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E ステンドグラス・ストラテジー/3

ステンドグラス・ストラテジー/3

 

「――え?」

 赤い縄だった。

 その縄は全身を取り巻くように巻かれていた。

 佳恋の理解の範疇外だった。それがなんなのか実際よくわからなかった。佳恋の歪んだ視界は、その言葉通り歪んでいるから――はっきりとそれかどうかはわからないこともある。これがそれに類するものか判別がつかない。

 今まで見過ごしてきたあれこれのものと比べて悩む――。

 捻った首が一巡しそうな頃、佳恋の天秤は善意に傾いた。

「待って――!」

 決断は遅かった。

 もはや女生徒はいない。佳恋の所在に気付いたのか、階段の下で足音がぱたぱたと遠ざかっていった。

 眩む視界から逃れた失意の佳恋が教室に戻っていく。

 

 

 波瀾に満ちた昼休みの後、佳恋は重い息を吐きながら教室に戻ったというのに、真田瑛子の様子はまるで変わらなかった。佳恋はもう、彼女を見るのもイヤだった。

 真田瑛子はきっと、佳恋の頭がどうかしてしまったのでない限り、この世に害を為すものが人間に擬態しているものなのだろう。そんなものが、よりによって後ろの席で虎視眈々と佳恋に狙いを定めているらしいではないか。

 しかしどうやら、佳恋のことをすぐさま――消したり、するつもりは無いらしかった。

 ――もしかしたら、思い過ごし。

 ――もしかしたら、勘違い。

 ――偶然を被害妄想とかで塗り固めたら、ああいうものを信じちゃったりするかもね。

 そんな自問自答を繰り返す。しかし、隠されたものを見る「目」は今まで佳恋を助けてくれたし、そういう「人智を外れたもの」がこの世に存在することだけは、疑わせはしなかった。

 結局、佳恋が出した真田瑛子に対する答えは「保留」の二文字。なるようになれと呟いて、佳恋は椅子を後ろに向けて、真田の日本史の教科書にピンクのマーカーを引いてやった。

 

 

 放課後になったし、佳恋は帰ろうと思った。

「――あ」

 そんなとき、昼休みの女生徒が視界に入ってしまった。おどおどとした様を隠しもせず、放課後なのに、施設棟にスクールバッグを持ったまま吸い込まれていった。

 ――施設棟なんかで何を? 

 その後ろ姿に、佳恋は迷わずメガネをかけ、隠し事を見破る。

 やはり縄が見えた。全身を赤い縄が巡っていた。

 佳恋はここで足を止める。自分をおいて帰っていくクラスメイトたちが持って帰るとるに足らない秘密の中で、教職員たちが持ち帰るありふれた罪の中で、その縄の赤さは明らかに常軌を逸したもののように佳恋には思えた。

 佳恋は施設棟の上を見上げる。やはり遮光シートの所為で中を窺えない四階を。その上の屋上は鍵が掛かっているけれど、開けようと思えば開けられると聞いた。

 ――よもや。あの少女は、この賢くも冷たく聳える校舎で、ひとり死んでいこうとしているのではないか。見えた「赤い縄」は血に塗れた首つりロープ――。屋上からこれ見よがしに、世をはかなんで首を吊るうら若き女生徒。

 死なない理由なんていくらでもあるだろう。同時に、死のうと思ったらその理由だっていくらでも転がっている。

 ――ならば、見捨てるのか。

 まさか。助けるのが筋だ。見えてしまったのなら、そこに向かうことこそ正しく賢いものの選ぶ道ではないか。人ならぬ力で、誰かの道を正すたすけになる。

 カッコイイではないか。

 佳恋は施設棟に走る。スピーカーから流れる校歌が校舎と校庭を彩る。

 正しくあれと、導くものになれと、うつくしくともに咲けと、清く正しく歌いあげている。

 

 

 佳恋は女生徒を追って施設棟の四階まできた。今日の昼休みと同じ場所だ。彼女は屋上じゃなく女子トイレに入った。ほっとしたかったけれど、思い直してメガネをかけた。縄は変わらずはっきりと、彼女の周りに取り憑いている。

