読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Y ペイル・ペリセイド/6

G 壺井あさぎ F 槌田紅実 B 真田瑛子 9 チョコレート・コレクト

ペイル・ペリセイド/6

 

 壺井あさぎは一人でも、やっぱりずっとお腹が空いていた。

 あんなにいっぱい食べたのに。家の中が血まみれになってしまうくらい食べたのに。生のおにくがたべたくてたべたくて、しょうがなかった。ケータイがないから、どうしようもなかった。本当は携帯電話を失ったお陰で、あさぎはうまいこと捕捉されずにいたのだけれど、そんなことはあさぎは知る由もない。

 ともかく、あさぎは野良猫を囓ったりして糊口を凌いでいた。それでもただこの姿でいるだけでお腹が減るような気がしていた。

 そんなとき、ふと血の臭いを嗅いだ。

「ふあ」

 美味しそうと思ってふらふらと歩いていった。その時あさぎはもう結構遠いところまで歩いてきていた。あさぎは自分が俗に言う「中村紫乃失踪事件および壺井一家消失事件」に関する重要参考人として探されていることに、殆ど無自覚だった。無理もない、あさぎは想像しても仕方のないことは、考えない主義なのだ。

 ――だって、お腹減るし。 

 天性のカンは、あさぎを自然と安全圏に逃していた。それは少しずつ広がる現実の包囲網だった。まるで、誰かが見守っていて、かろうじて生きられる細い道をあさぎに提示してくれているようでもあった。

「――こっち、かなああ」

 特に趣味でもないワンピースで、倉庫の密集した場所にあさぎはやって来た。あやしげな黒塗りの車が出て行くのと入れ違いにそのテリトリーに侵入していく。出始めの月がきれいだった。

「わあ」

 あさぎは目をきらきらさせた。たまたま目をつけたGって書かれた倉庫の鍵は何故か開いていた。何でここに来たのだろう。あさぎは、周りも気にせずにかぶりついた肉を噛みちぎりながら考える。血の臭いだったはずなのに、このあたりでそれは途切れていた。だれか、懐かしい人が呼んでいるような気がしたんだ。古くからの友人が、仲直りしようと呼んでいるような。そんな気がしたのだけれど。

「――――だめみたい」

 くう。とあさぎの腹は鳴く。衝動に任せて食べても食べても、腹の中でどこかに消えていってしまうようだった。のべつまくなし食べているイメージのハムスターが浮かんで消える。天井から降りてきていた肉の塊はもう三本ばかり食い尽くされている。口の中が肉の脂でにちゃにちゃとするばかりで、まったく満たされない。いらいらする。やっぱり人間じゃなきゃ――ダメなのかな――。

 ――シノちゃん。

 そうだ、あのときシノちゃんを食べていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。あんなに美味しそうだったのに、食べればきっと、こんな空腹に襲われることもなかったのに、パパやママをあんな風にしてしまうこともなかったのに。

「……なんで、たべてあげなかったんだろう」

 あさぎはあの時、自分の中で息絶えたシノを飲み込めなかった。一部だけがあさぎの中に入った。それから、何度かあさぎは人を食べたけれど、まったく味が違った。あの時はまったく納得できなかったし、理解出来なかったけれど。

 あれは、人が食事をするくらい、呼吸をするくらい当然で、なければならないことで、引け目を感じる事ではなかったのだと気付いた。

 そして、あさぎは体に残ったシノの一部が、ここに来るように言っているような気がした。それはバカなあさぎの「そうだったらいいなああ」だけれど。ほんの少しこの肉でハムスターみたいに長らえていれば、誰かが助けてくれるのかも知れない。なんて思った。

 気付けば夜で、外が騒がしかった。誰かが入ってきた。人だ、このさい人でも満足だった。「空腹には慣れないよ、だから、ごはんをそまつにしちゃいけないよ」って田舎のひいばあちゃんが言っていた。本当だった。そしてこうも言っていた「お腹が減ったらねえ、ひとはなんだってするんだよ」おばあちゃんは百になる前に死んでしまった。

