A グラスランド・オーバー/1
鴉が鳴いていた。
「――おや」
プラスチック容器が、雫をこぼしながら奈落へと落ちていく。
黒いセーラー服の少女が、赤く染まった鉄塔の上に取り残された。
「あはは、残念だなあ!」
殺伐としたその場所におよそ似つかわしくない明るい声が、地上からほど高い空に溶けていった。少女の周りに浮いていたシャボン玉たちがその声に刺されて消えていく。
無数の虹色の球の向こうには歪んだ世界が映っていた。少女は、次の目的地を占う為にそれらを浮かべ、そこに映る夕焼けを楽しんでいた。なのに、泡を産む中空の藁は相方を失って、少女の唇に貼り付いている。シャボン玉遊びには満足していなかったが、占いは済んでいる。
「ぷっ」
用済みのストローは少女に見放され、先に落ちた相方のいる奈落へ音もなく落ちていった。
高圧電流が流れる特別高圧送電線の束を地上百メートルばかりの高さに固定する支えに、少女は腰掛けていた。深い山の奥、聳える鉄塔は女学生のスカートの如く広がり、はしたなく生足をお披露目せぬよう、地面にぺたんと座り込んで行儀良く。スカートの周りは不届き者が入り込まないよう、鉄柵や鉄条網のガードを備えられている。絶えず産み出され続ける炎から雷に生まれ変わったばかりの子らが町にたどり着く前に、変電所までその道を確保してくれる。
そんなことは、少女にとってあんまり関係のないことだ。けれど、少女は高いところが好きだ。だから、好みの鉄塔があれば昇るようにしている。横の鉄軸に腰掛け、ぷらぷら足を振ってうたうのだ。
「高い! それでも天上はさあ、より高いんだよ! ああ次は墜(ツイ)か、終(ツイ)か!」
高い場所にいるとすうっとする。下をみるとすうっとする。鉄塔と電線の間にある陶器でできた碍子(ドーナツ)をみるとすうっとする。ここには、今はもう人ならぬものになってしまった彼女を楽しませるスリルがある。消えるのも終わるのもまだつまらない。
少女は博識ではなく、しかし大胆で臆病であったから、まだ高圧電線に触れたことはない。めくるめく天を衝く東京タワーから落下してみたことはない。だから、どうなるかわからない。それは、試す価値があるように思えた。
「――あはは」
薄ら笑いを湛え、尻を半分前にずらすと、湿った太腿の裏に風を感じる。
勢いよく飛べば。そうでなくとも、この身に備わっている人ならぬ力なら、この赤い森の空にぴーっと引かれた黒い線に触れることができるのではないか。柔らかな皮膜に包まれない渦巻き荒ぶる電子の群れにこの身を委ねることが出来るのではないだろうか。
そうすれば、終わることは容易いのではないのだろうか。
「あはは、シビれに満ちて、ボクはコゴるだろうか!」
この身の行く先を想像する。全身に電流が流れるさま、人ならぬ力を使わずに地面に叩きつけられた時のさまを。もしかしたら大丈夫かもしれない。高圧電流の奔流が皮膚や肉を焼ききる前にできることがあるかもしれない。
少女の体は人間のようでいて、人間ではなかった。刃で致命となる場所を刺されれば死ぬだろうけど、電流を流しただけなら死なないかもしれない。もしかしたら、もっと生き生きとするかもしれない。この体に流れる毒のいくつかを、消し去ることができるかもしれない。
例えば、つい先日少女自身の強欲が選んでしまった過ちも。
「けれど――それをエラぶことなんか、できないだろう!」
いさましく誰にか語りかける。傍には誰もいない。
少女の視界には残照に暖められた森が広がっている。この夜の間にどれだけ冷えていくのか、そんなことを考えている。残照の果てには街があった。「大きな街」と、彼女は呟き、残照の焼き付いた目を休めようと奈落に目をやると、ぐらりと意識が歪んだ。
そんな意識も歪みそうな残照の方向にこれから少女は向かうのだ。何故って、彼女は少しばかり空腹なのだ。だから、次を探しに行かなければならなかった。街にはきっと、彼女の求めるものがあるはずだった。さっき泡の向こう側がそう教えてくれたから。元々彼女のものではなかったこの異能は、今では彼女の一部になっていた。光学的に歪められた景色の中に『隠されたもの』を見つけ出す能力。
