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M チョコレート・ゲート/5

チョコレート・ゲート/5

 

 片岡千代子が目を覚ますと、そこに壺があった。

 大きくて白く、触れずともつるつるした手触りを約束してくれるような形をしていた。それは藍色の顔料で幾何学的な唐草にも似た文様が描かれていた。奇を衒ったわけでもないシンプルなその佇まいは、大きさにこそ目をつぶれば誰かの家の庭とか玄関に置かれていてもそう違和感のないまごうことなき壺――そのように寝起きの千代子には思われた。

 ――思われた。というのは、千代子がそれを「壺」らしい、「壺」のような気がすると判断したときには、もう壺は壺でなかったからだ。

 あまりにバカらしくてちょっと信じがたいが、この壺は光とともにまっぷたつに割れた。音とかそういうものはなかった。それも「割れた」というより「分かれた」と言う方がきっと語弊が少なく伝わるんじゃないかと思う。そして、一瞬で消滅した。

 壺が消えたあとに全裸の壺井あさぎが呆けていた。彼女の体は血塗れで、口からはゼリー状になった何かが漏れ出て、ぺたんと座ったその膝の上には――。

 千代子はそれが、なんなのか正確には判じ得なかった。けれどあまりにそれは不吉なものだた。内臓のようなものと骨のようなものが穴だらけになっていて、つまり、人体のなれの果てのように見えたのだ。

 壁に穴が空いて空洞と配線が見えてしまっていた。千代子が紫乃に殴られた跡だ。こんなになるくらいの力で殴られたのに、千代子のからだに痛みも傷も残っていなかった。

「夢……?」

 軽く首をふる。壁の穴も、壊れた保健室のサッシも、血まみれ全裸の同級生も、それらが夢でないことを証明している。何かがあったことだけは、明々白々たる事実なのだ。

 それにしてもおかしかった。傷が残っていなくても、あの遅く、腰の入っていない拳が当たるはずなんかないと、千代子は高を括っていたし、あの軌道は避けていたことが、確定していたはずだったのだ。なのに、体が目に見えない力に吸い寄せられた――。

「そんな、まさかね」

 あさぎの惚けた目にふと、光が戻った。

「あれ……片岡さんん? なんか、怒ってるのおお?」

 ピンボケた質問を、ぺたんと座ったままあさぎが放つ。

「怒ってないわ」

 ――何が、起きているのか。

「あれ……あたし、裸? もおおお……。なに。あれ、なんで。ね、片岡さん? ……おそいよおおお。あさぎがあんなに呼んだのに。なんだろこれ、なに、なんかキショいねええ」

「壺井さん、あなた」

「……あれ、よんだっけかなああ? あれ、でも、無事だったんだあ心配したんだよおおお」

「ええ、でも、あなた」

「良かったねええええ。あさぎは……なんで、え……えええ? ええええ? うぇええッ?」

 あさぎは、こんな時でもその甘ったるい喋り方を貫いていた。虚な目のままで、混乱に混乱を重ねてどんどんと表情を暗いものにしていく。

「聞きなさい! あなた、それはなんなの……?」

 千代子にはあさぎの問いに答えるすべはない、だから従って問うしかない。その膝の上の「何か」の正体について。問うても仕方のないことのようだけれど。自分が気を失っていた間はそれほど長くないはずだ。そのわずかな間に何が起こったのか、当事者しかわかるはずがない。

「え……? ええ……ッ? シノちゃ……ん……?」

 いや、当事者でなくとも答えは自明だった。さっきまでここにいて、いまここにいないもの。ならば、残酷な消去法がここにあるものの正体を如実に示すではないか。

「――まさか」

 そんなまさか。が千代子の全身を巡る。

 こんな短時間で? なんで? どうやって? いつ? 誰が? 誰がって、口からそれを垂れ流して、全身を赤く染めているこの女しかいないではないか? いや、どうやって、なんで? 