 ――いただきまーす。

 やっぱり誰かがごはんを持ってきてくれているんだろう。そう捕食するために壺になったあさぎは考える。咀嚼しながら考える。そういえば、この形になってごはん食べられるあさぎはラッキーなのかもしれないって。だって、あのとき片岡さんといたみたいなひとや、あのシノちゃんが、あさぎとおなじばけものなら、やっぱりひとを食べなきゃお腹がすいてしまう。

 シノちゃんは壺になったりはしなかった。だからきっと、あの姿のままで人を食べなきゃならなかったに違いないんだ。

 ――それって、つらいよねえ。

 壺になった時のあさぎの声は、高い「コーン」という空気を刻む音に変わる。その反射でもあさぎはなんとなく世界を感じることができる。その世界は、今まで見た世界とは、まったく違う輝きを放っているような、そんな気すらした。

 

 クミちゃんのこえが、響いた気がした。

 

 丁度、食事も終わったところだった。あさぎはヘンシンを解いて、人の姿に戻る。そう言えば服を切らしていた。着ていたワンピースは無くなってしまった。裸のままだった。でもそんなこと、クミちゃんは気にしないだろうとあさぎは判っている。

 案の定、クミちゃんはそんなこと気にしなかった。あさぎが生きていたことを喜んでくれたみたいだった。だけどあさぎには、クミちゃんのいうことがよくわからなかった。クミちゃんはなんだか、あさぎがいないほうがいいみたいな言い方をするんだ。シノちゃんをどうして殺したのかって言い方をするんだ。

 ――そりゃあ、食べるんだから、殺すよおおお。

 クミちゃんはずっと、あさぎのこととシノちゃんのことで悩んでいるみたいだった。なんでそんなに悩むことがあるんだろうか、あさぎにはわからなかった。あげくパパとママの話までする。クミちゃん、なんでそんなに悲しそうな話ばっかりするのおおお?

 

 こ ―――― ん

 

 あさぎの中にいる壺が、あれを食べようと訴えている。

 

 ――ところで、クミちゃん、一体誰と来たの? どうしてここがわかったの? なんだかすごくおいしそうな音がするんだ、シノちゃんのときみたいなおいしそうな音。あさぎはもうねえ、こうしているよりもツボになっているほうが楽なんだああ。

 だからわかるよ、クミちゃんの後ろにかくれているひと、シノちゃんやあさぎと同じでしょおおお、おいしそうなのそんなところにかくしてえええええ、ねえそれ、ねえそれ、クミちゃんからのサップライズ――――――――うううううううう?

 

 ――いっただきまああああああああああ

 

 花が咲いていた。草原の匂いがした。

 あさぎは食欲に負けて、クミちゃんと話している途中なのも忘れて、クミちゃんの後ろにいるおいしそうなものめがけてツボにヘンシンして飛びかかっていった。これで、ながいながいお腹空いたの苦しみから逃れられるのだと思った。ママごめん、もうぜったいお魚残したりしません――。

 飛びつこうとして、体が動かなくなった。

 あさぎはお預けを食らっていた。草原の匂いが体にまとわりついていた。苦しい。どうしたって取れない。鳴いても鳴いても取れない。それどころかきつくきつくなっていく。食べようと前に進もうとする度に、まだあさぎのはずかしい中身を見せっぱなしになっているのに、このぎりぎりと締め付けるなにかが、あさぎを開いたままにしている。

 ――やめてよ。

 痛い。痛くて仕方がない。あさぎのそこは閉まっていくためのものなんだから、そのまま開いたら――しんじゃうかもしれないじゃんっ! やめて、ねえたすけて、おねがいだからああああ、だれでもいいからあああああ! シノっちゃああああああん! クミちゃあああああん! たすけてええええええ!