これらを少女は「魔法」と呼んでいた。
「――――♪」
黒いセーラー服の少女は揚々と朗々とうたいはじめた。けして上手ではないけれど、節をとることはうまいと彼女自身は思っている。誰が聞いてもいないが、誰かが聞けば「歌ではない」と言ったかもしれない。言葉はそれは最初、いさましさと深い悲しみを同居させた調子で、どこかクラシックの寄せ集めCDで聞いたようなごちゃごちゃした音だったけれど、いつしか風の音と混ざりソナタのようなメロディに変わった。
迷いながら、それでも確かに続いていく音楽。
「――――ふぁ――あ、起きた、ね」
旋律が乱れ、少女はうたうのをやめる。気に入って何度もにゃーにゃーと繰り返していたサビの繰り返しをやめる。もごもごとなにかを噛むような仕草をすると、にやりと笑みを浮かべ、両の足でずいと鉄塔の上に立ち、傍の鉄骨を掴んだ。
風が少女の体を煽るけれど、天頂で集束する鉄骨は鴉の糞と油で汚れていたけれど、お構いなしだ。直立してすぐに両手を離す、風からバランスを取って十字架ポーズのつま先立ち。ゆらゆらと揺れはするが、危なげな様子もない。
そして、少女は靴下を、そして闇に溶けそうなほどに黒いセーラー服を脱ぎだした。リボンを外し、胸もとのホックを外す。リボンスカーフを外す。リボンスカーフを外して、ゴムバンドを白い指にひっかけてくるくると回す。日が大地にかかり、迫る紫の空にそれを飛ばす。リボンスカーフと同じ色の空に片っ端から溶けていく。タップダンスを踊るように乱雑に脱がれた靴下に足を取られることなく半裸の少女ができあがった。
「ああ、ほら、ボクはこんなに脆い! きっとキミのツムぎもカルいにタガわないのだから! ミダされるのなら、いっそ、空が青くても赤くてもカマわないんだろう!」
緑青の髪が、水中に咲く花のように拍子遅れで揺れる。
「さあ、はやくやりとげてしまうのがいいね! そうだ、ボクらの臆病がキミを幸せにしますように! ボクの我儘のことを、先に詫びておこうか!」
少女は腰のスカートを少し上に上げる、四十五度横にずらす。右のチャックを下におろす。風の強い鉄塔の上だというのに、その金属音は少女の中にいちいち響いてくる。
「この隙間はウズまろうとするだろうか! ミタされているようで、あまりに虚だ! あははは、なんだって、なんだってボクらはこんなに不器用なんだろう!」
スカートが落ちていく。
スカートは縮こまったトムボーイのようになって、鉄塔から落ちる前に少女の両足に引っかかり、その寒々しい足下を隠した。
代わりに本来隠されているべきだった場所がさらけ出される。少女の太股が、下着を纏っているべき部分が、あられもなく夜の森に公開される。残照を反射して光っているのを、凝視すればわかるものがいたかもしれない。
けれど観客は、鉄塔と電線と空と、彼女自身だけだ。
「ああ、涼しいじゃないか! なんたる心地よさだろう! なのにこんなにも熱にアオられている! ボクは前から、空をカケてみたいとネガっていたんだ!」
少女は傍らに斜めに聳える鉄の縦骨に左手をかける。腐食した鍍金が錆び剥がれ、彼女の青白い手のひらに粗相をする。
そして、その腹いせとばかりに足下に絡みつく自分のスカートが広がる領域から両の足を外して蹴っとばした。気まぐれで救われていたあわれなスカートは鉄塔の下に落ちてゆき、そしてまた途中でその姿を空気に溶かす。
はじめから、そんなものは無かったと言わんばかりに。
「――風に吹かれれば、衆目にサラせば、なにか変わるとでもオモったのかい?」
冷徹な声が響く。その後に哄笑が続く。
何も纏っていないはずの少女の下半身、その周囲が歪んでいた。空気の歪みでも、蜃気楼でもないようだった。夕焼けをそのままミルクに溶かし、ローズを浮かべたような色の靄が、その歪みの正体だ。靄は高所の強い風に吹かれて生まれる先からゆっくりと散らされて空気に溶けていくけれど、あとからあとから、彼女の体のどこからか湧いて出てくるのだ。
少女は知っている。これも「魔法」なのだ。この魔法は、みだらな気持ちを誘い、辺りにまき散らし、宿主を堕落させていく。なけなしの理性を失ってしまうほどに強い、魔法。
