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L ペイル・ペリセイド/3

ペイル・ペリセイド/3

 

「あっ、シノちゃんん」

 あさぎの安堵した声に、千代子が先客――中村紫乃を一瞥する。あさぎはその一瞥に不安のサインを感じ取った。実際の所、千代子は自分の記憶をたぐって、紫乃が隣の席によく訪れる二人組の片割れであることを思いだしただけだ。

「今来たの? もう、二時間目だよ」

「うん。ま、まいっちゃったよおおお」

「参ってるのはこっちよ……壺」

「ふぇ」

 面と向かって壺。ときた。

 あさぎは紫乃のそんな表情を別の場所で見たことがあった。

 あさぎはうるさいし、目立つ。それが優秀であろうとバカであろうとそれなりに目立つ。そういうものは嫌われる。みんなで仲良く袋の中で、外から見えないように擦れ合っていなくてはいけない場所なのだ。だから、あさぎはその資格がない。この袋のなかではおとなしくしていなさいよ。そんなことばを投げつけられたこともある。

 その時にもあさぎは「壺」と呼ばわられた。

 槌田紅実を通して得た友人である中村紫乃の相手を、実際あさぎは得意としていなかった。もちろん、同じくクミちゃんを慕う者として、仲良くできれば「みんな一緒でよかったじゃあああん」って言えるのだろうって、あさぎは脳天気に考えていた。

 シノちゃんはあたまがいい。だから、頼るのがいいと思った。クミちゃんだって、シノちゃんの賢さを茶化しながらちゃっかりそのおこぼれに預かっている。

 それにあさぎは知っているのだ。そんなときのシノちゃんは、誇らしさでいっぱいの、とても良い顔しているんだってことを。だから、あさぎは先日はノートを半ば無理矢理借りてみたりした。心のやりとりは物のやりとりだと思った。

 あさぎはバカだけど、わりと打算で生きている。シノちゃんがあさぎに軽くでも「貸しを作った」ことで、自分への態度が柔らかくなることを、期待できるくらいにはかしこい。

「シ、シノちゃあああん、あの、あのねえええ?」

 でも、バカだから。返さなければならないはずのノートを忘れてしまえば元も子もない。

「――ちゃん?」

 紫乃の声は冷たいままだった。よりいっそう、悪くなっているようにすら聞こえた。あさぎは言ってから思い当たる。紫乃はあさぎが下の名前で自分を呼ぶことを嫌がっていたけれど、あさぎも名前で呼ぶことこそ、友情の第一歩であると信じてきたから。ちゃん付けで呼んでしまう。これにキレてくるときは、危険信号だった。今日はちょっと、ヤバそうだった。

「――なあに?」

 視線を向けられた千代子が、あさぎにクエスチョンマークを送る。あさぎは無知を装い、へらっと笑って、シノちゃんに向き直る。

 紫乃が千代子を嫌っているのもあからさまにわかった。だからこんな、獰猛な視線を送られ続けているんだろう。だって今は二限目の授業中のはずだ。なのに。わざわざ、こんなところであさぎたちを待ち伏せしているのはいったいなんでなんだろう。

「あ、な、中村さんん……?」

 さすがのあさぎも、いやな予感しかしなかった。ここは譲るしかないと判断した。けれど、この呼び方は、口にするほどに他人行儀が進行して、かろうじて繋いでいた手が解けるような気がして、とても気が進まない。それがどうしても顔に出る。

「なに、そのふゆかーいそうな顔は」

「そ、そんなこと無いよ、シノちゃ――」「あ?」

「うう……ごめんん」

 気圧されてあさぎの声が震える。

「これ言うの、何度目かなっあ」

「あ、う……」

「――ねぇ、そこ、どいてもらえないかしら」

 置いてかれていた千代子が、澱んだ空気に切り込んでいった。

「あ、片岡サン。保健室は空いているよ、入らないの?」

 紫乃は開けたサッシの溝に背中をあずける。そして、片足を膝の高さまで上げ、スライドしきった引き戸のゴムに靴をかけている。保健室に入る為には、そこを抜けるしかないのに。

