O パーニシャス・パープレックス/4

パーニシャス・パープレックス/4

 

 懐かしい、夢を見ていた。

 槌田に勉強なんか教えていた。

 それは遠い昔のようで、最近のことだ。

 この学校に入ったことを後悔していた頃。家庭の事情で中学三年をまるごと棒に振った為に妥協した自分の判断を呪っていた頃だ。周りのレベルが低きにすぎて、目立ちたくもないのに、中間試験で一位を取ってしまった。特に力を入れたわけではなかったのに、ほぼ全教科。さらに悪いことに、その時仲が良いと思っていた級友に、素直にそうと言ってしまったのが中村紫乃が犯した最大の失策だった。時既に遅し。たちまち、ブラックリストは更新された。「キャー! 見てみてクミちゃああああああんん! これ全部同じ名前すごおおおおおおおおおおおおおお!」廊下に貼られた順位表の前、吹聴する知らないでかい声が事態をさらに悪化させる。「おまえうるせえよ、壺井、てめーの名前はどこにあるんだよ」「あるわけないじゃあああああああああんん、だってクミちゃんだってあるわけないでしょおおおおお?」「あ? てっめー言ったなおい」「あーやめてやめてぐーはやめてぐーはいたたたたたた」「お?」

 それが、槌田との邂逅だった。

「あ、あんたが中村だよな。これすっげーじゃん、頭いいのなー。全部、ってそうできることでもねーよな。な、なんかコツとかあんだろ? 今度あたしに教えてよ。頼むわ」

「えっ?」

 廊下の前でみるみる増幅していく「異分子を排除しようとはたらく力」の中、紫乃にとって、槌田紅実の無邪気さが浮き上がった。乱暴でも敵意を含まない言葉がものすごくありがたいと思えた。横で跳ね回ってるちっちゃいツーテールを視界から意図的に外しながら、紫乃は紅実の笑顔をぼうっと眺めていた。

「いいよ――喜んで」

 中村紫乃はきっと、嵐の中に浮かぶ木の板に恋をしていたんだ。

 

 

 中村紫乃はどこだかわからない場所にいた。

 視界は暗いままだ。意識をふと、遠いところに置いてしまうようにぼかすと、暗闇の中にはちかちかと反転した花が回転してるのが見える。お手軽な万華鏡だ。下らない。これは目をつぶったときに脳に送られる信号、それを「見える」とは言わないだろう。

 紫乃は意識を深淵からたぐり寄せる。

 ――誰か、いるの?

 声は出ていないようだった。返事も聞こえないようだった。

 視覚も触覚も感じられない今の状況では判別がつかない、何故その判別がつかないのかもわからない。冷たいコンクリートに囲まれているのか、濡れた土の上に曝されているのかどうかすらも知るに至らない。

 静寂が続く。これでもかというくらいに続く。紫乃はそれでもひたすら待つ、こんなとき体感よりも短い時間しか経っていないことを知っている。だから、ひたすら待つ。

 それは長い時間だった。せめてと思い紫乃は思索に耽った。最初の記憶。両親と姉ともうひとりとだれかと行った海の記憶だ。潮と空と埃の臭い。足下で引いていく砂の感覚。目に沁みる水の奥底。そこから断片として続く中村紫乃の記憶と歴史が続いていく。齟齬、成長、絶望、工夫、怠惰、報復、迂回、直進、怨嗟、嫉妬、夢想、堕落、平穏、発見――それが繰り返されてうしなうべきものを差し出すと、そこはたゆたうみどりの海の上だった。

 ――あれ。

 紫乃は違和感を覚えている。この思索にはなにかが足りない。何かが、まるで脳か魂かの一部を持って行かれたかのように、この中村紫乃を構築している一番新しい柱がいない。

 だから、今再生されている紫乃は偽物だ。

 ――だれ、これ。

「キミだよ」

 その声に紫乃は聞き覚えが有るような、そんな気がした。だけども紐を付けた記憶を辿ろうとすると、その先がまるで斧ですっぱり切られたように無くなっている。

 ――あなた、誰!

