I ループロープ・インファント/0

ループロープ・インファント/0

 

 三条結はクラスの誰よりも進んだ女だった。

 むろん「勉強が」ではない。そういうものには倦んでいた、お勉強は好きではなかったけれど、そこにあるものを理解するだけでいいなら簡単な事だった。誰よりも進んでいることは、結に取って楽しいことではなかったから、それはしなかった。

 結には余裕があった、飽くなき暇があった、服を選ぶのも、自分を飾ってみるのも楽しかった。髪を短めにした、両端で止めるのをやめ、色を少し抜いてみた。小学生の頃の自分よりも、明るくなったような気がした。

 実際、明るくなった。「できちゃう」ことに何故かくっついてくる引け目も、陰口好きのおしゃべりたちに(いだ)くうすぐらい気持ちもみんな軽くなった。

 

 羽が生えた女の子は、空が飛べるようになったと勘違いしがちなんだ。世界がきらめきとときめきでみちみちていると勘違いしがちなんだ。はじめて見たものは全部珍しい。校則に触れぬように、バレても指摘されぬくらいの、チクられないほどの爽やかさを自作のケーキにトッピングして楽しむ。うまく出来た日ははしゃいでしまう。結はそのころはまだ、自分がやったことが世界に及ぼす意味をわかっていなかった。

 だって、おいしそうなケーキは正義だ。いつだって正しいに決まっている。食べる人? ふーん、なにそれ、あっ、きみは知らないんだな! ケーキはなあ、すっごく楽しいんだぞ!

 

 三条結と名前の付いた新作のケーキに惹かれてやってくる美食家がいないはずはなかった。結は賢い子だった。そして同時に好奇心もあった。だからこそ、肌で感じていないことはどうしたってわからないと悟ってもいた。

 例えば最初っから最後までラブとラブで終わるあまたのマンガ。従姉の家に泊まった際に、ベッドの下に隠されていたロマンチックな秘め事を官能的に綴った書物などだ。

 その時にたまたま声をかけてきたのが、よくよく見れば首の後ろに黒子毛のあるがごとき三十過ぎのおじさまであったとしても。結のことを甘いだけのスイカ頭と思っていたとしても。とりあえず、顔くらいは好みの俳優に似ていたと思ったのだ。勘違い、してしまったのだ。

 

 なんたって、結には羽が生えていたから。

 

 はにかんだようなこまったように口元をゆがめて、そのくせに目だけはキラキラさせて。降りるには難しい軽薄な階段へと、手を(ひ)かれてしまった。残酷さと必死さを押しつけられた白粉(おしろい)の匂いまみれのプライドで丸め込んだクラスメイト達は、いいとこ手を繋いだ止まりに決まっているのだ。漂白剤の匂いがともすれば興醒めを誘うプラスチックみたいなベッドの上で反り返りながら、三条結はせせら笑う。

 ――きゃあ! ああ! やつらめ! ざまあみろ! これが空の上なんだ! 教科書にはほっとんど書いていないんだ! 知らないでしょ、ミキは一生知らないでしょ! すごいんだよ! こんなにすごい! 書いてあった書いてあったわ! 天にも昇る心地って! やった! 全部揺れてる! 中からみずがもれちゃうみたい! ほら、ほらほら、こんな風に支えられたことなんかないでしょう、サーカスみたい! ほら――ァ!

 

 二十ワットの白熱灯が、結の痴態をずっと見てる。

 その下で、肉が腰を振っている。

 

 ――はて。

 

 キスされた、やさしい言葉もかけてもらったし、約束もしてもらったし、かわいいからって最初のケイヤクよりも色を付けてくれたし、さっきからことあるごとにかわいいねっていってくれているし、だから結もそれが仁義とばかりに精一杯(なまめ)かしい声をだしてみたりしているのだ。

 その演技はもちろん最初は痛みを演じるところからだったし、悦んでもらえれば、結の好奇心も満足するに違いなかったし、その気分でやってみれば本当のところにたどり着くことの出来る最善の方法だと考え、実行しているのだ。

 

 ――あれ?

 

 肉が踊っている。べつだん美しくもない、死にかけた鳥のような目をして腰を打ち付けている。振動が胃に来る。こちとらはじめてなんだからもう少しゆっくりやってくれるっていったじゃんね。かわいいとずっと言い続けてくれる約束だったのに、さっきから臭そうな唾液を嚥下(えんげ)する音しか聞こえない。

 おっさんさん、そんなに喉が渇いたの? 私の飲みますか? っていうか、渇いてしょうがないんだけど私ゼンギちゃんとしてもらったっけ――あー、なんかおまた痛い気がする、してきた、つーか痛いし、叫ぶほどじゃないけどさ、でもさ。

 

 ――あれれれ。

 

 だめだよ結。そんなふうに考えたら楽しくないよ、もっと上手に脳を騙さなくちゃ。そうだよ、これも愛だよ、愛――!

