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D チョコレート・ゲート/3

B 真田瑛子 E 片岡千代子 9 チョコレート・コレクト

チョコレート・ゲート/3

 

 夕焼けに照らされても、先輩の髪は緑色を湛えていた。

 

 二人は手を繋いだまま電車に乗る。夕焼けが背中を押す。電車はさほど混んでいない、サラリーマンの帰宅ラッシュの前、学生の帰宅ラッシュを半ば過ぎた時間。端の三人席を見つけて、先輩は指をさす。電車の中はじっとりと暖かい。絡み合った手が汗ばんでいる。

 千代子はその提案を「立っている方が好きなんです」と拒む。両の足をすこしはしたなく開いてしまっても、つり革も、手すりも掴まずに立たなければ耐えられない。手で触れる場所に誰知らぬものが触れていた――。それを想像するだけでも、さっきまでは消し飛んでいた怖気が戻ってきそうだったから。

「あはは、ワカって欲しいのかな! じゃあ、毒をヌグってみようじゃないか!」

「……なんて仰いました?」

 出会いたてだからだろうか、この先輩の言うことを十全に理解するのは難しいと千代子は感じていた。けれど、他の人に感じるような不快を伴わなかったから、千代子はまるで友人が居たらそうするように、ぶしつけとも取れる態度で聞き返す。

「ボクが先にスワるんだ! キミがボクをコバまないなら、ボクがスワったあとなら綺麗になるんじゃないかな!」

「そ、そうでしょうか……」

 千代子は愛想笑いを浮かべながら、心中で尋ねる。先輩、それは論理がおかしいのではありませんか。いくら先輩が座ったからといっても、それはそれまでにあった汚れを無かったことにはしないのではありませんか。

「あの……私、触るの苦手で」

「肉もキラうのかな!」

「肉? ええ、肉は、想像してしまうので……苦手です」

 あの時から、肉も嫌いになった。

 家の冷蔵庫の中にあるものですらも、だ。それ以前にスーパーで並んでいたこと、その買い物カゴ、業者の倉庫、海や牧場で生きていたそれぞれ、排泄口と同じ汚れた穴からひりだされるもの――それらのことを考えるだけで、こみ上げてくるのは嫌悪感ばかり。火と石油を纏わせればどうにかなった。その有り様が千代子の今の居場所を奪っていたのもあった。

「そうか、それは――クルしいだろうね!」

 でも、それらのことは今までの千代子を責めはしなかったのに、今それを尋ねられることで、心配をされてしまうことで、千代子の気持ちはぐらりと揺らいでしまう。

「……す、すみません」

 そんな言葉が出てくる。

 気分がすこし悪くなって、千代子は一歩退いて、口を手の甲で押さえて頭を下げた。頭痛がしていた。ハンカチを出すべきか考えていた。先輩はそんな千代子の性質を、まるで前から知っているかのような落ち着きようで「大丈夫?」とおためごかしの声すらもかけず、笑みを湛えた冷たい声を上から千代子にかける。

「あはは、そんなに心クダかないで! ボクはキミでタノしんでいるんだけど、キミをガイしたいわけじゃないんだから! コワがらないで!」

 先輩は千代子の手を解き、誰が触ったともわからぬ銀色の手すりに寄り添い、重力に逆らって踊るように重心を動かし、空きの目立つ三人席の端にささやかな臀部をスカートを挟んで乗せる。背もたれにも体を預ける。いずれも、だれ知らぬ人間が触れたものだ。

「大丈夫さ、ほら」

「……で、も」

 にやり、先輩は天井を向いて笑う。先輩の誘いに応えられない千代子はばつのわるさを隠すようにその視線を追う。今の季節には動いていない扇風機が天井に備えられている。吊られた広告には下品な呼び文句が連なっていた。

『真夏の肢体、罪にまみれたメロンカップの独白!』『今こそ元高級官僚側近が明かす、アメニチュア製薬との癒着!』『浅野連続失踪事件12のナゾ!』『ナス大高騰で、泣く農家と主婦! ナマの声!』『満開! 爆脱! 花盛り! あの少女モデルが人生初ヌードを披露!』

 吐き気のする文言が群れをなして襲って来て千代子は眉をしかめた。きっとこの雑誌には隣の席に集まる脳天気な級友たちが好きそうなゴシップと悪意に満ちた文字と映像がいっぱい詰め込まれているんだろう。考えることすらも、いやでいやで仕方がない邪悪だ。

