Z ブラックスミス・スクラブル/6

ブラックスミス・スクラブル/6

 

 痛みで槌田は目覚めた。髪を解いた全裸の少女の後ろ姿が見えた気がした。槌田はその背格好が、どことなくあさぎに似ている様な気がした。けれどあさぎはツーテールだったはずだ。あさぎはあんなに大きくないし、つるつるともしていなかったはずだ。

 少女は振り向かなかった。

 ――足が痛い。

 槌田は痺れ刺すような痛みに足元を向いた、片足がひどく痛かった。体中もところどころ擦ったのかヒリヒリするけれど、足の痛みは尋常ではなかった。だから振り向いた。そして、まばたきを三度して、トリックを疑った。

 ――ああ、見たことあるぜこれ、うまく刳り抜いた鏡を挟んで、消えたように見せてるアレだろ。テレビで観たことあるし。マジで趣味わりいわ――。

 そう予想して伸ばされた槌田の手はものの見事にスカ。足の前に立て掛けられているはずの鏡など存在しなかった。伸ばした手は、太い大根の代わりにべたりとしたものに触れた。

「――んだ、これ」

 ベラベラになった皮膚が、槌田のふくらはぎの下に垂れ下がっていた。ああ、こんな感じのパスタあったわ――。なんてぼーっと考えながら、パスタを持ち上げて落とすとべちゃりと鈍い水音がした。まず、ものすごい痛い。

「あ――がッ!」

 落下の衝撃で、その部分から波打つようにより強い痛みが伝わってくる。痛みから逃げるようにのたうつとまだ生きていた神経が床に直接触れてさらに気絶を誘う。やっと気付いた槌田は、しばらく奥歯を噛み、じっと我慢して痛みに神経がある程度慣れるのを待つ。

「なんだよこれ――! なんだよ! どうなってんだ――これぇッ!」

 槌田が自分の片足が喪失していることを受け入れられない。気絶しそうな痛みに、思わず立ち上がって逃げ出すことも、足が無くてできなかった。

 槌田は傷口に、片足が消えているという事実に気を取られすぎていた。決定的瞬間は待ってはくれなかった。あさぎがすこし離れたところに置いてくれたから、埃舞う最終大怪獣決戦がもう最終的な展開を迎えていたことに「ガーン」とデカい音がするまで、気が回らなかった。

「――なッ?」

 ものすごく分厚い窓ガラスが一気に割れたら、こんな音がするのかも知れないと思った。

 乾いた音がタイル床を一面に撥ねていく。

 不吉な化け物の声が、聞こえる。

「ああ――キミらのマミえはここでツイえた!」

 こんな夜の食肉冷凍庫で、楽しそうに叫んでいやがる女がいた。さっきからどうやらずっといた。少女の背中の向こうにいたんだ。髪を緑色に染めて、体中のあちらこちらから人ではあり得ない不愉快の具現みたいなものを生やして。その何本かを空中に衝きだしていた。きらきらした粉が、白色灯をバックにしてヘッドライトを当てられた朝の雪のように光っている。

 今、目の前で砕かれたのであろう物体の一部が、倒れたままでいる槌田の腕を引っ掻いて、止まる。手に取る。陶器の破片のようだった。

 あさぎ――――?

「あ……」

 槌田は覚えている。その陶器の白さを、描かれた丸く幸せそうな藍色の太い線を。槌田は指でそれをなぞる。辺りにはそれと同じ物が雨のようにバラバラと落ちて、大粒のスコールが地面を叩く時よりもなお楽しげで甲高い音を演じて、スコールよりもいち早く、音は止んだ。

「――――あさ――ぎ――――?」

 壺は、とっくのとうに砕け散っていた。

 落ちきらず宙に舞うセラミックの粒子がゆっくりと降りていく様は、ほんのりと不吉に赤い非常灯に照らされて赤い雪を演出していた。化け物は楽しそうに叫んでいる。

「あははははははは! これは、これはやった! やられた! キミのエグり取ったまごうことなき勝利だ! ボクはここまでツカわされて、ノガれゆくしかなくなった! やはりボクらの欲だったんだろう! キミのイノりとネガいが、どうかまっとうされますように!」 

