H ブラックスミス・スクラブル/1
ブラックスミス・スクラブル/1
悪夢の二日目だった。
「うぜー」
小さい声で漏らしたはずの独り言が教室にはっきりと響いてしまう。特に親しくもしていないクラスメイトがさっと一瞥し、また視線を規定の位置に戻していく。牽制の儀式は終わりだとばかりに。その不愉快な視線の群にちくちくと刺され痛む部分をさすりながら、今度はちゃんと聞こえないように舌打ちをする。それというのも、いつもならだれかしらがその視線を遮ってくれるのに。今日はいないせいだ。
最近はずっと、この机の周りに人がいたんだ。壺井がまとわりついて来て、中村が射殺すような目で睨む。なんで嫌いあってんのにこいつらいっしょにあたしのとこ来るんだろって槌田は思っている。そして、横の席でシンキくせー片岡がわざとらしく溜息なんか吐く。
――おまえらなあ、自分のクラスにいねえと友達なんかできやしねえだろ。そう言おうとしてすんでのところで止めてきた。自分はこんな性格だから、中村や壺井が自分のところに来ることで、彼女達に悪いことをしているのではないかという臆病が、たまに浮かんで消える。
だから今朝は誰もいなくて静かで良いはずだった。なのに槌田の心は晴れなかった。習慣になったものが喪失して不安になった。どうでもいいぜと強がりながら、ふとするとそんなことを考えている自分はまったく強くなくてイヤになる。
壺井が風邪を引くのも考えにくくて心配になるが、中村は今日学校に来ているのを槌田は今朝方確認していた。その時の様子を思い出して、槌田の心はさっきからざわついていた。
今朝、隣の教室を覗くと、中村はもくもくとハムを囓っていた。ハムだ。お歳暮にもらったはいいが、ともすれば冷蔵庫の中で卵パックのうしろに追いやられてしまいそうな丸ごと一本のヤツ。塊に残る歯形を隠しもせず、黒板の向こう側を見つめながら一心不乱に咀嚼していた。
「……なんだ、あれ」
だれにともなく呟く。扉を開けてすぐに座っているそのクラスの受付役が「さあ……? 朝、来るなりアレよ。ニオイしてやんなるなあ。槌田さん、オトモダチでしょう?」とか言うもんだから、槌田はそいつを一瞥し、わざとらしく机にバッグをぶつけてやってから中村の机に向かった。「コワーイ」なんて声が聞こえる。
「おーなっかむらァー。てめー朝からナニ食ってんだ」
もぐ、ごくん。
「……あら、槌田。早いじゃない」
もぐもぐ。
「もうベル鳴るぜ、中村こそメシ食ってる場合じゃねーだろ」
もぐもぐ、ごくん。
「……そんな場合、よ。これが……食べずにはいられない、的な」
もぐもぐ、もぐ、もぐごくん、もぐ。もぐもぐ。
中村は会話する間すら惜しむように、のべつまくなし食べ続けている。こんなことは今まで無かったし、中村の槌田に対する反応も、いつもより淡泊な気がする。
「朝、食わなかったのかよ? ヤケ喰いすると、あとで後悔するぜ。あたしもさーこの前あったじゃんミクラステーキの開店五周年のアレ皿の底にまだ肉が圧縮されてんの正気かよって」
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ、もぐもぐもぐもぐ。
中村は頷いて返事をしたように見える。ただ、咀嚼が終わらない、ハムスターみたいにずっと口をもぐもぐさせている。朝なら食べたよ。と目が言っている。だっておなかがすくんだもん。そう言っている。やがて全てが腹の中に収まり、たこ糸が口からずるずる出てきた。
ごくん。と喉を鳴らして、名残惜しそうに指をぺろりと舐めて、ようやくまた口を開く。
「……肉、食べたくて……しょうがないんだ……」
口を物欲しそうに開けて、中村が槌田を見ている。上目遣いでさっきまでずっと黒板を見ていたはずなのに、とろりとした目は槌田に焦点が合っていた。同性とかそういうの関係無しに――槌田にそのケはないはずなのだけれど「うわあ、すげえエロい……」と思わせた。
「……すこし、たべさ――」
手持ちぶさたになった右手をにぎにぎして、中村が口を開きかけた。そこで、鐘が鳴った。
「ん、じゃあ、またあとでな」
中村はなんて言おうとしたのだろうか。その瞬間目の色が変わった気がした。薄ら寒い風が吹いた。懇願する目が、獰猛な肉食獣の目に変わったような――。
「あ、そうだ――壺、ノート」
去り際に、中村はそう言葉を置いていった。それをはっきりと聞き取れなかったし、目は明らかに槌田を向いていなかったし、始業の鐘は鳴っていたから、槌田はそのまま教室を出た。
そういえば先週、中村は壺井にノートを貸していた。なんだ、あたしがいなくったってふたりはそこまで仲が悪いわけではないのだろうか。そんな風に思う。
――でも、いねえときは「壺」呼ばわりだもんな。
あさぎのクラスも覗いたが、その時、まだあさぎは来ていなかったように見えた。
ウザいけれど、槌田は壺井あさぎのことを気にかけていた。壺井をみていると、槌田はおてんばだった妹のことを思い出すのだ。世話を焼かすだけ焼かせて、二度と会えなくなった。
だから、あさぎがまとわりついてくるのをほんとうはやめさせたくて仕方がなかった。槌田は女々しい気持ちになんか、なりたくなかったから。勉強を見てやりたかっただなんて、後悔してる自分が心底嫌いになりそうだったから。
二限目の授業が始まる。
いけ好かないタッパのメガネ女が座っていない左側から日光がよくあたる。だから眠くなる。いや、左側だけでもなくやたらと教室がスカスカだ。体操着を着たクラス委員長の鷺沢が槌田に声をかけた。
「槌田さん、次、体育よ?」
「ああ。そっか」
「槌田さんは重いんだっけ? 休んどく?」
腹をさすりながら、気の回る委員長に返事をする。
「まあな、休んどくわ。行かなきゃ駄目か?」
「いいわよ、言っといてあげる。嫌でしょう?」
「ありやとー」
さすが話が早い。だが、鷺沢委員長は一瞬不思議そうな顔をした。なんだ、感謝の言葉なんて珍しい。鷲沢はそんな軽口を叩いても良かった。しかし、そうしなかった。月に一回くらいしおらしくなったってなにをか悪いことがあろうか。よく知らない委員長に軽口を叩かれたりしたら虫の居所が悪くなることだってあるかもしれない。だったら、触れてやらないのがオトナというものだろう。そう思ったのかもしれなかったから。鷺沢は一言だけを足した。
「保健室、要る?」
「いらね」
「そう、お大事にね」
槌田は鷺沢の社交辞令を聞いて笑みを返す。そのときはもう鷲沢は背を向けていて、友人と一緒に体育館へ向かうべく廊下へ出るところだった。
槌田を残して教室には誰もいなくなった。今日に限って、誰もサボらなかった。つまらない。愚につかぬ恨み言を側溝に流し込もうとしても、誰もそれを聞いてくれはしない。
「――ん」
そして、ふと気付いてしまう。
槌田紅実は今、こんなにもさみしい。
「――ばッからし」
スカートなんて気にせず、足を机の上にのせて、
廊下に吐き捨てずには、居られなかった。