 

 ――そんなの、ないって言ったじゃん。

 

「あ、痛かった? ごめん……もうちょ……あ、いや。やめよっか」

「…………」

 結は敗北感に(まみ)れていた

 ――だってあんたお金払ったんじゃないの? それでもめんどくさいなのイヤなの? だって男の人ってどうにかしないとケダモノなんでしょ? ――そんなのって、紳士じゃないですか。お世辞にもあんま気持ちよくなかったけど。助かりました。ありがとねー。そう言えばいいんですか。

 

 ――助かった?

 

 結がシャワーを浴びて出てきたら、男は血の付いたシーツを被ってもぞもぞと何かしていた。そのくせ、結にその行為をまじまじと見られているのを知ってキョドり、意味のわからないことばで言い訳をはじめた。

 

「えー? ほんとはそういうのが好きなんですかぁ~?」

「え、えっ? いや、キショいでしょこういうの、キミらにはとくに、でしょ? いやほんとにさ、見せるつもりじゃなくてさ、意外とはやかったねっていうかぼくもあはは、いやあははははは」

 

 結には不思議と、そうやって目を泳がせている男の情けない様の方が、さっきよりも魅力的に映った。男が背中に隠して、まだ未練がましく赤く汚れたシーツを掴んでいるのもだ。三条結は楽天家だったし、賢い子だったから、男が何を求めているのかも見えてしまった。そして、自分の中に潜んでいるなにかのかけらも。

 

「――ねぇ」 

「は、ひゃい?」

 

 男の返事はあまりにも滑稽なものだった。あんなに虚勢を張っていたのに情けないものだった。結はタオルの前を少しはだけ、前屈みになって目をキツネのように細めながら舌なめずりをする。そうすることで、自分の正しい位置を知ることが出来るような、そんな予感があった。男の瞳孔が開いた。

 結は頭の中で計算する。どんな苛烈な言葉をどんな妖艶な仕草で放てば、この男を手玉に取ることが出来るだろうか。いくつかのパターンを試す余裕はあるだろうか。

 それを考えるのは楽しい、好奇心が満たされていく。香料の強すぎるわざとらしいボディソープの蒸気が体臭とまざり、南国の獣みたいな匂いをさせている。結がそれをタオルでわざとらしく扇ぐと、この底の浅そうな男はびくりと身体をこわばらせた。

 結は予想通りの反応に満足と不満の相反した両方を覚える。きっと不満――不安の方が幾ばくか強い。自分はなんてワガママなんだろう。さっき大きな賭に負けたばかりなのに、今度こそ、自分の予想が当たることを半ば信じてしまっていて不感症になってしまっているんだ。

 そして、このつまらない男は、きっと結が考えたどんな方法でも満足してしまうにちがいないのだ。

 

「――ま、いいか」

 

 三条結はみずからの貪欲さを誇示するかのように、みずからに確かめさせたいかのように、もう一度舌なめずりをする。簡単だ。ただそれだけで、紅さの落ちたリップはまたみずみずしさを取り戻すのだから。

 このつまらない男にはきっと二ヶ月かそこらで、ママがやらせたがったエレクトーンやバレエよりももっとはやく飽ききってしまうに違いないのだ。だから、色あせる前に味わっておこうじゃないか――。

 

 限定の色物ケーキ、みたいなもんじゃないか。

 

 

 覚えたての血が、また内側に線を描いている。

H ステンドグラス・ストラテジー/5

ステンドグラス・ストラテジー/5

 

 その場所とは被服室の隅ということだった。通気戸をくぐり中に入ると、三条があられもない格好で立っていた。

「――せんぱい、ごめんなさい」

「な……に? どうしたの、三条……さん」

 カーテンは閉められていたけれど、扉は開いていた。やっぱり全身に縄をかけた姿で、昨日とはちょっと違う結び方で、制服は綺麗に畳まれて作業机の上。靴下と縄だけの三条結だった。

 ――なんで。

「話、するんじゃなかったの……?」

 佳恋は扉を閉めるのも忘れて、そう聞いた。

「せんぱい、閉めましょうか、戸。鍵も」

「あ、ご、ごめん……」

 通気戸を閉めて、佳恋は鍵をかける。

「あ……」

 三条がなにをか言おうとしていたけれど、佳恋は気付かない。三条も佳恋にそれ以上言わず、代わりに携帯を差し出した。フェンリル指示(・・)が表示されている。

「――あの、メール」

「……いい」

「……え」

 佳恋の拒絶に三条が一歩下がる。佳恋はちょっと自分のキャパの小ささに打ち(ひし)がれてしまっていただけだった。目の前の倒錯――この世界のどこかに、こんな倒錯があって、それに脅されているとはいえ従っている子がいて――。こんな異常なことを、佳恋は自分だけでどうにか、丸く収めようと、解決しようとしている。