 その言葉は、あさぎの勝利を祝うもののように聞こえた。槌田にはなんだかわからなかった。あさぎは今、槌田の目の前で砕かれたのではないのか、今、槌田の手の内にある欠片は――何だというのだ。痛みで気が遠くなる。槌田は欠片を握りしめる。手の平にも痛みが走った。

「ちくしょう――」

 蹲って、静寂に顔を上げると、もう化け物はいなかった。

 意識を保つに必要な血を、とっくに失っていた槌田は、緊張の糸が切れて気を失う。

 

 非常ベルが遠くで鳴っている。

 赤い光で、肉と破片と槌田紅実を照らしている。

 他にはもう、誰もいない。

 

 

 槌田紅実は、すんでのところで保護された。

 悪夢かマンガか映画かドッキリカメラのような映像だったのに、銀色の服を着た人々が踏み込んできても、失った足は戻らなかった。

 病院には黒い服の人々が来た。何を言えば通じるのか、どうすれば理が通るのか、そんなの槌田にだってわかるわけがない。結局、槌田が夜の食肉冷倉庫に忍び込んで、なんらかの爆発物によるわるい遊びをしていて――。というシナリオが一旦は用意されたものの、硝煙反応も火気の痕もなかったし、そこには槌田がいた痕跡しかなく事件性を立てることはできなかった。

 槌田の片足が失われ、食肉業者の倉庫がひとつダメになり、槌田の家族が倉庫一個分の負債を背負っておしまい。

 ――と思いきや槌田にとって幸か不幸か倉庫をダメにされた食肉業者は、ちょっとした小遣い稼ぎをしていたのだ。肉の方がついでに見えるくらいの景気の良いアレやコレや。肉の中から中南米生まれのまっしろなチョコレートがという笑える話だった。

「……チョコレート、ねえ」

 それによって面白いように矛先は逸れ、ようやく病室は静かになった。母親の薬の量は増え、父親は出世コースを外れ、兄は就職に失敗した。槌田はいつのまにか中退扱いだった。

「中退かー」

 口に出してみても実感はわかない。今まで生活の中に刻み込まれていた「学校」なる過程が丸ごと失われた。もう少しすれば不安にもなるのだろうかと、槌田は窓際で揺れるカーテンを眺めつつ考える。未だに右足がないと言う実感がない。切断面は明らかにずきずきと痛むし、痛み止めと抗生剤のブレンドされた吐き気のする薬液が管を通して浸入してくる。

 首を横にする。左手を伸ばすと冷たいセラミックに触れる。軽いのにあざやかな白地の藍線、槌田の友人――壺井あさぎ――だったものだ。助け出されるときまで、ずっと握っていた。

「どこに行っちまったんだ、おまえ」

 どこに行った、もなにもない。目の前で砕け散ったではないか。人の脚一本持って行ったあげくに、なにもせずに死んでしまったではないか。

 槌田紅実は長女だった。やんちゃな弟がいて、おてんばな妹がいた。お陰様で子供のお守りは、意外と得意な方だった。あの日、紅実はらしくもなく家の些細な出来事でセンチメンタルだった。勢いに任せて隣のクラスのヤツを怒鳴った。ケッタクソ悪いことをしてしまった。その昼休み、中庭にでんと構えるケヤキの枝についた葉っぱの数を数えていたら、腕の下にまんま叱られた子供のようにしくしくと泣き続けている高校生がいたんだっけ。

 撫でてやると、よく笑ったんだ。

 自嘲が漏れる。個室の外からノックの音がした。

「――どうぞ」

 ノックの音に反応する。槌田の家族はそんな上等なことはしない。医師の巡回や看護婦なら同時に声がかかる。学友や教師の見舞いにしては朝っぱらすぎる。残された可能性はそんなになかった。