「ご丁寧に、どうもありがとう。けれど、私は『どいてもらえるかしら』と、尋ねたのだけど?」

 千代子は鼻から息を吐いて、廊下の反対側に背中を預ける。持久戦の構えだった。

「ね、片岡サン。なにその格好。あ、聞いちゃ悪かった?」

 紫乃が千代子に水を向ける。あさぎが千代子を窺う。

「構わないわ。――私、具合を悪くして倒れて、汚してしまったの。壺井さんが親切にも貸してくれたんです。ですから、私もはやく着替えたいのですけど?」

 千代子は超然と腕を組んで構えた。パツパツのジャージと合わない佇まいだと紫乃は笑う。

「じゃあ保健室に用があるのは片岡サンだけよねえ……あたしさー、そこの壺に用事があンの」

「そう、でも先程も言ったのだけれど。この下ばきは彼女のものなのよ。それに彼女には、代わりのものを持ってきてもらう筈になっていてね。だから、彼女は忙しいの」

 あさぎはそれまで、はらはらとそのやりとりを見守っていた。口を挟みたくてもちょっとそんな雰囲気じゃなかった。シノちゃんはいつも必要以上に意地悪だ。クミちゃんのいるときはいつも寡黙でやさしい空気をまとっているのに。それよりも、千代子が自分の肩をもってくれているらしいことが、あさぎにとっては意外だった。もしかしたら「面倒な事に巻き込まないで」という意思表示かも知れなかったけれど。

 どちらにしろ、折角出してくれた渡りに船と、あさぎは判断した。

「そうだよおお、だめだよシノちゃんん。あさぎは片岡さんの面倒みなきゃっ、だしいい」

「壺ちゃん」

「うぐ――ごめ、ごめん」

 槍は構わずに続いて飛んでくる。

「壺、ちゃん。ねえ。ナメてんの? バカなの?」

 有無を言わさない威圧。紫乃は千代子を見据えたままだ。

「ねえ、保健室であたしと勉強会、する? したい? したいでしょう」

 その槍には毒が塗ってある。しかも刺されば効くようななまぬるい毒ではない。その槍を投げたときに既に毒は全身に回りはじめている。なぜってその毒は日々積み重ねられてきていたから。あさぎの身体にずっと、怯懦とか恐怖として塗り込まれてきたものだから。

「い、いらな。大丈夫だからああ」

「無用よ、えっと――シノチャンさん?」

 保健室に入れず痺れをきらした千代子が、抜き身で切り込んでいった。

「なに?」

 あさぎに向けていたよりも敵意と侮蔑を濃く煮詰め、冷蔵庫で一晩冷やした声が響く。たった一言なのに意志を持った毒蔦のように広がっていく。

「そろそろ、通して欲しいわ。あなたも、元気そうだから保健室に用は無いでしょう?」

「ふぅん、そんなしゃべり方すんだ。あんたってずいぶんとおしゃべりだったんだ! 知らなかったなあ。昨夜はさあ、なんかお楽しみだったじゃん。電車でさあ」

「……ん? あなた――何の、話ですか?」

 千代子は動揺を飲み込む。あさぎは千代子の顔がみるみる赤くなっていくことが気になった。けれど、紫乃はそこを深く追求せず、矛先を執拗にあさぎに向けた。

「なに、壺はこんな辛気くさいのとつるんでたの? 槌田と一緒にいるくせに? こいつとお? あたしはともかく、槌田のことなんてどうでもいいんだあ?」

「……ぐあい、悪そうだったから、連れてきたんだもんん」

 あさぎはばつがわるくなる。槌田がこの隣人を好いていないのは知っている。無愛想だし、さっきも電車ではしばらく変だったしだ。でも、それでも、同級生なんだよ。とあさぎは思う。

「ふぅん――壺さァ、前言ったじゃん。あたし、嘘は嫌いなんだ。本当のこと言っても槌田に言ったりしないよお。聞かれたら別だけどねーェ」

「あさぎはあああ、みんな、すきだもんん」

「子供かよ」

 忘れて聞いた試験範囲情報があからさまに間違っていても。座ろうとした椅子がその場所になくとも。ふと人に呼ばれている間に、開いた覚えのないメールが開いていても。そして。

 真っ白なノート(・・・・・・・)を貸されても。あさぎは友達であることを失いたくないと思っていた。

「――ね、中村さん。なんで意地悪するのおお?」

 このいわれのない悪意に耐える必要が、あるの?