「――だって」

 狂人と化した友人を、この少女は自分で屠ったというのだろうか。こんな無惨な、肉片。べったりと髪についた赤。どろどろに溶けた皮と脂。特大の里芋と慈姑の煮物に食紅で色を付けたんだけど、ゴメンちょっと煮すぎちゃった。とでも説明された方が、よっぽど通る惨劇の証。

「それ、それは、……な、中村紫乃なの?」

 唾液がやたらと重く、苦く感じる。

「わかん……わかんないい? わかんないよお……うぇ……クミちゃん……シノちゃん……たすけてよぉお……」

「わかんないじゃないでしょう……!」

 ヒッ。と怯える声がして、あさぎの体が縮こまる。あらぬ方を向いて恐怖を訴える。

「ぶたないでええ……もう……呼ばないからああ……」

 

 ――あはは。

 

 千代子の体が急激に熱を持った。

「い、今、何か?」

「知らないいい……あさぎじゃないよおお……」

 溜息をつく。「あさぎじゃない」なんてことは判っている。愚かな質問をしてはいけない。あさぎと肉片から目を離し。辺りを見回す。体の奥底から、熱が漏れてくる。

「あっ……」

 それを見つけたとき、漏れた自分の声があまりにも抜けていて、千代子は思わず自分の口を手で塞いだ。  

「あはは、なんて顔をサラしているのかな、チヨコ!」

 緑青の髪が後ろに立っていた。

 首回りに腕を回され、あの日の草原の薫りがする。なぜだか千代子はひどく泣きたくなる。

「え……あの……」

「どうしたのかな、チヨコ! イタみはオサまったかな!」

 その姿をちゃんと収めようとしても、その彼女の腕が振り向くことを許さない。

「あの……」

「あはは、左腕もナオしたつもりだったけれど! いやいや、そんな余裕をカザすにはカレの残りはワズかに過ぎた! チヨコ! キミらはもはや間際にナズんでいるんだ!」

「あの……名前……を」

 先輩がなにか、警告をしているようだったが、千代子は昨夜からずっと、なによりもこの人の名前を聞きたくてしょうがなかったから、質問をそこに差し挟んだ。

「チヨコ! いけない子だ!」

 だけど、先輩はそれを知ってか知らずか意地悪をする。

「先輩……」

「キミは、そこで友人がタオれたというのに、ボクの名前を先に知りたがるの?」

「そんな……意地悪仰らないで……」

 千代子は唇を波打たせて俯く。首で組まれた先輩の腕、その先の指が、千代子を服の上から淫らな手つきでまさぐる。あの日繋いだ手のひらのごとく、指先の一本一本が波打つ。それに触れようとすると、先輩は「シーッ」と子供がやるように声で制止した。千代子は大人しくされるがままになって、手を下ろす。先輩の言うとおりにすることは、千代子にとってとても安らげることだから、そうする。千代子の視線の先には、まだ錯乱してぶつぶつとなにかを言っているあさぎと、肉片になったらしき紫乃の姿がある。その傍らで、名前も知らぬ先輩に体をまさぐられている状況はあまりにも異様だった。

 そこで死んでいるらしき中村紫乃のことは可哀相だが、人なんて毎日どこかで死んでいるではないか。それがたまたま半径三メートル以内の場所だった、それだけのことではないか。

 なのに、千代子こんなにも心をかき乱されている。血のにおいをこんなにも嗅がされて、今にも内蔵まで一緒に吐きちらしてしまいそうなくらいなのに。これらのせいで、先輩との再会を楽しめないことが憎らしくすらある。

 そんな千代子に反応したのか、あさぎが我に返り千代子たちを見る。

「甘い匂い……誰? ……片岡さんんん? と、ともだちいい?」

 あさぎが怯えている。なにも怯えることはないのにと千代子は思う。だって。

「だれって、先輩……えっと、その? 先輩ですよ」

 名前を知らないから、千代子は口を尖らせてそう言う。制服を見れば一目瞭然のはず、同じ学舎の友に、そんなに怯えるものでないと。こんな状況で千代子に笑って声をかける胆力に驚くのもわかるけれど、それこそが魅力なのだと。

 そして、自分の胸元を示す。そう、先輩は名札をつけているから、学年がわかるのだ。名前は空欄だったけど。しかし、千代子が背中に背負ったままでは胸元が見えない。

「――あはは」

 先輩は千代子の意図を酌んでくれたのか腕を解きバックステップ。ああ先輩、その剛毅にはお見逸れ致しますけれど。この状況を御覧になって、笑っているのはどうかと思います――。