「入っても?」

「――どうぞって言ったけど、耳ねえの?」

「お嬢ちゃんはいつもキッツいねえ……」

「あんた、何度来たってさ、話さねーから」

 可能な限りの三白眼で睨め付ける。入ってきたのは刑事。いつもは二人組で来るのに、今日はいけ好かないおっさんの方だけだった。刑事ドラマなんてものは油臭い気がして槌田は見ないクチだったけれど、いかにもデカといったヤニ臭いくたびれたスーツとネクタイ、そして眠そうな目が目覚めたての槌田にぺらぺらと余計な事を喋らせたのだ。

「そんなこと言わないでよ、クミちゃん」

「それ、マジやめろ」

「そうかい、お嬢ちゃん。きみが年上への敬意をちゃんと払ってくれれば、刑事サンもきみの言うこと聞いてあげちゃうかもよ?」

「はァ?」

 刑事は来客用の椅子の上に置いてあった、誰かの持ってきた見舞いの品を机の上に寄せて、空けた席に自分が座ってしまう。

「今日はさ、クミちゃんに。あの日のこと聞こうと思ってサ」

「それ、何度目だよ。もう何度も話したじゃねえか。何も知らないってさ! あとクミちゃん呼ばわりマジやめろ。キショいんだよオッサン」

「それは二回目からだよ。最初に会ったときにクミちゃん言ってたじゃないの。これでも刑事さんはさあ、これでおまんま食ってるから、食いついたら離さないよぉ。まァ――今日は時間があるからさ、ゆっくりしていけるから。気が向いたら話してくれナ――。刑事さんはここで、スポーツ新聞でも見てるから。――読む? エロい記事」

「うっぜえ、帰れよ!」

 最初に槌田は口を滑らせてしまったのだ。あそこにいたのは自分だけと言っておけばよかったものを壺井と中村の名前を口走ってからややこしくなった。平和な街で、その学校のいち学年でいきなり女学生の失踪が三件続き、そのうち一件は全国紙を騒がすほどの血みどろの一家全滅だ。原因も動機も不明、そしてその全員は顔見知りだと来ている。槌田はものすごいグレーだったのだ。あの夜、何の妨害も無しに倉庫に行けたことですらも不思議なのだ。

 いや、不可能だったのだ。普通なら。

 これで、脚を失いながらも生きている槌田に嫌疑がかかるのは、本人が考えても当然の事のように思える。何か知っていてしかるべきだと思われるのは仕方のないことだった。

「まあ、イヤがられても、仕事だからねえ。それに、マスコミの連中が最近来ないのはおじさんたちのお陰だよ。な? だからさァ、教えてくれないかなあ。本当のこと」

 槌田は目をつぶった。逃げの一手だ。脚が十全ならば、ベッドを蹴っ飛ばして病室を出て行くところだけれど、今の槌田にはこんな抵抗しかできない。

「はは、嫌われたもんだ」

 刑事がため息をつく。スポーツ新聞をめくる音だけが病室に響く。

 ――じゃあ、信じるのかよ。

 槌田はその聞こえよがしな紙擦れの音に、胸中で毒づく。本当の事を言ったら、信じてくれんのかよ。あたしのダチとかクラスメイトがなんだか揃いも揃って化け物で、急に殺し合いを――それどころか食い合いをはじめちまったんだ――って。自分だって信じられねえことを、どうして他人に言えるッてんだ。

 だから、刑事に激しく追及されたらしい中村の彼氏とやらが、神妙な顔で病室に入ってきても、槌田にはどうすることもできなかった。そもそもその存在を始めて知ったから槌田は目を丸くした。あとで、その男と中村はとっくに別れており、自称彼氏はマスコミの差し金でやってきたのを知った時、槌田は自分でも何故かわからず悲しくて、人知れず泣いた。