 なのに先輩は無邪気に問いかける。

「好き?」

「え、私ああいう下品な記事は……」

「あはは、目が焼けそうじゃないか!」

 先輩に視線を戻すと窓の外を見ていた。そこには、焼け爛れた空と雲があった。

「あ、そっち……ええと。その、あの……日が落ちるのが早くなりましたね」

「ヌードかな」

「は、えっ?」

「あはは! キミもあんなものに興味があるのかな! お年頃だものね!」

「そ、そんな……っ! ことっ……! 誤解です!」

「カマわないさ、ほら、キミはそんなにいろんなものをキラわないでもいいんだ。おいで。ついさっき好きになってモラえたボクだってそうだ。チヨコがネガっているよりも、もっとずっとキタないものでできているんだよ!」

「そんな、先輩は美しいではありませんか……!」

 心持ち強く言葉が出た。

 そして電車は急ブレーキ。何にも掴まれないチヨコは慣性に捕まってしまう。

「きゃ……!」

 ふわっと、重力が無くなった。

 先輩は待っていたのか、そのまま慣性に持って行かれる千代子の手を掴み、手すりを掴んだ方の手を軸にして、回転。さっきとは逆の手口で千代子を座席に座らせてしまった。

 ――ダメ。

 千代子の脳のうしろ、脊髄の奥から嫌悪感が昇ってくる。

 他人の気配。体温の残り。滲む汗。悪夢。動悸。目眩。記憶。

「いや、むり、無理です、こんなの。ひどい」

「――大丈夫、ここはさっきボクが丹念になで回した手すり、そこはボクの体重をカンじた座席、首をカシげて髪の触れた窓。そしてボクの呼吸した空気。ボクはキミの手をずっとニギっていた! だからキミの無菌室はこのボクの腕の中だよ――! シンじて!」

 ぱんっ。

 鼻の先が空気の流れを感じる。柏手が打ち鳴らされていた。それで、それだけで、すっと吐き気が引いていく。まるで、魔法、のように。

「えっ……なん……で、あれ……? あ、ありがとうございま……す? なんでしょう……か」

 礼を告げながら千代子は混乱していた。電車の座席なんてものに座れるようになっていることが。背中に毛羽立った座席を感じても、凍った水銀みたいな銀色の手すりに触れても、平穏でいられることが。すべて不思議だった。

「ちがうよチヨコ」

 白魚の指が、千代子の顔まで伸び、顎を掴んで寄せる。口元で、目の焦点が合わないほど近くで、先輩の唇が呪文を紡ぐ僧侶のごとく素早くリズミカルに蠢く。

「そう、そうやってそこだけをみて、素直で、チヨコ、そう、チヨコが降りるのはどこ? (サキ)? (ツギ)? (ツイ)? ミチをタガえなければタドれるのに、幾つキミはノガしてしまった? イソぎもせず! ノロくもなく! どうしてボクはここにいるのかな!」

「それは――」

 おかしいと思う間すらない。そこに通じる道はとっくに堰き止められているに違いない。するすると意識が、滑る。滑るというのはつまり、重力に引かれていくこと。重力に引かれても床があればそこで止まるはずだ。しかし、床がない、まっくら。のに。こわくない。おかしい。

 おかしくはない。だって、さっきからそれとなく千代子はそれを主張していた。先輩がどこまで帰るのか聞いたりしていた。そのときに千代子は自分が降りる駅の表示に目を向けていた。だから、それくらいのことを察するのは先輩にとって、造作もないことに違いなかった。だから、こわくない。先輩の黒髪がリズミカルに揺れる。意識が浮く、眠たいような、気がする。

 ――あれ、先輩の髪。緑色ではなかったかしら……?

