B チョコレート・ゲート/1

チョコレート・ゲート/1

 

 ブラウスのボタンは一番上まで止めて、襟には毎朝アイロンをかけている。スカートのプリーツに皺が寄ることもない。桐の刺繍が施された胸の名札には「片岡(かたおか)千代子(ちよこ)」と記されている。印刷されているようにも見えるが、これは本人の手書きであった。卒業式でもあるまいし、律儀に名札を付けている生徒など、全校生徒かき集めても彼女くらいのものだけれど。

 千代子は男が嫌いだ。だから女子校を選んだ。ここは寮のある学校であり、千代子の条件に適うものだった。全寮制でないところも願ったりであったけれど、まずいことに名前も知らない遠戚が、その近くに居を構えていた。千代子がもはや二度と家族と呼ぶことのないあの男が、最後まで醜く執着した結果だった。監視者として世間体の為に手を挙げさせられたとしか思えないその遠戚の家は、通学するには殆遠かったが、千代子はその最後っ屁を甘んじて受け入れた。電車に乗る時間が長くとも、遠戚の家に居る時間が短くて済むと思うことにしたのだ。

 鉄の箱の中でバランスを取って立ち続けることは、大した障碍にはならなかった。ただ、人の犇めく主要駅の周辺はもはや苦行に近く、千代子はハンカチを口に当て縮こまっていた。なにより千代子を苦しめるのは、その度にあの男の暴挙を思い出してしまう事だった。

 艱難辛苦の果てにようやくたどり着く学舎。けれど、その環境はことごとく千代子の期待を裏切った。麗しくあるはずだった同級生たちは、そこらにいる男たちと同じように汚らしいものだった。千代子はそれが残念でたまらなかった。いっそ殺してしまいたいと思うくらいに、汚れた空気を自分に吸わせる彼女たちが我慢ならなかった。

 結局、逃げ果せた先にも安住の地はなかったのだ。

 今日も終業の鐘が鳴るのを待ち、千代子はほっと息をつく。今日は思いの外、穏やかな日になったと授業中用の丸眼鏡を外し、控えめな伸びを楽しむ。けれど、それが油断だと言わんばかりに肺の奥に血の臭いが届いてしまった。

「……う」

 油断だったと千代子は自分を戒め、責める。今日はずっと隣から血の臭いがしていたではないか。今日ずっと隣人がイライラしていたのを千代子は知っている。その重さには同情もしようものだが、千代子にとっては他人の血の臭いと、自分の皮膚の下を流れる血の臭いで二倍分のイライラが千代子を苛む。

 ともかく今日の鐘は鳴ったのだ。やっと一日中続いた他人の気配から逃れることができる。教室を去る学友たちの様に、帰りの支度にもたつかず鞄だけを持って教室を飛び出してしまうことができれば楽だが、そうはいかない。千代子の持つ軽い潔癖は、いちいちの動作にかかる時間を容赦なく増やしてしまう。

 そんな千代子の辟易と葛藤も知らず、隣席に集まった級友達が放課後のおしゃべりを始めた。

「ああ、うぜー……」「どした、出ないのか?」「はぁ? 逆だよ出過ぎなんだよ毎月毎月クソめんどくせえ。そういう話聞きたくもねえ」「やったね体育サボれんじゃん」「あーずるいずるいずるいいいいい。あさぎもおおお明日見学にするううううう!」「てめー先週もそれやっただろ、ゲロマスがキレるとうぜえだろ、ほどほどにしろよ」「そうそう増田といえばさ、知ってる?」「なんだよ勿体付けて、さっさ言えよ」「一昨日のアレ、あったじゃん?」「だから、なんだよ。じゃん? っていわれてもわかんねえよ」「む……ごめん」「なにそれなにそれあ、あさぎそれあれしってるるううう! アレでしょあれえええ!」「だからアレってなんだっつのてめーのアナ四つにすんぞ!」「ぎゃー! あさぎの穴ふやされちゃううううう! でもねでもねクミちゃんにならいいよおおおおお!」「……うざ」「……(つぼ)(い)てめ、そこに直れや」「やー、やめやめ痛いのやだよおおクミちゃんん。知らないのおおお?」「なんだよ」「隣町の高校のランパ事件」「ランパ?」「フジュンなのおおおおおっよフッジュン――ッ!」「うるせえ」「耳貸してクミ」「ンだよ」「乱交ぱーちー」「……はァ?」「きぃやァ――――――――ああああああ」