「――クミちゃんさァ、寝た?」

 刑事の声がする。槌田は無視を決め込む。

「そんなに、オトナを嫌うなよ。刑事さんも悪かったと思っているよ。最初のきみのことばに耳を傾けなかったこと、後悔しているんだ――な?」

 槌田はそんな甘言に揺さぶられない。だれが、そんなのに引っかかる物か。

「――やれやれ。未成年はめんどくせえなあ。きみらはいつの世も逸脱する。逸脱して死んでいく。大人達は平和に生きていきたいだけなんだけどなァ?」

 ――なにを勝手なこと、じゃあ、あんたが若い頃は――! そう飛び起きそうになる身体を槌田は抑える。こんな見え見えの揺さぶりに負けてはいけない。

「でもねえ、刑事さんは知っているんだ。犯人はクミちゃんじゃないんだろ? きみみたいにイキがる子はこういう陰湿なやりかたはできない。きみはどちらかというと義理とか人情を知っていそうだからねえ」

 落として、持ち上げて、また落としてくるのだ。そのくりかえしだ。刑事が根負けするまで寝たフリを決め込むのが正解だ。本当に寝てしまえればそれが最も良い。しかし、刑事は槌田が起きているのを知っているかのようにとうとうと続ける。

「じゃあ犯人は、真相はなんなのか。やはり壺井くんが最もあやしいよね、片岡くんもあやしい、きっと中村くんは殺されてしまったんだろうね。三倉山の鉄塔そばで、彼女の物と思われる懐中時計が見つかったよ。詳しく聞きたい? いや、寝ているんだから無理だな、ハハハ」

 ――無視だ、ちくしょう聞きたいけれど無視。無視ったら無視!

「……壺井くんも、片岡くんもきみが匿っているんじゃないかって話もあったどさ。けれどそれじゃあ、クミちゃんの脚がそんなになってしまった理由がつかないよね。グループの制裁? ドラッグ? 壺井くんの家からも、中村くんの家からも、片岡くんのところからも、もちろんきみからも、そんなものは気配すらしなかった。片岡くんは、ほかのお薬を常用していたみたいだけれど。それは誰でもお世話になりうる、便利な道具のひとつに過ぎなかった」

 片岡は隣の席だったけれど、槌田は結局片岡のことをよく知らずじまいだった。あの夜こそ、一番多く会話をしたのではないか。もしかしたら、槌田こそが最も校内で片岡と関連の深い相手なのかもしれなかった。

「すると行き詰まってしまうんだよね。片岡くんはみんなから避けられていたようだし、壺井くんとやりあったのをみたクラスメイトもいるし、でも電車の中で倒れた片岡くんを壺井くんが助けたのを見たって人もいる。どうもねえ、そんなリクツなんてのがよくわからんのだよね」

 ――あさぎは、まだ片岡にちょっかいかけてたのか。

 あさぎは何度か槌田に聞いてきた。でも槌田は隣人の事がずっと辛気くさくてきらいだったし、特に知っていることもなかったから「知らねえよ」とだけ言って話を変えたんだ。

「片岡くんは隣の席だったんだろう? 彼女は住まいを変えているし、そこでもあまり穏便な関係ではなかったようだよ。だから――というわけではないが、疑うには充分なんだ。でも、彼女の家は捜査に非協力的でね。――槌田くんの家とは、また違う距離の置かれ方だ」

 槌田は刑事の話を聞き流しながら思考をまとめている。あいつは、片岡は敵だった。あさぎは――? そんなのわかりきっている。槌田を食おうとして、脚を奪って行ったのは壺井あさぎじゃないか。ではあれは敵なのか。目の前で人ならぬものにヘンシンしてみせた。そしてあさぎは中村も殺したという。しかし、あさぎを殺したのは――片岡と消えたあの蔦の化け物だ。

 倉庫でマグライトを備えていた片岡は、本当に敵だったのか。もっと話をしていれば、あいつだって悪いに決まってるんだけど、自分だってもっとすり寄っていれば。協力できたんじゃないだろうか。そうしたら、もう少しマシな状況になっていたんじゃないだろうか。