 

 ――ガンッ

 ――ガンッ

 

 カミサマ、ホトケサマ。の勢いだったのに。願いが届いてしまったようだった。ツボを金属でカンカンたたく音がして、その度にあさぎを締め付ける力が弱まっていく。今ならなけなしの力を使って人の体にもどって、この束縛から逃れることができそうだった。クミちゃんが、あさぎを呼ぶ音を感じた。クミちゃんがあさぎを助けてくれたのだと知った。やっぱりクミちゃんは、さっきいろいろ言っていたけれど、あさぎの味方でともだちなんだ。

 

 ――クミちゃん、ありがとおおおおおおお!

 

 あさぎは人だったころのかたちにもどって、するすると蔦をぬけて自由を謳歌する。体を動かしたせいか、さっきよりあたまがはっきりしている。

「――あッ」

 しかし、あさぎは足がもつれる。目先も眩む。もう人の体でいるのは限界に近いようだった。とにかく――たすけてくれたクミちゃんにお礼を言おうとした。お礼は、なによりも基本だから。そこをあさぎは欠かさないのだ。

 でも。クミちゃんはアレにつかまっていた。黒くて緑のあの化け物だ。ダメだよクミちゃん、あれにつかまっちゃあさぎとおんなじことじゃん。クミが自分のせいで捕まったとも知らず、あさぎは勝手な事を思う。

 けれど、あさぎには打つ手がない。ツボになったって、どうやってクミちゃんを助ければいいのかわからない。おなかも空きすぎたし。さっきやっつけられたばかりなんだ。でもクミちゃんが――あさぎも――このままだとあの化け物に――食べられてしまう。

「ひ」

 声がでるくらいぞっとする。そうだ。あさぎは「食べる」ことだけにこの体になってからずっと集中してきたけれど。あさぎやあの黒緑のばけものみたいなのがいっぱいいるのなら。あさぎがシノちゃんをたべたがって、結局あのばけものがシノちゃんを食べたのなら――。

「――あさぎも、たべられちゃうううう?」

 もう殆ど無かった血の気が引く。青かった顔が壺になったときくらい白く変わって行く。しかし、いくら経っても、化け物があさぎを狙ってこない。あさぎがばけものを見上げると、そこに。

「――あれ、片岡さん?」

 片岡さんがいた。その波長にあさぎははっとする。ああ、さっきクミちゃんのうしろにいた美味しそうなのは片岡さんだったのか――。と合点がいく。すると、片岡さんも、同じなんだと思う。片岡さんはなにやらばけものと話している。そういえば、あの廊下のときも片岡さんはばけものと喋っていた気がした。

 片岡さんは――いつから――こんな化け物だったんだろう。そんなことをぼうと思っていると。すうとチョコレートの香りがした。靄のようなものが、足下に充満してきていた。あさぎは最初のほんの数瞬「ここ、冷蔵庫だからかなああ?」なんて暢気なことを考えていた。

 そして、あの、電車の中で嗅いだあの香りに辿りついた。

「――――! あああ! あああああああッ!」

 どこにそんな力が残っていたのか。あさぎは全力で後ずさり、もう一度見上げる。片岡さん、片岡千代子。ばけもの。チョコレートの匂い。あれからおかしくなったあさぎ。

 ――もしかして。

 バカなりの頭でいやな想像をしていると、束縛されていたはずのクミちゃんが、落ちてきた。 

「てっ! ――なんだこれっ」

「クミちゃんんんッ!」

 あさぎはクミちゃんの元に駆け寄る。クミちゃんをこの靄に触れさせてはいけないような気がしたから。

 あさぎはきっと――こんな、ばけものになる素養は無かったんじゃないかと思う。

 だって、クミちゃんはなってないもの。シノちゃんはきっとしょうがなかったんだ。でもあさぎが、そうなってしまったのはきっと――アレだ。あのチョコレートの匂いだ。あれを吸い込んでから――あさぎは、おかしくなった。

「クミちゃんんッ! だめえッ!」

「わ、壺井ッ!」

 駆け寄る手が止まる。クミちゃんはあさぎから逃れて倉庫の入り口に逃げていく。――なんで。なんで逃げるの。あさぎは泣きそうな顔になる。あさぎはさっきクミちゃんのいうことがよくわからなかったから、変なこといったかもしれないけれど。そんなクミちゃんのこと食べようとなんかしていないんだよ。