 誘われた言葉なんだろう。そう思う。シノちゃんはあさぎの方から断絶を引き出したいんだ。ほら、なんでそんなに笑顔なの、シノちゃん。あさぎはもう、泣いてしまいそうだよ。

「やめてよーツボちゃんそんな言い方するの。でもねえ、ぶっちゃけあたしもさーあ。あんたみたいなのとつるんでるっておもわれるのヤなのよね、いいかげんっ」

 なんだツボちゃんって。あさぎは心臓からいやなものが胃にドリップされるのを感じる。ダイエット中の朝につい何も口にせずにコーヒーを飲んだときの胸焼けをずっとひどくしたような胸のむかつきを覚える。なんでこんなにイライラするのか、あさぎにはわからないけれど。

 けれど、あさぎは覚悟をキメる。

 ――それなら、あたしだって言ってやる。言ってやるんだから。

「――げす、どいて頂戴」

「ひぁ?」

 あさぎより先に、千代子が口を開いていた。あさぎは片岡千代子についてのイメージをまた修正する。この人はなんか意外と優しいとか潔癖とか孤高とかは本質なんじゃなくて――。

「は、なに?」

「もう、足も痺れたでしょう? 教室に戻ったらどう、優等生さん?」

 寄りかからせている足に力が入っている。髪が流れて目を隠してしまっていたけれど、眼孔から漏れ出る敵意をあさぎは敏感に感じ取っている。

「……なにか、言いたいことがあるの? 片岡サン。あたしはネクラのあなたが、日本語をお使いあそばしているらしいことがおもしろいわあ。で、なんつったの?」

「下衆、よ」

 ――あ、片岡さん、さっきより笑顔。

「――よく、聞こえなかったな。片岡さん、ちょっと、言いたいことがあるんでしょ? 言ってみなさいよ。こっちにきて。あたし、今ドアのところから離れられないのよね。それとも、日本語通じないの? そこのツボとあんた、ご同類なんでしょ?」

 聞こえない筈がなかった。千代子は凛とした宣戦布告を叩きつけたのだ。

「もしかして、耳がお悪いのかしら? あなた、なにをさっきから怯えているのですか? ジメジメと愚にもつかないことを言い続けて、彼女に何を求めていらっしゃるの? 呼び方が気にくわないなんて、とんだ言いがかりではないの。道を、開けなさい!」

 その布告は千代子の口から確かに発せられていた。静寂を冷たい廊下に呼び戻す凛とした声だった。千代子はそのすらりとした背を廊下の壁と数ミリ離し、垂直に立った。凜気がすうと立ち上る。死すら連想をさせそうな黒髪の闇がリノリウムに吸い込まれていく。

「ひ」

 あさぎは恐怖による声を漏らし、その緩い口を両手で閉じる。また一歩そこから下がる。

「やめて……? なにを? 何をですかァ? 片岡サン? ねえ、ちゃんと言ってよ。ところでもう、授業は二時限目の、ねえ。始まってる気がするの、片岡さんそんなに具合悪いのなら、はやく保健室のベッドで休みたいんじゃないの? でも、わざわざあたしたちの中ァ入ってきてさあ――あたしは、片岡さんがどいてくれるだけでよかったんだけどなァ――。でも、このさい一緒でもいいのかなあ――な、あんたから、喰ってやろうか?」

 シノちゃんの気配が、明らかに歪なものに変化した。ぴくり、千代子が反応する。

「し、シノちゃんッ?」

「それ呼ぶなつってんだろ! うるっせええええッ!」

 がん。

「――ひ」

「……っ!」

 声にならない悲鳴は、あさぎのものだ。保健室の横の壁が不様に凹んでいた。千代子も目を見開いて体を震わせた。それは、女子学生の力で凹むようなものだという認識のないものだ。現に、モルタルの壁だけではなくサッシの金具まで見事に曲がっている。

 中村紫乃の右手が重苦しい空気を吸って、文字通りごうごうと唸っている。

「――なに、威勢良かったじゃん。ビビったの?」

 そりゃあ、ビビるってもんだ。とあさぎは超ビビっている。あきらかにそこは異空間だった。「なにこれええええ、撮影いいいいい?」ってはしゃいで、カメラを探すフリをすれば、みんな笑って丸く収まるのではないだろうか――。

 あさぎは口を開かなかった。何を言えば、この場所を切り抜けることが出来るのか考えても考えても、バカだから、どうすればいいのかさっぱりわからなくて、千代子を見上げた。

「――怖じ気づいているのは、どちらかしら」

 それでも、千代子は超然とした態度で紫乃を挑発していた。

「……あ、どういうことだよ。おい、潔癖ネクラ。言ってみろよ」

 あさぎは片手で顔を覆う。それ言っちゃダメでしょシノちゃんって感じだ。千代子は気にしない風で言葉を続ける。

「……中学の時、おもちゃのモデルガンを貰って、学校でちらつかせる男子がいたわ。改造してね、それで空き缶に穴を空けていたの。……あなたは、それに、そっくりね」

 千代子はそうかまして、上品に笑った。あさぎは笑うしかなかった。

 あさぎはもはや怯える先が増えすぎてしまっていた。紫乃だけじゃない、こっちにいる片岡千代子という同級生も恐るるに足る異常な人なんだ。そう確信した。はやくだれか、早く誰か来てこのよくわからない状況をなんとかして欲しいと願うしかなかった。