 ――かたん。

「ん? なんか落としたかい? 拾おうか? いやあ、寝てるんだっけなァ?」

 壺井あさぎだったものの陶片が、床に落ちた音だった。サイドテーブルの真ん中に置いておいたはずだったのに、何故落ちたのかはわからなかったけれど。中腰になった刑事は、気にするものでないとわかると、また椅子に腰を落として、長い独り言の続きを始める。

「――最初にいったろ、クミちゃん。『化け物』だって」

 ――言った。でもさ、刑事さん。あんた笑っただろ。

 けれど、それは刑事の方から歩み寄って来たように、槌田は期待して、目を開けた。

「――それ、詳しく聞きたいんだ」

「ほら、起きてた」

「るせぇ、オッサンまだいたのかよ――今、起きたんだよ」

「嘘だなあ、一度本当に寝ているときに来たけれど、クミちゃんは寝ていないときは、寝息まで止めてしまうんだ。な? 刑事さんちゃんと仕事してるだろ?」

 槌田は、舌打ちをひとつ。

「刑事さんに情報をおくれよ。録音とかはしてないから」

「あんたもたいがいしつっこいな。何度聞かれたってしらねえんだよ」

「わかったわかった、じゃあ先にこっちからな。とっておき。アから行くよ」

 素知らぬふりで革張りの使い込まれた手帳が開かれ、アからはじまるフルネームがひとつ口に出された。知らない名前だった。

「は? なんだ急に」

 刑事は続ける。呪文のように抑揚無く唱えられる名前の羅列。どうやらそのすべては、どこにでもいそうな少女の名前に違いなかった。

「んだそれ、出席簿か?」

 動揺を隠して、軽口を装って槌田は尋ねる。

「――そう、五十音順だものな。で、ひとつでも聞き覚えはあったかい?」

 刑事は手帳のその頁を広げる。槌田からは逆さに見えるが、名前がカナで走り書きで羅列されている。どれにも覚えはないが、槌田の目は五十音順の羅列が終了したあとに名前が濃さの違う筆跡で追加されているのを見つけた。中村紫乃、片岡千代子、壺井あさぎ――。

「……なんだ、それ」

 声が震える。その三人の名前が最新の物として並んでいるのはどういうことだ。あの三人と同じ末路を辿った少女達がそれだけいる――ということなのか。その名簿の中身はずっと、増殖を続けていることを表しているに違いなかった。

「なあ、なんで中村や、壺井の名前がさぁ、あんだ……?」

 すると、刑事達は知っているのか。中村や、壺井や――おそらく片岡もこの忌まわしい墓碑に名前を連ねてしまって然るべき理由を。

「知らない? いっこも聞いたことない? 思い当たるフシ、ない? ……なさそーねえ。じゃあいいの。まあ、刑事さんもねえ、よくわからんのよ」

「ハァ? ふざけろ。わからないってなんだ。あんた」

 声が震えるのを隠せない。刑事はそんな槌田の怯えにとっくに気づいている。だからよりいっそう落ち着きを、その優位を維持する。

「だから、言ったでしょクミちゃん。わからないから、当事者さんたちから詳しく聞きたいって――。刑事さん達は疑う商売だから、信じてくれだなんて言えるお仕事じゃないんだけどね。そう、君らくらいの年頃の子と、ご老人たちと話をするのは難しい。何故かぼくらが、騙そうとしているって言うんだ。ぼくらは公務員だから、みんなを騙すはずなんてないのにねえ」

 刑事のやさしさを繕った皺の寄った目は槌田を見ていなかった。手帳の名前も見ていない。死者に興味はないと言わんばかりの凄みを感じずにはいられなかった。

 この刑事には、槌田のところにひとりで来る理由があるのだろう。そして、その理由はきっと知らされることはないだろう。槌田にはその資格がないのだ。友達を守れず、ただの名前に貶めた女に、与えられるはずがないものだ。