「あはは、キミは知っているはずだよ」

 ――知らない!

「キミの恨みと羨みがあったから! カレらはあんなにマドいクルしんだんじゃないか! もちろんボクはキミのこともワスれちゃいない。でも、誰よりも悪魔にアイされてしまったのはキミだったというわけさ! カレらは祀でもないのにハフりをハタしにオドる! そう、キミのところにも! ボクらのように! なのにキミはワスれてしまったんだ!」

 誰だろう、これ。相手を存在しないかのようなその口調がテンポが紫乃を不愉快にさせてゆく。だいきらいな誰かの――誰だ、誰だか判らないが、ともかく誰かだ! ――ように焦らせる。血のにおいがする。獣のにおいがする。

 草の匂いがする。

 ――ここは、どこ?

「あはは、いちばん難しいところからタダすキミは、そのワタりをカザし、ノガれることをノゾんだんだろう! でもどうかヤスらぎを! でもキミは、ハカりもしないんだ!」

 意味の取れない言葉が、紫乃の恐怖を呼び覚ます。足の付け根から、耳の裏に至るまで、恐怖が毛穴に刺さる小さな槍になって、その中にある生命を殺す。そして感覚はその片っ端から死んでいく。闇の中に紫乃の無言が響く。その言葉は中村紫乃を超えるおしまいそのものを、どこまでも確定させるためだけに綴られていく。

「おかしいとはオモわなかったのかな? だって、これはまたとない幸運ではなかったのかな? それとも、キミはなにひとつオボえやしないんだろうか! だからそんなに、のんびりとした顔でいられるんだろうか! ボクは疑問をカクせないんだ、キミが疑問にオモわないことがどうしてもワカらないんだ。だってキミは、あんなに穴だらけになった! どうしてキミは、あのときからずっと意識をツナぎ止めていることを、疑いをイダかずにいる!」

 言葉が紫乃の中にただ沁みてくる、ただ沁みるだけで、紫乃の体をすりぬけてどこかに消えて行ってしまう軽い言葉たちだ。自分の手足も認識できない今の状況で、自分を混乱させる、耳を塞ぐこともできないそれらは、紫乃にとって暴力であり、攻撃だった。攻撃には、悪意には、自分を脅かすものは、ちゃんと除外しないといけない。自分は普通に生きているだけなのに、攻撃してくるものを排除しないと、平和に生きられないから。

 ――あなた、敵なら――殺さなきゃいけない。

 そう、いましがた、紫乃がその右のかいなで粉砕してしまった、あいつのように――。

「あはは、だれなのかな、それは! キミはどれで、それを為すのだろう!」

 ――誰って、あれよ。あいつ――あの――。

 記憶が、走るための足が、声を出すための口が、怒る為の思考が、足りない。

 ――中村紫乃には、なにももう、残っていない。

 そんな恐れが、なにもできない無力感が、じわりと広がっていく。

 最後に紫乃が手に入れた物理の埒外にある力は、今まで紫乃が手に入れてきたものを、ケータイも、誰かの筆入れも消し飛ばしてしまったのではないか。

 ――いや、最後に手に入れた異能は、まだ、この――右腕に宿っているはずだ。

「キミは謬った! キミの魔法は、右のかいなは、とっくに失われているんだよ!」

 ――なんで?

 しかし、力があったとして、それを伝えるものが無ければ――無用の長物にすぎない。熱は産まれなかった。目覚めた日に、敵を撃退し、いやなヤツをたたきのめした力は、あんなに頼りにしていたのに、これから、うまく使っていくはずだったのに、どこかに行ってしまった。

 握る拳なくして、かなう力ではなかったのだ。

「さあ、うしなわれたのは、腕だけかい―――――?」

 感覚がないのでも、届かないのでも、なにかに拘束されているわけでもない。地面についた尻、何かにもたれかかった背中、首の下から反応が返ってくる。だけれど、腕と足は返事をしない。自分は今怯え、興奮をしているはずだ。にもかかわらず心臓の鼓動が聞こえてこない。やかましくビートを刻んだりしていない。そう言えばいつもの倍くらい呼吸がつらい。紫乃の左肺はどこに、ある? 心臓は?

