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G チョコレート・ゲート/4

チョコレート・ゲート/4

 

 夢のように明るい通学路だった。電車でまどろむうちに、夢のようにおぼろげな記憶になってしまっていた。けど、先輩の白い指と不思議な言葉、甘い声、眠そうな目、緑青の髪、チョコレートの香り。そのすべてに愛された。片岡千代子はまさに、天にも昇る心地だった。

「ああ、世界が輝いているだなんて、ひどくバカバカしい言葉だと思っていたわ……!」

 昨日までは、家を出たとたんにその空気がいやなものに思えたのに。他人が吐き出した空気を峻別する方法をずっと考えていたのに。だのに今朝は、汚らしく臭い唾液を吐く隣家の駄犬すら些末な事に思えた。あの犬を呼吸できないようにしようとすら思っていたのに!

 甘い接吻がよみがえる。飄々とした、それでいて力強く響く声が囁く。昨日、先輩はどの駅で降りてしまったのだろうか考えているだけで胸が苦しくて眠れなかった。名前を呼ぼうとしても、教えて貰っていない昨日の愚かな自分を火あぶりにしてしまいたかった。

 片岡千代子は今までそうしてきたように、仮の家から孤独な一歩を踏み出す。しかし、昨日までの重く沈むような一歩ではない。世界が敵でも、どうということはない。

 決意と目的があれば、進む道は、こんなにも明るいことを知った。そうだ、今日は――

 

 ――先輩を捜しだし、名前を聞くのだから。

 

 

 千代子は自分でも、脳天気だったのだろうと自省する。昨夜の異様な出来事をもっと恐れるべきだったのだ。けれど、もはや後の祭だった。

「は……はっ……」

 千代子の中で情動が渦巻いていた、チョコレートの香りが辺りに渦巻いている。昨日の電車の中での先輩との情事やキスの時と同じ香り。そして、あの時にはじめて目覚めさせられた甘い劣情が千代子を支配していた。問題は、ここが自室でもなければ二人きりの車両でもなく、絶賛芋を洗い放題な通勤電車の中だということだ。

 ――これは、一体、なんなの。

 何がスイッチになってしまったのか、この香りは関係があるのか、劣情が先か香りが先か。電車の振動、自分の心臓の音、そして、無遠慮に千代子の体をまさぐってくる同乗者たち。

「――止しなさ……い、あ、もう……触らない、でッ……!」

 か弱い声は制止に届かない。耳元で「誘っているんだろう?」なんて囁く強者までいる始末だ。まったく、これだから男は汚らしいとばかりに睨め付ける。けれど、昨夜までの千代子ならその下顎に掌底が入っていたところなのに、いいようにされるがままだ。通学電車であるから、きっと見知った人もいるに違いないのに、誰も止めようとしない異様さ。

「~~~~~~~~ッ!」

 覚えたての千代子にまだ強すぎた刺激は、声にならない嬌声に変わる。正面斜めから胸の中にナマで手を入れ、千代子を自分に引き寄せていた男性はその声に我に返ったのか、足と体を横に退けた。支えを失った千代子は、その影にいた小さな同級生の上に倒れ込んでいった。

 千代子の体を蹂躙していたすべての肉が一斉に離れていった。その、倒れ行くほんの一瞬の間隙にぬるりと産まれたものがあった。いや、それはずっとあったものだ。刺激が失われることによって、空虚はその存在を自覚させてくる。寂寥。骨が、臓器が、脳が、体中を流れている醜い血の群が皮膚と粘膜がより強い刺激を求め「さみしい」と大合唱している。

「――か、片岡さんんんっ?」

 覚えのある声だ。千代子は淫欲に正気の殆どを支配されながらも気丈を装う。その声が言うがままに地べたに落ちた体を立て直し、浮かされた体温に散らばってしまった正気を、やっとのことでかき集めた。

 声をかけてきた少女はまだ倒れている。倒れた対戦相手に手をさしのべるのは道理だから、したがって千代子はそうした。少女は差し出した手を取ってくれない。

 ――早く手を取ってくださいな、ウスノロ。

 なんてすっとろい。ああ、これは昨日突き飛ばした同級生だ。だから怯えているのだろう。観察すれば、臆病を含んだ瞳に千代子の顔。そこには、今にも涎を垂らしてしまいそうな、だらしのない、しまりのない、とっくに溺れ果てた女の顔が映っていた。

