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E パーニシャス・パープレックス/1

パーニシャス・パープレックス/1

 

 中村紫乃は、最近やたらと腹が減るのだった。

 腹が減るということはエネルギーを使っている証拠で、良い代謝が自分の身体で起こっているのにまず間違いないはずだ。しかし、どうも力が余りすぎてている。うたたねした二限目には、マーカーを二つに折っていた。そんなところに回されるなら、もう少し出るところが出てきても良いだろう。と、男装とも見まごうばかりの自分の身体のラインに悪態をついてやる。

「ふん、ちゃんと餌やってんだから。頼むわよ」

 言ってからもう一言付け足す。

「……ほどほどにね」

 本気で悪態をつくほど、紫乃は執着があるわけではなかった。ただ、食事と言う行為に必要性を感じていない以上、効率の悪い行為に金銭を費やさせられるのが癪に触っていた。

 腹が減るのはここ最近のことなのだが、なにが原因かはよくわからない。部活はおろか、スポーツを自主的にやっているわけでもない。生理周期とも特に関係ないような気はしたが、データを取っておく必要はあるかもしれないと紫乃はぼんやり考えていた。

「――牛丼、ねえ」

 紫乃のまなざしは駅前の牛丼チェーンの店内に注がれていた。ワイシャツの前を開け、髪の色を抜いた汗臭そうな男子高校生たちが、牛丼屋の一角を支配している。

「――食べたいなぁ」

 そう、嗜好も変わってしまった。なにしろ肉を食いたいのだ。牛・豚・鳥・羊・兎。血の滴るような新鮮な肉にかぶりつきたい。数週間前はビスケット栄養食を囓り、昼休みが終わる前に塩飴を一つ舐めればそれで何もかもが足りていたのに――。

 しかし、女子学生の身空でひとり牛丼チェーンに入ることなど出来るはずもない。いや、気にせずに入る同輩がいることは知っているけれど、紫乃のような性根にはいささかハードルが高い。なにより――本当に欲しいのは、そんな紛い物ではないのだと、紫乃の体は叫んでいた。

「やっぱり、一緒に帰れば良かったか……」

 後悔先に立たず、早めに別れた友人の顔を思い浮かべる。

 ――槌田紅実。あのきっぷのいい同級生となら、牛丼屋だって気楽に入れただろう。けれど、こんなくさくさした気分の時に、彼女のオマケと一緒に居たくなかったのだ。そう、壺。壺井あさぎなんて名前はあるが、あんなちんちくりんは壺呼ばわりで充分だ。やかましいしうるさいし空気は読めないしで、いちいち癇に障る。紅実の手前、友達付き合いを装ってはいるけれど、言葉を交わすほどにストレスがたまる。

 先々週貸したノートだって今日も返ってきやしなかったのだ。二週間もの猶予は必要なく、二時間ばかり教科書とにらめっこすれば、誰にでも達成できる簡単な課題なのに、あのツボは「ええええええ、こんなのむりいいいいいねええええええシノちゃんんんんん! たっすけてえええええええええええ! ど―――せおわってるんでしょおおおおおおおおおお!」と。

「あ――――ッ! もう! あンの!」

 その甘えた態度におぞけを感じて、とうとう我慢出来ずにいつもの通じぬイヤミを通り越して、一発体に教え込んでやろうとした時、ふと紅実が不思議そうに見ているのに気付いて、毒気を抜かれてしまったのだ。ポケットから取り出した懐中時計は、予備校の始まる時刻が近いことを表していた。

「コンビニ――かなあ」

 時間がないからダメなのであって、牛丼屋に入れないからじゃない。と何を説得したいのかわからない言い訳を呟き、紫乃は予備校方面の電車に乗った。

 

 

 甘い匂いで、目が覚めた。

 中村紫乃は端の席の無機質なパイプに寄りかかって寝ていた。紫乃の通うターミナル駅の次の駅は、それまで乗ってきた乗客ががらりと変わる人の少ない区間だ。

「あれ?」

 しかし、この時間に人の気配がしないのは異常だった。右を見る、隣の車両には人がまばらながらも居る。この車両にはなぜか自分だけ。左の車両が最終車両。そこには――。

「――――うぇっ?」

 目を疑った。ついでに正気も疑った。コントかマンガみたいに目をこすって二度見した。それでも気の迷いでもまやかしでも、いかがわしい映像作品のゲリラ撮影でもないらしかった。

