C チョコレート・ゲート/2

チョコレート・ゲート/2

 

 コトは済んだ。千代子は口を丹念にすすぎ、深呼吸をした。発作は収まったと思う。面倒な体質だけれど、覚悟があれば組体操だってやってのけよう。だが、不意にスイッチを押された場合は、どうしても不覚を取ってしまう事が多かった。

「――自家中毒でも、あるまいしね。情けないこと」

 アルコールを含ませた布で、触れてしまった部分を丹念に拭いとっていく。あまり熱中してはいけない。すると、どうしようもないほどの汚れが後から後から湧いて出てくるような妄想にとらわれてしまうから、気が済まなくても程々にしておくのが千代子の会得したコツだった。

 もし、知らずのうちに線を踏み越えてしまうと、千代子にとってその汚れのすべては忌避すべきものとして害悪をもたらし繁殖する人食いの黴に映ってしまう。そのときはすべてを刮げ取り、焼き捨てないと気が済まない。肌を開けたてのスチールウールでこすり出す。取れないから刃物で骨が見えるまで抉り取ろうとする。痛みは二の次。血が止まらなくて、その血を餌にして黴が増えていってしまうから赤くなるまで熱した火箸で焼き尽くす。それを目にした千代子の母親はこけた頬と死んだ目で、よしてくれと叫んだ。

「だって、汚いではありませんかお母様。汚れた部分は除かねばならないのでしょう?」

 今、彼女は、病院で幸せに暮らしていると伝え聞いていた。

 千代子は家を破滅に導いた咎を背負わされ、アクリルでできた無関心の檻の中に流された。そこで門限だけを律儀に守りながら、ひたすら心が死んでいくのを待ち続けるしかなかった。

 汚れを吸い取った布をサニタリーボックスへ投げ捨て、廊下に出る。どこからか甘い香りがする。吐瀉の後には刺激が強いその臭いに眉をしかめつつ、これからの予定を考える。このまま帰路に就いてはさっきのクラスメイトたちとはち合わせてしまうかもしれない。

「――大丈夫かい?」

「ひ!」

 思考の隙間を縫って左耳に息が触れた。思わず、背中に蛙でも入れられたような声を上げて飛びあがる。知らない声が右から降りかかってきた。

「どうしたのそんなに驚いて! 何かコワいことでもあったのかな?」

「え、え、あの……?」

 振り向けば知らない顔だった。薄い色素だった。背は長身の千代子よりもわずかに低い。珍しく名札を付けていて、千代子は少し警戒心を解いてしまう。名は空欄だったけれど、縁取りに添えられた花は藤。名前もクラスもわからないが上級生であることがわかる。

 睫はしなやかに長く、眠そうにも見える瞳を飾っている。両側の上がった口角は微笑みのシンボルのようで、肩に流れ広がる髪は錆びた銅を思わせる緑青の色を帯びていた。

「ボクをコワがるのかな?」

 日本人の顔立ちであるのは確かなのに、どこか外れた不思議なイントネイションでその上級生は続けた。その「怖かった?」は、まるで「楽しんでる?」と聞いているような、そんな響きで千代子の耳に届く。そして、千代子はその上級生にやさしく頭を撫でられていた。

「え……?」

 電気が走った。

「あはは、コワくないよ。かわいいね。名前をオシえて」

「か、か、片岡です……」

 混乱。というのだろうか。千代子は明らかに混乱した。その中で名前を問う質問をつかみ取って律儀に反応した。自分でも驚くくらい体が固まってしまっている。だって仕方がないではないか、髪の青い上級生に声をかけられて頭を撫でられたことなんてあるはずがないのだから。

