W ブラックスミス・スクラブル/5

ブラックスミス・スクラブル/5

 

 槌田紅実はもうどうにかなりそうだった。コンクリート剥き出しの床に座って小便を漏らして救われるならそうしていただろう。けれど、歯を食いしばっても、自分を虚勢で大きく見せても、絶体絶命の窮地で為す術もなく流されていくしかできない。

 さっき自分の身に起きたこともそうだ。これで自分は終わるのだと思った。あの時中村を助けられなかったから。中村と同じ方法で、中村と同じく友人に食われて死ぬのだと。

 なんてお似合いの最期だと思った。夜の食肉倉庫で、いろんな肉や血と混ぜられ同じものになってしまうんだと思った。刑事から漏れ聞いたあさぎの家族のようになってしまうのだ。

「――んだってんだよ」

 もはや槌田は、悪態をつくのが仕事の音楽プレーヤーのようになっている。 

 槌田のからだのどこにも血は流れていなかった。膝をついた身のままでそれを見上げる。槌田は薄暗いこの倉庫の影の中にいた。とんだ怪獣大決戦だ。弟がせがむので観に行った怪獣映画の一シーンみたいだ。きっと、放射能の影響でこんなことになってしまったんだろう。

「そうでなきゃ、へんなもの拾って食べたんじゃねえのっ!」

 そんな悪態をついても、通じるのか判らない。通じたとしても、彼女は――かつての友人・壺井あさぎは見るだにそんな状況ではない。

 閉じたと思った壷が、閉じずにその内側を晒している。

 そこに緑青の蔦を挟んでその動きを止めている。

 

 コ――――――ン

 コ――――――ン

 

 壷が槌田を見て、恨めしそうに鳴いている。

 槌田は後ずさる。そうするほどに床が冷たい。

 ぎりぎりと蔦が壺を引き締める音がする。

 

   コ ――いた――い―― ン

   コ ――やめ――て―― ン

 

 壷の鳴き声、エレクトーンに収録された音源アイスブロックみたいな音。その合間に、かすかに、しかし確かに声――あさぎの声を聞いた気がした。

 槌田の目の前であさぎだった大壺にからみついた蔦。甲子園球場や東欧の城に絡みついているような蔓。それは意志をもった動物のように高速でうねり、壺を締めあげていた。

「どんな怪獣映画だよ、これ……」

 槌田は息をのんでいる。目の前で繰り広げられる怪奇に頭がついていかない。難しい、こんなことが、あるはずない。なんにせよ、今さっきまで槌田を食おうとしていたその忌まわしい壺を、倒してくれそうなんだから、これはいわゆる救いの手なのではないだろうか――。

 だとすればこれは、喜ぶべき事なのではないか――?

 

 コ ――たす――けえ――てええ―― ン

 コ ――クミ――――――――ちゃ―― ン

 

「――え」

 

 壺がこっちを見ている気がした。凝視したところで、壺に顔はないから、表情なんかわかるはずもない。気の遠くなりそうな深淵空間を覗かせる壺の中にずるずると蔦が入り込んでいく。深淵はその度に色を、蠢きを変える。その蔦は壁全体から生えているようにも見える。

 どこからきて、どこにいくのか、わからない。寒い。

 そう言えばここは食肉倉庫なのだ。寒いに決まっている。歯がかちかちと鳴り出す。いまのうちにわっとドアを飛び出して帰りたい。横目で見ると入ってきたドアはいつのまにか閉まっているし、どこからか冷気が入り込んでいるわけでまったくもって暗いし寒い。こんなわるい夢のことを忘れて、暖かいベッドで眠りたい。槌田は思う。あたしは悪いことなんか――たとえば、人を殺したりとか、あまつさえ人を食べたりなんかしていないんだ。

 なのに、なぜこんな目に遭っているのだろう。

 逆に、それを、そんなひとでなしをしてしまった悪い子はそれができない。平穏を、日常を享受する資格がない。だから人でなく壺になればいい、壺になって、人を食べて、でも、おとなしくしてなかったから。だから。 