 

 触れたくても、それを確認するための手足は――?

 

「あはは、それはオモいから、置いてきたじゃないか! あはは! あはははははははは!」

 哄笑がうちがわから響く。教室のピエロを笑うような声がする。

 ――誰か知らないが黙れ。その声を吐くのはあたしのほうだ! 

「よすんだ、ええと。――シノ。その血は、キミの血じゃない。何もボクは吝嗇(りんしょく)に拘るわけじゃない。その血はボクの血だから、キミがそれを呼び込んでしまえば、キミをユルさず血肉にオオせてしまうから! ああ――キミにはここが、どこに見えているんだろう! 暗闇の世界をどうロウじているんだろう! 穴だらけのキミの体は、どうやって魂をツナぎ止めている? せっかく手に入れたタヨりがいのある力は、いったい、どこへ蒸発してしまったんだっけ!」

 言葉がじわじわと、紫乃が――とっくに失われたことを、教えている。

「キミもきっとヤサしすぎたんだ」

 落とすような声が響き終わると、真っ暗な視界の中に花が咲いた。

 

「 見 え 「 る !」え「り? う 」 ?」

 

 紫乃の脳の処理が限界になった。眼球を押しつぶされるような圧力。そして熱さ。そこで紫乃は体に起こっている違和感から、またひとつ絶望の存在を知る。――もうとっくに、眼球すらなくなっていることを知る。

 眼窩に内側からかかる力は、眼球があったところに何者かがうごめいているために起こっている現象だった。なでつけられる内側の肉、眼窩の中で蠢く肉、両方の感覚が流れ込む。唯一の突起たる水晶体が幾幾節にも別れ、殖えたあげくに荒らし回る。穴を通って異物のにおいが漂う。それは水の、潮の臭い。顔のどこかにある傷にその潮が沁みて痛みが響く。

 眼球を犯されていた。正しくはとっくになくなっていた眼球があった場所を何者かがその隅々をみずからの体になじませるがごとくに蹂躙している。

 そしてその生き物が内側を蠢かせる度、ちか、ちか、と光が入ってくる。光なんかないのに、残された神経に直結させた眼球の代わりに住み着いたなにかが光のありかを送ってくる。痛い、白すぎる光の信号が生きている神経を次々に焼き殺していく。左右いちいちの誤差を単分子ワイヤーのごとき刃に見立て、完膚無きまでに網膜と脳細胞に止めを刺していく。

 

「ど かう な。あ らた し い、せ界!」

 

 紫乃の頭の中では、花火が打ち上げられている。緑色の花火だった。その緑色はきっと、今までみてきた色に例えると黒に近い気がした。いま送り込まれている情景――緑色のモノクローム。エメラルドグリーンの都。そんな物がでてくるおとぎ話のことを紫乃は思いだしていた。

 ――でも、だめ。あたしにはもうだめ。だって、打ち鳴らす靴がない。ライオンもブリキもカカシも連れていやしないひとりぼっちなんだ。ふたりの紳士が顔を突き合わせてブツ切りの内臓に花を咲かせる陳腐なロールシャッハテストがエメラルドの都なんだ。笑える。

 その子宮と流血と卵と蛾と鳥と救世主と試験紙は、やがて紫乃の知るものへ変わっていく。

「さあ、キミの目はそろそろ自分と他人の区別が付けられるようになったんじゃないかな! カレらの赤子が長くて短い年月をツイやし、ようやく手に入れるボクらの力だよ!」

 声がする。ひどく頭に響く。それは紫乃の内側にも響いてそのズレが、残された感覚の手がかりになる。この体で意識があることが不思議なくらい、あらゆるところが死んでいた。

 コピーを繰り返したビデオ映像みたいに、摩耗した映像が網膜に映し出されていく。

 紫乃は察する。もうこの目で、かつて自分がみていた世界の様子を知ることはできないのだと。この視界は、自分の脳では理解できないほかの要素で構成された視界なんだと悟る。