 ちちち、ちちち。と上級生は白い歯を色素の薄い桜色の唇から覗かせ、舌を軽く鳴らし、反らして立てた人差し指を添える。

 その仕草に、なぜか耳が遠くなる。

「――なま、えだよ、キミの」

「ち、ちよこっ」

 ――です。

 顔が紅潮するのがわかる。血が巡って手首が痒くなる。求められたから名前を言うのは当然のことだ。それが上級生からならなおさらだ。だって、千代子は礼儀を尊ぶのだから。

 だが、千代子は思い出してしまう。頭を撫でられるなんて単純な行為に電気が走るほど驚かされ、なんとなーく聞き流してしまったその一文を蘇らせてしまう。

 ――かわいいね。

「――――ひぁっ!」

 耳がきんきんとやかましくて、自分が何を叫んだのかもわからなくなった。

 一歩下がって両耳を抑える「かわいいから名前を教えて」というのはいったい何の冗談か。今さっきの「かわいいね」は犬猫を――千代子はけしてあの愛玩動物のたぐいをかわいいと思ったことはないのだけど――そうして呼ぶときとは違った呼び方だった。だから、電気なんかが走ってしまって、心臓が吃驚して、顔がこんなにも熱いのだ。それは情愛とか、もはや性愛とか、千代子がこの世でもっとも嫌う類の粘つきを持つ言葉のはずだ。そのはずなのに。売るほど溜めこんできたはずの嫌悪感は、この上級生相手にはちっとも湧いてこなかった。熱を帯び、鼻腔に擦れる音が聞こえてしまうほどに響く自分の呼吸。その度に、どこかのクラスに残された砂糖まみれな焼き菓子の在処を探せそうな甘い匂いがして苦しい。

「あはは、やっぱりキミは具合が悪いみたいだ! そうだ! 保健室! きっとこの辺にあるんじゃないかな! キミなら、その場所をゾンじているのかもしれないね!」

「あ、いいです……保健室は……」

 苦手ですから。を言い淀んだ。苦手でも保健室に行かないとよくならない。そんな問答はこの方何度もしてきた。しかし、クレゾールを含んだ空気で作った水槽みたいなあの場所は、血の臭いをいやでも思い出させるから、できる限り足を踏み入れたくない場所の一つだった。

 でも、面倒な女だと思われたくなくて、千代子は返事を澱ませた。

「そうか、音楽室は!」

「は、はい?」

「ボクは音楽室が好きだな! キミはウタうかい?」

 無邪気な笑顔が目に入る。奇妙なテンポ。奇妙なリズム。ともすればふざけているようにも聞こえる一人称。しかし不快に感じないその言葉。そして触れられても千代子に吐き気を催させない。すべてはこんなにもイラついてしまいそうな佇まいなのに、どうして。

「――どうして」

 疑問は声に表れてしまう。しかしそのあとが続かない。千代子の視界の中で目が線に、口も線に変わっていく。その後に続くべきだったのはどの疑問か、さっき頭をなでられたのに嫌悪感を抱かなかったのはなぜか、私よりも背が低いのに頭をなでてもらえたのはなぜか、名札に書いてあるのに名前を聞いたのはなぜか、上級生なのに保健室の場所を知らないのはなぜか、その髪の色はなぜか、私に声をかけたのはなぜか、その一人称は、私をかわいいなどと言ったのは、先輩こそそんなにかわいいのは、なぜ、なぜ。

「ノゾまないかな! じゃあカエろうか、チヨコ!」

 きっと千代子は、その誘いに気のないようにも聞こえる返事をしたはずだ。はずだ。というのは覚えていないから、耳が遠くて聞こえないから、口に出した傍から熱で蒸発していってしまうから。千代子の目の前で、奇妙な上級生の白い白い右手の五本の指が誘っていた。白魚のような指とはこういうものを指して言うのだと知った。本当にこの中に男や女や私の中に流れている血液のような汚いものが流れているのだろうか、いや、きっとこの中にはそんなもの流れていない。白いきれいなミルクとか生クリームとかそういうものが腐りもせず、なにを溶かしもせず、無臭のまま流れているに違いない。そう千代子は夢想する。

「ほら」

 その指を束ねる手もそうだった。空気に溶けてしまいそうな白さだった。断じてこんな汚い場所で、汚れた熱を帯びた自分が触れてしまってはならない。触ればきっと、溶けてしまう。

 なのに、無意識に千代子はその手を取っていた。差し出された手に触れている自分の行動に気づき、後悔と絶望が流し込まれる。けれど、その指は予想通り、天使の羽のごとき手触りで、それに触れている悦びが、さらに強い力でそんな負の感情を洗い流していく。

 溶けてしまわないように、せめて強く握った。

 

 千代子の予想は外れた。

 ――とくんとくん

 ――とくんとくん

 

 薄い皮膚の内に、確かな脈動を感じている。

 震えるもう片方の手を、物欲しげに添えた。

 

