I パーニシャス・パープレックス/2

パーニシャス・パープレックス/2

 

 中村紫乃は、一晩を耐えきった。

 

 まんじりともしない夜を過ごした。恐怖もあった。けれど、空腹が何より大きかった。冷蔵庫の前でたっぷり三十分葛藤し、負けた。肉が食いたかった、どうしても肉が食べたくてしょうがなかった。こっそりと肉を焼いたつもりでも家人が起きてきて弁解する羽目になった。

 不思議なことに、焼いた肉には興味がなくなった。それよりも起きてきた家人を――その――食べたくてしょうがなかった。ロースハムをひったくって、それを舐めながら夜が明けるのを待っていた。右手がじくじくと痛んだ。

 朝になって、家人が出して来た歳暮セットをそのまま小脇に抱えて学校に向かった。

 家にいると、何か、大変な事をしでかしてしまいそうだったから。

 ――これじゃないなあ。

 ハムを包装ごと囓り、ビニールを吐き出す。

 残りのハムをゆっくりと咀嚼し、どうにか満足を得ようとする。この病的な衝動は一体何なのか、ぼうとした頭のどこかで紫乃は精一杯考えていた。

 原因はただひとつしか考えられなかった。昨夜のアレだ。

 だけど、昨夜のどれがこうなのか――。これではまるで薬物中毒者のそれだ。紫乃はそんなものに触れたことも無いし、興味を持ったこともない。そういうものから離れられなくなってしまった欲望に弱い人々が堕ちて行くのを眺め「自業自得」と笑うタイプの人間だ。

 だから、今の状況は屈辱だった。

 たとえば、昨夜の電車での出来事。あれは直接関係がないと仮定。あの時、自分の中で目覚めたこの――いまハムを握っている右手――が、この病的で錯誤した渇望を励起してやまないのだとしたら――。

「――切り落とせば、いいじゃない」

 そうだ、元から断てばいいだろう。ぼうとした紫乃の頭にはそれが名案に思えてしまう。

 そこで、チャイムが鳴った。

「じゃあ、またあとでな」

 槌田の声が聞こえた。ああ、そうだ、ここは学校なのだ。自分の教室だ。あとで? ここは自分の席だろう。そして、右手にあるのはハムだ。目の前に居るのはなんだ。肉だ、肉が喋っている。肉が行ってしまう。肉が喋るはずがない。食料が喋るはずがない、なあ中村、てめーおかしくなってんじゃないのか。

 そんなことはない、お腹が空くのは、消費した分だけ食べるのは正しいことでしょう――。

 後ろの席から聞こえるのは今日提出するはずの課題について。

「あ、壺。ノート」

 そういえば壺井にノートを貸していた。先週末に返ってくるはずだった。あいつはまったく忘れた素振りで、今日もまた返ってこなかったらどうしてくれようか考えている。

 考えれば考えるほど、壺井の笑顔ばかりが浮かんでくる。へらへらとしまらないあの笑顔だ。

 紫乃はいつからかその緩みが許せなくなっていた。自分は何を怒っているのか。そもそも頼られることに悪い気はしなかったのに。それは、槌田の隣で犬のようにまとわりつく壺井を見たあとでもだ。最初は、自分だけが知っている聖域を侵されたなんて、しみったれたことは重いもしなかったはずだ。むしろ、ともに楽しめる仲間が出来たと喜べるだけの度量と余裕を、中村紫乃はかつて持っていたはずなのに。

「――槌田?」

 槌田にかけた言葉のつもりだったけれど、反応は無かった。

 槌田は行ってしまったようだった。始業ベルの残滓とともに肉も、手の中のハムも無くなっていた。濡れたピンクの糸が、小動物のハラワタのように指に絡む。

 甲高い声の豚肉が来たと思ったら、担任だった。

 

                                       

 

 一時限目を耐え、紫乃はふらふらになっていた。それでもどうにか登校時までの人事不省から逃れ、意識を保ってていた。けれど、そこが限界に思えた。紫乃は二時限目の開始を告げるスピーカーのノイズと同時に机を立った。

「保健室――」

 だれにともなくそう言うと、周囲の生徒の何人かが「はあ」みたいな気のない返事をした。こいつらが自分のことを好いていないのは知っている。好かれない理由も知っている。このクラスに滞在しないのも、問題児寸前の素行を隠さない槌田紅実の傍にいるのも、文句の付けようがない成績を維持していることも、どれが発端かは知らないことだけれど、そのどれかとすべてが、紫乃の孤独を創り出していた。

 保健室に行く途中で、紫乃は槌田のクラスを覗くことにした。朝方には肉のことばかり考えていて槌田に不義理をした。せっかく自分の所にきてくれたとのに、気もそぞろだった。

「まずったなあ」

 きっと槌田は多少イラッとしながらもさばさばと悪態一つでいなしてくれるだろう。そういうところも、紫乃の慕う槌田が持つ魅力の一つなのだ。もうチャイムは鳴っていたから、授業が始まっているかもしれない。こっそりと覗いた教室は暗かった。

