P ペイル・ペリセイド/4

ペイル・ペリセイド/4

 

 ――シノちゃんに、壺め壺めと言われすぎたから、ついに壺になっちゃった。

「変な、夢みた」

 病院のベッドで意識を回復したあさぎは、傍らの母親と刑事達にそう告げた。誰かが騒いでいた気はするし、養護教師が卒倒して、野次馬に来た一年生が次から次に顔面蒼白で、あたりの血の臭いに加えて胃酸の臭いが廊下に充満したことくらいの記憶がおぼろげにあると告げた。

 レントゲンには人間と寸分違わぬ健康な骨が映った。あんなにつけられた青あざも、擦り傷も、はがれた気がした頬の皮膚なんてものもなかった。あんなに痛かったのに、あんがい人間の体なんてものは丈夫なんだな。あさぎは、脳天気にもそう思うことにした。

 警察の質問は実際わからなかった。先生の質問に答えていくとまず薬物(ドラッグ)を疑われて検査、その後は心療内科(カウンセリング)に回されて質問攻め。授業よりもテストよりも疲れた。なんだかわからないけれど、おとがめはなさそうだ。やった。

「何、食べたい?」

 運転しながらママが聞いてくる。元気のないあさぎを気遣ってくれているお節介なママだ。

「おにく」

 そう答えた瞬間に、脳裏に蘇ってしまった。自分が壺だったこと。あのとき体の中に入ったなまあたたかい血の滴る生肉のこと。途中で誰かに取り上げられてしまったけれど、いままで食べたどんなものよりもおいしかった。今、考えなくてはならないことはいっぱいあるはずなのに、頭に浮かぶのはずっと「おなかすいた」「おにくたべたい」の二本立て。ママはスーパーに寄って割り引きシールのついてない国産牛肉を買ってくれた。

ホットプレートの上で焼かれる肉のことを考えてみる。おいしそうだね、と理性がささやく。おいしいはずでしょうと言っている。

 でも、あさぎの本心は、本能は、ついさっき確かに壺になっていたあさぎの正直な体は全くそんなまがいものの肉など求めていない。アレを食べたい。おなかがすきましたと、どうして求めているものを食べさせてくれないのですか、とあさぎの肉はずっと訴えている。

 ――食べないの?

 食卓を囲んでママの声が聞こえる。パパの心配する声が聞こえる。パパは言っている。あんなことがあったのに肉とかおまえどういうだってしょうがないじゃないのこのこがそんなわけあるかばかなにがばかなんですあなたなんかなにもしらないくせにこんなときばかり――。

「やめて」

 あさぎの一声で食卓は静かになった。あの惨劇について触れてこないやさしいパパとママはいつもあさぎのことを第一に考えてくれる。話さないでいいなら話したくないからありがたいし、なにより、あさぎにもまったくわからないことばかりなのだ。焼かれた肉を一口含む。

 大丈夫、これだって肉だ。変わらないよ。あさぎが本当にたべたいお肉とは違うけれど、お肉だよ。だって人間だって。牛肉も豚肉も鶏肉も魚肉もいけるでしょ? だから大丈夫だよ。食べたことないけれど羊肉も馬肉も犬の肉だってかわいそうだけど食べられるんだよ! だから、栄養になるよ!

「お、おいしい?」「――うん、醤油とバターの味がする」

 ぜんぜんたのしくない。

 あさぎにとって食事は人生においてそれなりに楽しいイベントの一つだった。クミちゃんや、シノちゃんと食べるお弁当や食堂のごはんはおいしかった。やっぱりクミちゃんはいっぱいたべたし、シノちゃんはよくクミちゃんにおかずをあげていた。シノちゃんがきっと自分で作った、あのピンク色の具が入った創作玉子焼きを食べたかったのに、分けて貰えなかった。

 今になっては、まったくそれがほしくないんだ。

「――あさぎ? どうしたの」

 たのしくないのが、こんなにもかなしい。

「無理もないだろう、あさぎ、無理をしてはいけないよ」

 あさぎはごめんなさいって謝りながら少しずつ肉をほおばった。タレもつけず、よく噛みもせずに飲み込む。食欲をそそるはずの油のにおいが鼻につく。どうしてそんなダサいの食べているの? と体が訴えている。火を通したらなにもかもダメでしょう! としかりつけてくる。

 どうして、食堂の明かりは今日に限ってこんなにも暗いんだろう。パパのグラスに入った「まがいものではなく正しい」ビールはまったく減っていなかった。ママのしらたきと野菜ばかりの皿もまったく減っていなかった。国産黒毛和牛があさぎの皿の上で泣いている。

 食卓を「ごめん、もう食べられない」と腹を鳴らしながら自室に下がった。布団を被って眠ろうとして、思い出してしまう。中村紫乃のことを。壺になった自分のからだの中で、その上の方にある出口に向かって脱出しようともがく彼女に対し、補食のために為すべきことを為したことを。明日になればきっと、カガクの――血液鑑定とかDHAとかなんかそういうので――あの血が「中村紫乃」のそれだと確定してしまうんだろう。そしてみんなは友人を亡くしてへたりこむ槌田紅実の姿を見ることになるんだろう。

 クミちゃんは、自分のことをかばってくれるだろうか。全身にその血を浴びたあさぎのことを、信じてくれるだろうか。あさぎがやったことを、許してくれるだろうか。考えるほどに眠れなくなる。

