V チョコレート・ゲート/7

チョコレート・ゲート/7

 

 壺が鳴っていた。

 片岡千代子は頭を抱えた。どうやらジョーカーを引いた。

「――なんてこと」

 槌田紅実がナナメ後ろで言葉を失っている。藍色の文様に新鮮な赤茶のシミを隠さない巨大な白磁の壺が、非常誘導灯ばかりのうすぐらい倉庫の中でコーンコーンと音を立てていた。

 千代子の記憶に僅かにその壺はあった。壺井あさぎ――。あの廊下の惨劇で目を覚ましたとき、全裸のあさぎが現れる前に一瞬だけ目に焼き付いたシルエットはまさにこれだった。

「な、なんだこれ」

 横で槌田が怯えた声を上げる。千代子は眉をしかめる。

「……見ての、通りよ」

 ぶっきらぼうな声を出して千代子は周りを確認する。食肉工場の倉庫。冷気。腕ほどもありそうな巨大なフックに掛かった肉が所狭しと並べられており、その中心に壺がいた。

 今、ふたりの目の前で人を食い終わった、ばけものだ。

 コーン。と高い音が室内に響く。肌に沁みる冷気がさらに増すようだ。

「なんの音……だよ」

 いちいち驚かれても、千代子だってそんなこと知っているはずがないのだ。返事もせずに千代子は傍らの階段に身を隠そうと走る。

「お、おい! おかしいぞ、こいつ!」

 槌田の声が千代子を制止した。うんざりとした顔で走りながら一瞥すると。あわや、壺が鈍い光を発していた。千代子はそのまま物陰まで走りきって、改めて壺を見る。

「あっ!」

 千代子には覚えがあった。それはあさぎが壺から元に戻ったときの光だ。

 予想は的中した。壷は光の中で粘土のように形を変え、人間に似た形になり光を落ち着かせた。そう見えるようになった頃にはあの「コーン」という甲高い鳴き声は止んでいて、真っ赤で全裸のあさぎがこちらに背中と尻を向けて立っていた。

「つぼ……い? あさぎ? あさぎか……?」

 ふらふらと槌田はあさぎに近づく。制止しようとして千代子は逡巡する。冷静を手に入れねばならないと、ぐっと手を握った。

「おい――! 壺井!」

 あさぎは赤く染まった自分の手をイヌがするようにぺろぺろと舐め、べとつきすぎる手を嫌って、汚れてなかったわき腹にこすりつけてから、槌田の方に振り返った。

「あっ、クミちゃあああああんんん」

 いつものように笑っていた。彼女の笑顔を彩っていたツーテールは無く、後ろに流していた。あとは血まみれで、内臓の臭いを体中からさせていることくらいしか変わりはない。

 けれど、槌田は再会もあさぎの生存も喜ばず、伸ばし掛けた手をだらりと垂らしてしまう。

「なあ――壺井なのか?」

「うんっ、あさぎだよおお! どうしたのおクミちゃああん。みってのとおりじゃああん!」

 小動物のごときぴょいこらとジャンプすると、血糊が周囲にピピッと撥ねていく。

「なにしてん――」

 槌田のかける声は震える。きっと槌田は信じたくなんかなかったんだ。けれど、目の前を歩いていた老警備員が磨り潰されていくのを見てしまった。床に流れている赤いものは、周りの食肉から流れ出たものでなく、人間から流れ出たものに違いないのだ。

 あさぎはあっけらかんと答える。

「たべたよおお?」

 小首を傾げて、かわいらしい仕草で言う。当然でしょって笑う。口の周りが赤い。笑うと乾いた血糊がぱりぱりとひびわれる。あさぎは指でそれを痒そうに刮げ取り。ツメの間に挟まった赤い汚れをしげしげと見つめた。

「……くった?」

「うん、たべたんだああ。でもねえ、おかしいんだよねえええ。こんなにたべてもねえ、ここにあるのはだめなんだよおおお。もうううおなかぺこぺこでこまっちゃうううう」

 槌田の顔がみるみる曇っていく。

「食った……ってのか、さっきの人、お前に、なんか、したのかよ……」

「なんも? でもねえ……なんでかなああ。やっぱりおなかすくんだよねええ」

「いつから……そんな……」

 槌田はもう、聞きたくないのに口が勝手に疑問を挟んでいる。そんな有様だった。

「あの日からだよおおお。あさぎが――シノちゃんを、食べちゃった日からだよおおお」

 あさぎは笑っているようだった、千代子からはあさぎの表情はよく見えなかった。ただ、口調はどこまでも底抜けに明るい。あの時にあさぎはいくばくか精神をやられてしまうのだろうか――千代子は二人のやりとりを覗いながら、他人事のようにそんなことを考えている。