 そんな思考が、あまりにも愚かで子供っぽいことのように、一瞬思えてしまった。首を振って、ひとまず飲み込む。

「――そういうんじゃないの、ごめん。……寒く無いの?」

 三条は殆ど全裸だったから。

「……大丈夫です。これから……あったかくするので……」

「――え?」

「ちゃ、ちゃんとみていてくださいね、センパイ」

 ぎっ。と縄の軋む音が聞こえた。三条との距離は人ひとり分以上あるのに。繊維のひとつひとつが、三条の皮膚を刮げていく音が聞こえる。そんな音を立てながら、三条の右手が左胸に、左手が秘所に及ぶ。

「――なに」

 右手は親指と小指で肉を挟みながら、人差し指と中指で、乳頭に刺激を。

 左手は縄をかき分けて、中指を三条のうちがわへ。

「なに――して」

「せんぱい、そんな目で――ああ……」

 佳恋の目の前で、三条は自慰をはじめてしまった。それも、恥ずかしがるような(おもむき)はほんの最初だけだった。すぐに三条の息は荒くなった、左手の――秘所の方からは明らかに水音が響いてくる。薄明かりの中で陰毛がぎらぎらと光って、踊っている。声が、甘くなる。

 その様。(とろ)けた三条の瞳を見ていると、佳恋にはこれが脅されているものの姿とは思えなくなってしまった。

「何をしてるの、三条さんッ!」

「――メイレイなんです。これは、先輩のためなんです」

 三条の揺れる視線が、作業台の上を指す。指は止めないままだ。右手は一本であることがもどかしいように、もう片方の胸をも貪欲にまさぐる。

「――そんなことッ! しないでいいよおっ!」

 佳恋はメガネをかけて室内を見渡す。これが脅迫なら、その根拠になるものが――どこかに――教卓上のスピーカーの中にカメラが見えて、他にはなさそうだった。佳恋はメガネを取り、ターゲットに椅子を持って走る。

「ダメ!」

「なんで!」

 それでも三条は指を止めない。だめなんです、だめなんですと壊れたラジオのように繰り返してまた、携帯を見る。

 佳恋は、唇を噛みながら三条の携帯を手にとり、バックライトを点けた。それはさっきまで三条が見ていたのだろう、すぐに表示された。

 ――おカタいきみの先輩に、いつもきみがしているようなオナニーを見せてあげよう。

 吐き気がする文面だ。

 ――できたら、自分がなにをしているか、口に出してみよう、きみの大好きな先輩だけじゃなくて、ぼくもちゃんと見ているからね。ああ、でもきみたちはそこにカメラがあるのを知っているだろうけど、それに触れたらルール違反だからね。

「なにが……ルール違反よ」

 佳恋はもう、憤懣(ふんまん)やるかたなくなって椅子を蹴る。ルールってのは、みんなで遊ぶときに、楽しく遊ぶための決まり事のことを言うんだ。これのどこが、楽しい遊びなんだ。

 ――ルールに違反したら、罰をあたえなきゃいけないね、先輩、ちゃんとこれを読んでいるかな? カメラになにかしたら。きみの後輩にはもっとはずかしくて、もっときもちのいいお仕置きをあたえなきゃね。あ、罰なのにきもちのいいとか、ぼくも甘いねえ。

 ――じゃあ、みてるからね。

 ――フェンリル

「ち……っきしょ!」

 使ったことの無い言葉だった。小学校の時にクラスの男の子が使っているのを聞いたくらいだ。あとはお父ちゃんが――悔しがったとき、一回……いや、二回使っただろうか?

「……あ、だめ……もう、止まらないよ……見て、せんぱい。わたしを、三条結の、オナ。見て下さい」 

「やめて、三条さん……止めて!」

 佳恋が動くのは口ばかりだった。手が出ない。三条は構わず、佳恋の前でショウを続ける。

 三条は下半身の縄の先、(へそ)の辺りの縄を手繰り、それを大きく擦り始めた。前後に、左右に揺らす。そして内側から掬い取った分泌液を、縄の当たるところに自分で塗りたくりながら自慰は続けられる。敏感なところがささくれに蹂躙されていっているんだろう。しぶきが飛ぶ。リノリウムに水の滴る音が響く。三条の口角からは涎まで垂れている。

 それは。人前に晒されるものではないはずなのに。

「三条さん……」

 佳恋はリノリウムに膝をついてしまう。冷たかった。 

「あ……ごめんなさい。あたし、無理に……あのでも……メイレイだから……そのごめんなさ、ごめんなさい……あの、あた、あたし、あ、もう。ぃ、ひっ、い、んっ……んんんんっ……」

 謝罪の言葉をのべながらも、背徳者の手は止まらなかった。前と後ろに大きくふるわせられていたその縄は、やがて小刻みに動くようになる。そしてそのふるえは彼女の腰によるものに変わる。縄の方が空中に固定され、そこに彼女の秘所がこすりつけられるような。あのささくれた太い縄がその度に彼女の肌を朱に染めているのに。

「はあ……っ……ああ……いい……すき……」

 なにも見えなかった。彼女にはなにも隠す場所がなかったから、ふつうに見えるもの以外のものは見えなかった。とめどない快楽に体をふるわせた下級生の体は、痙攣を繰り返しても、まだ動き続けていた。