 そんな疑問はたったひとつの問いの中に沁みて消える。

「――な、ぜ? どうして――私――が?」

 千代子は、思うように回らない舌に鞭を入れ、ようやく大本の疑問を口にする。「どうして、私なのですか?」という疑問。だって、さっきからずっとだ、これは運命なんかではなくて、何か理由があるのだろう。気を抜くとまぶたが落ちてきて、寝てしまいそうになっていた。

「あはは、残念賞だよチヨコ! ボクがキミに興味を持ったのも、キミを食べたくて食べたくて仕方がなくなったのも、さっきはじめてキミにマミえた時なんだ! でもね、チヨコ! ボクは今日、キミを食べるために手をツナいだわけじゃない、キミをアヤむために傷に指を沿わせたわけじゃないんだ! シンじて!」

「食べ……? 殺……?」

 物騒な言葉だった。その言葉が先輩の口からでてくるのはきっと間違いなのだろうと思った。先輩と一緒にいるのに、今日会ったばかりなのに、奇跡のお陰できっと好意の糸で結ばれようとしているのに、意図せぬ眠気がいけない悪夢を混ぜ込んでいるに違いないのだ。

「ボクは本当に幸運だ! 誂えたようだった! ここは本当にボクらのような――魔法に魅入られたものにアフれているけれど! ――チヨコ、もう、ネムいでしょう? いいよ!」

「いいえ……もっと、おはな……し……や、だ……」

 ――行ってしまう。

 そう思った。離したくないと願った。けれど力は入らないのだ。全身が、使い物にならない左腕のように。感じるだけの肉塊に堕ちた。こんな使い物にならない体では、先輩の腕を掴むことができない。歯がゆい。なのに、目も体も起きることを禁止されている。

「さあさチヨコ目をトザして! もうこの車両には誰もトドまらない! だからコワくない! この車両にはカレらは訪れなかった! だからヨゴれたこともない! さあさあ! さあ! キミの手をボクはニギっている! だから、コワくなんかないよ! シンじて!」

「ぁ―――!」

 閉じているはずの視界の端、黒い髪が揺れている、その向こうで吊り輪が揺れている、夕焼けが緑色になっている、夕闇の音がする、遠くで駅のアナウンスがある。ここはどこなのか聞き取れない、先輩の声が聞ききれない、理解しきれない、ざわめき、耳の奥で鳴っている音、あの日の畳上で行われた陵辱がフラッシュバック、打ち棄てられた汚いものと赤いもの、叫びそうな暗い記憶に、左腕の中の虫が呼び起されてざわめいて、耳の中の繭がはじけて、先輩の声が指が、情報が―――――。

 ぐ  ら    り   。

 沈んだ。

 千代子は、質量を持たない黒い線で縁取った殺風景な白い部屋にいた。影もなく、自分の姿もない。バカにしていた。他愛もない遊びだと、この先輩もこんな遊びをするのだと、さっきまではそんな風に思ってた。でも、この瞬間。片岡千代子はそんなことを考えていない。その意識のほとんどが夢の入り口にいる。片岡千代子の意識が、人がなくなりかけている。

 ぱんっ

 部屋の全ての壁が一斉に柏手を打った。途端、意識が浮かびかける。けど頭から先を現実に引き戻さない。足の先にひどく重い重りがついているようで、それは軽くなり、重くなりして、どこかから聞こえる柏手の度に千代子は、浮かび、また落ちていった。

 それを繰り返す度に、自分が刮げていく。無駄だったものが、片岡千代子を人間たらしめていた大事なものが、ダイコンのかつらむきよろしくゆっくり剥がされて、とうとう消えてしまった。ちよこはどこにいた、ちよことはだれだ、いない、そんなものはもういない。

 

 ――さあ! 新しいキミだ!

 

 不意に、チョコレートの匂いがした。

 さっきまで満ちていた先輩の香りから、草原の匂いを取り除いたごとくのそれは、それのみではただ乱暴なだけのものだと、浮かびきらない意識の中で感想を構築していく。泥水のなかで目を開けているような不透明さ、周囲を満たすミルクの海。その先にあるおのれの足、全ての先端に触れるものがある。ミルクは触れていない、ミルクと自分の体には断絶がある。声がする。ただ、触覚だけが鮮明にある。痺れるような感覚、麻痺、マジックテープでふれられたような。声がする。感覚は少しずつあがっていく。弱い部分をなでさすっている。そのたびに、神経の一つ一つをパラフィン紙でくるまれ、触れるか触れないかの境目を、堅い繊維のそれぞれの先、弾力を失わない歴とした無数の先端が次々と撫でては去っていく。そんな上気のかけらを途絶えることなく与えられ、落ちていた意識が上がっていく。呼吸が、甘い。

 どろどろに溶かされたチョコレートが流し込まれているかのように、苦しい。唇が湿っている。唇の中にしまわれた舌が甘い。甘い。甘いなにかを、舌先の小さな小さな突起ひとつひとつにこびとがチョコレートペーストを塗りたくっていて、その小さな突起はすべて千代子の姿をしていて、こびとと思ったそれは先輩だった。全ての先輩はその口の中にたっぷり含んだチョコレートシロップを、全ての片岡千代子の口内に、その長い舌を使って流し込み――。