「おまえ……壺井……それ言うために……呼んだのか?」

 呼んだ? というところに千代子が反応する。なるほど、槌田は壺井に会いに来たと言うことだったかと得心しかけて、疑念を抱く。

「えええ? なんのはなしいいいい?」

「って……お前、お前が呼んだんだろ! ここに! わざわざ何度も遠回りさせて!」

 そう、それはおかしい。槌田を尾けていたがために振り回された千代子は思う。あさぎはそこまでバカだと思ってもいないが、策略を巡らせるタイプではないだろう。

 あさぎのような単純バカが人をおびき寄せ、なおかつわざわざ遠回りなんてさせるだろうか? 何のために? そんなことを考える千代子をよそに、あさぎと槌田の会話は続いている。

「え――? でもあさぎのケータイはシノちゃんに壊されちゃったんだもんん!」

「……壊され……って、おい。だから、やったのか……?」

「ちがうよおおお……でも……あさぎがこんなになっちゃったのはそれもあるかもお?」

「はは……。あのさ、何度も聞いてさ。すまねぇけど。ちょっとさ、はっきり言って欲しいんだ。あさぎはその、――たのか? 中村を、中村紫乃を。さっきみたいにして!」

 はっきり。そう伝える槌田の文言こそはっきりしない。苦しそうにぼかされてしまう。

「そう、そうだよおおお。壺井あさぎがっ、中村紫乃をたっべましたあああああ!」

 対照的に選手宣誓のような通る声。甘く鼻に掛かった幼い声は。かつての級友をその胃の中に収めたことを。そしてそれを恥じることはないのだと言っている。

「っはは――そっか、そりゃそうだわ。食っちまったら、そりゃ。のこんねえよな。マジで……? 骨まで? なんで、ころ――殺したんだよ! そんなに、そんなに!」

 あさぎが頷くと、槌田は膝から崩れ落ちた。その弱さに千代子は呆れる。一拍おいて、呆れている自分の方がおかしくなっているのだと認識を改める。

「そんなに……きらいだったのかよ……」

 一歩。あさぎは進んで、血まみれの手を槌田に伸ばした、首の回りにそれを回す。千代子は思わず「あ、死ぬ」と呟いた。あさぎはその細い首を磨り潰すことなく続ける。

「ちがうようう……あさぎはねええ。シノちゃんのこと、きらいじゃなかった。好きになりたかったんだようう。だから、そんな目で見ないでえええ」

「――しんじられっかよ」

「――だよね……ころしましたああああ」

「そうか」

「あさぎが……やりましたああああ」

 あさぎは、口の中に爆弾を仕掛けられたみたいな顔をして、そう言った。

「でも、あさぎはあああ――」

 爆弾を仕掛けられた顔は、崩れない。

「いいよ……もう、そういうの」

 槌田の掌が、あさぎの肩まで上がる。

「――クミちゃんは、しんじてくれないいい?」

 肩にかけられようとしたその手は、友に触れられず、力なく血の海に戻る。「見なければ信じられたけどよ」なんて言葉が浮かんで細かい棘に変わる。

「クミちゃんはあああ、あさぎを、ころしたいい?」

 あさぎの声は穏やかに、槌田に問いかける。

「殺したい。でもさ、殺したらだめだろ。壺井はあたしの友達だったじゃねえか。中村もだ。だから友達ふたりをうばったおまえが……許せ、な……い……」

 槌田の矛盾に、あさぎがそれを笑う。

「あたまいいなああ、あさぎはあああ、クミちゃんがなにいってるのかわかんないいい」

「ばーか……」

「ねええええ、なんでええ泣いてるのおおお。クミちゃん」

「なんで、殺したんだよぅ」

 声が震えているのは、槌田だけだ。

 槌田の声が震えるほど、あさぎの声ははっきりしてくるように、千代子には思えた。

「あさぎはころすつもりはなかったもんん。でも、体が勝手にね。そしたらねええ、きっと、いけないこと考えたから神様とかがすごく怒ってえええ、あさぎを、こんな目にあわせてるんだとおもうんだああ。でもさああ。だったら、だったら――クミちゃんを、そんなふうに泣かせないようにしてあげられたらよかったのにねえええ」