 やがて、埃の固まりと糸くずの層が形成されはじめていたリノリウムの上に膝がかくりと落ちる。

「……メイレイ、だったの?」

 ――ほかにかける言葉はないのか、佳恋。

「はい……」

 その顔は、達成したような。

 いまの自分にとてつもなく満足しているかのような。

「立てる……?」

「あ、今触ると……あの――あ」

 生理的な――とてもわざととは思えないような痙攣が、掴んだ三条の二の腕を通して佳恋に伝わってきた。体温と一緒に、彼女が得た快楽まで、伝わってきてしまったようで、佳恋は自分の顔に血が巡るのを感じる。頭の中に、自分がそうなっていたら――というどうしようもないビジョンが一瞬映ってしまう。

「ごめんなさい、せんぱい……しかたなかったんです」

 佳恋は何も返さなかった。

 ポケットティッシュで汚れたところを始末して、制服を着て、三条は帰っていったけれど、佳恋はしばらく被服室に居た。取り残されていた。

 守るとか言った癖に、どうしていいかわからなかった自分を抱きかかえながら。情事のありさまをずっと思い浮かべていたんだ。

 

 

 夜。自室の佳恋に三条から謝罪のメールが届いた。

 ごめんなさいからはじまって「結のことはもう、わすれてください。大丈夫ですから、フェンリルだってもう、飽きる頃です。脅しを実行したら、おもちゃを捨ててしまうようなものでしょう?」と記されていた。どこかで聞いたような言葉だった。そこには矛盾がいくつもあって、佳恋の手に負える気がしなかった。

 それに、佳恋にはそんな難しい事を考えていられない。佳恋の頭の中は他のことでいっぱいになってしまっていた。

 さっき。

 彼女の下半身にまとわりついていたあの縄、彼女の表情、歓喜、羞恥、あれが自分の体にまとわりついていたら――そんな、はしたなくていまわしくてきたならしい一瞬のあやまちみたいな妄想の続き。気付けば佳恋は、自分のまたぐらの間に手をやっていた。

 

「――ばかばかしい」

 

 恥ずかしさに声を出して、跳ねそうになった体を押さえ込んで、佳恋は無理矢理夢の中に逃げていく。

 

 

G ループロープ・インファント/1

ループロープ・インファント/1

 

『るぅちゃん、今夜は暇なの?』

『いっそがしーです』

『そうなんだ、でもこんなところ来ちゃうんだね』

『たまってるんですよー』

『へえ、じゃあさくっとやっちゃう?』

『そんなことより、かわいい先輩がいるんですよ~』

『そんなことって・・ん、かわいいって? どんなよ』

『もー、ものすごいかわいいんです』

『えっ、男子なのに?』

『じょしですぅー! 男子とかペーッ!』

『え、もしかしてるぅちゃん男子なの?』

『・・は? まえ声聞かせたじゃないですか』

『おっこんないでよー。で、美人なの? レズ?』

『そういうんじゃないですね。ものすごい人が良くて素直ですね。したいですねーレズレズしたいですねー』

『へー、写真ある?』

『・・あってもあげませんよ』

『胸でかい? 頼めばヤラせてくれそう?』

『うっわ、キモい。キックしていいですか? ん。どっちかってーと逃げちゃいそうなカンジ』

『じょーだんだよ、じゃあるぅちゃんのでいいから頂戴よ』

『写真ですか? ・・なんか使われそうだからヤです』

『使う使う、マジ使う送って。くればーふぇんりるあっと』

『ぜったいヤです』

『残念! それ使ってるぅちゃんの先輩にヤらせてもらおーと思ったのになー』

『・・勘、いいじゃないですか』

『へ? ・・で、今日はゆっくりできるの?』

『あ、今日はもう落ちます♪』

『ちょ、マジ? 俺もうパンツ脱いでるんですケド?』

 

―― るぅ が退室しました――

F ステンドグラス・ストラテジー/4

ステンドグラス・ストラテジー/4

 

「ね、フェンリルって、何?」

「――IT関連企業?」

「なにそれ。ネット? あー……それかなあ」

「なにが、元ネタの話?」

「ねえ、それってなんか悪い(・・)?」

「ワル――? ……べつに悪かァー無いんじゃない? 何が良いか悪いかとか、俺わかんねーけどさ」

「ふーん、そういうのはスパッとキメるもんじゃないの」

「無理ゆーな、まだ文系か理系か迷ってるんだぞ、俺」

「理系にしとけば?」

「テキトーすぎんだろ、その理由は?」

「そうやって理由を聞いてくるところ」

「……ああそう。あ、話戻すけど、フェンリルってのは北欧神話の邪神だよ。これはまあ、悪い――というかどっちかといえば悪役なんじゃないかな」

「おー、博識ィ」

「狼の姿をしていてね。なんか立ち位置的には日本神話のスサノオと似てるかなーって俺は思うんだけど」

「やっぱきみ、文系じゃない?」

「なんだよそれ。ゲーム知識だよこんなの」

 佳恋はクラスメイトと談笑していた。もちろん、問題が解決したわけではない。あの日はともかく、三条を家に帰し、佳恋も自室に帰る運びになった。

 寝ることなんてできなかった。寝ようとすると、あの姿が思い浮かんできて、いろんな言葉を投げてくるのだ。明け方になってようやく、佳恋は寝付いた。

 登校してくる三条を見つけて、メガネをかけた。昨日と同じく下着の上には縄がいる。――力になると啖呵(たんか)をきったまでは良かったが、問題は解決していなかった。彼女は私をみて顔を俯かせたんだ。