 少女がくずおれていた、その横で黒いセーラー服の少女がくずおれている少女のスカートの中、その柔肌に手を――差し込んでいる。

 うわ、ヤバイ。ヤバイ。ヤバイってえ。と三回繰り返す。好奇と興味の色が薄まっていく。何度繰り返したって、電車の中で繰り広げられているのは、あからさまな女性同士の濡れ場であった。紫乃が何度頭を回転させても、ラブホテルに迷い込んだわけではなさそうだった。

「だ、誰か、」

 人を呼ぼうとして声が止まる。確認のためもう一度。ドッキリだったらコトだ。余計な事というやつを紫乃は嫌うから――なんというか――同意の上だったら、まあ、不干渉ってやつを貫いても良いんじゃないかという日和見的な考えが、紫乃の思考を支配しかけていた。

「……あ、れ、片岡……?」

 黒いセーラー服でない方の少女がくったりと頭を上にあげた。槌田紅実の隣という至極羨ましい席にいる同級生。いつも彼女と位置を替わって欲しいと願っているが、そんなワガママが通らない事も紫乃はちゃんとわかっている。にもかかわらず、あからさまに紅実を避けている彼女を、やはり紫乃は好きにはなれなかった。

 だが――。それにしたって特に個人的な恨みがあるわけではない。どこの制服とも知らぬ黒塗りの少女に――その――イタズラされて人事不省に陥った同級生を、他人ならいざ知らず、放っておくのも人の道に反するように思えた。

 それに、どういう理屈か人が入ってこないこの二車両に助けを呼び込み、同級生が晒しているこれほどの痴態を衆目に晒すのも気が引ける――。できるなら、穏便に。穏やかに。

「――よし」

 紫乃は当該車両に乗り込み、黒いセーラー服に、思い切って声を掛ける。

「ちょ、ちょっと、あなた! それあたしの、その、えっと友達なんだけど――」

 どうにも間抜けな名乗りだが、勢いを付けて紫乃は続ける。

「あなた、何――?」

「――――ン?」

 紫乃はその光景が纏う異常さに、声を掛けたことを後悔した。やっぱり余計な親切心など出すべきではなかった。黒いセーラー服の目は普通ではありえないほど不穏な眼光を湛えていたし、髪の毛は黒だと思って近寄ってみれば深い緑色をしていた。

 ――イカれてる。

「キミをマネいたオボえがない――!」

 そう大仰な、海向こうの人みたいに大仰なジェスチャをして、緑青の目がぱちりとひとつ瞬くと、その鮮やかな目の色は落ち着いたように見えた。

「――あ、あんた何、鉄道警察がすぐ、来るからね! 大人しくなさい!」

「オビたえいのはこっちだよ! キミ! そうか、キミはカレのコレだろうか? あはは! ボクはこの遊びに興じすぎたのか! 油をダンじたのか! それともキミ――」

「え、ええっ? なに、なにあんた!」

 黒セーラーはひょいひょいと紫乃の周りをスキップして、意味の取れない言葉を紫乃に投げつけ続ける。どうやらその言葉は投げつけることだけに意味があるのか、紫乃に意味が取れるような内容ではないことを察する。

「そういうの、イライラするんだけど! その子になにしてくれてるのよ!」

「キミは――、カレのナニになるのかなあ!」

 すこし烈しくなった言葉にも怯むことなく、朗々と黒セーラーは跳ねる。

「ナニって……なんだろ……ああ、クラスメイトよ! クラス違うけど! 同学年の!」

「そうか! いい、それはカマわないよ! 蛍雪のともがらもきっと麗しいだろう! でもね、ええと、キミ! キミの名前はなんだったかな! そう! そんなことよりボクの気になるのはそんなことじゃない! ああ、この線を、枠を、どうしてニジることが出来たのか――!」

 黒セーラーは一歩下がる。静かに響く声だけれど、でも明らかに叫び騒いでいるこの車両に、二つ向こうの車両は気付かない。それどころか、あれだけの乗車率なのに、誰ひとりとしてこちらに移ってこようとしないし、気付こうともしていないようだった。

