b チョコレ―ト・コレクト
チョコレ―ト・コレクト
「あははは、ははは」
真田瑛子が草原の中で揺れていた。傍らであられもない姿をさらして寝ている片岡千代子の耳に、自らの唇を近づけてついばんだりを、さっきから飽きもせず繰り返していた。
「チヨコ! まだ寝てるのかな? もしかしてボクの背中でずっと寝ているつもりじゃないかな! いいよ、キミはもうコノむまま、ボクとキミのユルす限りずっと! そこにいてカマわないんだ! でも、かりにキミがボクの殻になってボクを蝸牛にシタてあげるのなら、ボクは殻をどれくらいこまめにミガかなきゃいけないだろう!」
千代子は瑛子のあまりのやかましさに目を覚ました。
「――瑛子さま?」
寝ぼけ眼であたりを見回す。そこは現実ではないように思われた。草原の匂い。
「おはよう、チヨコ」
「おはよう、ございます……なんですか、これ」
千代子はじっとりとした目で、自分のあられもなく前をはだけられた姿について、黒髪の瑛子に詰問する。
「寂しかったからね。シラべたり、詳らかにしたり、厚かましくオガんだりしただけだよ!」
「――そ」
それを聞いて。くーっ、と千代子の顔が赤らむ。
「――そんなの、だ、だめです!」
「――え?」
「だめです!」
「なんで? どうしてダメなの千代子! それにもう、タノしんでしまった後なんだよ!」
「だってここ、外ではありませんか! だからいけません。ダメです!」
「でもチヨコ! ここはチガうよ! ボクらのはじめては、電車の中だったじゃないか!」
「……あれはその。な、中だから良かったんです!」
「あはは、わかったよ、ここはキミにとって情緒が――ええと、ムードが足りないんだ!」
「違います! 私が怒っているのは、寝ている間に服を脱がしたりしたことです!」
「うーん! ボクは今とってもタノしんでいるんだけどね! それはさておきとして、チヨコがなににオコっているのかわからないんだ! ああ、タノしい!」
「楽しくなんかありません!」
瑛子がずっと笑っている。
「その分だと、ボクがここにベッドを作っても怒るかな! ――そら、とっくにオコってる。困ったねえ。ボクはタノしんでるんだ! 善意が踏みニジられたら、こんな気持ちなんだろう! でも、ボクの喜びはいまや、キミに微笑んでモラうのがなによりの喜びなんだからね!」
瑛子は言う。前からやってみたかったことをしているだけなんだと。折角の拾い直した幸福の味なら、味わってみなければ損ではないかと。
「もう! それなら起こしていただければよかったんです!」
「チヨコ! 甘い香りがしてきているじゃないか! キミは期待をしているんだ!」
「えっ! ちょっと、そんなことありません!」
この地平線ばかりの緑色の世界も、魔法なのだと瑛子は言った。なぜか、ここで瑛子が話す言葉は、外の世界でよりも聞き取りやすい。けれど、瑛子はあまり細かいことを千代子に教えはしなかった。ともかく、魔法の受け渡しは誰にでもできることではないのだ。
「瑛子さま。なぜ、私だったのですか?」
「言わなかったかな、たまたまだよ」
「ではなぜ、一度捨てたもののところにいらしたんですか?」
「壺のカレを、頂戴する為だよ!」
「うそ。だって壺井さんを食べなかったではありませんか」
そう。瑛子は壺を打ち砕いたのに、摂取しなかった。どういう理屈かはわからないが、食べることが出来ない状態だったと瑛子は言い訳をした。
「あはは! 泡(あぶく)と歪(いびつ)の隙間にはカクしごとがいっぱい詰まっているんだよ、チヨコ!」
「誤魔化してらっしゃいますね? それで枯渇されては世話はありませんよ」
そう、千代子の魔法(チョコレート・ゲート)は、ちゃんと瑛子にも効いていたのだという。「だから、つい、あんな恥ずかしい告白に答えてしまったのだ」と瑛子は千代子を茶化した。しかし、話はそれだけでは終わらない。その魔法は、千代子に移植されることで進化を遂げていた。千代子が魔法を垂れ流しながらも、食わずに居られたのはその進化のおかげだった。
他人の情動を呼び起こし、それをエネルギーに変え、術者に還元させる。それでからっぽになりかけた瑛子は、千代子に渡しすぎた魔力を、とても明るいところでは描写できないような甘ったるい方法で戻した。それが先日、丸二日ぶっとおしの情事だった。
「あはは、そうしたらまた、チヨコが分けてくれるだろう? ほら、また香りが強くなった!」
「知りません! でしたらまた、私ごと魔力をお摂りになってはいかがですか!」
「あはは、強気になったねえチヨコ! あんなにシトやかだったのが嘘のよう!」
瑛子はすこし口角を締めて、でも笑顔のまま、千代子に向き直る。
「――でもね、オボえておいて。ボクらはもう、幸せにはなれないんだ。それが、魔法なんだ! だからボクは、今日も明日も、笑顔をダンじることはないよ!」
「――瑛子、さま?」
「――ほら、癪じゃないか。ボクらだけ不幸の竃の底で這いずりマワるのは! それなら、溶けた鉄を煮立てる硫気の渕で短くとも、カナわずとも、オドり続よう――!」
千代子はその時はじめて、瑛子の怯えを、恐怖を、ここに至った揺るぎなき故の一端を垣間見た。同時に、その孤高を恐ろしいと思う。今、自分の立っている場所は思ったよりも高く、危険で、いつこの人を見失ってもおかしくない場所に居ることを。
「――チヨコ! そんな顔をしても、ボクはユルいだりしないから。だって――」
「キミはアンじることはなかったのかな! キミのハカりがツウじていたなら、ボクはあそこに居る必要なんてなかっただろう!」
「――――えっ?」
その顔を見て千代子の目が開かれる。イタズラ小僧のような顔をいつも貼り付かせた瑛子は腹を抱えてけらけらと、本当に楽しそうに笑い出す。涙まで流している。
いつの間にか、手が離れている。
「瑛子さま!」
「あはははははははは! いいのかいキミ! ナガらえるにはカタすぎる! ああほら、ハナれてしまっているじゃないか!」
ひとしきり笑って、瑛子はもう一度、千代子に手をさしのべる。千代子は手と瑛子の顔を二回くらい見比べると、促されるままその手を取った。
瑛子は嬉しそうに千代子を引き寄せて、そのまま唇を奪う。
触れるだけの儀式が済み、瑛子が呟く。
「そう――、この手をニギってしまったキミがワルいんだからね、千代子! さ、食べソコねた分を、またサガしにいかなくちゃいけない!」
闇夜に溶けてしまいそうな黒髪が、目の潰れそうな緑色の光の中で海藻のように揺れていた。
緑色の世界は、瑛子の沈黙を待っていたかのように色を薄め、その分を髪の中に染み込ませていく。いつの間にか、瑛子の髪と背景の境目は失われていた。瑛子の髪にあざやかな緑色が戻って行く。そこは、鉄塔の上ではなかった。
次の町に続く、夜の線路の上。千代子は左手を差し出す。それは、いつの間にかちゃんと動くようになっていた。まるで、魔法のように。
魔法そのものの少女が、右手で、その左手を取る。
「ほら歩こう、千代子! ボクはともかく、キミは雨にふられたくはないだろう!」
少女が二人、星の加護無き漆黒のやみに熔けていく
――この宙に破滅しか無くとも
――この背に破滅しか無くとも
星になんか、なれなくとも
〈チョコレート・コレクト 了〉