               ◇

 

 千代子は先輩と、体温を交換しながら道を行く。

 こういった同性の先輩と後輩の間における一対一の仲睦まじい姿は、学舎から駅までの通学路において、特段奇異なものではなかった。そのレベルの関係はこの周辺の住民と学校関係者達がおよそ「そういうこともまあ、あるかもしれない」と想像できる範疇の初々しくも瑞々しいものだったから。ただ、それはたいていの場合ハンカチに包まれた砂糖菓子のごとく隠されている。中身は予想できても、それを周りの人々はけして持ち物検査なんかしない。千代子は、まさか自分がその片方になるとは思ってもみなかったけれど。

 校門から続く長い静寂ののち、先輩は口を開く。

「キミは、とても饒舌だね!」

「えっ?」

 先輩の顔が突然千代子を向いて、冬の太陽みたいな笑顔でそんなことを言う。手を繋いでいたはずなのに、いつの間にかちゃんと靴を履いていた先輩に昇降口で驚いた。片手で不器用に靴を履かされた。それから千代子は道すがら独り言のように声を発する先輩に頷いたり、中途半端に首を傾げたりしていただけなのだ。なのに、饒舌とはどういうことなのか。

「私、なにも、しゃべっておりませんよ」

「あはは、千代子はずいぶんと謙虚なんだ! でも、ボクらは手をツナいでいるから! この先端はもう、しゃべりたくて仕方がなさそうにせつなくなっているんだ! これがボクのオモい上がりでなければ、ボクにいっぱいタズねたいことがあるんだよね!」

 一息。自販機の裏側、路地の影。その隙間に千代子はパズルピースのように填められる。

 先輩の視線は千代子を見据えたまま。右手が蠢き、小指が小指を絡め取る。薬指が薬指を組み伏せる。中指は、中指と人差し指の間に侵入し、人差し指がちろちろと中指を愛撫しはじめる。千代子の左手がやわらかく犯されていく。

「――あの」

 止めて下さいと言えなかった。この行動は普段の千代子になら明らかに不快を通り越しているのに。蹲って内臓まで裏返るほどに痙攣しあげくチアノーゼを起こして呼吸困難を伴い舌を噛みながら内容物を垂れ流して死ぬほどの暴行を受けているに等しいのに。だのに。

「なあに――? 待っているのかな、チヨコ! ほら、手をちゃんとニギって!」

「え、あ、はい――!」

 千代子は言われたとおりにぐっと握ろうとする。けれどこっちの手はダメなのだ。こっちの手は蟲の棲み着いた穢れた手で、傷があって、血が流れて、削り取られている被害者(ヒガイシャ)の手なのだ。だから、見せるわけにはいかない。でも、いつのまにか先輩は千代子の左側をキープしていたから、どうしたって左を差し出すしかなかったのだ。

「――きゃ」

 こんな声を出せたのか。と千代子は自分の所在が不安になってくる。しかし、そんな声をも出させてしまうほどに、左手を掴んでいた先輩の手は心臓方面に侵入してきた。体をよじり、必死で逃れようとしても、すぐに掴まれてしまう。

「ちゃんと、ツカんでいないから!」

 先輩が笑う。両脚の間に膝が割り込んでくる。この左腕を見せるわけにはいかない。右手がさっき千代子が級友にしてしまったように、先輩を突き飛ばしてしまうかもしれないから。

 先輩の右手はそんな気も知らず、指を忍ばせ、ブラウスの長袖を膨らませる。

「あ、だめです、だめなんです。そこはいけないんです」

「どう、いけないの」

 長い指が服の中に入りこみ、鍵盤を弾くように踊る。布が隆起しているのが見える。

「へえ、中はこんな風になっているんだ」

「だめ、言わないで、だめです、やだ、やだやだ」

 どうしてこんなに指が長いのだろう。袖の下では先輩の指が縦横無尽に暴れ回り始めた。千代子が隠して飼っているピンク色のミミズ、その奥、抉れて神経のむき出しになった土気色の肉。その全てを触覚が蹂躙し、凌辱していく。

「こんなのをカクして、悪い子だねえ。チヨコ!」

 握られた左腕が離せない。嫌悪感を感じなかったのに、自分の感性はあてにならない。こんなひどいことをされるなんて、なんで自分は信じてしまったんだろう。バカな千代子、言われたとおりの悪い千代子だ。また同じ轍を踏み、同じ傷をなぞられ、今度こそ自分で心臓を抉りとる羽目になってしまうのだ。こんな公衆の面前で! 