 ――なんて腐れた座談会。

 千代子は言葉にならぬ悪態をつく。血と低俗の臭う隣人の机に、小うるさい女と、しみったれた女が集い、しゃべらなければもらいが少なくなるとでも言わんばかりの吐き気がする呪文を思い思いに唱え続けている。

 千代子は自分が異端審問官に生まれなかったことをこめかみを押さえながら眉をしかめ烈しく静かに呪っている。現代の魔女を火あぶりにするだけの力があれば、こんな薄汚い臭いに悩まされることもなかったのに。千代子はいっそ自分で、鼻の粘膜でも焼いてしまえれば、こんな思いをすることも無かったのかもしれないとすら考える。

「う……」

 臭気に巻き込まれぬよう帰りの支度を急ぐ。このままだらだらとこの場にとどまっていても、テレビに映る有象無象の話になり、化粧品の話になり、菓子の話になり、男の話になり、家族の話に変わって行くのだ。

 ――なんの価値が、あるものか。

 それらは悪しざまに、時に反抗に包んだ愛情をもって語られる。そして、いやでも隣人である千代子の耳に入るだろう。なんて、気持ちの悪いことだ。そんなものを聞いたら、いまにでも始まってしまうではないか。手が震えて、しまい損ねた消しゴムが転がって行く。床に落ちたそれを拾おうか、捨ておこうかしばし悩む。洗えば大丈夫だろうと、黒板の下まで旅に出たそれを千代子は拾いに行く。その間も千代子の隣の席での会議は踊り続けている。

「いいよもうそういうザークセえ話はよお」「おっ槌田(つちだ)すすんでるねえ」「はァ? 何言っちゃってんの中村、お前も沈めっよ」「じゃあさあああ、じゃあああああさあカラオケいこうっよおおおお!」「おい、壺井はさーマジひとの話聞いてんの? あんな? あたしハラ痛えって言ってるんだよ!」「歌ったら紛れるんじゃないですかね、槌田単純だし」「うぜー、中村は軽いからわっかんねんだよ。お前らのそういうのすっげ、すっげうぜー。乱交パーティーの話だってなんでお前らそんなの知ってるの、なに、他人事みたいに言って参加者でしたってか?」「槌田けっこうウブだよねー、そういうところカワイイんだけど?」「は? なにがだナメてんの」「あーシノちゃんいじめちゃだめえええ、あのねーあたしだってそういうずけずけいうクミちゃんきらいだしいいいい、でもあたし歌いたいしひとりじゃやだしいいいい!」「あーイライラしてきたこの小動物おまえのしゃべりのほうがうぜっつーの! 中村ーたのむーこいつどっか捨ててきてくれー」「じゃ三千円」「高ッ!」「ねえええええ、ねええええ、いっこうよおおおおおお! いいじゃんおなかいたのあたしじゃないしいいいい!」「てっめーそれ本気で言ってんだろ、ほかの暇な奴誘えようぜえ離れろ死なすぞあばずれ」「なにそれあばずれってなになになになにいいいあさぎばかじゃないもんんん! ねえそう思うでしょ片岡さぁんんん! も!」

 

「――――ぇ?」

 