 この見え方は実際妙だった。真田瑛子の件はさておいて、佳恋の目に映るものが隠されたものであることしかわからない。この距離では、まるで。縄をそのまま纏っているような――そんな風に見えてしまう。

「まさか」

 ピンク色のタイル。三つならんだトイレの個室。真ん中の個室に――見えた。

 佳恋は自分の能力に驚かされる。これでは超能力(ESP)ではないか。前はここまで見えはしなかった。佳恋は恐れる。これでは「みてはいけないもの」まで、見えてしまいそうだった。

 ――今更、かなあ。

 そう思いながらメガネを外した。もう、場所はわかっているし、これ以上見る必要なんかない。

 あとは――本当のことを見るのは、自分の目であるべきだ。 

 トイレのドアを押すと抵抗。内開きと壁の間になにか挟まってる。バッグか、本人かだろう。佳恋は声をかける。

「――ね、開けて」

「――となり、開いてますよ」

 会話が繋がった。佳恋は緊張の糸を張ったまま、続ける。

「や、やめなよ、自殺なんて」

「――――」

 無言、途切れた線。佳恋はドアから手を離す。押すか、引くか逡巡する。決める前に、ドアの抵抗が明らかに弱くなった。佳恋は再度、ドアを押した。今度は全く抵抗はなかった。 

 洋式の便器の蓋を閉じた上に、(くだん)の女生徒は膝を揃えて座っていた。怯えと決意を混ぜそこねたような表情だ。ウォシュレット操作部の下に動かされたバッグには、なんのアクセサリも付いていなかった。

「あなたが、『フェンリル』――?」

 女生徒は、揃えた膝のまま口を開いた。

「はい……?」

「――いえ……えっと。あの自殺とかべつに、しないんですけど――どうして。あの……ここ、使うんですか?」

 女生徒は中腰になって、便器を指さした。

「――いや、使うんだったら隣使うし……」

「えっと、中……どうですか?」

 ――立ち話もなんですから。みたいなノリだった

「じゃあ、あの……お邪魔します」

 女生徒に促されて中に入る。ひとつの個室トイレの中で話をするという風習は、聞いたことはあったけれど、佳恋には馴染みのないならわしだったから、得体の知れない背徳感を覚えた。

 背中が開いているのが不安で、身体をずらしてドアを退けた。それだけでは不安で、ドアを背中に女生徒と対面し、後手のスライドキーを閉へ。すぐに金属音がした。

「――あ」

 キーを閉めきった音が個室の中に響く。佳恋は自分でも奇異な行動だと自覚しているのに、女生徒は何も言わなかった。不安な声を出してしまったのは、ドアを閉めた佳恋だ。

 ――閉じ込められた。

 自分が閉めたのにもかかわらず、佳恋はそう感じた。

「――あの、三条(さんじょう)(ゆい)と申します。三条通りで結びます」

「え? あ、はいご丁寧にどうも――えっと、あの。八頭佳恋です。二年です。えっと――、八つの頭に佳きラブの恋って書きます」

「なんか、強そうな名字でかわいい名前ですね――先輩」

「え、ええっ……。うん、変な名前でしょう」

 女生徒は後輩だった。そしてこんな状況でも物怖じせずにいた。佳恋が考えたように自殺するような――そんな雰囲気は微塵も感じられなかった。

「――――」

「……え、えと」

 自己紹介の後の沈黙。お見合い。まさにお見合いの後みたいだ。なんて佳恋は思ってる。

 ――そうだ、密室を作ったのは私なんだからこっちから何か言わなくちゃ。でも、なにを聞けばいいんだろう。「あの縄はなに?」ストレートすぎるし、どうやってそれを見たのって話になる。「なんでドアあけてたの?」人のいる個室にずかずか乗り込んでおいてそれはないだろう。「か、カレシいる?」頭沸いてるンですか、先輩。あー、三条さんの口が三角になってきたぞ、早くしないと、えーと――。

