N ブラックスミス・スクラブル/2
ブラックスミス・スクラブル/2
槌田紅実は教室でひとりきり。昼下がりの五歳男児のような二日目の下腹部と格闘している。さっきは珍しく授業をサボった中村紫乃が来て、機嫌の悪いところに悪ふざけしたからキレたら、なにやら不思議な手品を披露したあと、思い詰めたような顔をしてどっかに行ってしまった。
もしかしたら気分の悪ィあたしの気を紛らせようとしてくれていたのだろうか、だったら悪ィことしたなとか今更になって考えている。
保健室に行くと言っていたような気がするけれど、槌田は保健室が嫌いだ。病院がそもそも嫌いなのだった。
いろんなことを考えてみた。どうせなら楽しいことがいい、そう槌田は考えた。
まずはあさぎが行きたがっていた甘ったるいのが売りの本末転倒なベーグル屋のことを考えた。あずきかぼちゃベーグルが人気商品でたべたいたべたいたべたいいいいいと言っていたっけ。あさぎはその商品の名前を「あぼちゃかずき」なる意味の不明なものとして最初発音するので判読に困った。ぽくぽくしてて甘くてクリーミーで濃厚で薫り高くて甘いんだそうだ。あさぎの表現を解読する限りではどうやら「二回分甘い」ということしかわからない。
でも、今度帰りに寄ってみるのもいいかもしれない。
次に中村がおすすめしていた音楽アーティストのことを思い出した。ガリ勉だと思ってた中村は意外とそういうのが好きだった。「どうせクラシックしか聞かねえんだろおまえみたいなんはよ」それに対して中村は無言のまま、珍しく不満の感情を含ませて、槌田の耳に自分のカナル型を両側から差し込んだ。そのときの槌田を「少しおびえてた」と中村はこっそり評した。
意外なことにそれはパンクかロックか知らないけれど「どう、太鼓を激しく打ちならすような音楽は」という回りくどい中村の言葉に「悪くねーじゃん。もっと聞きたい」と言った。そんなに遠くない過去の話だった。中村のしてやったりな顔がちょっとムカついた。
中村は、甘いものイケるんだろうか。
壺井は、音楽を聴いたりはしないんだろうか。
暇なときに思い出す、他愛もない話だ。
暇だと腹は痛くなる。
槌田はまだ気を紛らわせていたい。たった一人の教室で気を紛らわせたい。槌田に限らず現代を生き抜く女子高生にはちゃんと人類最大の敵に対して立ち向かう武器がある。それはケータイだ。半分バイト代、半分親に持ってもらっている。プライドと現実が半分半分だ。たまに全部持ってもらったりしている。ふがいない事だと思う。
メールボックスには他愛もないメールがきているかもしれなかった。しないといっても女学生であるからして、中村やあさぎやその他少しばかり付き合いのある相手から他愛もないメールが来る。槌田は無精だが「あー」とか「すげー」とか「やべー」とか「マジで?」とか「ところで試験範囲どこだっけ?」くらいは返す。件数としては一日五十件くらい。返事をしないとだいたいあさぎがうるさい。一度メールしなかったらあさぎがものすごい心配そうな顔をして休み時間に現れた。あさぎにとって、これは生きていることを常に確認しておくためのツールなんだと、そのとき槌田は実感した。
「――あれ?」
不在着信に気付いた。ついさっき、それも中村からだった。さっき中村がガラにもなく仕掛けてきた度のすぎた悪戯を謝ろうとでもしたのかと予測する。留守電には何も入ってない。
空メールまで入ってい。なんで空メールなんだよ。と槌田は悪態を吐く。
「あいつ、頭いいくせに、こういうところマジで駄目だよな!」
空メールも、不在着信も、それなりに前のタイムスタンプを示している。
その続きは送られて来ていない。
「ったく、しゃーねーな……」
コールバックしても結局中村は電話に出やがらなかった。舌打ちをして悪態をついて、それで終わらせる。けれど、腹の中で誰かが鐘を衝いている。血が降りてくる。血塗れの槌田の腹の中でじわじわと一人きりの教室の中で、違和感と気色悪さが繁殖していく。砕かれた筆箱、空メール、朝来なかった壺井あさぎ、同じく来なかった隣人。ハム。
――人を食うような、肉食獣の目。
「――いいや、もう。腹いてェし」
――そう、こんなもんは、杞憂ってヤツなのだ。
そう言い聞かせて机に突っ伏す。
どこからかサイレンの音が聞こえる。
耳を塞いでも、迫ってくる。