 ――逃げ遅れた。

 その時、千代子は消しゴムを拾って戻ってきて、ビニール製の筆入れに納め、鞄に教科書を最初から詰め直して、最後に筆入れを納めるべきところに納め、帰る準備を完璧に整えたところであった。あとは椅子を引いて足を揃え、靴下の長さが同じであることを確認し、手を拭い、左足から一歩前にしずしずと歩き出す。それだけの作業しか残っていなかったのに。

 片岡千代子はいつも辛気くさいオーラを纏って、きょろきょろとあたりを警戒し、眉間に皺を寄せていた。こんな虚を突かれたような顔は、隣の席に座る槌田紅実ですら見たことはなかっただろう。いつもそんな風に人を寄せ付けない態度であったものだから、危害は加えられないものの、この空間を共有する誰もから、避けられているのは間違いなかった。

「――?」

 返事をしないのはおかしいとおもった。だから、笑顔を作ってそれをした。「何でしょうか? 何か御用でしょうか? 私は急いでおりますのでこれでさよならまた明日二度と話しかけたりされませんよう、心からお願い申し上げます」をしようとした。幼い日に修得した技術で気配を消せば指されもせず、およそ使われていない声帯は気道に貼り付き蜘蛛の巣を貼っていて声なんて出やしなかった。日直当番は遙かに過ぎ去りし日だ。

「片岡さんんんんっ! ねええええっ!」

 視線を感じる、きらきら輝く二つを筆頭に六つの瞳が片岡千代子を値踏みしている。期待と興味、無関心と侮蔑、敵意と諦念。胃からこみ上げてくるものを左の人差し指を当てて押さえる千代子。ほおづえを突いて、だんだんとイライラしてきた千代子の隣人・槌田紅実はすぐに限界に達した。鼻からわざとらしく長く息を吐き、教室に通るように口を上にして、下品な声をあげる。視線は千代子から外し、小さいの――壺井あさぎに向けて。

「ほらやっぱてめーバカでアバズレだってよ」「ちがーうもん片岡さんなんにもいってないじゃんんん」「なにも言ってないってそういうことじゃねえか」「そうかもね」「きいいいいい! 片岡さん口動いたじゃんんん!」「バカだってよ。バーカ」「バカじゃないもんバカじゃないもんんん! あさぎ、クミちゃんの数学のがマジマジヤバいなの知ってるしいいいい!」「槌田、なんて痛ましい……」「おいてめーらなんだその笑える顔は殺すぞ!」

「……では、私はこれで」

 矛先がまた彼女達の内側ににぐるり一周して戻っていくのを読みとり、その隙に必死で引っぺがした声帯を震わせ、アリのような声を千代子が絞り出す。

 そのまま、教室の床を蹴ろうとした。

 ぎゅう。

 女子としては長身の千代子の体。その下半身がずるりと重くなった。うざったいしゃべりをする小さな体躯の女がツーテールを弾けさせながら、千代子の腰にしがみついていた。

「いこ――――――片岡さんカラオケ行こ―――――――、うよ――――ううううううう!」

 この、隣のクラスに生息する小さな女生徒はどうせ「世の中適当でいいじゃないの」「思った通りに動けばいいじゃないの」と思っているのだろう。見たところ彼女は頭はよくないしうるさいし、さっきから仲間に言われているとおりひたすらうざい。けれど、一時疎まれることはあったとしても、憎まれることとはおよそ無縁の生き方を選んだ類だと、千代子は判じる。

 だから害意などなかった。子供じみた無邪気さに怒りを振り回したところで見返りもなければ、自尊が保たれることもないという千代子の信仰は崩れていなかった。向かってくる悪意のない力は、受け流すのが正しいやりかたなのだから。

 しかし起こった現象はこう。ひとつ。千代子は自分の腹の前に回された手を振り向くのと同じ所作、遠心力を用いて器用にふりほどいた。ふたつ。千代子は女生徒の左手を自分の右手で(しっか)と掴み、支点にして体をまた半回転し手を離す。三つ、千代子は小さな女生徒の文字通りの胸板めがけ、力の入る右を左に添えた両掌をまっすぐにつきだした。