 ずっと三条を見張って、誰かが接近してこないか見張っているわけにも行かない。彼女にはメールアドレスを教えて、何かあったら連絡するように含めたものの、佳恋もそのアクションを待っているだけではない。

 こうして、わずかずつでも情報を、得ていかないと。

「なんとかしなきゃ――ね」

「ん?」

「あ、なんでもない。ありがとね」

「なにが」

フェンリル

「――神話に興味があるのかな! カレン!」

「わ」

 真田だった。 

「――キミは校内をアルくのが趣味? カクれんぼかな?」

「なにそれ」

「今朝方、していなかったかな。そんなネムそうな(かんばせ)をして――。カレン! 睡眠不足は肌をミダしてしまうから!」

「――どうも。ご指摘のとおり、私、睡眠不足だから、ちょっとイラってきてますからね、真田さん!」

「あはは、オコったのかい、カレン!」

 三条の事がありはしたが、佳恋ひとりにとって真田瑛子の正体は、放っておけぬ差し迫った問題のひとつ――の筈だった。しかし、真田瑛子はこうして普通に佳恋に話しかけてくる、まるで、昔からの友人にそうするように気さくに。まるでなにかを企んでいるかのような思わせぶりなしゃべり方も、ただ、そういうキャラなだけなんじゃないかって思い始めていた。

 ――しかし、この人物が現れた頃と、結が脅迫されはじめたのは似た頃合いなのではないかとも佳恋は思っている。だが、彼女を犯人(フェンリル)とみれば、彼女はわざわざ結を調教――三条が言うには、それはそういう「プレイ」らしかった――するためにこの学校に来たことになる。

 いくらなんだって、それは考えにくい。

「どうしたの真田さん、今日は殊勝じゃない?」

「殊勝! ああ、なるほど。キミもはじめてにクラべて、変わっただろう?」

「――あなたは、なんなの? そのしゃべり方は私をバカにしているの?」

「ボクはそのままだよ、カレン! ――キミが見ようとしているのはどんな(ありさま)の蔵にオサめられているんだろうね?」

「――それ、本当にわからない。付き合っていられないわ」

「あはは! そう! それはけっこうなことだ! なにもかもロウじてしまうことほど、クラまされることはないからね! あはは!」

 そこでチャイムが鳴った。

「ほら、席に着かないと」

 メールの着信もあった。

 三条からのメールは念を入れて詩のように回りくどい文章でかかれていた。今日の指令を隠語で教えてくれている。佳恋は胸が痛くなる。どんな気持ちでこのメールをあの子は打っているのかと思うと授業なんか頭に入るものか。

 読みとった限り。フェンリルにはもうバレているらしい。だから、それを教えろといわれたけれど、黙っていたこと。そうしたら、今日は――いつもよりきついオシオキを指示されてしまったこと。

「――ゲスね」

 フェンリルは三条にアプローチをする度に、己の所在を狭めて行く筈なのだ。三条には悪いけれど、もう少し我慢してもらうしかない。近くにいればわかるのだから。

 ――この目で。

 佳恋はその日がな計画を練っていた。やがて、三条から控えめなメールが届く。フェンリルとやりとりの中で死角になる場所を見出した。そこで情報を交換しましょうということになった。

「――交換?」

 話をしたいのはそうだったけれど、佳恋はその三条が寄越したメールの雰囲気に違和感を感じた。必要のない行動と、どう類推したのかわからない情報――。

「――タノしそうだね、カレン! ――今晩、ボクとどうかな! 探偵ごっこ!」

「――何か知ってるの? それとも覗き見かしら」

「あはは、そんな難しい顔でカザりをニラんでいる人々はいつの世も探偵と呼ばれるんだ、カレン!」

「ああそう……」

 どっと肩から力が抜ける。

「私、予定入ってるの。またね、真田さん」

 ぐずぐずしていると、降って沸いた真田瑛子にどこぞへなりと連れて行かれてしまいそうだったので、佳恋はバッグをひっつかんで教室を去る構えをみせた。真田瑛子に一瞥を返して、虎穴に入らずんばとばかり約束の場所へと向かっていく。

 机の上にはしたなく座った真田瑛子が、手を振って見送っている。

「あはは、これはフラれてしまったね――」

 そんな声を、背中で聞いた。

E ステンドグラス・ストラテジー/3

ステンドグラス・ストラテジー/3

 