 だったらいっそ、そんな恥を晒すのなら――今、この舌を。

「おっと、ユルさないよ!」

 舌が、差し込まれる。

「~~~~~~ッ!」

 腕が組み伏せられる。背後のブロック塀に後頭部が軽く擦れた。そこに生えた苔が、脳に浸入してくるかも知れないのに。そんなことより、他人の舌が、あの日のように自分の中に侵入してきて、こんなことをされたら、もう――。

「~~ッ! ――ッ!」

 暴れても束縛は解けない、無意識に梃子を利用し、右手と腰のバネが体躯で勝る相手を解こうとしているのに敵わない。千代子は錯乱の中で疑問を投げる、なぜ先輩の舌はこんなにも長くて、私の舌をこんなに執拗に舐っていて、味蕾のひとつひとつの根本を愛撫するように痺れさせてしまうのか。なぜ、この体は嫌悪感を抱いてくれないのか。なぜ、先輩は嫌悪感を抱かないのか、口中にはさっきの粗相の後遺症がまだ残っているはずなのに――。

 ――なぜ、なぜ!

 千代子の抵抗は段々と抜けていく。舌を噛もうと思ったことすらも忘れて、目がとろんとしてくる。先輩の舌は甘かった、チョコレートと草原のフレーバーだ。特段好きな味でもないけれど、嫌いな味じゃない。噛み切って吐き捨てるには惜しかった。

「ん――――――!」

「ぷぁっ」

 一瞬か一分か、それ以上か。やがて唇は離され、赤い舌が離れていくのを眺めていた。千代子はだらしなく口を開けて、甘えた舌が硬直している。背をピンと伸していたものだから、少し背伸びをしていたた先輩の顔は沈むように落ちていく。

「イヤがらなくなったねえ、チヨコ」

 腕はとっくに掴まれていなかった。千代子の両手は信じてもいない神に祈るがごとく、胸元の乱れた衣服を隠すように弱々しくお互いに絡め合っていた。

「なぜ、こんなことを……その、されるんですか?」

 ブロック塀に寄りかかったままの背中と頭がじんじんしていた。ブロック塀に擦れたからじゃなくて、嫌悪感でもなくて、千代子の内側に生まれていた情動が、そこから脳に辿り衝こうと旅をしてきたのに、堰き止められて熱を放っていた。息が荒くなる。吐いた息からまだチョコレートと草原の香りがする。この無理矢理に呼び起された情動の性質を、千代子は初心(うぶ)すぎて知らない。

「チヨコはまだ、欲しがっているね! あはは、これは期待できそうじゃないか!」

 先輩の指が伸びてくる、千代子はきゅっと体を縮めて刺激に耐えようとした。けれど、先輩の指は、さっき袖の下で暴れていたものと同じとは思えないくらいの淑やかさと正確さで、千代子の乱れたリボンと襟を最初の整然とした状態に伸ばしていった。

「キミは期待しただろう! ミダらだなあ、チヨコは!」

 わざとらしく目が開く。ベッドメイクを終えた指先はだらしなく開いたままの千代子の口に伸びる、下唇の弧に触れると、千代子は自分の唇が震えているのを知った。指は枠線をなぞるように口角に移動して、指紋を感じるほど強く押しつけられ、頬を拭っていく。

 指が離れると、ひやりとした。先輩の指先が濡れている。

「……そんな、こと、ありません」

 淫らだと呼ばわられた自分の証拠が、その指先に光るものであると言われた様な気がして、千代子は顔を赤くして否定した。

「――あはは。でも、だめだよ。まあだ、いけない。チヨコとはまだメグったばかりの筈だから! そんなに一足飛びに関係をヒラいたりするのは、カタくツクられてしまったチヨコには酷だもの! 心クバらないでチヨコ!」

 そして、また手を繋がれる。千代子の背中はブロック塀から離れ、また踵でアスファルトを踏む。いつもだったら背中に付いた埃や汚れが気になって気もそぞろになるはずなのに。手を洗わないと蕁麻疹が出そうになるはずなのに――。