 四つ。ちょっとばかり派手な音を立てて、机を押しのけ、小さな体が床に転がった。静寂。

「――――は?」

 誰かが、頓狂な声を漏らした。

 誰の目にもおかしな話だった。それぞれの瞳の声は、怯えと興味と害意の色に変わっていく。

「ふえ、ふええ、ふええええ――」

 泣くのだろうか。泣いてしまうのだろうか。埃だらけの教室の床に尻をはっつけたままのこの高校生女子は、自分が幼く見えることを笠に着て、涙で同情を買うのだろうか。千代子は考える、そうすれば、私はこの小さくもうざったいこの同級生の小娘を嫌悪の対象にすることができるだろうか、と。

「ふええええ――っ?」

 泣く。これで晴れてつまはじきだ。そう思った。

 しかし、彼女の涙腺はすんでのところで止まった。

 千代子は安堵を覚える。泣かせれば目覚めは悪い上に、なにより「影の薄い無害なヤツ」が「特段理由もなく同級生を突き飛ばした挙句泣かせたヤツ」に昇進してはいかにも居場所がなくなる。でも、この子が悪いのだ。生身で、体温で、血を含んだままで、私に触れたりするから悪い。汚らしい手で触れれば、汚れが全身をめぐってしまうのだ。汚い。どうしようもなく汚い、臭い。汚らわしい。誰、私のペンを勝手に使ったのは誰、私の机を変えたのは誰、拭かなきゃならない。私の辞書をめくったのは誰、焼き捨てなければ――。

「なァに、その目。笑えるんだけど」

 隣席の血液臭い女が「何であんたが隣にいるんだよ? ったくきしょくわりー」そんな目で見ている。どんな声を上げても、きっと油を注ぐことになる。

「なっ、あやまんねえの?」

 ――なに笑ってんだ、あなたはその娘を心配なんかしちゃいないのだろう。腹の痛い女はさっさと帰って錠剤でもかじって寝ていればいいではないか。そんなことはおくびにも出さず、言われた事をやってのける。

「……ごめんなさい。急だったものだから」

 目の焦点が合わないのを悟られぬよう、千代子は頭を下げる。誰に謝っているのかはよくわからない。特に謝ることがあっただろうか? ――そんなことよりも、肉にけがされた部分を、汚れた部分をはやく消毒しなければ――。一歩、足を下げる。

「へェ――――っ!」「おい、よしときなよ」「ご、ごめんねいきなりいい……」「何で謝ってんの、てめーバカにされてんだよ、うっぜ。キレていいとこだぜ」

 槌田紅実の語気が沸き、血の臭いが強くなる。それが千代子のイライラにとどめを刺した。

「――ごめんなさい。私、急ぎますから。何かあったら、後で、仰って」

 息の荒さが悟られていたと思う。明日になればきっと千代子の誠意のない態度は噂になる。生きづらくなるだろう。たとえば、朝教室に来たら自分の机がなくなっていることがあるかもしれない。たとえば、使用済み生理用品が本のしおりにすり替わっているかもしれない。そんな引き込みたくなどないリスクの数々を予測してか、片岡千代子のブレーカーは主人が破裂してしまう前に発動を決め、脱兎の如く教室を逃げだした。槌田紅実の怒声が廊下に響く。

「まてよ、おィい! 片岡ぁ!」

「ほっときなよ、槌田」

 そのまま千代子は一階の職員用トイレまで競歩にも似た速度で移動し、ノブをハンカチで包むのも忘れてアンモニア臭のするドアを開け放つと、髪を後ろ片手につるし上げ、便座をはしたなくも足で上げると、身体を縮めて器用に吐寫をした。

 簡単なことなのだ。

 あの男の顔を、思い浮かべるだけだから。