「――フェンリルって、なに」

 そうだ、これだ。開けて最初に三条が口にした謎の単語。ティーンノベルとかに出てきそうなその単語から察するに、三条がいわゆるイタい子である可能性が出てきた。そういう人の扱いを佳恋は心得ていない。そこに思い至って、佳恋はドアロックを閉めてしまったことを後悔しはじめた。

「……ちがうんですか? じゃあ、なんで私に、声をかけたんですか?」

 眉を顰める三条がいた。その返事に佳恋は安堵する、話の通じる相手であったことに。と同時に、自分の奇行が浮いてしまう。なにか、ないか――。

「――あ」

 あった(・・・)

「先輩は――、今トイレに後輩を閉じ込めてますけど……。どうして、そんなことしてるんですか?」

 三条は佳恋の動揺に気付いているのか、落ち着いた声で佳恋を攻めてくる。純朴な瞳で聞いてくる。

 しかし、今佳恋が見つけてしまったものは、その視線の先にあるものは。この位置から、メガネを掛けなくても見えてしまったものは。三条の――その甘えを含んだ声や整えられた佇まいが示す純朴とは、染めてもいない黒い髪からも、飾りもしないバッグからもかけ離れたものではないか――。

「三条さん――」

「はい」

 言うのを怖じていた。言ってしまっていいものか悩んだ。しかし、佳恋。お前は見てしまったではないか。自分で、見つけてしまったのではないか。自分で、ドアを開けたのではないか。自殺ではなかったけれど、他に異常を見つけてしまったではないか。

 他になにが要る。ここで逃げたら女がすたる。

 だけど、後一歩の言葉がでない。臆病な自分が恨めしい。

 目をつぶって、一拍。目を開ける。祈りは届かない。やっぱり制服の胸元から覗いている。さっき佳恋が見たとおり、憎たらしいことに色まで一緒だ。彼女の全身を、肩口から見えるものと同じ赤い赤い縄が巡っている。

 それが、事実なんだ。

「それ――しゅ、趣味?」

 ……考え得る限り、最悪の尋ね方だった。

「え?」

 指をさす。

 三条の目が動いていく。膝の上に揃えられていた手が上がる。細い指が、襟の隙間でとぐろ巻くそれ(・・)に触れた。

「――あ」

 佳恋は、もう少し言い方は無かったかどうか考えている。でも、どれだけ頭を捻っても「それ、どこに出荷するの」を仔牛が売られていく歌の節に乗せてやるの如き、しようもないものしか浮かんできやしなかった。

 三条の目がみるみる死んでいく。

「――お願いですッ! いわないでください! 誰にも! これ……、これはっ!」

 三条が立ち上がった。鬼気迫る表情で佳恋に縋りついてくる。制服が引っ張られる。

「わ、のびる」

「先輩、なんで――、ひどい!」

「え、私?」

 三条は錯乱しているように見えた。逆にその姿を見ていると、段々と佳恋の乱れた心は落ち着いてきた。

「ね――、それって、本物」

「は、はい――な、なんでもしますから! どうか!」

「なんでも――って、そんなオオゲサな。ね、落ち着いて」

 諭す。その乱れた様子。もう隠そうとしない肩口からの赤い縄。立ち上がる時に伸びた腹の隙間が赤かった。その制服の下にやはり、毒リンゴのごとく赤い縄が張り巡らされているのに違いなかった。

「だって――、バレたらあたし――また――」

「また?」

 ――これやっぱり、SMってヤツなんだろうか?

