U チョコレート・ゲート/6

チョコレート・ゲート/6

 

 片岡千代子はどうしても、先輩に会いたかった。二度も名前を聞けずじまいだったから当然だ。先輩に会って名前を聞いて、唇を奪った責任を取らせなくてはならないのだ。この恋路を何が何でも果たさなければ気が済まない。理由に足りていて、けれど、方法に飢えていた。

 先輩のくれたこのちからと向き合うべきだ。そう千代子は考えた。魔法と呼ばわられたものの、千代子の尺度では明らかに呪いに属するこの異能。廊下での惨劇を過ぎてもずっと、体から吹き出るチョコレートの香気纏った靄は、千代子の脳髄を隙あらば犯そうとする。気を抜けばすぐ、前後不覚に陥り情欲の奴隷になってしまう危険な性質を胎んでいた。しかもそれは、この香気を吸った他人をも巻き込むらしい。

 思い出すだけで目覚めそうな靄を、弱いうちなら円周率と歴代天皇の暗唱で霧散させることを覚えた。引き替えといわんばかりに、腹のあたりがさみしくなる。かつての空腹とは違うけれど、欠如を補填したいとからだが願ってやまなくなる。

 そう、先輩は言っていた。魔法少女は――同類を食う――と。そして、あの日中村紫乃が見せた衝動、壺井あさぎが見せた惨状。この数日、千代子が果たしてきた実験によって導き出された仮定――。

 それは、千代子にとって辛い仮定だ。けれど、千代子を取り巻く現象の数々はその仮定をほぼ正解だと叫んでいる。この呪いは面倒なものなのだ。先輩の言った「魔法少女」の業は千代子をも等しく蝕む。食欲、それも人の肉をだ。肉は長らく忌避してきた。獣を連想させる肉を食べれば、千代子に傷を負わせたあの遠い夜の記憶が吐き気と共に蘇るから。

 だが、千代子は先輩に呪いを貰った日から何度も肉を食べた。食べては吐いた。肉に対する忌避感が失せたはずなのに、体だけがそれを覚えているかのように。だが、呪いは「食わねば死ぬぞ」と千代子を脅し続ける。その衝動は最終的に人に、及んだ。

 思い返せば廊下の時も、情欲の影でその食欲はいた。壺井あさぎを、燻蒸肉の臭いをさせた中村紫乃を、どこかで食べようと思っていたのではないか?

 千代子は自分の現象を、あのときの廊下の現象とつなぎ合わせる。壺井あさぎの変身と凶行。中村紫乃も、ああなってしまうまえにあさぎを、千代子を「喰う」と言っていたではないか。先輩は中村紫乃だったものを、持って行ってしまったではないか。――食べる、為に。

 千代子の推理は続く。彼女たちがもし、魔法少女(バケモノ)で、自分がもっているのと同じ衝動を抱えて生きていかねばならないのなら――。

 お互いを、食べないと生きていけない。それが叶わなければ代わりに人の肉を喰らう。食わなかったとき、その衝動に狂わされて死ぬのか、飢えて死ぬのかはまだわからない。

「――狂った仮定ね。穴だらけ。それでは、私たちは減る一方ではないの」

 千代子はまだ、人を食っていない。

 千代子もまた空腹に襲われることは変わらない。しかし、千代子の魔法は違う手段で、その空腹を満たす手段になっているのではないかと、千代子は仮定し、また、確信していた。

 あの日の、夜。

 千代子は離れで先輩のことを想ってさめざめと自分を慰めていた。それは油断だった。千代子は電車の中で起きたことを教訓として、もっと慎み深くあるべきだった。なのに、先輩と再会できてしまったばかりに起きたのは意図せぬ発動。そして、あの忌まわしい日の再現。全身の肌が粟立つ獣慾に千代子は晒された。片岡千代子の魔法は、中村紫乃のように相手を打ち負かす武器にはならないガラクタなのだと知った。千代子はただ、力弱いひとりの少女として、甘い靄の中で得たくもない快楽に弄ばれ、さんざんに陵辱され尽くした。靄は、千代子の中枢をなだらかに麻痺させていたからか、精神は安定していた。理性はずっとそこにあって、自分の上で体液を撒き散らしながら踊る獣を観察していた。忌まわしい。忌まわしいのに千代子の体は先輩のことを想ってひとり慰めた時のごとく反応した。それは暴虐が力尽き、粘膜が爛れ、舌を噛むことを考えても、理性に反して一種の満足感が恍惚とともに千代子を満たした。

 まだ足りない。と呪いは言っているようだった。

 そのまま、靄をまき散らしながらふらふらと夜の公園に出向いて慰みものになった。それは男女も畜生も関係なかった。千代子は、先輩のことを思いながら充ちていく。

 靄がハチミツのように濃く、曙光を淀ませていた。

 神々しい光を背後に自分の周りで腰を動かす有象無象を横目に、千代子は笑えてきた、なにが魔法だと思った。こんな自分すら守れないもののなにが、力なのか。人の理性を奪い、おびき寄せて情欲の虜にし、乱痴気パーティーをところ構わず開催させてしまうゴミのような――。

「――あ」

 乱痴気パーティー。思い浮かべた言葉に千代子は思い至る。生臭いものが、ぱかりと開けた口にしたたり落ちるのも構わず考える。その空いたところにすかさず別のおぞましいものがさし込まれても、思考は途切れない。そうだ、壺井あさぎが口にしていた噂にもいた。錯乱したあさぎは――そこに黒いセーラー服がいたと、口走ってはいなかったか。