 ――なんて、はしたない夢なのかしら。

 止せば良かったのだ。片岡千代子ははじめての経験になにもかもを貶められ、完璧な被害者の顔をしてされるがままになって、全部を夢のせいにしてしまえればきっと、変わり果てた自分の有様にとまどうこともなかっただろう。けれど、あまりに官能的で具体的な妄想にあきれ果てた千代子の自我は、加害者の意図に反してすすーっと水面に浮かんでしまった。

「――ンッ!」

「―――――ンぐっ! ぷふっ!」

 呼吸が苦しくて息を吐いた。夢でも妄想でもなかった。千代子の口内は先輩の舌に犯されていた。呼吸もなにもかも共有させられる深いキス。先輩の舌が踊る度に、千代子の全身に電流が走る。ぐっと、手に力が入った先は先輩の背中だ。それは脈打ち、制服のフェルトよりもざらざらとしている。未知の感覚に頭の中をかきまわされ、疑念が浮かんで、また沈む。けれど、千代子は自分を襲っている未知の感覚が、全身に及んでいる事にようやく気付いた。そう、手足。体。首をキスで固定されているから目で確認することができないけれど、衣服の中、皮膚の下、そんなところまで余さず、この甘いキスに同調して波打っているものが、ある。

 ――なに、これ。

「ロウじたいのかな、チヨコ!」

 千代子は頷いてしまった。くすりと笑い声。舌が離れていく。先輩の顔が確認できる。千代子は意識せず、物欲しそうに舌を差し出している。乾いていく舌の感覚に身を任せながら、舌と先輩のその間に端を渡している「何か」が見えてしまう。

「――――?」

 わからなかった。すごく長くて、緑色であることだけわかる。千代子の口からはピンク色の靄が漏れ出でていた。若草の香りをくゆらせる長い舌が、すうっと先輩の口腔に戻っていくのを眺めていくと先輩と目が合った。ようやくそこで、ボケていた目の焦点が合った。先輩は相も変わらず笑顔で、千代子は自分に触れてなお、笑顔を返してくれる先輩に安心を抱く。

 けれど、その後ろに威圧をもって渦巻くなにものが、あった。

 それは、蔦。と表わすのが正しかっただろうか。植物のくせに随意に動く蔦だ。先輩のうしろで陽気に踊っている。まだ冷静を芥子粒ほど残していた千代子が、最後の理性で、トリックかどうか確かめようと視線を下に持って行く。車両の床が見えるはずだったのにそこは一面の緑色が波打っている。その一面の緑色はすべて先輩の躰、真っ黒な――さっきまで纏っていたのとは違う夜の闇のように暗い――制服のスカートの下から生えているように見えた。

 そしてその無数の蔦は、放射状に千代子に集まり、千代子の全てを埋め尽くして、今この時も千代子に未知の甘い感覚を与え続けながら、蠢いていたのだ。

「あ、ああっ、あ、ひ、こ、い、い? こ、これッ!」

 まごうことなき人智の外。

 まごうことなき、ばけものだった。

「さあ、仕上げにカカるよ、チヨコ!」

 千代子は、決壊した。

 普通ではないものが現実に起こったこともそうだが、千代子を肉人形にした最後の一押しは、××だった。××とはなにか。千代子をさっきから苛んでいた未知の感覚だ。それは、先輩からいくつも生えた蔦のばけものが、千代子の表皮も内臓もすべてを一気に愛撫する度に、先輩に口腔を舐られる度に、流れ込んできた××だ。それに耐えられなくなって、片岡千代子は声を漏らす――。××ってなにか? いやだなあ千代子そんなにカマトトぶって知っているんでしょ、快楽だよ、快楽。そう、快楽だ。刺激は、未知の感覚は全て快楽だった。そんなもの、いままで生きてきて知らなかった。湿った畳の上で世界を恨み、無関心を決め込んだあの日から、千代子には無縁の筈の感覚だった。