 佳恋の脳がフル回転している。――だって、こんなおとなしそうな子が、どんな理由で自分からこんなことをするというのだ。個人の自由は尊重するべきなのだけど、それにしたって理解の範疇を超えている――。

「ねえ、それって……」

「い、いや――ッ!」

「ね、ちょ、ちょっと声大きいよ。三条さん。静かにしたほうがいいんじゃない……?」

 三条は目を見開いた。きっと言い方が悪かった。両手で佳恋の服を掴んだまま、重力に任せて引っ張っていく。

「おねがい、おねがいです、こんなのバラされたら、あたし、あたし……!」

 佳恋は一発で悪者になった。だって、誰かがこの状況を最初から見ていたら――。ああ、個室に押し入った挙げ句、鍵までかけて泣かせてるじゃないか。全会一致で有罪(ギルティ)だ。

「ね、よ、良かったら説明――してって、あの、私じゃ力になれないかもだけど……とにかく――落ち着いて、ね」

 明らかに落ち着いていない佳恋の力なき説得にも三条は落ち着いた――ように見えた。でもそんな筈はなかった。小刻みに震えて、俯いて、ようやく手を離した。

「――、いいんですか? せんぱい」

 俯いたまま、三条は呟いた。それは最初のはっきりした声とも、さっきの怯えた声とも違った。有無を言わせるつもりのない響きがした。

 いいんですか、もなにもないだろう。こっちが聞いているのだから。そう佳恋は頭で思う。しかしその奥――佳恋の動物の部分がなにかに怯えている。

「――ごめんなさい」

 返事を待たずに、三条は自分の制服に手をかけた。

「――え?」

 佳恋の思考停止などおかまいなしで、三条は動きを止めたりせず、慣れた調子で前をはだけていった。

 その切れっ端は見えていた。けれど、本物を目の当たりにするとそのまがまがしさに佳恋は圧倒された。それはなんだ。と口の中で三度繰り返した。頭がパニックを起こして、撚られた縄の太さの求め方とか、右の胸から左の胸までに必要な縄の長さとか、ろくでもない情報の求め方を考え始めた。

 求まらない。どうしてそんなことになっているのかがわからない。佳恋は扉をロックしてしまったことを、ふたたび後悔していた。

 ――ニゲラレないですからね。

 前を全部はだけ、赤い蛇をのたうたせたほんのひとつ年下の少女が、この狭い領域で目に意志を胎ませて、佳恋の目を射貫いている。

「わたし、見られているんです――」

 手をだらりと垂らして、他人(ひと)事のように三条が言う。便器の奥の壁から水の流れる音が響いてくる。音が止んでも、佳恋は、三条に何を聞いていいのか、なんて声を掛ければいいのかわからなかった。

「えっと――」

 推理みたいなものはどこかに飛んで行ってしまっていた。縄の掛かった裸身はさぞ痛々しいだろうって、事実を予測してから思っていたんだ。でも、でも、なんてことだろう。

「――先輩」

 潤んだ瞳、解かれかけたまま襟を渡る紺のリボン、崩された白いブラウス。その下に見えるはずのブラジャーはなく、代わりに山の稜線にのたうつ赤い蛇。それはきっと見た目よりも固いのだろう。だから、その痕が肌に残っている。そして、頂きのふたつの(しるし)それぞれに赤く自己主張していた。赤蛇はそこに触れても居ないのに、あきらかに先端は血を集めていたんだ。

「――――ふぁ」

 摂氏三十八度の溜息が漏れる、その懦弱(だじゃく)声に佳恋は自分で驚き、一歩下がる。鍵の掛かったトイレのドアが鳴った。沈黙。佳恋は、踏みにじられた楽園の惨状に一発でヤられてしまったんだ。

 山の頂を結ぶ中心点には心臓をその真下から引っこ抜いたがごとき(こぶ)が結ばれていた。そこから下へ蛇は伸びていく。二度サイン曲線を縦にしたみたいな枝分かれをして、その三度目でスカートの中へと消えていっている。

 それを、きれいだと、思ってしまったんだ。

「――先輩、誰かに……言いますか?」

 酔っぱらった佳恋の意識を、三条のその声が呼び戻す。

「い、言わないッ」

 ――こんなこと、言えるはずがない。言ったらどうなる。この子は破滅ではないか。

「先輩が言ったら、わたし、おしまいなんですよ」

 (うつむ)いて佳恋を見る姿は当然上目遣いだ。佳恋は、世の男に媚びる女が、どうして揃いも揃って手を前で合わせ背を低くして上目遣いで甘い声を出すのか、この時までよくわからなかった。だけど、今身体で納得した。ああ――卑怯だ。