「――え?」

 赤い縄だった。

 その縄は全身を取り巻くように巻かれていた。

 佳恋の理解の範疇外だった。それがなんなのか実際よくわからなかった。佳恋の歪んだ視界は、その言葉通り歪んでいるから――はっきりとそれかどうかはわからないこともある。これがそれに類するものか判別がつかない。

 今まで見過ごしてきたあれこれのものと比べて悩む――。

 捻った首が一巡しそうな頃、佳恋の天秤は善意に傾いた。

「待って――!」

 決断は遅かった。

 もはや女生徒はいない。佳恋の所在に気付いたのか、階段の下で足音がぱたぱたと遠ざかっていった。

 眩む視界から逃れた失意の佳恋が教室に戻っていく。

 

 

 波瀾に満ちた昼休みの後、佳恋は重い息を吐きながら教室に戻ったというのに、真田瑛子の様子はまるで変わらなかった。佳恋はもう、彼女を見るのもイヤだった。

 真田瑛子はきっと、佳恋の頭がどうかしてしまったのでない限り、この世に害を為すものが人間に擬態しているものなのだろう。そんなものが、よりによって後ろの席で虎視眈々と佳恋に狙いを定めているらしいではないか。

 しかしどうやら、佳恋のことをすぐさま――消したり、するつもりは無いらしかった。

 ――もしかしたら、思い過ごし。

 ――もしかしたら、勘違い。

 ――偶然を被害妄想とかで塗り固めたら、ああいうものを信じちゃったりするかもね。

 そんな自問自答を繰り返す。しかし、隠されたものを見る「目」は今まで佳恋を助けてくれたし、そういう「人智を外れたもの」がこの世に存在することだけは、疑わせはしなかった。

 結局、佳恋が出した真田瑛子に対する答えは「保留」の二文字。なるようになれと呟いて、佳恋は椅子を後ろに向けて、真田の日本史の教科書にピンクのマーカーを引いてやった。

 

 

 放課後になったし、佳恋は帰ろうと思った。

「――あ」

 そんなとき、昼休みの女生徒が視界に入ってしまった。おどおどとした様を隠しもせず、放課後なのに、施設棟にスクールバッグを持ったまま吸い込まれていった。

 ――施設棟なんかで何を? 

 その後ろ姿に、佳恋は迷わずメガネをかけ、隠し事を見破る。

 やはり縄が見えた。全身を赤い縄が巡っていた。

 佳恋はここで足を止める。自分をおいて帰っていくクラスメイトたちが持って帰るとるに足らない秘密の中で、教職員たちが持ち帰るありふれた罪の中で、その縄の赤さは明らかに常軌を逸したもののように佳恋には思えた。

 佳恋は施設棟の上を見上げる。やはり遮光シートの所為で中を窺えない四階を。その上の屋上は鍵が掛かっているけれど、開けようと思えば開けられると聞いた。

 ――よもや。あの少女は、この賢くも冷たく聳える校舎で、ひとり死んでいこうとしているのではないか。見えた「赤い縄」は血に塗れた首つりロープ――。屋上からこれ見よがしに、世をはかなんで首を吊るうら若き女生徒。

 死なない理由なんていくらでもあるだろう。同時に、死のうと思ったらその理由だっていくらでも転がっている。

 ――ならば、見捨てるのか。

 まさか。助けるのが筋だ。見えてしまったのなら、そこに向かうことこそ正しく賢いものの選ぶ道ではないか。人ならぬ力で、誰かの道を正すたすけになる。

 カッコイイではないか。

 佳恋は施設棟に走る。スピーカーから流れる校歌が校舎と校庭を彩る。

 正しくあれと、導くものになれと、うつくしくともに咲けと、清く正しく歌いあげている。

 

 

 佳恋は女生徒を追って施設棟の四階まできた。今日の昼休みと同じ場所だ。彼女は屋上じゃなく女子トイレに入った。ほっとしたかったけれど、思い直してメガネをかけた。縄は変わらずはっきりと、彼女の周りに取り憑いている。

 この見え方は実際妙だった。真田瑛子の件はさておいて、佳恋の目に映るものが隠されたものであることしかわからない。この距離では、まるで。縄をそのまま纏っているような――そんな風に見えてしまう。

「まさか」

 ピンク色のタイル。三つならんだトイレの個室。真ん中の個室に――見えた。

 佳恋は自分の能力に驚かされる。これでは超能力(ESP)ではないか。前はここまで見えはしなかった。佳恋は恐れる。これでは「みてはいけないもの」まで、見えてしまいそうだった。