「あ、そっか、体育か」

 それでも覗いたのは無駄ではなかった。お目当ての娘は突っ伏して寝ていた。

「おっ、おやおや、槌田さんはおサボリですか……」

 魔が差した。紫乃もいつもだったらそんなことはしない、そして素行の悪くなりきれない槌田が授業中に教室で寝ていると言うことは、なにがしかの理由があるに違いないのはわかりきったことだったはずなのに。寝ている槌田に沸き上がるような魅力を感じた。そう、さっきハムを食べながら考えて居たんだ。目の前にあるものの方が、何倍もおいしそうじゃないかって。

 だから、癖毛ショートの間からのぞく、形のいい耳に噛みついた。

「イっ……! だ! だ、なっにすんだ! てめえ!」

 当然槌田は怒った。癇癪を起こしてしまった。そりゃ寝てるところに痛みが来たらびっくりするし、キレたって仕方ない。紫乃だってそう思う。槌田はキレた時、手元の物を投げつける癖がある。今回はたまたまそれがペンケースだった。

「わ」

 紫乃は驚いていた。歯に残るやらかい肉の感覚に。そんなことをしてしまった自分に。驚きから覚める間も待たずに、ペンケースは紫乃に一直線で飛んでくる。だから、紫乃は自分の顔を守るために、右手を突きだしていた。昨日目覚めた、人ならぬ力を宿した右手を。

「――――えっ?」「あ?」

 驚く声は、同時だった。

 ぱァン。と破裂音がして。槌田のペンケースが粉になった。

「……なん、それ。あれ、中村? 今、なに、何した? 手品?」

 槌田は深い瞬きを何度もして、今目の前で起きた現象に、怒りを四散させ、キツネに摘まれたようになって虚空と紫乃を交互に見やっている。

「え、ええっ。あの、いまのは、その」

 まずい。紫乃は知っている。この言い訳し辛い状況でしどろもどろになっている相手を見るのが、槌田はなにより嫌いなことを知っている。槌田はええかっこしいだから自分の言葉で他人が戸惑うのがとてもきらいだ。そして紫乃は臆病だ。だから、ほら――そうやって睨み付けるように顔を崩した後の悲しそうな罵倒を聞くわけには――いかなかった。

「ごめんっ!」

 紫乃は居たたまれず、脱兎の如く廊下に逃げだした。なんてこった。

 階段まで走って、後ろを振り向いた。槌田は追いかけて来てくれなかった。ただそれだけのことだった。でも、表面張力いっぱいにまで満たされた水を零すのにはその衝撃で充分だった。よく持ったと、誰かが誉めてくれるのを待つだけの資格はあるはずだと思えた。

 熱持つ奇妙な右手を、恨めしそうに眺め落とす。昨日自分の命を拾ったこの右手を、今は切り落としてしまいたい気持ちでいっぱいだ。

「……やっちゃったぁ」

 誰が中村紫乃に降りかかってしまったこの悪意の数々を理解してくれるというのだろう。家にいるのは一方的な理解者、学舎にいるのは平凡な聖職者だ。そのどちらも中村紫乃の現状を、落ちていく地獄のことを理解しやしないだろう。

 紫乃は自分の居場所に後悔はない。学ぶべき場所は自分で選んだ。帰るべき場所は自分の思うように作り替えたという自負がある。わずかな孤独を感じようとも、現状なんてたった数年いるだけの腰掛けなのだ。理解者なんて、ほんの少しで良い。けれど、紫乃が最適化したはずの、この期に及んで紫乃の孤独を浮き立たせている。

 要らないものを捨てたら、それが必要になってしまった。

 それぞれの教室から講義の声が聞こえる。

 こんなことで、打ちひしがれるような人間になるつもりはなかったのに。

 紫乃は階段の手前で項垂れ、涙を流している。すんすんと鼻を鳴らしている。槌田はペンケースの事なんか気にせず寝てしまっただろうか。もう来ないのだ。お腹は減るし、体はおかしいし、槌田には嫌われる。でもあの壺なら、こんな絶望も笑って誤魔化してしまうのだろう。槌田はそれを悪態ひとつで許すのだ。もうやだ、もうたくさんだ。泣きそうになる。不安で押しつぶされそうになる。紫乃は携帯電話を取り出す。そう、槌田に謝ろう。そして相談をしよう。昨日の夜のことを、魔法の右手のことを。それからずっと自分を苛むこの食欲の事を。

 電話番号を選んで、コール。

 五回鳴らして、反応がない。紫乃はそれ以上コール音を聞いているのに耐えられなくなって通話ボタンを押した。それは、そうやって依存するのは、壺と同じように槌田に負担をかけるやり方じゃないかと思ってしまったのだ。

 槌田は着信履歴を見て気色悪いと言うだろう。でももし、たまたま出られなかっただけなら、メールのひとつでも送っておかないとならないだろう。でも、画面を開いたところで本文になんて書けばいいのかわからなくなってしまった。

「あっ……」

 手が滑って、空メールを送ってしまう。自己嫌悪で涙がこぼれる。

 階段がもう、怖くて下りられない。

 悪いことは、続けてやってくる。

「――あはは、随分とシメっているね、キミ!」

 踊り場から聞きたくない声が聞こえた。背筋が伸びる。口の中に苦い物が溢れてくる。

「――あ、あんた……っ」

 黒いセーラー服が、下から見上げていた。

 

 この学校の制服をまとい、

 シャボン玉をくゆらせて、

 緑青の髪をたなびかせて。