 ――だからそんな目に、あっちまうんだ。ガキでも知ってる理屈だろ。人を殺しちゃ、ゼッタイにいけねえんだ。

 

 コ ――――――…… ン

 

 壺の音が弱々しくなっていく。さらにミシミシと何かが軋む音が聞こえる。しなやかな無数の蔦が、壺を割らんばかりの勢いで締め付けているに違いない。それはじわりじわりと獲物が弱るのを楽しんでいるように見えた。あの蔦は、あさぎを殺すのを楽しんでいる。

 ――ひでぇ。

 声に出ない。しかし、槌田の中に生まれたそれは哀れみだとかそういった類の想い。それに気付いて口を抑える。俯いて自分を言い聞かせる。

 ――なにがひどいものか、よく考えろ槌田。あの壺は得体は知れないが、あさぎだ。壺井あさぎなのだ。中村を殺し、親を殺し、見も知らぬ誰かを殺し、そしてそのはらわたを食い破り、咀嚼し、飲み込む化け物ではないか、なにを同情の余地がある、それにあの壺はさっきも、友人であるおまえ自身ですら取り込み食おうとしたではないか。

 理性の声が聞こえる。その通り、全くその通り。そして一番正しい道は、こんな信じられないこと忘れて、メールの事など忘れて、中村紫乃の無念と、壺井あさぎの説得も全部忘れて、まだ死んでない今のうちにここから逃げ出して、何不自由ない人生の続きを送ることだ。こんな悪夢、自分に関係のないことだと叫んでしまえば、楽になれる。

「――し、知るかっ、ボケェ」

 すっくと立ち上がって槌田はあたりを見回す。無骨な道具箱がその中身をぶちまけ、ドライバーとかネジとかが散乱する中、ひときわ目立って肉切り包丁のお化けとも表現できそうなものが転がっている。マグロを解体するにはいくらか役不足そうなそれを、手に取る。

「こいつで、おあつらえむきだぜ」

 ――おあつらえむき? 何に向いているって言うんだ。かつらむきか何かと間違えているのではないか。これはダイコンじゃなく、肉を切るためのものだ。獣の肉をぶったぎるための道具だ。そうだろう? では獣の肉というのはどこにあるというんだ。獣とはなんだ。獣とは人類の敵だろう? ほらツチダクミ、さっきお前を食い殺し、己の欲望のためだけの為にかみ砕こうとしたものが、敵なんだろう?

「―――――はァ?」

 不敵に笑う。吐いた息が白い。鼻に抜ける人を小馬鹿にした下品な笑い。賢しらな中村のジョーク、あさぎのその日三度目の一生のお願い、槌田たちをクスクスとわらったあばずれの性根。先公、世界、両親、それもこれも全部、こいつ一本でたどたどしく笑い飛ばしててきたのだと、槌田は吠える。

「そうだなァ、壺井はよー、さっき、確かに、あたしを殺そうとしたんだろうよ……中村の上さ、あたしまで。あんなに懐いてくれてたと、思ってたんだけど、なあ」

 刃を振りかぶる。気持ちに助走をつける。

「でも、さぁ? 聞こえちまったしなァ?」

 ――はやくしろ紅実。壺が割れたら、あさぎの命も終わる。そうすれば中村のカタキが討てなくなっちまうんだぜ。それってダメじゃね? ほらさ、思い切れ、やると決めたらやってしまえ、迷うな、そうだあの蔦の走っている繊維と垂直に、豚の骨まで切り落とすその刃を槌斧の如く振りかざし念じろ壺め、壺め、この壺め! 『砕けろ!』と――!

「うっせえな、黙ってろ! 今やんだよ!」

 内側から聞こえる賢しらな声を一喝。そのまま槌田はリズムを取る。自分のジャンプでは届かないだろう高さを、三角跳びで飛び越える。高さを味方につけ、狙いをつける。自分の身に宿ったエネルギーをまるごと、想いごと乗せてぶちまけるだけ――!