 ――きれい。

 (うすぎぬ)一枚隔てた先の視界を眺めている。映画のスクリーンの向こう。緑色に焼けたプロジェクタ。少女のシルエットを焼き付けて、コマ送りの恋愛劇場が繰り広げられている。

 それは、中村紫乃の記憶だった。誰かが、外部からあたかも紫乃の記憶と偽って与えられている記憶だ。本物はもう、穴だらけだから編集されているに違いないのだ。

 ――そうだ、名前も忘れていた。あさぎ。壺。あのストライクの瞬間に、ぜったい殺せると、良い気分になって、そこで落ちてる片岡を食って、なんて思ってたら、光って。――光ったように見えた。あいつは――その少し前の自分のようになった。

 紫乃がさんざんなじり倒した通り、壺になってしまった壺は、壺の内側に中村紫乃を囲い込んで、この世ならぬ腹の内側、次々と迫り来る陶器のパズルによって、体中に穴を空けられ、磨り潰された。魔法の右手は、無力だった。

 ――あっけない。

 とっくに、死体だったんだ。

 そこにやっと思い至る。

 涙が流せたら、泣いていたと思う。

 

 蓋は閉じ、檻は処刑場に。

 

 目の前で笑っている緑色の――本当にどんな色かはわからないけれど――女ではない。自分がよく知る相手のはずだ。あさぎ。かわいそうなあさぎ。おろかな紫乃が逆恨みしてしまった、かわいそうなくらい頭の悪いあさぎは、きっと、自分や目の前の緑色の女と同じような物になってしまったんだろう。なんて馬鹿げた悲劇だろうか。

 ――壺、あんたもすぐにこうなるんだ。

 紫乃の借り物の視界に女が近づいてくる。察する。自分はすでに死んでいるのか、殆ど死んでいるのだ。なんらかの意図があって生かされたフリをしているけれど、それも長くは持たないだろう、だって、あんなにもはっきりとした死の記憶があるのに、死んでいないはずがないではないか。だから、中村紫乃の人生はこれでおしまいなんだ。

 ――なんだ、つまんない。 

 自分が選んだこの方法は、自分が掴んだこの力は、誰も幸せになんか、自分も好きな人も、好きな人に好かれるにっくきあいつも――しあわせになんかしや、しないじゃないか――。

「――キミ、なんか宗教はある? あるならあわせてイノるけど! ――ないよね! じゃあ、それでは、さよならだ! ハフりもキヨきもオボえていないボクだけれど、ここだけはきっとシカとしたことだから! もう一度いま一度手を宙にカカげて! トナえて! みなさまあなたさまお元気で、どうかどうかお元気で! キミをボクらにイダくために!」

 気に触る声も、かろうじて流れていた緑色のサンドストームも、ぷつんと音を立てて消えていく。アナログのテレビが帯びた静電気が収束と拡散を経て、大地のゼロボルトに薄まってしまうように。

 これで終わるのだと、中村紫乃は思う。諦め、目をつぶるとそこに視界が開く。はっきりとした景色が広がる。女はいない。代わりに手足のなくなって体にいっぱい穴をあけて、目をくぼませた哀れな死体が転がっている。さっきまで自分が着ていた物なのにひどく懐かしい。その後ろに果てしない緑色が広がっている。視界が、勝手に移りゆく。

 草のにおいはしないけれど、太陽のにおいはしないけれど、温度すらも感じないけれど、今、自分を食いつくした緑色の捕食者が見ている景色とつながった。

 紫乃にはもはや、そんなこと知るべくもない。

 それに――一瞬だった、認識したかどうかも、その景色に、そこにあったなつかしいものすべてが、本当になつかしいものであったかもわからず、溶けていく。その明かりが乏しくなっていく。終える。体に染みついたロックミュージックのナンバーを想う。

 

 

 中村紫乃だったものは、帰るべき場所へ

 へたくそなゴスペルを、遠くに聞きながら。

 

 

    〈パーニシャス・パープレックス 了〉