 でもいいよ、そのままクミちゃんが逃げてくれれば――。

「――あっ、クソ、開かねぇッ!」

「――えっ」

 だって、そこを開けて入ってきたんでしょ? とあさぎは口を歪ませる。それじゃクミちゃんが逃げられない。迫る靄を吸えば――ツボになったあさぎはもう、大丈夫ってか、あはは手遅れだけど――クミちゃんはどうなるの? あさぎみたいになる? そうでなくともあの列車のなかにいた人たちみたいになってしまうんじゃない――?

 あさぎは蒼白になる。クミちゃんを守らなければならないと思った。今自分に出来ることは何か、考える。足りない頭で考える。あのばけものを倒すことか、片岡さんを倒すことか、ツボになって自分だけやり過ごしたらあれ、これなら大丈――だめ、だめだよそれじゃあクミちゃんたすけられないじゃないの。

 ――ああもうううううあさぎはバカだからああああ!

 ――助けて、助けてよ、シノちゃんんんん――!

 よりによって、あさぎは脳内で自分が殺してしまった友人に相談する。するとあさぎが、あさぎの中でつくりだされた、都合の良いきれいなシノちゃんは律儀にそれに答えてくれる。

『バカね壺は。あたしと同じにすればいいのよ』

 ――それって、食べちゃえってこと? 

『違うわよバカ壺、食べちゃダメよ。入れるだけ』

 ――あ、そうかああ。

 あさぎは笑う。なんだ、助けられるかも知れないじゃないか。と笑う。天才的な思いつきだと浮かれて、ついさっき、ひどく怖れられていたことも忘れて、クミちゃんにいきおい抱きつくように名前を呼んでそのまま変身しようとしたもんだから、やっぱりあさぎはバカだった。

 生命の危機を感じたクミちゃんは必死の形相で、手元にあったバールのようなものであさぎをぶったたいた。殆ど壺に変わりかけていたあさぎに、その程度の力はまったくもって痛くはないことだった。しかし、慣れない能力の距離感はまったくおぼつかなくなってしまった。

 そう、あさぎの「壺の中に取り込んで、食べてしまわないようにすれば。きっとクミちゃんをたすけることができるんじゃないのもーやだシノちゃんったらやっぱりあったまいいいいいいいいいいいいい!」計画は部分的成功に終わった。

 

 こ ―――――――― ん

 

 クミちゃんを胎の中で守りながら、ヘンシンした(あさぎ)が悲しい鳴き声を上げている。

 

 充満した靄の中、白い壺が鎮座している。

 その横に、槌田紅実の片足が赤い絵を描いてもの言わず転がっている。

 それでも、靄が晴れるのをあさぎはじっと待っていた。

 

              ◇

 

 靄は晴れていった。

 一旦ヘンシンを解いて、クミちゃんを床におろす。食べずにいることはできたけれど、血がどくどくと流れ出していた。すぐに病院に連れて行かねばならないのはあさぎにもわかった。

 しかし、あさぎの役目はそこまでだった。

 あさぎの目の前には、飢えた同類がいる。片岡さんは、その腕の中で幸せそうな顔でくったりしていた。ばけものも、おなかがすいているなら片岡さんを食べればいいはずなのにそうはしなかった。きっとばけものは人を食べてもちょっとはお腹が満たされる。あさぎも、クミちゃんを食べる可能性を考えないでもなかった。

 でも、クミちゃんを食べても、ダメだ。そんなに長く生きられないし、折角助けたのに、食べ直すとかなにやってんの。でもあさぎは殆どすっからかんなのだ。

 けれど、あさぎとおなじばけものをたべたら。もっともっとおなかいっぱいになるはずなのだ。ほとんどシノちゃんのかけらだけで、あさぎがここまで動いてきたように。

 そしてそれは、向こうも同じだ。

 ばけものは当然、あさぎに狙いをさだめた。スナックを空けるような気軽さであさぎを食べようとしている。でもあさぎだってそう簡単に負けない。あさぎは壺である自分がけっこう固いのを知ってしまったから。