「――片岡、さんん?」

「――――?」

 振り返った千代子は言葉を失った。一度振り返って、血まみれのあさぎを一瞥。シャッターをかけ、リセットしたつもりで二度先輩を見ても絶句の原因は変わらずそこにある。

 名札? 制服? それっておいしいい? とあさぎの目が聞いている。聞き返したいのは千代子の方だ。名札はどこにもなかった。いや、名札なんて取っていることもあるだろう。そうではない。制服が、千代子が着ているものと同じではなかった。千代子やあさぎや、そこでズタボロになって転がっている中村紫乃の――この学校のそれとは明らかに違う。真っ黒なセーラー服だった。刺繍なんかどこにもない。漆黒の上をその緑青の髪が泳いでいる。

「セーラー服……? 黒い……それ……それえええ?」

「そう、チヨコ。どこにボクが上級生だというしるしがあるんだろうね? キミはとても愛らしいけれど、きっと自分がシンじたように他人をツクりかえてしまうんだ!」

 先輩は笑顔を湛え、大仰な仕草で淡々とうたっている。

「せん……ぱい?」

「魔……女……?」

 あさぎの口から不思議な言葉が漏れる。

「なるほど? どうして、そうオモうのかな!」

「だって……黒セーラー……シノちゃんが言ってた……それにいいい。あさぎ、聞いたもんん……乱交パーティーのひと? そうでしょおおお?」

 あさぎの口から眉をしかめる言葉が出てきた。

「あはは! ああ、それ! チヨコにミツいだそれの話だよ! まさに!」

「なに、それ……」

「えっ……お、怒ってるのおおお?」

 あさぎは千代子の詰問に怯え、詳細を語ろうとはしない。先輩は魔女と呼ばれて上機嫌――のように見えた。

「化け物とオソれられるより、余程にね! ああ、でもボクはボクらのことをこう呼んでいるよ――魔法少女って! でもこんな呼び方は羞をフクむじゃないか! だから化け物のほうがどうしても態にイタるんだ! カナしいね!」

「先輩……?」

 セーラー服が翻る。それを追うべく千代子が動く。しかし、指を唇に当てて、先輩だったひとは告げる。呼び方がわからないから正しくなくても「先輩」と呼び続けることを選んだ。

「ウゴいちゃあ、だめ」

 その言葉が、千代子の奥底に届く。

 昨夕、空の井戸につるべと共に落ちたほんの少しの呼び水が、井戸の奥のまた奥に隠れ住んでいた水をあとからあとから湧き立たせたように。それと逆のような一握の氷が、千代子を凍り付かせてしまった。

 予め決められていた約束のように。

「良い子だね、チヨコ! ボクの魔法をひとつ継いだキミを、再び食らうつもりはないから!」

「なん――」

「キミも、キミも、そしてカレも!」

 動けない千代子の前で、楽しそうにちちちと折った指を振る。腰を引いて、髪を揺らめかせて。そういえばその緑青の美しい髪の色が、昨日よりも褪せているように見えた。

 千代子はそんなことに目がいく。そのうちに段々と、段々と、先輩の言うことが沁みてくる。

「魔法――――少女?」

 口にするほどに甘ったるいその言葉。凛とした先輩が口にするほどにそれは歪に聞こえる。ファンシーでリリカルで、夢見心地なその言葉を担う何かが、今千代子たちの目の前に広がる惨劇を仕立て上げたというのだろうか。