 願いは、かなわない。

「――――~~ッ!」

 挑発に乗った紫乃が保健室の入り口から跳ね、廊下の白線をまたいで、一歩半で千代子の目前に至り、下から瞳孔を全開にした猛禽の面を突きつける。

「やるってことだよね、、ネっクラちゃ――ん!」

 千代子はそれに臆さず弾丸を放つ。

「やめて、あなた口が臭いからここまで臭ってくるんですもの。たまらないわ。だから、いつもみたいに、おしゃべりを先にその子に取られてしまうような、寡黙で繊細なあなたでいてほしいの。――あと、申し訳ないのだけれど。もう一度言うわ。そこをどいていただけないかしら。私、悪いけれどベッドで休みたいのよ。小さいナイトの好意を無にしたくないの」

 その眼光は最後にあさぎを向いた。

「ふぇ?」

「ぷぁッ? ナイトぉ? あははははは! やっぱあんた、アタマおかしいわ。じゃああんたはプリンセスか? じゃあ城にでも引き籠もっていればいいじゃん! 学校とかさ、あんたみたいなプリンセス様にはお似合わないでございますですよ! あははははぷぁははは!」

 いつものあさぎだったらそれだけでゲラゲラ笑って楽しい気分になれていたと思う。そんな楽しそうな声を出せるのなら、その中に毒がいっぱい混ざっていなければ、敵を見るような目で見てこなければ、きっとシノちゃんとも「ちゃんと」仲良くなれたはずなのに。

「なあに、それがあなたの鳴き声なの? きっと天然記念物になれるわよ」

 ――片岡さんも、そんな風に挑発をしちゃだめだよもおお。人がおもいきり繰り出したものは、たとえ当たらなくても「いいパンチだね! ぐふっ!」と不敵な笑いを浮かべて、倒れてあげなくちゃあ。あーあ、シノちゃんもう笑いっぱなしで聞いてないじゃんん。

「空気を汚すのは、そろそろ気が済んだかしら? あなたが臭いのはわかったから、そろそろ道を開けてくれない?」

「あははは、ごめんねプリンセス片岡さぁーま。ぷっはは。こちとら人間サマだからさ、ちょっと高貴な方には耐えられないかもね。どうぞどうぞ、おまたせしてすみません。もうそっからでてこなくていいようにしておいてあげるよ。ぷぁはははは」

「くすくすくすくす」

「――あはは、は、は……?」

 紫乃ちゃんがあまりにも楽しそうに笑い続けていたから「もしかして気が済んだのかな?」って、本当に楽天的にあさぎは思ったんだ。核戦争のボタンは押されなかったんだ、良かったって。でも、その瞬間だ。自分のお気楽さ加減が身に沁みた。

「ぎゃッ?」

 発生者不明の悲鳴。同時に、さっきのドアが壊れた音よりも数段濁った悲惨な音が届いた。

「――――ひ! き、き、ぎ、ぎゃ――――――ッ!」

 現状を認識したあさぎの悲鳴。千代子は床に落ちている。その前の壁はひしゃげていた。あさぎは悲鳴を上げながら、バラエティ番組で芸人が水風船をぶつけられるオモシロ動画のスーパースローなんか思い出していた。笑ってられない。だって、水風船は千代子の方だったから。

 叩きつけられた壁には幾条ものクラックが走って、砕けた壁の塗装は土煙みたいにまいあがり、下で妙な形になって倒れた千代子の上に雪のように降り注いでいる。

「ア――……」

 紫乃が声をあげる、低く通る声。紫乃というよりも、紫乃の腕がそんな音を上げているかのような呻きのごとき周波数。その右手を中心に空気が歪んでいるのが判る。

「あんたがっ、悪いんだからねえ……」

 後悔しているかのような言葉。裏腹に紫乃は笑っていた。口角から涎が垂れ、リノリウムに水糸となって落ちていく。千代子はピクリとも動かない。

「休みたかったんでしょっ? あんたにはお似合いのベッドじゃない?」

「か、片岡さんんんッ? ――ぎッ?」

 硬直から我に返り、千代子に駆けよるあさぎに、物理的な衝撃が走る。いくつも星が見えて、あさぎはふらついて、頭から廊下に倒れ落ちる。その頭を紫乃が踏みつける。埃と髪の毛の混じったゴミの塊があさぎの粗い吐息に吹かれて舞った。

