R グラスランド・オーバー/2

 

 けっぷ。と内側に溜まった息をひとつ。惨劇の廊下からほど遠くない時間と場所。真田瑛子は鉄塔の上で、新しい魔法が体になじむのを待っていた。

 瑛子にとって「食事」はとても疲れる行為なのだ。だから、一度に弱った相手をひとり。それが他の魔法少女たちはともかく瑛子の食事における限界と言って良かった。その分、瑛子は食事において対象の魔法を吸収する特性を持っていた。

「贅をキワめ、ススむにキワまったねえ!」

 この街で瑛子が為し遂げたかったことは、ほぼ上手くいった。その身の余計なものを千代子に押しつけ、また、強力な魔法を手に入れたのだ。自分は傷ひとつ負わずに。

「ワラわないのかい、ボクは!」

 瑛子は笑顔で手を広げる。言葉とは裏腹にいつもの笑みを湛えている。

 この街に来る時そんな遊びをしたようにセーラー服を脱いでみる。今度は意志に反した熱に浮かされてではない。寒暖から身を守る為ではない衣服を脱いでみても、瑛子の意志で見せかけを変えられるカメレオンの表皮のようなものであるから、脱いでみせたところで、本質は変わらない。その下には、人ならぬものが蠢いている人の形をした袋でしかない。

 これも、シャボン玉による透視の異能も、紫乃を食うときに展開した緑色の世界も、瑛子の言うところの「魔法」なる異能のひとつだ。「魔法」の代償は高い。けれど、瑛子は長らえてきた。同類を、生命を求めてたったひとり旅を続けてきたのだ。 

「あはは――ボクは、ボクはまた」

 一糸まとわぬ偽りの裸身から零れる声は、夕焼けを受けて哀愁を含む。体が軽い。さっきまで彼女にかかっていた質量の最後が、魔法と、微かな記憶を瑛子に刻んで消えていったのだ。

 瑛子はまた、ひとりぼっちになった。

「ボクはなにを、モトめていたんだっけ!」

 空虚がある。満ち足りた力で、同じ泥の轍を踏まぬように影の中に生きて、狡猾に、臆病に、大胆に、そして飄々と生きてきた。それが正しかったことはこのからだが証明している。

「でもそれは――それは――タノしいのかなあ!」

 苦悶の表情。それは確かに苦悶だった。口は笑っている。しかし目は悲しみを湛え、陽光の一条ごとが、致死の切っ先であるかのように眉をしかめる。なにが苦しいのかもよくわからなかった。「魔法少女」として目覚めた時にはきっと、持っていなかったものに違いなかった。

 だから、考えない事こそが、思考の埒外に置いて、忘れてしまうことが正しいはずなのだ。

「――正しさか! あはは! ボクら、ノゾむものをワスれちゃいないだろうか!」

 瑛子は笑う。自分を笑う。生きるために生きることを笑っている。そんなのは、違う筈だ。それは紛れで生から遠のくばかりなのだ。腹の中に納めたばかりの彼女が教えてくれたではないか。情欲をかき立てる魔法よりももっと甘くつらく切なく悲しい毒素があるのだと。

 そう、目的を果たしたのだから、さっさと次の街へ渡るつもりだった。あとのことは知ったことではない。なにより、ここまで大事を引き起こしてしまった以上、さっさと風呂敷を畳んでお暇するべきだ。今までしてきたのと同じようにだ。けれど――。

「ああ――そうだ、カレのことが、気になるんだ?」

 引っ張られているな。と瑛子は自覚していた。「轢き貫く右腕の娘(パーニシャス・パープレックス)」のちからに瑛子は惹かれた。それが、そもそもの瑛子の願いか、さっき腹に入れた彼女の強い意志によるものかはわからない。彼女を撃退した「蒼ざめた白磁の壺(ペイル・ペリセイド)」の魔法は、瑛子にとってそこまで有用でもないけれど、溜め込まれた魔力はかなりのものと見込まれた。もし、彼女を食うことができれば、しばらくは狩りの危険を冒さずにいられる――。

 それは、計り知れないメリットだ。

「――けれどね、ボクら。それは、まやかしじゃないか」

 また、雲の間から陽光が差した。まぶしくて手をかざすと掌が熱を帯びた。

「――あ」

 瑛子は手のひらを見つめる。瑛子の手が空気を握り、また離す。温もりが瑛子の中枢に、原初の欲求にずっと貼り付いていながら隠してきた暗闇に光を当てる。

 そう。つい先日。夕焼けの中で手にしたぬくもりの残滓。貪欲を極める度に冷えていくこの体を、つなぎ止めるものを――瑛子は、ずっと、ずっと渇望していたのではないか。

 だから、あの魔法のことがあんなにもうっとうしかったのではないか。

「あははは、これが――これが!」

 笑って、鉄塔からまっすぐに飛び降りる。

 そう、あの魔法はなんだ。素養を保ちながら、悲劇を背負いながら、すっくと立っていた彼女の事が、ずっと瑛子は気になっていた。都合良く表れ、都合良く股を開いてくれた彼女の中に捨てた魔法が、変化――、いや、進化を遂げ「右腕」や「白磁の壺」の発動を誘ったと予測されることなんかは、瑛子にとってはどうでもいい事なのだ。

 直立のまま、すうと重力に引かれる。スカートは翻るものの、裏返ることはない。すわ地面に落ちそうになると、そのスカートの内側からするすると鮮やかな緑色の蔦が幾条も伸びて地面と瑛子の間に弾性を挟んでくる。

「さあ、タノしもうか! ボクらがサダめられるのならば、だ! あははははは!」

 蔦が象ったできあいの椅子に腰掛け、ゆっくりと優雅に地上に降りる。

 同類の屍をいくつ背負っても、すらりと背を伸ばし、笑顔を絶やさずにいられるように。

 

 前に進む道を見失わないように、来た道を引き返す。

 忘れ物を、取ってくるだけだから。