 佳恋の唇が動く。

「おしまいなんかじゃないよ」

 そう、言葉が漏れた。うわごとのように漏れた。それはまさにうわごとだと佳恋は言葉を漏らしながら思っている。けれど、三条は佳恋を見上げ、流れるように顔を上げた。泣いているかと思えたけれど、三条はきょとんとしていた。

「だいじょうぶ、味方だから」

 そして、佳恋は自分の吐いた言葉が、わりとしっくり来ていることに気付いてしまった。「味方」つまり――敵がいる。そう、さっきの「見られている」の主語は、佳恋ではなく別の誰かが――。

 佳恋は声をひそめた。そしてポケットからメガネを取り出し、かけた。

「せんぱい――?」

 視界が、揺らぐ。

 縄はもうはっきりとしない。見えるのは三条のポケットの中にある携帯電話――。なるほど、それと――。

「――ちょっとまって、ね」

 ぐるりと見回す。三条の背中にトイレットペーパーが積み上がっている。――そこと。

 足下の汚物入れ。

「――ん」

 胃から酸がこみ上げてくる。頭が痛くなる。最初にこの能力に気付いたときもそうだった。今はそれに加えて、自分の予想を裏付けるものが見つかってしまったことに、吐き気がしているんだ。

「――せんぱい?」

 佳恋はメガネを外すと、口の前に指を立てて静寂を求めた。そのまま、ゆっくりと汚物入れを覗く。汚物は入っていない。代わりに――ボツボツと穴の開いた部分を備えた電子機器。

「――!」

 それを引き上げると三条は声ならぬ声をあげた。佳恋はまだ指を立てたまま、もう片方の腕を三条の後ろに伸ばす。芳香剤の中で三条の髪の香りがしたけれど、気にせずに伸ばす。引き抜いた二段目のペーパーには、レンズが埋め込まれていた。

 レンズは逆さにして、盗聴器らしき機器から電池を外した。

 佳恋は、ようやく息をついた。

「ねえ、あなた――もしかして。なんか――。脅されてるんじゃないの?」

 火曜日のこの場所を選んだのは――。

 機器が予め仕組まれていたのは――。

 返事の代わりに、三条はパクパクと唇を震わせ、頷いた。

「――どうして」

「なんとなく、よ」

 即答した。こんなのぞき見みたいな能力は、人に言うものじゃないと佳恋は思っている。こうやって人を救えることもあるんだから、あって良かったとは思うのだけど。

「やっぱ、先輩が――? 『フェンリル』――」

 ――ああ、そうか。

 佳恋は悲しそうな顔で首を振る。

「えっと……これって信じてもらうしかないんだけど――。そのフェンリルってのが、あの――三条さんをそんな風にして――んのかな? でも、私がこう言うの見つけられたのって、なんていうか――勘みたいなのでさ……」

 うまく言えない。

「その……えっと。あの、三条さん。だって学校でそんなの――ねえ、もしかして、自分で……?」

「違いますッ!」

 大きな声だった。反射的に掌で三条の口を塞ぎ、息を潜める。  

 ――どこからも音はしない。

「お、落ち着いて。ごめん。そんなわけないよね」

 そうだ、佳恋。失礼だぞ、うら若き乙女が自分からこんな事する筈ないんだ。こういうことを考えるのはいつも男子ばかりの筈だ。だから。

「やっぱり、脅されてるんでしょう……。もう、ここは大丈夫だから。ほんとのこと、話してみて? ね」

 手を三条の口から離しながら言う。

「――ぷぁ」

「ごめん。くるしかった?」

 ふるふると首を振られた。

「あの……先輩、まきこんでしまったんじゃ……! あたし、先輩がその……わたしに命令してくるひとなんだって思ったんです。でも、違ったん――ですよね……あ、わたし、どうしたら――」

