J ペイル・ペリセイド/2

ペイル・ペリセイド/2

 

 壺井あさぎと片岡千代子は学園前駅ホームのベンチで横に並んで、半人分のスペースを空けてもう小一時間座っていた。その間ずっと対話は無かった。対話になってなかっただけで、あさぎはずっと「ね、ねえ大丈夫ううう?」だの「そ、そろそろいこうかあああ?」だの「く、クミちゃ……槌田さんと仲悪いのおお?」だとか「片岡さんはあああ、最近ハマってるものあるうう?」であるだとかそんな他愛も無い質問を思いつく先から投げかけていたのだ。

 それでも結局、千代子は答えず。たまに「ふ――ッ」っと獣のごとき息を吐き出して天を仰ぎ、何かと会話をするようにぶつぶつと呟いていた。

 あさぎは、その辺りで我慢の限界を迎えた。「きい」とかわいらしい癇癪を起こして、千代子の背中をべしべし平手で叩き、その片脇に身体を挟んで持ち上げる。

「あ、あれ……?」

 千代子は抵抗もせず引っぱればそのまま歩いてきそうな気がした。だけどあさぎはやっと気付いた。千代子が座っていたところに水たまりが出来ているのだ。

 やっぱりこわかったんだよね。そんな言葉をあさぎは飲み込む。さっきの電車は異様だった。降りるときもどこかから「やだ!」「痴漢!」みたいな声が聞こえ、異様な熱を帯びた電車からは同級生たちが異様に赤い顔をして股ぐらをもじもじさせながら降りていった。

 あさぎは、抱きしめられたまま痙攣して動かなくなった千代子を、どうにかホームに引きずって、今の今まで休んでいた。その間ずっと、千代子は下着を濡らしたままで悩んでいたのか。それに気付かなかった自分と、言わない千代子に腹が立った。バッグを二人分かかえて、千代子の背中を押して駅にターンする。

「もー、そんなの恥ずかしがらずにはやく言ってよねえええええ」

「ど、どこに……?」

「トイレだよおお、ごめんねえ気付かなくてえええ」

 千代子は駅のトイレにも臆することなく入ってきた。駅のトイレ特有の鼻を突くアンモニアの臭いで、あさぎは千代子の特性を思い出したけれど特段気にしている風でもなかった。

 あさぎは自分のバッグの中からジャージの下を取り出して押しつける。

「……これ、私に?」

 千代子があさぎのジャージを手に持って、首を傾げながらきいてきた。「だって、そのままじゃ……学校行けないでしょおおお?」そうだ、なんでかわからないけれど、女の子なんだから、濡らしてしまったスカートのままで学校になんか行けるはずがないのだ。学校に着いたら、被服室でも、保健室ででも乾かしたり代わりをどこからでも調達すればいい。

「あ、あさぎのジャージ、いやかなああ?」

「……さすがに、キツいかもしれないわ」

「えへへえ、片岡さん細いからああ!」

 大丈夫だよと言って、あさぎは笑った。千代子も微笑んだようにみえた。

 その笑顔を見てあさぎは嬉しくなる。「ほら片岡さんさああああ、笑ったらやっぱりかわいいじゃあああああああんんんんん」と騒いで、吹っ飛ばされたことも忘れてカラオケに誘った。千代子は困ったような顔で「そういうの、私、今まで縁がなかったから、本当にわからないのよ」と言った。あさぎは、残念そうな顔をしながらも、会話が成り立ったことに感動していた。申し訳ないけれど、お漏らししてくれちゃったことに対して感謝の念すら表しそうな勢いであった。「じゃああさあああああ、今度行こう! あぼちゃかずきアイス食べに行こう! クミちゃんとも行こうって言ってるんだけどすげえらしいんですよおおお!」謎の敬語と単語に千代子の顔面にはてなマークがいくつも浮かぶ。

「でも、彼女はきっと私のことがきらいでしょう。私も苦手だもの、無理よ」

「そんなことないってええええ! きっと仲良くなれるよおおおお!」

「……。学校、向かいましょうか? 今からなら二限目に間に合うかも知れないわ」

 かったおかさんんまっじめえええええ。なんて声を上げて、話を逸らされたことにも気付かないあさぎは、どうやら元気になってくれた千代子の手を引いて、学校に向かった。手を引くと少し驚いた顔をされたけれど、昨日みたいにロボットみたいな目をしてなかったから、とても嬉しくて飛び跳ねた。学校に着くと、あさぎに勢いよく手を引かれた千代子は結構息が上がっていた。靴を履き替えながらあさぎは脳天気に尋ねる。

「あれええ、やっぱり具合悪かったあああ? 今からでも帰る?」

「いいえ……なんと表せばいいのか、寒気のような……ものが……?」

 口の中に虫が入りこんだようなしかめっつらで、千代子は辺りを見回す。靴箱から曲がって右、保健室のある職員棟に続く廊下を首だけで覗き込み、こくんと唾を飲み込む。

「そおおお? じゃあ、保健室で風邪薬もらおうねええええ」

 あさぎは廊下を行く。千代子は無言のまましばらくあさぎを追って、保健室の手前で止まる。

「――どったのおおお?」

「いえ……なにか、イヤな感じが――空気が、重い……」

 確かに、校舎はずいぶんと静かなように思えた。けれど、この時間に保健室の辺りをうろついているものはそういないから当然で、片岡さんはカンジュセイが豊かなんだなあとあさぎはへらへらと思う。そういえばあさぎは保健室に入ったことがない。本当は健康診断の時に入っているんだけどその自覚がないから、今ちょっとわくわくしているくらいだ。

 そんな平和な頭だから、自分たちに危険を及ぼす敵が、半分だけ開いたドアの隙間から覗いているのを直前まで気付かなかった。それは、あさぎの知人にして、槌田紅実の友人。

 

 中村紫乃がゆらり、獣の瞳で待ち構えていた。