「――取引だ」

 くやしさに奥歯を噛みしめても、気丈をふりしぼってもまだ声が震える。心臓が痙攣を起こしている。血を巡らせるから右足の切断面が熱を持ち痛みと痒みで槌田を苛む。

「取引ぃ――? おいおい、クミちゃんになにかあげたり、刑事さんにはできやしないよ」

 刑事は微笑みを槌田に返す、垂れた細い眼を開き、下から覗き込むようなバカにした仕草。

 その仕草は「おいおい、バカにしているのはどっちだお嬢ちゃん――。オレはこのまま帰ったっていいんだ。お嬢ちゃんがあの日有ったことをつぶさに話すなら、オレが持ってる情報を少しだけくれてやってもいいってことだよ」と言っていた。

 槌田は負けを認めた。

 覚悟も、知識も、執着も、なにも持っていやしないのに、駆け引きなんて成立しやしない。槌田にできるのは、富豪に慈悲願い、藁纏って頭を石畳に打ち付ける物乞いのやり口だけだ。

「ったよ! あんた、何を話せば、納得するんだ――」

「いやあ、おじさん嬉しいよ。聞き分けの良い子には、サービスしてあげたくなっちゃうなあ!」

 槌田が折れたことがそんなに嬉しいのか、ケタケタと笑っている。

 

 

 「疲れた」と槌田は久しぶりに感じていた。刑事にあの夜のことを知っているだけ話した。刑事は「それで全部?」と下唇を突き出しながら聞いた。槌田の悪態もどこ吹く風で「ハズレじゃねえかなぁ、コレ」と呟いた。もう、声を荒げる気力もなかった。

 そして刑事は、人を食う化け物について、大儀そうに話しはじめた。全ては突拍子もない要素で構成されていて、にわかには信じられないものだった。だが、「バカか」と思う度に脳裏にぱっくりと開いた壺井あさぎの壺が、あの化け物から逃れようと足掻いたあの夜の光景を思い出す。どんな映画よりもリアルで情けなくて怖ろしかった。

 だから、信じないという選択肢は、もうなかった。

 目の前で、常識と現実の体現をしている刑事なんて職業が、その妄想の裏付けをしていっているのだ。ここ数年、もしかしたらもっと前から少女なんてものは消えてしまうものだった。少しずつその化け物たちの「ほころび」が見えてきたんだという。

 どうして生まれ、どうやったら殺せるのか――。

 そんなこともあまりわかっていない。わかっていることは少ししかない。その化け物達は、およそ人智や摂理を外れた力をもち、人や、同類を食う――。その為だけに生きている。

「じゃあ、やっぱり中村も、壺井も、どうでもいいけど片岡も――、し、死んだのか?」

 刑事は歯を見せずにしめやかに笑みを湛える。

「刑事さんもさ、実際これ全部信じてる訳じゃ無いわけよ。失踪しちゃって、その理由のよくわかってない、お年頃のお嬢さんがいっぱい世の中にはいてさ。そして、高い確率でその場所ではなにかしらの怪奇現象じみた未解決事件が起きている――ってこと。そして、その三人も、他のお嬢さんたちと同じように「行方不明」でしかないワケ。――あ、余計なお世話だけど、探偵のまねごとなんか、するもんじゃないぞ。クミちゃんはさ、運が良かったんだから」

 最後にそんなよくわからないことを言って、刑事は去った。

 槌田は今、名刺を弄っている。城内孝男刑事がメアドを書いてくれた名刺だ。骨ばった身体に似合わない丸みを帯びた文字。樹脂でコーティングされたそれには、黒い磁気線が入っている。曰く「それ公衆電話に突っ込めば、刑事さんに直通ってワケ。ハタチになったら、そいつでデートのお誘い待ってるよン」だと。