 そういえば――駅は一つ通り過ぎて、紫乃の降りる駅は過ぎている頃合いのはずなのに、まるで駅が無くなったかのように止まらない。

「な――なんなの――……ここ、どこなの?」

「キミは知らずにその足を踏み込み、険をオカさずにはいられない毒にアタるのかな! コクるのみだ! 石橋はタタくものだ! コワしちゃいけないけれど、慮るまでもないからね!」

 黒セーラーの隙を突き、紫乃は片岡の横たわっている座席の傍へ駆け寄り、声を掛けた。

「片岡ッ! 起きてよ! 逃げるよ! ほらぁ!」

 片岡は、肩を揺さぶっても起きる気配はなかった。紫乃は舌打ちを一つ。長身の片岡を背負って逃げるのは難しい。肩を触った手がしっとりとした。

「冷たっ……うわ、汗? すごっ」

「カレはずっと、気をやっているから! ものすごいミダらだった! トロけるくらいに!」

 気をやる。とはなんだ。最初に見たあの光景。スカートの中に差し入れられていた指――。

「あんた――、な、ナニ? 色情狂ニンフォマニアかなんか?

 紫乃は怯えを覚える。相手がひとりで、女子学生で、だから自分と対等だろうなんてとんでもない。少し頭が弱いのだろうと判じ、どうして後一歩踏み込まなかったのか。そうすればあの言葉に辿り着いたはず。「紙一重」だ。常人のあずかり知らぬところで音もなく巡る強靱な線。

 紫乃はそれの正体を知っている。――狂気。

 紫乃の喉が、口腔に溢れていた唾液を飲み込む。 

「あはは、キミはなぜトドまっているのかな――! なぜ、わざわざ声を掛けたのかな――! どうして――ボクの心臓に杭を突き立てなかったのかな――――!」

 黒セーラーは笑っている。指の銃で自分の胸を指している。もう片方はポケットに。

「なに言ってるの、あんた、おかしいの?」

「――学校ではナラわないのかな! 先手必勝!」

 その声に呼応し、突然、紫乃の目の前がぐにゃりと歪んだ。

「――うわッ!」

 跳ねて、後ろに跳び、尻餅をつく。

 黒セーラーが二人にふえて、世界が虹色に歪んでいた――ように見えた。

 ――が、紫乃にはすぐにネタが割れた。何のことはない、ただの石鹸水の膜が張られただけのことだ。デコピンで目の前の膜を割ると、黒セーラーは駄菓子屋で売っていそうなシャボン玉セットを持って笑みを湛えていた。

「ほうら、やっぱりカクしていたじゃないか!」

 カンに触るしゃべり方だ。おちょくられているようで、気分が悪い。

「あんた――何者?」

「――? キミと、同じだよ!」

「……あんたみたいなのと、同類になった覚えはないっ!」

 紫乃の左手は自分のバッグの中に差し込まれ、催涙スプレーに辿りついていた。

 紫乃の計画はこうだ。やたらと長い駅間距離だけど、どこかで必ず止まるはずだ。その時にこの化け物に、これを吹きかけて、人を呼び、できれば片岡を連れて開いたドアから逃げる。

 逃げられなければ、この黒セーラーが、一線を越えないのを願うしかない――。

 シャボン玉が二人の間を横切っていく。

「なるほど、瓦斯ガスか! それとも柑橘シトラスの風景をトドけてくれようとしてるのかな!」

「なっ――!」

 バレている。いや――、そんなのはハッタリだろう、推理の範疇だ。しかし、油断を討ち取れなくなったことに、紫乃は歯がみをする。

「キミのほうが利しているだろうに! 乙女のようにオビえをカクさない! なぜキミはサソうのだろう! なぜ石をマモらないの! そんなにチヨコがキラいなのかなあ!」

 紫乃はその物言いに違和感を覚える。片岡の名前を知っているらしいこともそうだが、それだけではない。もはや違和感なんて概念そのものが黒いセーラー服を着ているごとし目の前のこいつは、しゃべるほど、何かを勘違い――紫乃と黒セーラーとの間になにかの共有情報があるべきものとして話を進めているような気がしてならない。