 考える暇も、能力も全部剥ぎとられてしまった片岡千代子の生まれたままの中枢に、、快楽そのものを束ねて神経が焼き切れるのも構わず、流し込まれるのだ。

「ああ、ああ! め、だめです! だめ! だめだめ、そんな、死――――」

 懇願は、受け入れられなかった。

 無数の刃が理性を、枠線を、領域を、思考を、そして尊厳と記憶をも――

 ――貫く。

「っ――――――――ッッ――! ――――!」

 覚えたての金管楽器みたいに、のどから空気が漏れる。

「ああ! まったくキミはどれだけ――う――まく、イ――――ッ。た !」

「―――――ああああああああああッ! せんぱ、セんぱひィッ!」

「もうちょっとなんだ! 折角だけどトザすよチヨコ――3、2、1――」

 先輩が数字を数えている。その数字が『1』を数えたところで、千代子の意識はさっきまで沈んでいた透明で緑色の泥に沈むことを待ち望んでいる。高次の意識で、冷静な千代子が半月のような口で、千代子自身ですら見たことないような純朴な笑顔をして堕落を待ち望んでいる。

 ぱんっ。

 また小気味の良い柏手が鳴り、音が沁みていく先から千代子の意識と感覚は深淵に落ちていく、恐怖と期待がかろうじてなけなしの思考を繋ぐ。「期待」って? 浮かびかけた疑問は繋がることなく流れる。誰かに流し込まれた奔流が、疑問も流していってしまう。ひどくなまぬるく、べたついた泥濘が、血管や神経細胞、リンパ管、筋繊維の繋がりを組み変えて行く夢。

 意識は完全に落ちた。けれど、夢の続きは容赦なく続く。

「あはは――! チヨコはいい子だから――言う通りにできるだろうね!」

 いつからか耳元でささやく声、定かでない視界で打たれた柏手。減っていく数字。命令。こと、ば、いとしいひとの声が、しなければならないことをおしえてくれる、おそれなくてもよくて、しっぱいしてもゆるしてくれる、けがれたからだでも、あいしてくれるという。

「――――――――」

 ――いやだせんぱい、そんなはしたないこと、できるはずないじゃないですか。

「ボクはミトめなきゃいないからね! さあ、指をヒソめるんだ、チヨコ!」 

 右手が、左手が動く。脊髄から流れ出る血液は酸素の代わりにメイレイとカイラクそのものを脳と子宮に次々と届けていく。指は自分の意志で命令通りに動き、しなやかにつまむ。やわらかなスイッチを押す。ねじこむ、執拗に擦り上げる。機械のようにそれを続ける。どこかで花火が上がり、色鮮やかな南国の花が咲き乱れても、その手を休めてはならない。

 そう、準備が出来た。ならば良家の令嬢のごとく、誰にも粗相のないように――、

 爛れふやけた脳神経がメイレイを素通ししていく。

 そのうすぬのを、めくりあげるのだ。

 

「――イタったね! あはは、びっしょりじゃないか! さあ、夢はツイえた! これで――」

 

 ぱんっ。

 柏手の音を最後に、快楽に疲れ果てた片岡千代子は、泥の底の底へ向かって沈んでいく。

 さよならの声は、聞こえなかった。

 

            ◇

 

 ――オケダイラ――。ミギガワノドアヒラキマス――。

 

「……あッ」

 アナウンスで目が覚めた。降りようと車両の座席から離れる時、股間がひやりとした。他人の視線を感じたけれど、ドアが閉まる前に小刻みのジャンプでホームに降りた。振り向いてみても電車の中に取り残された人々の表情は見えない。閉まるドアの向こうに、何かを忘れているような気がするのに、確認はできなかった。電車が行ってしまうと、その風がまた、股間を冷やしていった。千代子は、じぶんの内側に響いてくる湿った音に違和感を覚える。

 ためらいなくそこに指をのばすと、今までどこにも居なかった自分が、確かにいた。

「ああ……」

 指に押しのけられた湿った線が一筋、皮膚の色を変えながらソックスに達する。千代子はそれが気にならず、誇らしいとすら感じている。だってこれは、電車の中で見た夢が、真実であるからに他ならないから。たとえその相手が、人智の埒外にいるばけものだったとしても。

 千代子は、汚らしいはずだった駅のベンチに身体をもたれさせて伸びをする。雨と黴を吸って膨らんだでこぼこのささくれを撫でる。自分の体から、強いチョコレートの香りがする。この香りが自分の足りないところを満たしてくれるように思える。

「ふふっ――」

 片岡千代子は、明日が楽しみで微笑んでいる。

 まだ、名前を聞いていなかったから。