「泣いて、ねえよ」

「うっそつきい」

 あさぎの目に大粒の涙が浮かんで、音もなくさらさらと頬に伝っていく。槌田は目の前で起きていることに収拾がつけられない。ものすごく残酷な人殺しが、壺になって人を食うらしい。泣き虫のそいつが、目の前でほろほろと泣いている。

「泣くなよ……お前が、悪いんだろ……」

 あさぎはひとつ鼻をすすると。きょとんと槌田の方に向き直る。短い舌を伸ばして、唇の横の涙をひと舐めした。溶けた血糊が唇を染めていく。

「しょっぱい? あハぁ? いまあさぎは、泣け――――」

 

 ―― こ   ――――――――――    ん

 

 急に訪れた静寂と、高く響く不吉な共鳴音。それを聞いて千代子は総毛立った。動物的な危険を感じて、槌田からさらに距離を置いたところに跳ぶ。

 ――なんだクミちゃん、わかったふりして、わかってないんだ。

 どこからか、声がする。あさぎの口はもはや動いていない。

 声帯と空気を震わせて鼓膜を響かせる、それが音になる。当たり前だ。だから、いま聞こえてくる信号のことを「声」と表すのは適当じゃないのかもしれない。その「声」は鼓膜でない場所を響かせる。確かに音は鳴っている、でもその音はこの声じゃない。周りすべてに反響を矯正し、状況を捉えようとする潜水艦のピング音。

 その音が――全身の皮膚から染み入り、覚えのあるあさぎの声に変換される。

 ――それはね、あさぎだって

 響く。

 ――あさぎみたいな、ばけものだって

 槌田は、駄々を捏ねる年下の少女を大丈夫だとあやすつもりか両手を、広げて、前へ。

 ――うごいたら、おなかが、すくんだよおおおお?

 それは遅かった。空振りだった。

「――――――あ、さァ、ぎッ!」

 声を、腹からふりしぼる。やっと声がでる。でも、その声も遅すぎた。その声が、ほんの少し早く絞り出されていたとしても、目の前にはもう、槌田の友人だった壺井あさぎはいない。

 水カッターできれいに分かたれた白磁の壺が、あさぎの立っていた場所に鎮座している。

「――んだ、これ」

 槌田が立ち尽くしていた。千代子は物陰から現状を把握するのに努める。目の前にあるのはなんだ、ゲームかCGか、催眠術か、それともなんだ、思いつかない、もしかして目の前で起きているアタマのイカれた画家の絵みたいな光景が――ゲンジツ。ともかく、槌田は今、食われるのだろうと、確信した。

  コ コ ―――――――――――― ンン

 分かたれた左右がそれぞれに共鳴している。そして、左右それぞれが発する悲鳴のハウリングが一つに合わさるところを探知。二つに分かたれたものが一つに戻るのはあまりにも当然で、当たり前で、そこにたまたま何か邪魔なものがあったとしても、構わずに元に戻る力を持っていることが、わかってしまう。半分の壺を結ぶ直線の上で、槌田紅実が呆けていた。

 千代子は刮目して、その瞬間をただ、見ていた。

 ――終わった。

 突風が起き、衝撃に襲われたたから、千代子はそう感じた。べたべたと倉庫に吊された肉が床に落ちていくのを見て、それが槌田だったものだろうと誤認した。軽く手を合わせた。

 だが、白磁の壺はその内側に渦巻く深淵をさらけ出したまま停まっていた。モーターを無理矢理止めているようなうなり声が聞こえてくる。それはあさぎの苦悶のように聞こえた。

「――――んだよ、これ……」

 命を拾った槌田が次々と襲い来る怪異、人の身ではあずかり知らぬ超常に「頭から女神様でも生まれそうだ」って顔をして手の平でそれを覆っている頃。

 片岡千代子は目を天上の月のごとくまんまるに開いて、口元に忍び寄る笑みを隠さず、歓喜を噛みしめていた。何故かって――。

 草原の匂いがするから。

 白磁の壺を、あの愛しい緑青の蔦が締め上げていたから。

 赤い糸を、たぐり寄せたのだから。