 そして、この黒セーラーはそのありもしない共有情報をこそ、怖れているのではないか――。

 喉が鳴る。

 紫乃は口角を片方だけ上げる。

「ほら――なんで、やっちまわないのかなって。そいつ」

 そして、精一杯悪どく演じる。とにもかくにも情報が欲しい。まったく駅に着きそうもないこの列車と、無様な片岡と、それらの原因であるのだろう黒セーラーとを繋ぐものは、一体全体、何だというのだ。

「――ボクも策を失うことはあるから!」

 自嘲だ。そこで紫乃は察してしまう。わからないけれど、想像できてしまう。

「そんなのって、さ――勿体ないじゃん」

 紫乃は自分の適応力に、柔軟な思考に感謝する。こんな状況を待っていたと言わんばかりに脳が働く。謀るときは、相手の智慧を量るべし――。思わせぶりな言葉で、思わせぶりな言葉を引きだして、推測しなければならない――。

「ボクが捨てる神なら、キミはヒロうつもりかい! あはは! ボクができなかったことを、キミがギョするのも、悪くないだろうね! 今のボクにキミをトドめるのはできないから! あはは、なにせ捨てたばかりだから! ミチていないのはイナめない!」

 ビンゴ――。

 ヤツは後ろに下がった。この黒セーラーは怯えている。紫乃は奥歯を噛みしめる。――しかし、それがわかったところでどうする? 紫乃にこの異常者を追い返し、安全と平穏を取り戻すだけの力は催涙スプレーにも、紫乃本人にもありはしない――。

 ――ないなら、そう見せるまで。

 紫乃は不敵に笑う。これは虚勢だ。こめかみをズームさせてみれば冷や汗が流れているし、くるぶしは震えているし、胃の内壁は酸で爛れてしまっているのだ。

「はン、あなたが捨てた物を、どうしてあたしが拾わなきゃいけないのよ――」

 それでも、強がる。

「あはは! まったくその通り! そしてボクをネラう! 正しいよキミ! この土をニジるキミの方が明らかにウバうに長けているだろうからね!」

「そうよ、判ってるじゃない。おとなしくなさい――!」

「でもさ、キミ――それでは腑にラクさないだろう!」

「なにが、よ」

「なればこそさ! ボクは不意打ちにサラされていなければならなかった! キミがボクを見ノガす理由はどこをサガせばシマってあるんだろう!」

「――それ」

 未だに起きやしない片岡を指す。

「あはは、そうだったね。キミとカレのなかだちにトナえたい暗がりもあるけれど! それはボクを説くに相応しい!」

「わかったんなら、さっさと」

「あはは、キミは気付いているんだ。ボクらが恐れをイダいているのを!」

「じゃあ、おとなしくあたしたちを解放しなさいよ……えっと、それで、見逃してあげる」

「……キミは望みをシッしてる! ハイってきたときと同じようにするだけなのに!」

 後ろがない、と断じている割に、この黒セーラーは退かない。有利なものが攻めてこない所に疑念を抱いているのだ。それは当然のことだ。しかし、紫乃はそこを判断できてしまうこの女に、恐怖とともに、敬意が産まれてくるのを知る。

「人が欲しい物に、興味なんて、ないから」

「―――――そうなんだ!」

 アハハと、そこで笑う。紫乃はたじろぐ、選択肢をわずかばかり違えたと感じる。彼女は素直に引き下がらずに、理由をまさぐってくる。

 攻め方を変えるんだ、紫乃。と自分に言い聞かせる。そして煙に巻いてしまえばいい。誰しもが望むものを想像しろ。誰しもが望むだろう価値、そんなもの――アレしかない。

「……そうね、じゃあこれくらい、出して貰おうかなァ」

 精一杯悪い顔を作って、あくどい声で、指を三本立てて、黒セーラーの前に振りかざす。

「――んっ」

 黒セーラーの鼻が、すん、と鳴った。もう一押しとばかりに紫乃が続ける。

「これだけ出せば、見逃してあげるって言ってるのよお?」

 鼻から抜ける甘えたような声を出してみる。ドラマでだってきょうび遭遇できやしない化石みたいなセリフに反吐が出そうだった。これだけ自分を捨ててるんだから、通じて欲しかった。