「――うらああああああああっ!」

 ぱつん。――と、拍子抜けするくらい楽に、蔦は切断された。

「――お、いける!」

 槌田は勢いにのって、叫ぶ。また振り下ろす。

「あさぎィ!」

 念じる必要もなく、バツンバツンと景気よい音を立てて、切れていく。もう一度振りかぶってダマになったところを切り落とす。壺に刃は通じないから、あさぎに遠慮することなんてない、傷ついちまっても、そんなのは勲章だと思えって後で言ってやる。

 だから、

「あさぎ!」

 また叫ぶ。

「聞こえるか、あさぎ! 今、助ける!」

 念じる必要も、願う必要も、呪う必要もない。

 壺井あさぎは、槌田紅実に助けを求めたんじゃないか。

「なら、やることは一つっきゃねーだろ――ッ!」

 叫び、三度目の凶刃を確実に蔦の上に振り下ろす。

 ――あはははは! わかったよ! それがキミのダンじ、サダめた賢しらだとアカしてあげるから! ああまったく、ボクの不明にタガわないよ!

 声がした、その声はどこから聞こえたのかわからない。その声は部屋全体から響いたように思える。そう、壺を取り囲む無数の蔦が生えてきているのと同じ場所から――。

「なんだ――!」

 蔦が目に見えぬほどの早さで槌田の体に巻き付いていく。巻き付かれて気づく。この蔦は緑の臭いがしない、螺旋を描いて巻き付くそれらは、葉か棘のようにみえたそれらは、よくみると蠢いている。それぞれの部位が意志を持っているかのように蠢いている。まがまがしい蕾。

「あ、ちきしょ、このおッ!」

 槌田の抵抗も空しく、槌田を無力化しながら、蔦の芽が次々と咲いていく。その芽の中には肉が詰まっている。棘のあるライチの実を剥いたあとのような白くぬらりとした肉。その肉は丸くまったくの球形。それは五つに分かれる、枝になる。それぞれが五つに分かれる。それぞれはそもそもの枝に張り付いたところをもっとも心臓に近い左腕を軸として、人の体のように五つに分かれる。連鎖する増殖。すぐに網に成長する。網は何のために網であるのか。

 獲物を包み、獲物の動きを止め、獲物を無力にするためだ。

 最後に、ひときわ大きい蕾が生成され、その中から――人のごときものが粘液にまみれ生えてきた。槌田は知らないが、それは先日この町にきたばかりの魔法少女、真田瑛子だった。

「げッ! ひ、人?」

 それが、口を開く。

「――――さ、キミのノゾみをもう一度だ! それとも――諦めるかい?」

「―――――ッ!」

 槌田はその異常を見て絶望する。全身が怯えて、震えて、手が付けられない。武器は落ちた。敗北を悟らされる。とっくに、気づいているべきだった。これは化け物なのだ。人間と同じリクツではない、まごうことなき化け物だ。だったら、人間が敵う道理はないではないか。

「あははははは――どうして、オビえているのかな? どうして、クジけてしまったのかな? 勝てるとオモっていた! あはは、ボクはカマわないよ。シボる刃を当てたのはキミの頤でなかった! 指と喉と腸のボクをアヤめた! その咎からノガれたいとキミはヨクすのかい! でも残念だ! キミがどれほど悔いることがあっても! ボクらは弱いから、カエってはこれないんだ! キミのことをもっとよくゾンじることができたことをさいわいとオボえて、ここでラクそうじゃないか! さあ!」 

 陽気な魔法少女(バケモノ)のうたが倉庫全体に響く。蔦と網を通してここにいる全員に届く。その演説とも歌ともつかぬ死の舞踊が、この倉庫で最後の花を咲かせにきた。

 全ての蔦が、槌田に狙いを付ける。バケモノでないから、今まで見逃されていた槌田は、羽虫のように無視されていただけなのに、蚊のようにわずかに血を吸って逃げれば良かったのに、調子に乗って分不相応のダメージを与えてしまったから。

 周りに吊された肉のように、静かになってしまうのだ。

 

 

 

 時を同じくして、静かに

 風上の魔法少女が動き出す。