「し、シノちゃんん……」

「……何回目、だっけかなあー? 五回目? 五回目でいいかもう、ざっけんなもう、ねーぇ、あそこのゴミはちゃんとさん付けなのに、なぁんであたしはちゃん付けなのかなあ、壺ぉ」

「だって、だってええ、友達だよおお、誰にでもつけるわけじゃ……いたたた! いたいいい!」

 ぐっと顔が足で床に押しつけられる。暴れる体は紫乃の片足で制御されている。ちょこまかと動いているつもりなのに重心を動かしても、まったくもって逃れられない。

「だァ――れがっ」

「やめ、やめえシノちゃあん!」

「六回目ェ!」

 数えられている。この数字になにがあるのか知らないけれど、ただあさぎは不安になる。紫乃の陰湿な振る舞いを見てしまった以上、さらに不安になる。さらに、そんな陰湿な女が、その暗さを見せつけるようにしたということは、それを見せたすべてにしかるべき痛みが彼女の意志によって、報復という名目で与えられることは想像に難くなかった。

「うれしいでしょう、壺。数字が増えるの。あんた、カラオケで高得点出すの好きだつってたもんねえ! 槌田より数学いいの出たってこのまえメッチャ喜んでたもんねーえ!」

「す、数字あさぎは苦手だからあああ、わ、わかんない、かなああ?」

「まあバカだもんね、壺はほんとバカだもんね。でもあたし、壺と遊んでる暇はないんだァ、あんな大きな音あげちゃったから。さっさと証拠を隠滅しなきゃならないよねえ。あたし、昨日からさあ、変な女に絡まれるし――そもそも、その女が電車の中で変態――そうそう、そこで倒れてる女、変態なんだよ。壺は知らないでしょ? もしかして仲間なの? 知らない顔だ? 知ってもしょうがないよねえ、ああ、壺なんかにこんなしょうーもない説明してたらもう、お腹空いちゃって――! ああそうだこれマジ笑えるんだけど あたし、昨日からハム三本くらい食べちゃってるんだよ! 三本! どんだけってえ感じっ! 三枚じゃないんだよ!」

「さ、三本てえ……ちょっとたべすぎだよおお」

 あさぎが顔を踏まれたまま笑うしかできなくて気丈にへらへらと笑う。暴れても仕方がなさそうだからおとなしくしている。顔を動かすとまた強く踏まれてしまうから、紫乃の顔は見えない。どんな顔をして脈略のない話をしてるのか判らない。

「でしょおお? でもハム食べ終わったらやっぱりお腹すくじゃない?」

 紫乃の話がわからないことが一番の恐怖に変わる。だって、シノちゃんの話はいつも、わかりやすかったはずなのだ。口数がいくら少なかろうと、明晰であったはずなのだ。

「だから食べなきゃ。食べたいもの食べるのが本当は健康にいいんだってっ。で、どっちが先?」

 紫乃が首を十度ばかりかしげながら、さっき言葉だけを前に押し出すような不愉快な笑い顔のまま、全く笑っていない目であさぎを見ている。あさぎからは、見えない。

「どっち――ってええ?」

「わかれよ壺。どっちが先に、食べられたいのっ? 聞いてやってんのよ。あいつ、返事できないから、あんたの希望が優先されんの。慈――――悲、なの。漢字で書けるゥ?」

「えっ? ――いた、いたたた! いたいいたいいい!」

 また強く踏まれる。あさぎだって女の子なのに、顔をこんなに踏みつけるなんて酷いと思う。それはさておき、シノちゃんは今「食べる」とか物騒なことを言った気がする。ハムの話をしてたかとおもったのに、その対象はあさぎと片岡さんに移った。

「うるせえよ壺、どっちがいいのかってきいてんの、それとも壺は壺だから耳とかないの聞こえないのっ? 食う代わりにその口に土持ってきて詰めてさあ! 花でも活けてやろうかっ! うわー、今想像したら似合う! ちょお似合う! マジ壺だわ! ――ねえ、何がいい?」

 もはや殴られる方が、考えないで済む分マシと思えた。

「な、何ってええ?」

「花、の種類だよ」

 鼻で笑い、不愉快さを隠しもしない、聞くだけでおなかがぐるりと裏返りそうな声。 

「ふぁ」

 足が、顔から離れた。あさぎはゆっくりと起き上がる。頬を触るとゴミが落ちた。靴の裏と同じ模様のでこぼこが出来て熱を持ってしまっている。髪ゴムの位置はずれるし、きっと髪にゴミはいっぱいついているだろうしサイアクだ。

 さらにサイアクなのは、シノちゃんの顔がぜんっぜん笑ってないところだ。お腹なんか押さえてるし目が据わってる。アフリカのはらぺこのライオンの目をしてる。テレビでみた。動物園で見たライオンとは違う目をしていた。