「――――なんだい、それ」

 黒セーラーは語気を弱めて紫乃に尋ねる。紫乃はそれを、脈ありと――、黒セーラーが交渉のテーブルについたのだと勘違いしてしまった。

 そう、これなら。これは常に価値であるはずだ、と。狂っても、落ちても、いつなんどきでも『これ』を要求しておけば、理由として成り立つに違いない。と――思ったんだ。

「なにって――わかってるんでしょお? とぼけないでよ。オカネよ。お、か」

 最後まで、紫乃はセリフを言えなかった。

 彼女たちが棲むのは、そんな世界ではなかったのだ。

「――あははははははははっ! それはダメだよ、キミ!」

 紫乃の顔が凍り付く。不吉な哄笑に気圧されて蹈鞴を踏んだ。

「え―――――」

 頬の横を線が通り過ぎていく。一瞬後に、牧場の土がごとき味がした。バッグを盾にすると、緑色の線が頭を逸れながら走り、持ち手が切り裂かれていった。

「ひッ!」

 悲鳴とともに、バッグが床に落ちた。そこが紫乃の限界だった。悲鳴なんか上げてしまってはいけなかった。それは、さっきからずっと怯え、恐怖に晒されているのが紫乃のほうで――、目の前の得体の知れない黒セーラーに対抗する手段なんか、なにひとつ持っていないことを、証明してしまっているのだから。

「そんなものをヨクしてどうするの! キミのノゾみはそれで購える些細ではなかった! どうしたのかな! もしかしてキミ、まだ、気づいてないんじゃないか!」

 地面に刺さった緑色の枝が巻尺のように戻り、再襲。

「ッ……、砂……?」

 埃立つ地面を転がり、砂にまみれながら紫乃は考える。ここは、電車の中では無かっただろうか。なぜ、太陽の恵みを受け、バクテリアの巣になっているような豊かな土と草の香りが鉄と埃の替わりに充満しているというのか――。

「言っただろう! クギったばかりのボクも、気をアラげずにはいられないんだ!」

「――なんっ、なんなのよおっ!」

 もはや、そこは電車の中ではありえなかった。緑色の草原、緑色の木々、森、水のせせらぎ、遙か彼方に揺らめくエメラルド色した中東風情の王宮、太陽も照っていないのに燃えるごとく山吹色に輝ける空――。

「何って――! あはは! そうか、まだこれがなんなのかもワカらないんだ! ハイれどもノガれらないのはどんな気持ちだろう!」

 絵空事の如き異様な風景画の表面で、紫乃と黒セーラーが死の舞踊を舞う。緑色の線が次々と飛んでくる。それは明らかに紫乃を刺し殺すために投げられてくる凶刃――。

 そのはず、なのに。

「――遊んでるの?」

 紫乃はそれらを軽々と避けながら、小学生の時のドッジボールを思い出している。体力バカな男子の球ほど避けやすい。思考が漏れてくるから。それでも、パスを回されれば意識が逃げるから当たってしまう。同時に、どうしても自分で当てなければ気が済まないヤツの球は直線的で読めてしまう。

 今、紫乃を襲っている殺意もそんな様だった。

「あはは、キミもハヤい! こんなボクのザマをみてワラうかい! でも、籠にトラわれているのはどちらだろう! ボクの籠もクラぶるべくもなく脆いけれど! 牙なき獣はどちらが泥をススるだろうか!」

 そう――黒セーラーの言うとおりだ。ジリ貧。さっきの異様な車内でもそうなのに、この異常な空間はどこが出口なのかすらも判らない。喩えるなら絵画の中、どこともわからない地平線が永遠に続いているのだろうという感覚。目の前に何度となく迫る緑の凶刃よりも、その果てを見せぬ世界の方が紫乃の理性を蝕んでいく。

「しぶといねえ、キミ」

 焦れているのだろうか。黒セーラーはずっと笑みを絶やさない。意外そうなイントネーションを含ませて、緑色の線を自らの傍に戻していく。それら幾条もの蔦が彼女のスカートの中、襟袖の暗がりから生え、それぞれが意志を持っているようにうねうねと蠢いている。それぞれの動きを把握しようとすると、たちまち気分が悪くなってくる。