 魔法少女に混乱をもたらし、計算を狂わせ己の身を貶めるだけの魔法。あの人に抱いていた怒りは、ひらめきによって理解に、悲しみに、そして迷いに変化していく。

 他人の体液に文字通り溺れ、空腹の失せていくみじめな体で千代子は考えを纏めていく。そう、この場所に先輩がいたのだとすれば。何を考えたのか、考える。

「せんぱいは、これがいらなくて――、だから――」

 かちかちとピースが埋まっていく。

「適当に、だれでもよくて、たまたま、私をつかまえて――」

 作らなかった方が良かったパズルなのかもしれない。

「この力を、私に捨てたのですね――」

 できあがった絵に絶望と名前を付けた。

 ろくに動かない方の腕を首元に当てる。力は入らずとも苦しくて、食道からさっき飲まされたろくでもないものの臭いが上がってくる。いくら咳をしても粘つく喉。しかし、こんなもので呼吸は止まらない。死ぬ理由には足らないではないか。

「ああ――」

 やがて、際限なく情欲を弄ばれた累々は砂利の上で力尽きていく。はだけた胸も背中も起伏を繰り返している。空腹はどこにもない。このからだは、あんなにも忌避した人の熱と汚れで充ち、喜んでいる。捨てられたもので救われ、迷わされ、貶められ、また救われている。

「……ちきしょう」

 ぽつり汚い言葉を吐いてみると、少しだけ強くなったような気がした。

 怒りも悲しみも迷いも、全部混ぜたその薄汚い塊を胸の裡に収めてみると、すんなりと入っていくようなそんな気持ちになった。

 泣きたくて、ムカついて、どうしていいかわからない。自分をこんなに弄んで、ほったらかしにした先輩の声が浮かぶ。あの人はどうするのだろう。こんな破滅的な時、何を思うのだろう。こんなものをいっぱい抱えていたあの人は、きっと――きっと? 想像もつかない。

「――あはは」

 そうだ。きっと、笑うしかないのだろう。だから、先輩は笑っていたじゃないか。

 

「ああ、ああああ。あははははははは、ちきしょう! ちきしょう!」

 

 千代子は今一度、汚い言葉を吐く。

 あまりにおかしくて、笑えるように。

 

               ◇

 

 道を決めてしまえばどうにかなると、千代子はどこかで高を括っていた。だから、いざ行動に移そうとなるとどうしたものか迷った。なんといっても千代子が探しているのは「魔法少女」なのだ。どうやらその端くれになったとはいえ、その魔法は捜し物に全く向いていないと思われた。だが――千代子はそこで自尊心を爆発させる。それは端から見れば盲目な恋の思い込みでしかないのだが、どのみち結果はオーライだった。

 千代子は同じ制服――それはだいぶ汚れてしまっていたけれど――をカサに学校の寮に侵入すると、またぐらにツバで濡らした指を差し込んでかなり強引に魔法を発動させた。淫靡の花園と化した寮の中で、第一侵入先の宿直室で拾った簡易酸素ボンベを片手に理性を保ちながら、みるみる獣と化した女子たちの間を縫って目当ての部屋に転がり込んだ。槌田紅実と少なからず関わりのあった委員長鷺沢の部屋であった。人の名前やツラを覚えない千代子になじみがあったのは、彼女の背格好が学年を合同にした列で前後する程、たまたま似たものだったからだ。

 鷺沢本人は今、食堂で開催されている淫らなサバトの主役となって、体中を水浸しにしている。大人しく、理知的で穏やか、万人に慕われる人格者が率先して嬌声を挙げていた。

 窓から脱出し、チョコレートの靄を回収する。魔力と呼んで差し支えなさそうな、なけなしの充足感。そして全身を荒縄できりきりと締め付けられるような容赦のない快楽を取引し、そのおつりに鷺沢の制服を一着、その他必要そうなあれこれを失敬した。

「――ふぁ」

 一段落したところで甘い吐息。唇を舐める。千代子は快楽を楽しみコントロールすることもある程度出来るようになっていた。他の生き物を身の中で飼っている感覚に近いのではないかと千代子は推論する。生き物であるから、たまに言うことを聞かないけれど。生き物であるなら――千代子は、そういった愛玩動物の類が嫌いではあるけれど――意志を通わせ、従えることができるのではないだろうか。やはり左腕が、疼く。

 

 鷺沢の制服は過不足なかった。アンモニア臭い自分の制服を川辺で焼きながら、地図と住所を照らし合わせる。住所は槌田紅実のものだ。この騒ぎで、もっとも多くの人物と関係を持っており、なおかつ安全なのがこの隣人だ。

 千代子の目的は一にも二にもなく、先輩との再会である。見つけて、会って、そしてどうするのか。そんなの、わかるはずない。恨み言を言うのか、それとも、友達の敵を討とうとでもしてみようか。

「討つカタキなんて、ありゃしないけれど」

 そもそも、あんな神出鬼没の魔法少女(バケモノ)をどうやって見つけるというのか。先輩は「千代子のことを食べることはない」と言っていたように思う。逆に言えば、他のものは食べる可能性があるということだ。千代子の仮定「魔法少女が、魔法少女を食う」ことが正しいなら――。

 あの日、何故か食べなかった食べ残しを、取りに来る可能性があるのではないか?

 そう、壺井あさぎ――。彼女につながる――槌田紅実。

「――遠いわね」

 千代子は、溜息を吐く。胸の奥が焦げきってかさかさと痛む。

 けれど、ともかくこれしかなかった。

 そして同時に、盲目の恋は確信している。

 槌田紅実に殴り飛ばされ、死にかけていた千代子を治療した、その優しさを担保にして。

 

「――会いにきて、くれますよね? 先輩」

 赤い糸はきっと、繋がっているのだと。