 ちらりと後ろを見ると、千代子はさっきの位置から動いていなかった。

「壺さァ。まさか、これで今日は終わりだとか、おもってんじゃない?」

「――え?」

 そんなわけがあるか。でもあさぎは考える、少ない頭で考える。こんなに騒いでいるんだから、なぜだか人が来なくても、いくらなんでも、そろそろ人が来て助けてくれるはずなのだ。この異常な状況とシノちゃんとかわいそうなあさぎと片岡さんを助けてくれるはずなのだ。そうだ、片岡さんは本当にヤバいかもしれない。だってさっきから全然動いてないし。あっ。

「だ、だってほらああ、片岡さんそろそろ動いてないし――、ちょっとヤバめっていうかあああ。救急車とかああ……あっ……ほらあさぎが呼……ひぅ!」

 あさぎがポケットに手を入れた瞬間。紫乃の顔が目の前にあった。漏らしそうだった。

 紫乃はそのままゆっくり、左手であさぎのアゴをホールドし、ポケットにいれたあさぎの腕を右手で取り出す、触られた部分に熱と風を感じる。ポケットの携帯電話が抜かれる。

「だぁめだろお? おイタしちゃあ……」

 笑顔。右手で携帯電話が取り上げられる。ひょいっと持ち替えられて掌の中に。何の手品かわからないが、触れた携帯電話が、目の前でさらさらと粉のようなものになっていく。

「すげ、ペンケースと同じだ。分解、しちゃってるのかなぁ。これぇ……?」

 他人事のような独り言が紫乃から漏れる。

 あさぎは、この期に及んでもまだ、紫乃が正常の範疇にいることを期待していた。しかし、そうではなかった。もはや、とっくにおかしかったのに、ようやく気付いた。手品でもなんでもない。握っただけでなんで、あんなことになってしまうんだ。

 あの手に触ったら、自分もそうなってしまうのではないか。

「ひ」

 あさぎの背骨から漏れた怯えは喉に充ち、味を悟らせる余裕ももたせずして溢れ出す。そのときにはもうあさぎの全身は毒に侵されて使い物にならなくなってしまっていた。心の底からの恐怖は目の前をまっくらにするのだと知った。あさぎ自身の身体が産み出した毒と、紫乃の槍が穿った傷から止めどなく溢れ出す毒が、あさぎを蝕み続けている。

「さって。わかってるんでしょ? これから、あたしがどうするのか……さ」

 あさぎは首をふる。こんな時、ピンチの時に戦える方法をたった一つしか知らない。準備をする。きっと自分の顔は、何ひとつ戦う方法を知らずにいた理科室の白ネズミのようにこわばってしまっている。それでは補食するものにとって、自分はエサですと公言するようなものだ。

 だから、笑え、笑って全部誤魔化せ、全身で、示して訴えろ。飼い犬のように腹を見せて許しを乞うしかない。あたしはあなたに危害なんか与えない、と。笑顔を作って。目を潤ませて。卑屈に背骨を曲げて。動物の赤子のように小さくかわいく捕食者の慈悲を待つしかない――!

「ねええええ、シノちゃああん。やーだよキレっちゃあああああ―――! あ」

 言ってる途中で「あ、しまった」と思った。

 あさぎは、どうしたってバカなのだ。

 物理の授業をちゃんと聞いておけば、こういう時、きちんと対処できたのだろうか。

 宙に浮いた体が、頭から廊下の壁に向かって落ちていくのを、止めることができただろうか。

「ッッ!」

「っひっと――――――――――つ」

 殴られた。熱さを覚えて、その後じーんと痛む。呼吸が苦しいと思ったら鼻血が出てた。

「なんで誰も来ないのかなって思ってるでしょ?」

「うぇぷっ。う……うう……」

「思ってない? まーたまたァ。誰も助けに来ないよ。壺もさァ、ニヤニヤわらってないでさ、泣いたりわめいたりしてよ。あたしもさっ、悪いと思うんだよね壺ちゃんには。でもさ、なんだか知らないけど、ずっとおなか減っててさあ。そのせいでガラにもなくイラつくんだよね。そう、ごめんねえ壺っちさあ、こんなひどい事しちゃって、これってあたしが悪いんじゃなくてさ、あるじゃない? お腹減ってるとこうイライラって、イライラって、ぜんぶぶっこわしたくなんの。でもさああんたがわるいんだよね、ほらあんたノート返さないし、白いから大丈夫だとでも思った? ほーら壺のくせに調子に乗るんじゃねえってことっ! 痛い? ねえ、痛い? 痛いかってきいてんだよ返事しろよオラぁぁアァッ! ふった――――――――――ァ――――――ッつ!」