「それが、フェンリルってやつなの? そいつが――こんなひどいこと、させるの?」

 肯定のジェスチャ。

 ――私はいったい。なにをしているのだろう。

「味方になるわ、だって、あなたの先輩だもの。泣かないで。さあ、――そのフェンリルって、きっとハンドルかなにかよね……教えて?」

 ――なにをいっているんだ。

「はい……あの」

「わかってるわ、公にしない、誰にもしゃべらない。でも、三条さん脅されてるんでしょ? ……どんな、感じなの?」

 そう。もうひとつ、気になるものを見ていたはずだ。

「えっ、はい……。そのですね。あの、ごめんなさい……」

 自分を責める言葉がでてきた。

「私、協力したいの、三条さん。……でも、こういうのあんまりわからないから……その、えっと」

 もどかしい。

 彼女は年相応の好奇心でもって、危ない橋を、自分の能力を過信してわたってしまったのではないか。

 佳恋もそういったものに興味がないわけではない。けれど、クラスメイトや、学外の子たちの話を聞いても、耳を塞ぐわけでもなく、ただ漠然と「そう言う世界があるのか」と、遠い外国の――いや、他の星の話のように思ってきてしまったんだ。

「わたし、が……これ……」

 しかし、佳恋はそんな話をする知人達の中になんとなくジンクスを見つけていた。おとなしそうな顔をした子ほど、そういうことには敏感だというゆるい傾向。今までそんなものに触れたことも無いのに、突然、ティーンノベルに出てくるような色恋沙汰とセックスに付随する汚い大人の遊びを覗き見ようとして、本物の穴に落ちてしまったのではないか。

「どれ?」

「これ、見て下さい」

 三条は自分のケータイを出して、少しばかり操作をする。佳恋が持っているようなものではなく、触れるだけで操作できるちょっとハイテクな奴だった。

「――こ、こういうのどうやるの? 壊しちゃったりしないかな……」

「だいじょうぶですよせんぱい、みんな使ってますよ」

 そう言ってくれた後輩の顔に、どきりとさせられる。同性なのに――。いや、そんなことより、今はもっと、切羽詰まっている状況なのに――この子はどうして笑っていられるんだ。

 もしかして、ちょっとどころかだいぶユルい子なのかもしれない――なんて失礼な想像をする。画面には、パソコンのメール送受信画面のようなものが映し出されていた。

「メール?」

「はい……これ」

「――――」

 その内容は佳恋に人生で三番目くらいに眉を顰めさせた。――縄で自分を縛って写真を送れ。学校のトイレでそれをやれ。やるときは自分で声を出しながらだ。ちゃんとできなかったときは、わかっているだろうね――。

 なんたる卑猥な言葉だろう。

「なにこれ……」

 忌々しいものを見るような声に、三条が縮こまる。恐縮しているのか、それとも、自分が命令された羞恥と下卑に(まみ)れた耶蘇(やそ)の指示を他人に――同性の先輩に見られたことを恥じているのかはわからない。

「……これ、送っちゃったことあるの?」

 肯定。

「顔、見れるやつ?」

 しばしおいて、肯定。

 そりゃちょっとマズいなあ。と佳恋は思案する。

 ――個人情報ってやつをどこまで握られているのだろうか。痛みを覚悟で、警察に頼んでみるのがこじれた縄を解くのに尤も適した方法のように思えた。

 しかし、そんなことできるはずがない――。ここは高い山につづくこの地にかぞえるほどしかない赤い煉瓦でふかれた道の途中なのだ。落ちたら、最後だ。

 ――そんな場所で、興味本位で踊る奴が悪い。お前らは、まっすぐ歩いてりゃいいんだよ。落ちねえように。

 そんな声が聞こえて来た。海の中で集団をなす魚群から、はぐれた一匹は、すぐさま捕食されてしまうと言う。佳恋は三条を見る。三条も、こっちを見ている。

 ――この娘の不安はいかばかりか。

 いや、そんなものはとっくに振り切っているはずだ。その上で、突然現れた佳恋が不安要素になってしまっているんだ。この人物が、他人が、自分が不慮で招いたこととはいえ、この危機を確定させてしまうのではないかと。