「そう!」

 やっと言ってくれたね、とばかりに、嬉しそうに笑う。

「魔法少女! 可愛らしいだろう? ボクらはずっと憧れていたじゃないか! 万能を! 夢想を! だけど、そのオモいがタドりつくことなんてなかっただろう!」

「――彼女も、そうだったのですか?」

 千代子は噛みしめて、肉片を指さす。震えている。

「そう!」

「あの子も?」

 指を指されて、びくりとあさぎが怯える。

「そう! あはは、キミは、まるで他人事のようだね。カレもカレも、キミでないものにボクの恵みはツウじてなかったんだから!」

「先輩……も?」

「そうでなければ、こんなにカタることがあるだろうか!」

「私も――なんですか」

「秤でハカればそうなるねえ! チヨコがボクの言葉をシンじるなら、だけど!」

「それはその――先輩が、私を、その――」

「チヨコ、そこまでだよ!」

 手の平と笑顔が千代子の言葉を遮る。

「な、なぜですか?」

 千代子は食い下がる。そこは最も知りたいところなのだ。

「時間切れ、だから」

 先輩は重力がなきがごとし、ふわりと千代子を飛び越して血まみれ全裸でへたり込む壺井あさぎの隣へ着地。血に触れるのも構わず、中村紫乃だったものに触れる。

「このままメッしてしまうのはあまりに勿体ないから! そう、そこの肌を衆人にサラそうとしているキミ! この哀れな子の名前をオシえてくれるかな!」

「……え?」

「あはは、わからないかな、この壺のキミがアヤめた子の名前を聞いているんだ。何故かって、友達だったんだろう? 友達は、友達の喪いをきっとカナしむものだから! ああ、そうだったね。ああ、白無垢にオオわれてこそ乗る気分もあるだろうさ! でもねチヨコ! 穴と血にマミれてクズれゆく優等生! 剥かれてなお白い劣等生! そして、名簿のどこを探しても名前がない上級生! シタいを込めて借衣をシメらす同級生! フーダニット! だ!」

 そう言いながら、あさぎから遺体を取り上げた。

「――あ、シノちゃんん……」

 あさぎが、何をか言おうとして、手を伸ばす。その手に体液の雫が落ちて、手が止まった。

 その手に、黒いセーラー服を着た魔法少女が、無情に語りかける。

「キミはもう、手をハナしただろう! キミのカタりをホドくのは、キミのノゾみなのかな!」

 先輩は蛇の目で、笑う。あさぎはそのまま蛇に睨まれたカエルのように怯え、頭を抱えて血の海の中で震えだした。

「あ、ああ……ひ……」

「つ、壺井さん?」

「チヨコ、動いちゃダメだよ」

「や、や。あさぎ……あさぎわるくないもんん。壺じゃああ……シノちゃんがあああ……」

「壺井……さん」

 あさぎは血の海の中で痙攣を始め、やがて卒倒する。千代子はただ言葉の戒め一つで、かけよることも出来ずに佇んでいた。

 先輩はこの狂気の風景の中、惨死体を抱きながらどこ吹く風で千代子に告げる。

「じゃあ、チヨコ! ボクはこれをモラうからね! キミにミツいだそれは、キミをエラんだみたいだから! カレのさいわいをイノってあげよう!」

 相変わらず何を言っているのかよくわからない。だけど、先輩がこれからどこかに去ってしまうことは、察せてしまう。

「先輩――!」

 だからせめて声をだす。臆病な足が、血の海を渡ることを拒んでいても。

「いけないな、チヨコ。その呼び方はもうタダしくないんだろう! ああ、チヨコ! そこはシンじるべきだったんだよ! ほら、人のキタる音がする、叢を踏みくだく踵たちはザワめく! こんなに破滅の音がヒビいてセマっているのに、どうしてキミらそんなに平然としている! キミらはすぐにつるし上げられる! キミらの足下に積み上げられた桑の葉はたちまち炎にツツまれる! キミらはなかったことにされる! キミらではないものに!」

 校舎に響く鐘の音が聞こえる。静寂の時が終わる。

「カレの魔法はとっくにホドけている! 誰にもオカされない場所で二人きり! 清かなネガい! こんなにも飢えているのに、打棄てるのは何故!」

 先輩はあさぎと千代子をそれぞれ一瞥した。先輩であろうがなかろうが、級友の死を弄んでいようが関係ない。そばに駆け寄って、あの真っ黒な制服の裾を掴みたい。

 けど、千代子の足は言うことを聞いてくれやしない。

「ああ、ボクもこれ以上ここにいるのは得意じゃないからね! さよならだ! また会う日まで、キミらがスコやかでいますように!」

「まって……まって……ッ!」

 さよならの言葉で縛が解け、千代子は駆けた。血と臓物の海の中に靴を浸しても、とっくに間に合わなかった。千代子ではなく死体を抱いて、先輩は行ってしまった。

 千代子の上履きが、血だまりを踏み抜いて赤く染まっていく。

 

 先輩は廊下のどこにも居ない。

 血の臭いが残る。全裸の少女が残る。また名前を聞けなかった千代子の後悔と慙愧が残る。

 

 魔法は解けた。 魔法少女は、薄暗い廊下の隙間に溶けていった。

 

 リノリウムが血と少女たちを拒んでいる。

 

 理性のしもべたちが音を立ててやって来る。