 さっきの携帯電話みたいに、砕かれていないだけマシなのだろうか。これで手加減されているのだろうか。鼻血がぽたぽたと床に落ちる。口の中も切れているし、鼻も曲がってるかも知れない。ヤバい、目の上が開けられないくらい腫れてきてしまった。

「――意外と、気分いいものねえ」

 襟を掴まれ引き上げられる。口が寄せられる。

 ――年末の拳闘をテレビ観戦しながら「ぎゃーいったそおおおお!」とか、げらげら笑ってて、本当にごめんなさい。

「まだ食わないから、安心して。もうちょい楽しんでからにするから。大丈夫っ、だって御馳走はもうひとつあるんだもの!」 

「片岡さんの……言ったとおりだった」

「なに? やっぱあんなのに優しくしなきゃよかったって? ぷぁはは、あいつ言いそうー、だってプリンセスだもんねえ。それくらい言いそうだよね」

「――シノちゃん、口、ハムくさい」

 言ってやった。紫乃の笑顔が止まった。そのまま髪がわしづかみされる。体が持ち上がる。

「――――」

 がん。

「――ッ?」

 がん、がん、がりっ。

「――――ッッ!」

 一度目は額。二度目と三度目はこめかみ。四度目はぶつけられて下の方に引っかくように壁に頬をこすられていった。悲鳴も出せやしない。

 あたまいたい。ほっぺが熱い、のになんか水っぽい。きっと血が出てるんだ、きっと、皮が剥がれたり焼けてしまったんだ。どうしよう、痕がのこったら、どうして、くれるんだろう。

「さーいきーん、瓶ジャムのフタが開けやすくなったからさあ。変だなって。はい、み――――っっつ。ねえ、ジャムはなに味が好き? あ、いいよ返事しないでも。いつからなのかなあ。あれーそういやいくつまでかぞえたっけかなあ、はいみ――――――――――――――っつ! あたしはねえ、ジャムはやっぱりイチゴだよね、イチゴ大好き。アンズも悪くないよね。なんでこんなにぐっちゃぐっちゃなんだろう、ジャムってさ、ぐっちゃぐっちゃのどろっっどろなのに甘いよね。はいよ――――――――――――ぉっっっつ。壺ォ、あんたも甘いから、さ、いいジャムになれるんじゃない? でもねおなか空くんだよね、論理的でしょ? でもあんまり痩せないの、でもおなかは空くんだよ、ムカつくッ……ち。……ねえ、今のちゃんと入らなかったよね、ダメだよー、ツボは割れなきゃあ。ゲームの勇者だってちゃんとひとんちに入ってツボ割るでしょ? 中身を探すでしょ? あんたもさあ、ほら、見せてみなよ。ちゃんと言わなきゃね。はいもっかいよ――――――――――――――――っっツァ! あたしは『うまくやってた』んだ。あんたはそこに土足で入ってきたの、うぜーぇったらない、わっ」

「っ」

 あさぎはボロ雑巾のようにうち捨てられた。

「今ので、いつつでいいわ。あたしやっさしー。とりあえず後一回かなー。壺って、もしかしてほんとに壺なの? なんか丈夫じゃん?」

 げらげらと笑われている。本当に壺だったら、もしあさぎが――言うとおりに本当に壺とかそんなんだったら、殴られても――紫乃の言うとおり食べられても。痛くないんだろうか。

 くやしくも、ならないんだろうか。

 あさぎはくすんだ視界に暴虐の主を収める。廊下を見回す。おかしい。本当に誰も来ない。

「気付いた? 誰も来ないの」

 シノちゃんはなにかしたのだろうか。なんにせよ、あと一回でこの地獄は終わるらしい。ついでに関係も終わってしまったのだ。あっさりだ。クミちゃんとも、シノちゃんともずっと仲良くなって一緒にいられると思ったのに。趨勢は簡単に残酷に決してしまうのだ。もし生き延びたとして、それで、クミちゃんのところに泣いて戻ったりしたらこの暴君に今度こそ殺される。そうなったらあさぎはたった一人で生きていかなきゃならないんだ。

「いたいでしょ。避けようとしているのわかるぞーっ」

 痛くてしょうがない。じんじんする。全身が痛い。痛みは時間が経てば経つほど痛くなる。唇が腫れてしまっている。頬の内側が切れてしまって血の味がする。瞼が腫れて視界がすごく狭くなってしまっている。髪を捕まれて引っ張られたから抜けてしまった頭皮にしびれるような痛みが残っている。

「これってさ、魔法なんだって。あいつ、ほら、あの黒セーラー服が言ってた」

 体の内側も鈍く痛む。呼吸が苦しい。胸の下に浮いたあばらぼねがなにかおかしい。わずかに動く左手で探ってみると、ふれた瞬間に刺すような痛みが走る。これってきっと、折れている。シノちゃんの言っている事はよくわからない。黒セーラーって誰のこと?