「あはは、ボクはキミにサワっているからね!」

 見透かしたようにばけもののアタックが始まる。背中にクミちゃんを負いながら、あさぎはずっとひたすら耐えている。けれど、ばけものの攻撃はだんだん重くなる。そして、あさぎの動きは段々と遅くなってくる。

 こ ―――――― ん

 あさぎが鳴く。あさぎの不安は自壊ではない、殴られるときに襲ってくるこの「空気」そのもの。シノちゃんに――そう、今みたいに殴られっぱなしになったときと同じ。殴られていることが同じだから、同じ雰囲気なんじゃない。死に吸い込まれるような、恐怖。

 これは――シノちゃんの、ちからじゃないの。

 ――――こーん

 あさぎは力なく、叫ぶ。

 叫んでも、叫んでも。乾いた音が響くのみだけれど、叫ばずには居られない。ねえ、ねえ、あなたの使ってるちからってええええ、いまあさぎを殴ってるちからってええええ、シノちゃんのものじゃないのおおおおおおおおおおおッ!

 あさぎはなぜだか、悔しくて仕方がなかった。

 紫乃を喰った自分が、紫乃の異能で殺されるのは仕方がないようにあさぎには思えた。これがインガオーホーってやつなんだよってクミちゃんに賢いことを自慢してやりたい気分だった。

 ――――こぅ――――ン

 声は乾いた音になる。響いてはいかない。無数の蔦が繰り出してくる攻撃は、ゴルフクラブで叩くかのようにしなやかな軌跡で壁面へ確実に衝撃を与えてくる。固ければ固いほど、その攻撃はあさぎにとって脅威で、まだ慣れぬ身体の動作で衝撃を分散させるのが精一杯だった。

 ――あ、割れちゃう。

 割れたらどうなるのかあさぎには想像も付かない。かつて、人間だった頃に両親と仲睦まじく暮らしていた頃のあさぎは偉いから、心臓とか脳みそとかそういう弱点を突かれたら死んでしまうことを知っていた。けれど、意志を持った無生物の死に値するものは、あさぎの想像を超えたところにある。

「あはは、キミはまだタルまないつもりだ! なるほど、ボクの目はニゴっていた。一番近くて強かったのはキミだ! でも――ボクはその程度でヒシぎはしない――」

 化け物がうたう。あさぎがなげく。

 あさぎのバカな頭では太刀打ち出来ない。シノちゃんが居ればきっと、この化け物がなんなのか判断して、他人事みたいに人を人とも思わない案を出して、クミちゃんがそれを「は――ァ?」って鼻で笑いながらそれを採用するんだ。そしたらきっとこの化け物にだって勝ってやったのに。自分のしたことは棚に上げて、あさぎは声なき声で、叫ぶ。

 ――ダメだよシノちゃん、どんなにあたしが嫌いだって――どんなにクミちゃんが、好きだったってええええ! 死んだら、なああああああんにもならないじゃああああああああああああああああああああああああんかあああああああ!

「――さよならだよ! キミ!」

 蔦の、幾万もの緑色に湿る長い指の群れが、中村紫乃の魔法を纏って、壺井あさぎに致命の狙いをつけた。あのとき、誰も助けに来てくれなかったように、あのでたらめが有る限り、逃げだすことはできず、誰の助けも望めない。あさぎは、頭の中のシノちゃんに一言くれてやる。

 

 ――クミちゃんは、どうするのよおおおおお、バッカあああああああああああッ!

 

 いくつもの物理を超越した質量が、滑らかな壺の曲線のそれぞれに垂直を描いて。まるで大きな夜の花火動画を巻き戻したかのような美しい幾何学曲線を描いて吸い込まれていった。

 

 返事なんか、あるはずない。

 くやしくても、壺は涙を流せない。

 

 

 うしなったものを、とりもどすことはできないんだ。