 そんな気持ちに微塵もならないのは、何故。

 先輩からはさっきの蹂躙の謝罪もない。何事も無かったかのように駅へ、仲良しのように手を繋ぐ。昔からの親友のような有様で歩いていく。その一歩一歩ごとが、千代子に今までの人生で知り得なかった充足をもたらしていた。

 さっき背中と首の後ろで堰き止められていた情動たちは、やっと通行許可証を戴いて、ほんの少しずつ脳へ浸透してきていた。子供じみた、それでいて傷つくことばかり怖れ、そこに至る道全てを怖がる千代子の脳に滲みていく。

 呼吸のひとつひとつとともに痺れていく。

「…………」

 そこからはまた無言の道筋だった、ちらちらと先輩を見ても、こちらを窺う気配すらなかった。千代子はその態度に不満を覚えてしまう。苦しくなる。苦しくなって、左手に力を入れる。でも、千代子の左手は力が入らない。

 先輩が前を向いたまま、口を開いた。

「キミは――ボクのことを好きになってくれたんだろう! ありがとう!」

 唐突な告白は、あまりにすんなりと浸透していってしまった。

「あ、ああッ!」

 千代子はぽろぽろ涙を流しながら得心した。あまりに早い陥落だと、自覚もあった。けれど、これが「一目惚れ」というものなのだと、すっかり骨を抜かれてしまった千代子の左手が、あるじの心臓とちっぽけな脳みそに囁いてくる。あたしこんなにきもちがいいんだよ、人と手がつなげるんだよ。ねえ、人と手をつないで帰るのなんて、いったいどれくらいぶりでしょう。玩ばれても大丈夫なんだ、こんなに、気持ちいいではありませんか! ねえ。こんなに気持ちよくしてくれる人に、うたがいを向けるなんて失礼よ! そうよ、さっきも言われたではないの、信じて。あなたがずっと忘れていたことを思い出して。偶然でもいいじゃない、幸運でもいいじゃない。こんなにいいことが今日たまたまあったのならば、明日からはきっと、もっといいことがあるにちがいないでしょう!

 そんなふうに、甘くあたためられた血液がじわりじわりと心臓に戻って、そのままどくどくと千代子の身に巡っていく。僅かに残った千代子の――それは、さっきまでの千代子が常に装備していた自分を守る為の盾であり鎧。それがゆえにずっとひとりでいた警戒心とか、そんなものが警鐘を上げている。これは毒だ。毒なんだ、飲み込んではいけない、だってこんなのはおかしいではないか、と。

 そこまで思い至れるのに不安に怯えられない。それどころか、蕩けておぼつかない足元の替わりとばかりに、繋いだ手を離れないように願いだしていた。目の前に迫った駅の改札を通るために手を離さなければならないのが悲しかった。

「――さて、どこに入ってるのかな!」

「何が……でしょうか?」

 首をかしげる。タガえてはいけないよチヨコ。そう囁かれた。先輩が軽く体重を掛けてくる。その視線の先、千代子のスカートのポケットがはらわたを見せていた。先輩が手に持っていたのは、チェック柄の定期だけを入れたパスケースだ。それは千代子のものと同じもの。

「あ、あれっ」

 ――なんて、手癖の悪い!

「ススもうか!」

 先輩は手をつないだまま改札を通ろうとする。離れようとした千代子の腰を先輩が引く。

「だめです、いけないことです!」

「あははは、いけないことなら、さっきもしたじゃないか!」

 自動改札は重なるふたりをひとりとして認識した。駅売店のおばさんがちらりと二人を一瞥したけれど、駅員も見ていたはずなのだけれど、誰も、二人が法を犯すのを止めなかった。

 きっと、昨日までの千代子なら今にも手をふりほどいていた。いや、昨日と言わずたった二時間前の千代子だってそうだったに違いないのだ。秋の日のプロムナードを駆け抜けるような優雅さと爽快をともなって千代子は先輩と改札を抜けてしまった。先輩と一緒にいることを笑いの種にされぬよう、誰が見ても恥ずかしくないように、せめて精一杯誇らしく。

 先輩がふたりの片手分の距離、一歩先で微笑んでいる。

 

 

 チョコレートと草原の匂いを零しながら

 惚れっぽい少女を笑っている