 ――今更、かなあ。

 そう思いながらメガネを外した。もう、場所はわかっているし、これ以上見る必要なんかない。

 あとは――本当のことを見るのは、自分の目であるべきだ。 

 トイレのドアを押すと抵抗。内開きと壁の間になにか挟まってる。バッグか、本人かだろう。佳恋は声をかける。

「――ね、開けて」

「――となり、開いてますよ」

 会話が繋がった。佳恋は緊張の糸を張ったまま、続ける。

「や、やめなよ、自殺なんて」

「――――」

 無言、途切れた線。佳恋はドアから手を離す。押すか、引くか逡巡する。決める前に、ドアの抵抗が明らかに弱くなった。佳恋は再度、ドアを押した。今度は全く抵抗はなかった。 

 洋式の便器の蓋を閉じた上に、(くだん)の女生徒は膝を揃えて座っていた。怯えと決意を混ぜそこねたような表情だ。ウォシュレット操作部の下に動かされたバッグには、なんのアクセサリも付いていなかった。

「あなたが、『フェンリル』――?」

 女生徒は、揃えた膝のまま口を開いた。

「はい……?」

「――いえ……えっと。あの自殺とかべつに、しないんですけど――どうして。あの……ここ、使うんですか?」

 女生徒は中腰になって、便器を指さした。

「――いや、使うんだったら隣使うし……」

「えっと、中……どうですか?」

 ――立ち話もなんですから。みたいなノリだった

「じゃあ、あの……お邪魔します」

 女生徒に促されて中に入る。ひとつの個室トイレの中で話をするという風習は、聞いたことはあったけれど、佳恋には馴染みのないならわしだったから、得体の知れない背徳感を覚えた。

 背中が開いているのが不安で、身体をずらしてドアを退けた。それだけでは不安で、ドアを背中に女生徒と対面し、後手のスライドキーを閉へ。すぐに金属音がした。

「――あ」

 キーを閉めきった音が個室の中に響く。佳恋は自分でも奇異な行動だと自覚しているのに、女生徒は何も言わなかった。不安な声を出してしまったのは、ドアを閉めた佳恋だ。

 ――閉じ込められた。

 自分が閉めたのにもかかわらず、佳恋はそう感じた。

「――あの、三条(さんじょう)(ゆい)と申します。三条通りで結びます」

「え? あ、はいご丁寧にどうも――えっと、あの。八頭佳恋です。二年です。えっと――、八つの頭に佳きラブの恋って書きます」

「なんか、強そうな名字でかわいい名前ですね――先輩」

「え、ええっ……。うん、変な名前でしょう」

 女生徒は後輩だった。そしてこんな状況でも物怖じせずにいた。佳恋が考えたように自殺するような――そんな雰囲気は微塵も感じられなかった。

「――――」

「……え、えと」

 自己紹介の後の沈黙。お見合い。まさにお見合いの後みたいだ。なんて佳恋は思ってる。

 ――そうだ、密室を作ったのは私なんだからこっちから何か言わなくちゃ。でも、なにを聞けばいいんだろう。「あの縄はなに?」ストレートすぎるし、どうやってそれを見たのって話になる。「なんでドアあけてたの?」人のいる個室にずかずか乗り込んでおいてそれはないだろう。「か、カレシいる?」頭沸いてるンですか、先輩。あー、三条さんの口が三角になってきたぞ、早くしないと、えーと――。

「――フェンリルって、なに」

 そうだ、これだ。開けて最初に三条が口にした謎の単語。ティーンノベルとかに出てきそうなその単語から察するに、三条がいわゆるイタい子である可能性が出てきた。そういう人の扱いを佳恋は心得ていない。そこに思い至って、佳恋はドアロックを閉めてしまったことを後悔しはじめた。

「……ちがうんですか? じゃあ、なんで私に、声をかけたんですか?」

 眉を顰める三条がいた。その返事に佳恋は安堵する、話の通じる相手であったことに。と同時に、自分の奇行が浮いてしまう。なにか、ないか――。

「――あ」

 あった(・・・)

「先輩は――、今トイレに後輩を閉じ込めてますけど……。どうして、そんなことしてるんですか?」

 三条は佳恋の動揺に気付いているのか、落ち着いた声で佳恋を攻めてくる。純朴な瞳で聞いてくる。

 しかし、今佳恋が見つけてしまったものは、その視線の先にあるものは。この位置から、メガネを掛けなくても見えてしまったものは。三条の――その甘えを含んだ声や整えられた佇まいが示す純朴とは、染めてもいない黒い髪からも、飾りもしないバッグからもかけ離れたものではないか――。

「三条さん――」

「はい」

 言うのを怖じていた。言ってしまっていいものか悩んだ。しかし、佳恋。お前は見てしまったではないか。自分で、見つけてしまったのではないか。自分で、ドアを開けたのではないか。自殺ではなかったけれど、他に異常を見つけてしまったではないか。

 他になにが要る。ここで逃げたら女がすたる。

 だけど、後一歩の言葉がでない。臆病な自分が恨めしい。

 目をつぶって、一拍。目を開ける。祈りは届かない。やっぱり制服の胸元から覗いている。さっき佳恋が見たとおり、憎たらしいことに色まで一緒だ。彼女の全身を、肩口から見えるものと同じ赤い赤い縄が巡っている。