少女は腰をおろす。火照った肌に冷えた鉄が直接凍(し)みていく。
「ん――」
少女は良からぬことを思いつく。下半身を守るものがなく、上半身だけリボンを外した黒のセーラーはどうしようもない背徳を含んだ光景に見えるだろう。しかし、誰もこの光景を見てはいない。彼女だけが人の意志を持ってここにいる。
鴉が再びざわめきだした。
少女は寂寥に満たされている。こんな自分で与えた恥辱ごっこですらも、かつて誰かと果たせなかった背徳ごっこも、全く物の役に立たない。
「では、キミに慰めをアタえてモラおうじゃないか――!」
少女は自分に問いかける。それは空しく響く。きっとそれなりの興をもって繋いでくれるだろうけど飽きっぽい自分を満たしはしないだろう。気ままな鴉たちも、美しい夕闇の空も、彼女の余分を、零したミルクへ投げ落とした雑巾のように吸い取ってはくれないのだ。
「つ――ま――ん――な――――――――――――い!」
鴉の群れは少女の駄々にざわめいて応える。
少女は子供じみた声を出したことを、彼らに恥じ入るような表情を作ってみせる。大きな声を出してみても、前の町で迂闊な食事をしたときから彼女の裡でずっと悪さをしているうねりは治まらずに暴れる。
「――ふぁ」
流行の感冒(かぜ)にかかったような吐息が、風に乗って広がる。
「きた……ああ、まだ――ああ、来たね……」
ざわめく鴉たちはところどころに二羽、三羽の塊を生じ、ギャアギャアとけたたましい音を立てて漆黒の羽をぶつけ合っている。
「あはは、その痴話喧嘩にボクらは混ぜてもらえないようだ!」
折しも陽が沈むところだった。
吹き抜ける風が、少女の敏感になった表皮を、全ての薄皮を痺れさせていく。沈みかけの、この日最期の陽光が彼女の粘膜を淫らに灼いて行く。鉄に響く滴りの音色が少女の耳を汚し、おぼろげに残る誰かの純真ごと、原初の快楽で痛めつけていった。
「――――ぁ」
いつしか、鴉たちは嘘のように静まっていた。
星明かりは少女の色素の薄い身体を、緑青の髪をわずかばかり映す。けれど、さっきから彼女の身体を弄んでいた靄の在処を映すだけのちからは持って居なかった。名残惜しそうに水音が響く。
「キミら、稀なサカしらをモラったんだろう――? なのに、カエってしまうんだ――」
鴉たちが鉄塔から去っていくのを、少女は名残惜しげに眺めている。それは陽が沈んだからのようにも、彼女の吐いた息が追い払ってしまった様にも見えた。鴉たちはこんな闖入者がいなくても、いつもそうしているように森の奥、そのどこかに帰っていく。
鉄塔に、少女は一人ぼっちで残された。途端、じわじわと内側から灼き焦がすような欲望が、華奢な肉に加え、捉えどころのない精神をも食らいつくそうとしてくる。死を天秤にかけてもなお、この厄介な「魔法」は少女の内側に夜の星々に似た光を灯して誘うのだ。
「ふ――あは――あはははは……!」
艶の溢れそうな声で少女は自嘲する。演技でもなく、自らの芯から甘い声が漏れている。
なんという態だろうか。前の街でも暴虐を尽くし、同類を食らい、己のみ生き延びた。ずっとそうやって生きてきた。いつからそうしているかも忘れたそのなれの果てのひとつにすぎなかった。あり得なかった欲望を呼び醒まされ、どうしていいかわからずにいる現状は愉しく、また、不安でたまらない。
少女は、幾多の理不尽な死線を、不敵に微笑んだまま生き抜いてきた――。そんなような笑顔でいる。その表情は前の街で食らわされた品のない呪いに心身みだされているこんな時すらも、変わらずに湛えられている。
「――ああ、ボクは今――マドわされているじゃないか!」
少女は裸の体を抱いて、嘆く。楽しむしかないのだと、進むしかないのだと。
生きていくことは難しくなんかありはしないのだと。
望まずに産まれ、望まずに食われ、望まずに殺め、望まずに疎まれ、望まずに忘れられる。
「そう、ボクら、魔法少女には――」
加護も、信じるものも、帰る場所すらもありはしないのだから。
魔法と少女が
みだらなままの下半身を星空に晒したまま
くるくると嘆いている。
少女の名は、真田(さなだ)瑛子(えいこ)。
いつからか、そんな名前だった。