「――なんとか、するわ」

 想像して、奮い立った。(しっか)と声が出た。

「えっ?」

 肩を掴む。ひとまず、ハイテクな携帯を返す。

「私が、なんとかしてみせる」

「そんな! 無理ですよ――それに。私……いいんです。この人だってじきに飽きるかもしれないじゃないですか……」

「そんな――」

 そんなうまくいくものだろうか? ウソだ、三条の顔はそう言っていない。

 飽きたら、きっと今まで略取されて来たのであろう三条の痴態の数々は、取引材料としての価値を失うではないか。この状況を見ただけの佳恋だって、それくらいわかるのだ。

 でも、それを口には出せなかった。

「せんぱいは――なんでか優しいですけど。そのうれしいんですけど……。わたしそんなに、助けてもらえるほど、立派じゃないんです……」

「りっぱ――? 立派ってなによ……」

「立派じゃないってことは、わるい子、なんです」

「そんな」

「みせます」

 三条はケータイをバッグの上に置いた。

 スカートのチャックに手をかけて、おろして、そのまま手を離した。重力にスカートが引かれていく。

「――――あ」

「――わたし、こんな子なんですよ」

 まず、臭いでわかった。

 トイレの臭いと芳香剤とスカートが、ずっと隠してくれていた。緞帳が上がった(・・・・)舞台の上には――予想通りの縄の芸術が鎮座していた

 だが、佳恋が言葉を失ったのは、それが為ではない。その光景が予想外だった為ではない。

「せんぱい、わかりますか?」

 三条の言葉が挑発のように響く。電話口のセールスレディよろしく訊いてもいない新商品の詳しい説明をはじめてしまいそうだった。でも、わかる、わかりますとも。そこまで(うぶ)じゃありませんとも――。

 上半身よりも、紅をもっと深くさせた縄――。

 それは下に白い布があるから、対比でそう見えた――ということもある。けれど、三条の肌は元々白いから、上半身の縄と比べて(こと)(さら)に色が濃い理由にはならない。では、なぜ赤い、なぜなぜ、赤い。どんな実を食べたら、そんな水を零したような色に――――。

「これ、おしっこじゃないんですよ」

「――や」

 ――それでは、問題です。

 ――なんで、濡れて(・・・)いるのかわかります

「せんぱい」

 ――言わないで。

 佳恋は動揺する。心臓がバクついて、耳が熱くなる。(うぶ)じゃないなんてウソだ。佳恋は、今まで自分でシたことすらないんだから。――いや、借りた雑誌の白黒特集ページを参考にやってみようとしたことはあったんだ――けれど、よくわからなくて途中で諦めてしまったんだ。

「は――」

 弱い声が漏れてしまう。

「せんぱい、こんな子を助ける必要なんて……無いんじゃありません?」

 三条は――下級生は続ける。

 ――わたしはこういう事に興味があって、自分で踏み込んで、こんな事になったのだから。もう、ちょっとばかり巻き込んでしまったけれど、もし、わたしを助けようとしたせんぱいが、傷つけられたり、もっと脅されたりしたらどうするんですか? と。

 佳恋はそれを、上の空で聞いていた。三条の言いぐさを聞きながら、佳恋は自分の中での羞恥や、三条への引け目に類するものがすうっと引いていくのを感じていた。

「――それ、解くとバレるの?」

「え……?」

「そのまま、付けて帰るって命令なの? その――フェンリルってのとは」

 佳恋の顔はまだ熱かった。それで冷静なような、不思議な声色で、俯いたまま三条と対話を試みていた。

「そうです……あの……一度、メイレイに逆らったら……掲示板に……ぐすっ」

「あ、ごめん、ごめんね……あの――掲示板って?」

「えっと……インターネットの」

「ああ、そういうの詳しいの、三条さんは」