 刺激を期待している、牝の顔が。

 乱れた制服が示すように陵辱に甘んじながら、嫌悪感を覚えていたはずなのに。昨日の、甘い情事を思い出しながら、どうにか耐えていたはずなのに。体の熱も、緩んだ口も、甘い匂いも、千代子が誰彼かまわず発情してることを証明していた。なのに、誰もこの体に触れてくれようとしない。あと、あとほんの一押しで、素晴らしい恍惚にたどりつけるはずなのに。

 ――先輩、ごめんなさい。

 焦らし上手がやっとその手を取ってくれた。期待以上の電流に手先がしびれる。その磨耗は瞬時に分裂し、千代子の体の中で繁殖する。耳、鼻の奥、首と肩の境目、背骨に沿った内側の線。すべての神経をかじりながら、千代子の奥を侵略し、やがて発見した未踏の鉱脈に、見境も容赦もなくその鋭いくちばしでもって、楔をしたたかにうちつける。

 千代子は腕の中にその小さな肉を抱きしめる。抱擁せずには、体の中で次々と噴出してくる情と熱の逃がし場所を見つけることができなかったから。その逃がした場所は、何故か、よせばいいのにまた強く千代子の体に刺激を与えて、安寧に満ちた呼吸すら許さない快楽の連鎖を容赦なく産み落とし続ける。

 チョコレートの香りが、一層強くなる。痺れる思考のどこかで、追いやられた理性が現状を把握しようとする。その健気な考察は、いつ強烈な刺激にかき消されてしまうかもしれなかったけれど。このチョコレートの香りは、先輩がさせていた香りは、キスした時に流し込まれたこの香りは、まるで自分の体にその居を移して、こんなにも、自分の体を、世界を作り替えてしまったようではないか、と。

 自分だけではない。衆人が、サラリーマンが、老婆が、クラスメイトが、この異常な靄に影響されて、浮かされた目をして、粘つく視線で千代子を舐るように眺めているような、そんな視線を体中に感じて、千代子の体は快楽を求めて痙攣を続ける。理性は影に隠れて、ずっとそんな自分の体を俯瞰している。こんな体にしてしまった先輩のことを思い浮かべている。

 ――こんなに心地よいのだから。ああ、この腕の中にいるのが、このちんちくりんではなく、先輩だったら、どんなに、どんなにか幸せだったろうか。どんなに心おきなく貪ることができていただろうか。歯を食いしばって耐えたりせずに、舌を差し込もうとしただろうに、邪魔な衣服なんか、脱がせてしまってくれとお願いしていただろうに。

 

「片岡さんんん、大丈夫だからねえええ。もうすぐ駅着くからねええええ」

 

 やさしく頭を撫でられて、先輩を幻視した千代子は絶頂に達した。

 

 やがて、聞きなれたアナウンスが流れる。抱き合う二人の同級生をよそに彼女たちは、千代子のただならぬ様子に声をかけられぬまま、たまたまそばにいた学友同士、その様の怪しさについて歓喜と羞恥と興味を混ぜてささやきあいながら車両から降りていく。同じく熱に浮かされたものたちも、自分には関係がないことだと言わんばかりににやけた笑いを浮かべながら。

 戸が閉まるすんでのところで壺井あさぎが降りていく。その手の先には、根の生えたように動かなくなった千代子が半ば引きずられるようにして、どうにかホームに倒れ込んだ。

 恍惚のさめやらぬ頭で、あふれ出した粗相を吸い取りきれず不快をもたらす下着を認めながら、片岡千代子はぼおっと考えている。あんなに快楽をむさぼったのに、まだ消えぬ疼きを治めるためにどうすればいいものか考えている。

 

 飲みきったはずのトマトジュース缶の内壁にこびり付いた果肉をこそげとる方法を、

 ずっとずっと考えている。

 

 

 理性と魔力をたらふく吸った靄が、千代子の中に帰っていった。

 黄色い線の内側に、雫が落ちていく。