「――しねーよハーゲ」

 手がかりは少ない。でも、あさぎや中村だけじゃなかった。あの化け物の姿の先にあるものはなにかを知りたい。――知ってどうする。あんな化け物とまた相対しようというのか、それで、あさぎや紫乃を取り返すことができるのか。様々な後悔と諦めが、槌田の背中を押してくる。槌田は段々と前のめりになる、シーツ越しに、あさぎに砕かれた足が熱を持って槌田を戒める。砕かれなかった今の身体。「運が良かったな」という刑事の言葉が蘇る。

「――疲れた」

 今更、瞼が重くなってきた。

 まどろみの中、槌田は、あさぎとしたある日の約束を思い出している。

 いや、あれは約束なんて高尚なやりとりのつもりじゃなかった――。

「ねえねえクミちゃんんん! 指切りいいい!」「何をだよ、このまえたこ焼き割ったときてめー一個多く持ってったろ、それ返す約束か?」「うっわクミちゃんけっちいいいいいい! ちがうよおお! ほら小指出して」「だからなんの約束だよ」「なんでもいいじゃんんんとくにきめてないんだしいいい、いましたいのおお」「おまえ契約書にサインしちゃなんねえっていわれなかったのか……あっ、こら、てめっ、意外とパワーあんだよなっ――――!」

 

 戻らない日常に穿たれた、楔の思い出だ。

 

 

「で、つっちーどうでした?」

「うん、まー便利な世の中だよね、ETCだっけ? 最近のはうっすいんだねえ! アレより薄いんじゃないの? きみちゃんと使ってる? 計画してる?」

「……GPSです。あんまり大きな声はヤバいですよ。あとセクハラマジ勘弁です」

「まあどっちでもいいわい。そろそろ人間様の逆襲といきたいところですがね」

「駄目そうですか」

「だって、こんなのどうすんのよ。警察のやることじゃないんじゃないの?」

「まあそういわずに、市民の安全とかそういうの守っていきましょうよ。で、片岡の実家の方ですけど、上からストップ来ちゃいましたよ。誰なんです、これ」

「えっ、気付いてないの? きみ入った時さあ、多分並ばされてさ、挨拶してると思うよ?」

「―――――まったまたァ、そんなわけ、あるはずないじゃないですかあはははは」

「まあったくだ、そんなことに首をツッコもうとするバカがいるはずねえよなガハハハハ。なんでその実家の一人娘が地方都市の遠戚におっぽられてるのかとか、桃色事件の目撃でちょいちょいその娘がでてくるかとか考えるだにおっそろしくて考えたくねえよなあ?」

「これ、最後に回しましょうよ」

「同感。あとさ、あの倉庫どうなってん?」

「アレ、厚労省噛みはじめちゃいましたから、アレですよ」

「えー、アレかあ、じゃあまあ、いいかなーめんどくさいし。まあ、何もないことを祈ろうぜ」

「しがらみですねえ、刑事の勘ですか?」

「いンや、推理だよ。あーあ、探偵でも出てきてパッパラパーって解決してくれないかなァ!」

「そんなの商売上がったりじゃないですか」

 

 

 槌田は夕食の前に、まどろみから醒めた。そろそろアンモニアとクレゾールの臭いを帯びた不吉な笑顔の看護士がうっすい味の食事を運んでくる時間だ。

 カーテンの向こうがほんのりと赤い。夕焼けだろうけれど、ひとりでは体を起こすことができないから、それが夕焼けだと空をみて確認することはできないのだ。

 じわりと腹の痛みを覚えて、ぐっと手を握ると、セラミックの欠片を握っていた。

 それは、ぼうと暖かい。二度寝しそうな体は、まどろむ前に見た夢を反芻する。

 

「……ほら、ゆびきりいいい」

 

 ふと、あいつの真似をして小指を差し出す。天井の向こう、カーテンの向こう。願う。

 

 空に。

 

 この先に、どうか繋がっていますように。

        〈ブラックスミス・スクラブル 終〉