 冷静に考えれば、人が壺になんかなれるはずはないのだ。でも、あさぎは、確かに壺だった。でも、壺だったかどうかに関係なく、あれはセイトウボウエイだったんじゃないかな。「マジかよ、お前自分の罪を自覚してねーの?」クミちゃん、そういうけどさあああ、あさぎすっごくいたかったんだからねええええだってさあシクミちゃんはウツボカズラっていう植物がいるの知ってるううう? あさぎもおお、シノちゃんにきいたんだけどねええ。あさぎはねええええ酸なんか出さないよ、魔法なんだよ、魔法は痛みをなくすから、それがさーっとしみていったら、ゆっくりと内側からすりつぶしてもいいし、あなをあけてもいいし、たべやすくしてからゆっくりゆっくりゆっくり内側からこんなにいっぱいいいのかなってくらいすいとっていくの。あの女があさぎをいっぱいなぐったりいじめたりツボって呼んだりした数だけ生えてくる。しっぺ返し。足を引っかけたのも、クミちゃんと手をつなぐのをジャマしたのもぜええええんんぶちゃんとかぞえておいてよかった、そのぶんあの女に穴をあけたよ。いっぱいいっぱいすりつぶしてやったんだよおお。穴からはいっぱい血がでるしぺったんこにしてもかわだけがちぎれずにのこるしでもちがそんなにでないところもあるよねちがでないところでもいろんなものがでるよあぶらみがあってもいじめちゃだめだよあんまりだいえっとしてるとおにくまですかすかになっちゃうからそのてんこのこはとてもじょうできみられることをいしきしたゆうとうせいはあさぎとちがってたべるところがとてもおおくてとてもおいしそうにぜんしんくしざしになっていったよたべないのたべないのはやくたべないととられちゃうよおなかがすいちゃうよおなかがすいたらたおれちゃうよたおれちゃうよたおれちゃったらしんじゃうよしんじゃったらどうするのしんじゃうまえにたべなきゃだめだめだめだめたべたいたいたいたべたいたいたいたいがぶりくいつきたいたいたいじゅるりのみほしたいたいたいたいどうしてたべないののののののおおおおおおおおおおおおおおおおお! どうして!

 

「――――――っ?」

 

 あさぎは飛び起きた、悪夢を見ていた、ような気がした。

 眠れないと思っていたのに、いつのまにかあさぎはまどろんでいた。ものすごく悪い夢を見た。夢を見るためにさっきまで思いを及ばせていたおぼろげな記憶がその悪夢に無理なく繋がっていってしまう。そんなことあるはずない。

「おかーさーんんん?」

 つん、と鼻を突くものがある。臭いがする。口の中がむずむずする。夜更かしをして昼に起きたときの口の中みたいになにかが粘ついている。いやな気分だ。まだ夜中だけど洗面所で口の中を洗いたい。あさぎは部屋を出る。ドアノブがぬるりと滑る。足でなにか絵の具のような濡れたものを踏んだ気がする。きっと食べかけの菓子パンでも踏んでしまったんだ。

 でもおかしい。あさぎは菓子パンをあけたらきっと食べきる。「三回に分けて食べるから! ちゃんと食べ方を変えて楽しむんだから!」と決心していても、一気に食べて後悔する。

「おと――さーぁん? パパああああ?」

 いつもなら寝ていたって飛んで来てくれるのになにかおかしい。暗いのが悪い。目の慣れてない暗闇は恐ろしい。ドア近くの天井に貼られた夜光の星の光では弱すぎる。だからあさぎは文明人らしく、人間らしく、照明のスイッチを入れようとドアの近くを探る。いつものように、秋口から春になるまでは学校から帰ってきて部屋が暗いからそうするように。だから暗闇の中でわかる。スイッチはいつもと同じ場所にある。

 だから、躊躇うことなく、疑わず、ごく自然にそのスイッチを押したんだ。 

 グロウランプに通電する、サーキットが完成する。蛍光管内のフィラメントが電子をはじき出して、管の内面に塗りたくられた塗料をまばゆく発光させる。

 人の叡智。

 炎は回転に、回転は雷に、雷は灯に、そして、あさぎの部屋を白く照らす。

 すぐに、目が慣れてくる。そうしたら、すぐにオバケは消えてしまうのだ。こわくなんかないんだぞ。やさしいパパの頼もしい声は魔法の言葉なのだ。

 ――そういえば。あさぎは文明人のくせに、パジャマを着ていない気がする。フードの付いた洗いにくいオーバーオールのパジャマで、ママが洗うのを嫌がる。けれどあんな面倒なものを脱いでしまうなんて、寝相が悪いにもほどがある。

 

 ――そういえば、そのに。

 

 悪夢から目を覚ました時、あさぎのおなかの減りはほんの少しだけ収まっていたっけ。

 だから、あさぎにはきっとわかっていたことだったのだ。あの時と、同じだったから。

 だから、

 予感があったから、

 生きてしまうから、

 あの晩餐はあんなにも悲しかったのだ。

「――――――ぁ」

 目が、慣れた。現実があさぎに容赦なく入ってくる。

 薄いブルーを基調としてたはずのあさぎの部屋が、そこに映るはずだった。

 あさぎが幼い頃、アフリカの豊かな草原に見立て走り回った緑色の絨毯は、赤茶に乾いた死の大地に変わっていた。くすんだ土は、あさぎの足下だけ彼女の汗を吸い取って、ほんの一瞬だけ生きたルビーの色に戻る。泣き叫ぶ為に開かれた唇の周りの筋肉に引っぱられた乾いた赤茶色の絵の具が、ぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちていく。

 

 獣の、臭いがする。

 

 

 小さな体が赤い海の底に、

 ゆっくりと沈んでいく。