれちゃうみたい! ほら、ほらほら、こんな風に支えられたことなんかないでしょう、サーカスみたい! ほら――ァ!

 

 二十ワットの白熱灯が、結の痴態をずっと見てる。

 その下で、肉が腰を振っている。

 

 ――はて。

 

 キスされた、やさしい言葉もかけてもらったし、約束もしてもらったし、かわいいからって最初のケイヤクよりも色を付けてくれたし、さっきからことあるごとにかわいいねっていってくれているし、だから結もそれが仁義とばかりに精一杯(なまめ)かしい声をだしてみたりしているのだ。

 その演技はもちろん最初は痛みを演じるところからだったし、悦んでもらえれば、結の好奇心も満足するに違いなかったし、その気分でやってみれば本当のところにたどり着くことの出来る最善の方法だと考え、実行しているのだ。

 

 ――あれ?

 

 肉が踊っている。べつだん美しくもない、死にかけた鳥のような目をして腰を打ち付けている。振動が胃に来る。こちとらはじめてなんだからもう少しゆっくりやってくれるっていったじゃんね。かわいいとずっと言い続けてくれる約束だったのに、さっきから臭そうな唾液を嚥下(えんげ)する音しか聞こえない。

 おっさんさん、そんなに喉が渇いたの? 私の飲みますか? っていうか、渇いてしょうがないんだけど私ゼンギちゃんとしてもらったっけ――あー、なんかおまた痛い気がする、してきた、つーか痛いし、叫ぶほどじゃないけどさ、でもさ。

 

 ――あれれれ。

 

 だめだよ結。そんなふうに考えたら楽しくないよ、もっと上手に脳を騙さなくちゃ。そうだよ、これも愛だよ、愛――!

 

 ――そんなの、ないって言ったじゃん。

 

「あ、痛かった? ごめん……もうちょ……あ、いや。やめよっか」

「…………」

 結は敗北感に(まみ)れていた

 ――だってあんたお金払ったんじゃないの? それでもめんどくさいなのイヤなの? だって男の人ってどうにかしないとケダモノなんでしょ? ――そんなのって、紳士じゃないですか。お世辞にもあんま気持ちよくなかったけど。助かりました。ありがとねー。そう言えばいいんですか。

 

 ――助かった?

 

 結がシャワーを浴びて出てきたら、男は血の付いたシーツを被ってもぞもぞと何かしていた。そのくせ、結にその行為をまじまじと見られているのを知ってキョドり、意味のわからないことばで言い訳をはじめた。

 

「えー? ほんとはそういうのが好きなんですかぁ~?」

「え、えっ? いや、キショいでしょこういうの、キミらにはとくに、でしょ? いやほんとにさ、見せるつもりじゃなくてさ、意外とはやかったねっていうかぼくもあはは、いやあははははは」

 

 結には不思議と、そうやって目を泳がせている男の情けない様の方が、さっきよりも魅力的に映った。男が背中に隠して、まだ未練がましく赤く汚れたシーツを掴んでいるのもだ。三条結は楽天家だったし、賢い子だったから、男が何を求めているのかも見えてしまった。そして、自分の中に潜んでいるなにかのかけらも。

 

「――ねぇ」 

「は、ひゃい?」

 

 男の返事はあまりにも滑稽なものだった。あんなに虚勢を張っていたのに情けないものだった。結はタオルの前を少しはだけ、前屈みになって目をキツネのように細めながら舌なめずりをする。そうすることで、自分の正しい位置を知ることが出来るような、そんな予感があった。男の瞳孔が開いた。

 結は頭の中で計算する。どんな苛烈な言葉をどんな妖艶な仕草で放てば、この男を手玉に取ることが出来るだろうか。いくつかのパターンを試す余裕はあるだろうか。

 それを考えるのは楽しい、好奇心が満たされていく。香料の強すぎるわざとらしいボディソープの蒸気が体臭とまざり、南国の獣みたいな匂いをさせている。結がそれをタオルでわざとらしく扇ぐと、この底の浅そうな男はびくりと身体をこわばらせた。

 結は予想通りの反応に満足と不満の相反した両方を覚える。きっと不満――不安の方が幾ばくか強い。自分はなんてワガママなんだろう。さっき大きな賭に負けたばかりなのに、今度こそ、自分の予想が当たることを半ば信じてしまっていて不感症になってしまっているんだ。

 そして、このつまらない男は、きっと結が考えたどんな方法でも満足してしまうにちがいないのだ。

 

「――ま、いいか」

 

 三条結はみずからの貪欲さを誇示するかのように、みずからに確かめさせたいかのように、もう一度舌なめずりをする。簡単だ。ただそれだけで、紅さの落ちたリップはまたみずみずしさを取り戻すのだから。

 このつまらない男にはきっと二ヶ月かそこらで、ママがやらせたがったエレクトーンやバレエよりももっとはやく飽ききってしまうに違いないのだ。だから、色あせる前に味わっておこうじゃないか――。

 

 限定の色物ケーキ、みたいなもんじゃないか。

 

 

 覚えたての血が、また内側に線を描いている。