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Q ペイル・ペリセイド/5

ペイル・ペリセイド/5

 

 あさぎはそのまま、血の海で朝を迎えた。

 学校にいかなければいけないと暢気に思っていた。べとべとして気持ち悪いからシャワーを浴びようと考えて、全裸だから服を脱ぐ手間が省けたねとばかりにスキップで浴室に行った。

 蛇口を捻って水を浴びる。口の中がねばねばするのでシャワーから直接口に入れる。塩素臭い水と鉄の味が混ざって急激にえずき、タイルに次々と黄色とピンク色のなにかを戻してしまう。口の中が焼き鳥を食べたときのように脂っぽい。

 なにこれ血なの。誰のなの。あさぎはやっと忘れていた昨夜の歯ごたえと惨劇を思いだす。味がわかると言うことは夢ではない。排水溝に流れていく肉片は、今自分の中で昨夜に比べてかりそめの満腹をくれているのは――。昨夜、どうしようもなくなって、前後不覚に陥って、変な夢をみてしまって、心配して入ってきた両親を、あんなにやさしかったパパもママも、シノちゃんみたく、あさぎは、あの、壺になって―――――!

 あさぎは何度も、何度も、何度も歯磨きを繰り返し、その度に吐く。自分の中に入ってしまった罪を、本来、絶対口にしてはいけないはずのものを吐き出そうとする。けれど、排水口に流れていく自分のルーツだったものをあろうことか、もったいない――そう感じてしまう。

 シャワーの蛇口を止めると、どこかで電話が鳴っていた。それはずっと鳴っていたみたいだった。この家全員の携帯電話も鳴っているのか、低い振動音がそこかしこから聞こえてくる。出勤してこないパパを、学校にこないあさぎを心配する電話が、保険の勧誘に混ざって入ってくるんだろう。それをいつもは、ママが取るのだ。もう、それを取る人はいない。

「あ――っ!  ぎゃ――――――ッ!」

 ぎゃあぎゃあ叫んで、またシャワーを最大に捻った。水があさぎに叩きつけられる。

 シャワーに流されるから、泣いたって良かったのに。

 誰もいなくなってしまったから、見られたりしないのに。

 それでも、あさぎは泣けなかった。えずいた拍子に涙はにじんでいたけれど、あさぎはつらいことがある度にビイビイ泣くのが常だ。無理矢理泣くことだってある。小二の時、ママが間違って捨てたリエちゃんとの交換ノート事件の時にはパトカーまで呼んでしまった。

 涙が出ない。嗚咽がタイル張りの浴室に響く。もう、腹の中のものは出せなかった。まだ残っているけれど、あさぎの体は一粒の涙さえ、流すことを許さないようだった。排水口に肉片が詰まり、ごぽりと醜い音をたてる。そのままにするとママに怒られてしまうから、歯ブラシを排水口に突っ込んだ。

 血塗れの自室に戻る勇気は無かった。あさぎはキズひとつないきれいな体をろくに拭かず、髪にタオルをひっかぶせたまま家の中をさまよう。

 ママの服のサイズはあさぎにあわない。非経済的だとママは笑って、あさぎのおねだりを三割くらいの確率で聞いてくれた。ママの好みと折衷すると、ちょっと子供っぽいセンスのものになるけど、あさぎは文句を言いながら着た。お気に入りのそれを着て出ていきたかった。

「あさぎが、パパとママを食べちゃいましたあああ、てへー。しけいですかあああ?」

 警察に電話をしてそう言えば、あさぎのやることは全部終わるのだろうか。「パパとママをたべちゃうなんて、友達をころしちゃうなんて、悪い子だね。ほら、おしりだしなさい、ペンペンですよ、ペンペン」「うわあああああああんんん。もうしないからゆるしてえええええ」

 それで、許してもらえるのなら。

 居間には、アイロンのかけ終わった制服があった。袖を通すとノリが効いていた。

「……どうせ、ばけものになったらああ。服なんかなくなっちゃうんだしいいいい……」

 だから、どこかに行ってしまおうと思った。山の中とかに行けばいいと思った。おなかを空かせて死んでしまえばいいのだ。それまでは生きていこうと思う。それまでに、やることがある気がする。クミちゃんに謝らなきゃ。片岡さんにも迷惑をかけたに決まっている。そういえば、片岡さんの隣にいた人、シノちゃんをつれて行ってしまった人は誰なんだろう。それが全部終わったら、山に行こう。パパにおんぶしてもらって、泣きながら登ったあの山に登りたい。

「わあ、いっぱいやることおお、あるじゃんんんっ!」

 パパの長い財布から札を、ママの財布からキャッシュカードを取る。暗証番号は結婚記念日。玄関のキャリーケースにパパのトレンチコートをはじめその辺のとお茶のペットボトル、風邪薬と胃腸薬、保険証なんかを入れては出す。いざ、準備が出来たと思ったけれど、下着がないのはやっぱり落ち着かなかった。ママのタンスを漁りショーツだけを拝借した。ゴムがゆるい。

 一番奥の、一番派手な奴にした。

 あさぎは玄関を施錠し、鍵を屋根の上に放り投げる。鍵は雨樋に落ちて、そのどこかで止まった。もう帰ってこないから、要らないものだった。

 あさぎは玄関の扉をじっと見据えて直立不動になって、そのまますっとお辞儀をした。はじめてこの家に入ったときの新しい家の匂いを思い出す。幼かったあさぎは、その時パパが泣いていたことを知っている。ごめんなさい、こんなことになってごめんなさい。

「いってきますううううう!」

 ママの「いってらっしゃい」が聞こえる。パパのそっけない「おぅ」が聞こえる。あさぎはいつのころからか、恥ずかしくなて言ってこなかったんだ。

「――行って、きます」

 

 襟を正し、もういちどはっきりと口にする。

 涙はやっぱり流れてなんかいないけれど、壷井あさぎが泣いている。

 

 いさましく、空きっ腹で歩いていく、