「今さあ、壺っち殴ってて判ったわ。これはさあ、空間を区切って。そこに負荷をかけて、この拳を中心に集めてんのよ」

 ――なにいってんのかなあ。

「空間を区切っちゃうから、その時点で誰も来れなくなるってこと。すっげ、――ほら、最初に黒セーラーに出くわしたときにあいつすごい驚いてたじゃん?」

 ――知らないよそんなの。だから、誰なのそれ。

「それってさ、この魔法のちからなんじゃないかって思うんだあ。そう、怖がってたんだよ。あたしの考えだと、あれも空間に干渉している。だから……まあ、今度は逃がさないってこと。でさあ、あの黒セーラーの、緑のヤツ、あれもあんたの友達なの? なあ、黙ってんなよ」

「――――」

 返事しようにも、あさぎの声は出ない。緑色のひとなんてしらない。それって、なんでもやりとげちゃう眠そうな恐竜の子供? それとも赤い帽子のイタリア人を乗せてる方? そんなものが友達だったら、今助けに来てくれてるんじゃないの?

「――はやく、やればいいじゃんん」

 知らないという返事の代わりに、そんな諦めが出てきた。

「――なに、壺っちはやく死にたいの? 食べられたいの? まあちょっと待ってよ。あたし、壺っちには積もり積もっていろいろ言いたいことがあるわけよ。今はね、あたしが考えてることを整理する時間なわけっ……まあでも、いい加減お腹空いたしね、壺っちも覚悟出来てるみたいだしさあ、ねえ、食べられるのってどんな気分? あ、返事しねえと蹴んぞ」

「――さい、あくうう」

 蹴られるのはイヤだし、返事をなんとか絞り出す。だのに。

「あっそう。で、さっきの続きね。ドーン」

 腹に固い物が潜り込んでくる。そこはさっき最初に一番強い力で殴られた部分だ。いたい。青くなって、もしかしたら紫色になってしまっているんだろう。固いものは靴だった、中村の靴は踵を支点にして、うつ伏せにひっくり返っていたあさぎの体を表向きにひっくり返す。。

「なに、その目。解放されると思ってた? おあいにく様、あと一回残ってたでしょっ?」

「~~けはッ……、あッ、ゲッ」

 呼吸すらむずかしくて、のたうち回るほど全身が痛い。もういいでしょ、楽にしてよって気分なのに。こんなに性格悪かったのかよ、こいつ、ちきしょう。うらむからねええ。化けてでてやるんだからねええッ!

「終わらせっか。じゃーまずは腕がもーうね、熱くなっているので、空高くかっかげまーす」

 助けは来ない。どうしてかこない。誰も――。

 暇な教師も、サボりの生徒も、養護の福見も、クミちゃんも、倒れたままの片岡さんも、世の中にあまた存在しそうな正義の名を冠した誰も――。

「つぎに、この空間の中の空気を重くしまーす。あたし以外は全員遅くなってもらいまーす」

 こんなひどい目に合っているあさぎのことを、本当に知らないの――?

 こんなに痛いのに、だれも知らないふりをするの?

「その空気の力を腕にあつめて殴るとすごくいたいでーす。さっきの携帯は、空間の空気の力を一気に使うとああなるんですねえ。すごいねえ、魔法。まあ安心して粉々にしない程度にしないと、食べられないし? わかる? これは慈悲なのよ、お友達、でしょ?」

 そこでシノちゃんは一旦、止まった。くう。と何かカワイイ音がした。

「笑っちゃうよね!」

 講釈の通りなら、必ず当たる殺人の為の腕が、あさぎをめがけて振りかぶられた。とても女子高生の物とは思えぬ膂力によってトリガーが引かれる。腰が捻られてスカートが舞う、清純の白がとても滑稽に映る、リノリウムが摩擦熱で悲鳴を上げ、黒い焦げ跡を残す。いわく魔法の右手を中心に張られていた結界が、そこに力となって収斂していく。単純な暴力の象徴になった拳は、磁石同士が吸い付くように、寸分ねらいを違えず猛悪な殺意を乗せてあさぎの鳩尾に落ちていく――。

 

 

 誰も、