「――気持ち悪、ッ」

 悪態に無言の笑みが返り、その直後に蔦が舞う。植物かどうかも判然としないが、高速で空を切る縄跳びのごとき悲鳴を纏って、紫乃に襲い来る。

「――――はッ!」

 右手を地に付け、服が土に塗れるのも構わず気合いを入れて回転し、避ける。

「見かけに寄らないのかな――! キミみたいな枠にはカタいはずのことじゃないか!」

 それはきっと、殺す為の、息の根を止める為の一撃だった。紫乃にだってそれはわかる。なのにそんなものを避けられるのが紫乃自身不思議だった。

 顔を守るために右手を前にする。すぐに次撃は来た。

 ――見える。

「こっちッ!」

 さっきよりも速い一撃を、さっきよりも楽に避けた。地に付けた右手から熱を感じる。

「……ん?」

「……これはコマってきたね! ボクのそのトボけが偶さかであることをボクはネガうよ!」

 今度こそ苦虫を含んだような声色。けれど表情は変わらず笑みを湛えているし、攻撃の手は緩まない。――どころか、いっそう苛烈になってくる。いつ、討ち取られてもおかしくはない。

 ――なのに

「お、遅いッ!」

 紫乃は右手をかざし、果敢に言い放つ。嘘ではない、まったくもって遅く感じる。目の前の空気が――かざした右手の周囲が重く歪んでいる。この重みと歪みが、自分に利をくれている。右手が軽いのか――右手以外の世界が重いのか――。

「――はは――なんか、いけそうじゃない? これ、楽しくなってきちゃったかもっ!」

「これはもはや、タタえるべきかなあ、キミ!」

 少しずつ理解が及ぶ。右手だ。この右手が――目の前の黒セーラーに打ち勝つ力を持っているんだ。どうしてこんな力があるのはわからない、まるでマンガみたいだ。

「けど」

 とっくに、マンガみたいな状況なのだ。ならば、マンガみたいなこの状況を理解していかなきゃならない。物理の問題と同じだ。現実世界ではあり得ないことでも、そこにある定義の存在を疑っちゃいけない。観察されたことは、まごうことなき現象なのだ。

「意味を、考える――!」

 まずは現象。右手をかざすと遅く見える。実際に遅くなっているのかは判らない。けれど、この右手がキーなのに間違いはなさそうだった。

「あはは、余裕そうだね! キミ、スクわれないように!」

 黒セーラーの軽口。彼女自体は動かずに両の手をぶらぶらさせたまま、周りに侍る枝と蔦の群れを縦横無尽に操り、紫乃の心臓を突き刺そうと差し向けてくる。

「はっ」

 避ける、避けていける。避けるだけならもう簡単でかすることもない。あとは、この状況を打破しなければ根比べになる。そうすると、紫乃が隙を突かれて負けてしまうだろう。

 ――考えるんだ。

 右の拳が呼応して熱を持つ。パソコンのCPUみたいなものだろうか。紫乃は必死で考える。なにかの演算をこなしているから、自分の処理能力が高くなったりしているのだろうか? 

 ――この右手が、空間を歪ませているとしたら?

「――じゃあ、さ。試験テストしてみよっか

 紫乃は実験を志す。実験とは、自然現象から導き出される仮定を現実に移して追認してみせる行為だ。その繰り返しで人類はここまで発展したことを、紫乃は知っていた。

 ――この右手は。

「いくよっ!」

 黒セーラーが目を見張った。そのタイミングを紫乃は見逃さなかった。僅かばかりの油断があったかも知れないけれど、紫乃の決断は間違った物ではないと確信する。そのままあるじを守るように突き出された長い緑の指、その一つに右のかいなを叩きつけていく。

「――――うひゃ」

 黒セーラーの悲鳴――。悲鳴かどうかはわからないが、余裕の笑い声ではない。紫乃の右手が触れた枝は、触れた場所から破裂して消えた。正解を選んだ手応えに紫乃は昂揚する。

「――いけるっ、命乞い、しろおっ!」

 実験は成功した。想像通りのシナリオに沿った結果を得た。気の大きくなった紫乃は、形勢逆転を目指して上から目線の言葉と拳を振りかざし、敵につっかかっていく。

「――あはは! これはやられたなあ! こうまで耐えたキミの盃! なんてことだろう! でも、これ程のサカしらにボクをくれてやるのを佳しとするわけにいかないよ!」

 だが、黒セーラーの口から漏れたのは命乞いではなかった。

 そう、仮に、紫乃が戦い慣れていたら。人智を超えたひらめきを兼ね備えていたら。車両を移る時に右腕が呈したサインに疑問を抱き、そこに辿りついていれば。紫乃自身が立っているまやかしの地面にその拳を突き立てることで、黒セーラーを止めることが出来たかも知れない。

「――ツイえたね! ボクの勝ちだ!」

 だが、今度こそ黒セーラーが早かった。早かったというよりも、準備が整ってしまった。

 黒セーラーの全身に向かって、紫乃を取り残したまま世界が収斂していく。

「――あ」

 紫乃は目の前で畳まれて行く世界――さっきのシャボン玉のトリックとは違う現象だ。折り紙で丹精に作った箱庭を、赤ん坊が握ってくしゃくしゃにする。

「しまっ……」

 ――逃げられてしまう。

 そう直感できた。なんてことだ。勝てるはずだった。ここはきっと「勝たねばならない」ポイントだった。奇策は二度と使えない。彼我の戦力差は埋められない。もし、もう一度やりあったら、自分はきっと負けてしまうだろう。逃げられてしまうならば、せめて、いまの状況を少しでも頭に叩き込んでおかないと――。

 だが、それは駄目なあがきだった。演劇舞台は全てポリゴンテクスチャの切片になってかさぶたみたく剥がれ落ちていく。摂理の切り替わる瞬間、根源の恐怖が束になって免疫のない紫乃に悪夢の形を借りて襲いかかった。

「あ、あああ、ああ――――ぎ、ィ――――――ッ!」

 視神経と脳のキャパシティが焼き切れた。声を出すと精神が軋んだ。その隙間に潜む深淵の子すべてが、紫乃を一斉にのぞき込んだのだ。体内の水を一気に水銀に置き換えられたような概念や常識なんて拠所が丸ごと裏返る感覚に、紫乃の意識は耐えきれずにロックした――。

 

 

 錯乱から醒めると汗だくだった。荒い息をしながら床にへたり込む紫乃の前に、ブラウスの前をはだけ、スカートをめくり上げられたままの片岡千代子がむずがっている。

 床も天井も外の景色もいつもの車両。隣は無人だが、二つ向こうの車両には人が確認できた。

「……なに、これ」

 紫乃は片手で頭を抑え、申し訳程度に片岡の服を整えてやる。右手の熱は、とっくに治まっていた。あれはなんだったのか。生きていることとか神にでも感謝すればいいのだろうか。

 片岡は起きなかったし、さっきの黒セーラーもどこにもいなかった。ずいぶんと長い間乗っていたはずの電車は、いつのまにか進行方向が逆になっていた。時計は一時間ばかり乗っていたような針を示していて、紫乃をさらに絶望させた。

「――遅刻だわ、こりゃ」

 紫乃はうんざりして鼻息立てながら寝ている片岡を見据え、語りかける。

 「ねえ、あんた、なんなの。あれはなんなのよ。あんた、なんてものに引っかかったの? 宗教? 返事なっさいよいつまで、――なんで起きないの――起きないなら―――――食」

 紫乃は、無意識に片岡の頬に手を伸ばしていた。そこが柔らかくて美味そうだ、と――。手と同時に喉笛に口を持って行きそうになっていた。肌に手が触れ、すんでの所で正気に戻った。

「え、なに……あたし、え。やだ」

 紫乃が自分の口をその手で押さえていると、駅に着いた。

 駅につくと車両に普通に人が乗ってきた。隣の車両からも人がなだれ込んできた。「あれ、今日は空いてんなあ」なんて暢気なスーツ男性の流れを、持ち手の切れたバッグを小脇に抱えたまま強引に遡り、片岡を置きざりにして、歯を震わせながらホームに降りた。

 紫乃は傷だらけの前衛的なバッグを抱えたまま、ふらふらとベンチまで辿り衝き、くずおれる。バッグを力一杯抱きしめる。中の小さな弁当箱の角が腹に食い込む。腹が鳴いている。さっき遭遇した異常と、今紫乃を襲っている異常が、紫乃の不安を増幅してやまない。

 

 ――あんなに怖い思いをしたのに。

 ――こんなに、こんなにも、腹が減っている。