 それが、事実なんだ。

「それ――しゅ、趣味?」

 ……考え得る限り、最悪の尋ね方だった。

「え?」

 指をさす。

 三条の目が動いていく。膝の上に揃えられていた手が上がる。細い指が、襟の隙間でとぐろ巻くそれ(・・)に触れた。

「――あ」

 佳恋は、もう少し言い方は無かったかどうか考えている。でも、どれだけ頭を捻っても「それ、どこに出荷するの」を仔牛が売られていく歌の節に乗せてやるの如き、しようもないものしか浮かんできやしなかった。

 三条の目がみるみる死んでいく。

「――お願いですッ! いわないでください! 誰にも! これ……、これはっ!」

 三条が立ち上がった。鬼気迫る表情で佳恋に縋りついてくる。制服が引っ張られる。

「わ、のびる」

「先輩、なんで――、ひどい!」

「え、私?」

 三条は錯乱しているように見えた。逆にその姿を見ていると、段々と佳恋の乱れた心は落ち着いてきた。

「ね――、それって、本物」

「は、はい――な、なんでもしますから! どうか!」

「なんでも――って、そんなオオゲサな。ね、落ち着いて」

 諭す。その乱れた様子。もう隠そうとしない肩口からの赤い縄。立ち上がる時に伸びた腹の隙間が赤かった。その制服の下にやはり、毒リンゴのごとく赤い縄が張り巡らされているのに違いなかった。

「だって――、バレたらあたし――また――」

「また?」

 ――これやっぱり、SMってヤツなんだろうか?

 佳恋の脳がフル回転している。――だって、こんなおとなしそうな子が、どんな理由で自分からこんなことをするというのだ。個人の自由は尊重するべきなのだけど、それにしたって理解の範疇を超えている――。

「ねえ、それって……」

「い、いや――ッ!」

「ね、ちょ、ちょっと声大きいよ。三条さん。静かにしたほうがいいんじゃない……?」

 三条は目を見開いた。きっと言い方が悪かった。両手で佳恋の服を掴んだまま、重力に任せて引っ張っていく。

「おねがい、おねがいです、こんなのバラされたら、あたし、あたし……!」

 佳恋は一発で悪者になった。だって、誰かがこの状況を最初から見ていたら――。ああ、個室に押し入った挙げ句、鍵までかけて泣かせてるじゃないか。全会一致で有罪(ギルティ)だ。

「ね、よ、良かったら説明――してって、あの、私じゃ力になれないかもだけど……とにかく――落ち着いて、ね」

 明らかに落ち着いていない佳恋の力なき説得にも三条は落ち着いた――ように見えた。でもそんな筈はなかった。小刻みに震えて、俯いて、ようやく手を離した。

「――、いいんですか? せんぱい」

 俯いたまま、三条は呟いた。それは最初のはっきりした声とも、さっきの怯えた声とも違った。有無を言わせるつもりのない響きがした。

 いいんですか、もなにもないだろう。こっちが聞いているのだから。そう佳恋は頭で思う。しかしその奥――佳恋の動物の部分がなにかに怯えている。

「――ごめんなさい」

 返事を待たずに、三条は自分の制服に手をかけた。

「――え?」

 佳恋の思考停止などおかまいなしで、三条は動きを止めたりせず、慣れた調子で前をはだけていった。

 その切れっ端は見えていた。けれど、本物を目の当たりにするとそのまがまがしさに佳恋は圧倒された。それはなんだ。と口の中で三度繰り返した。頭がパニックを起こして、撚られた縄の太さの求め方とか、右の胸から左の胸までに必要な縄の長さとか、ろくでもない情報の求め方を考え始めた。

 求まらない。どうしてそんなことになっているのかがわからない。佳恋は扉をロックしてしまったことを、ふたたび後悔していた。

 ――ニゲラレないですからね。

 前を全部はだけ、赤い蛇をのたうたせたほんのひとつ年下の少女が、この狭い領域で目に意志を胎ませて、佳恋の目を射貫いている。

「わたし、見られているんです――」

 手をだらりと垂らして、他人(ひと)事のように三条が言う。便器の奥の壁から水の流れる音が響いてくる。音が止んでも、佳恋は、三条に何を聞いていいのか、なんて声を掛ければいいのかわからなかった。

「えっと――」

 推理みたいなものはどこかに飛んで行ってしまっていた。縄の掛かった裸身はさぞ痛々しいだろうって、事実を予測してから思っていたんだ。でも、でも、なんてことだろう。

「――先輩」

 潤んだ瞳、解かれかけたまま襟を渡る紺のリボン、崩された白いブラウス。その下に見えるはずのブラジャーはなく、代わりに山の稜線にのたうつ赤い蛇。それはきっと見た目よりも固いのだろう。だから、その痕が肌に残っている。そして、頂きのふたつの(しるし)それぞれに赤く自己主張していた。赤蛇はそこに触れても居ないのに、あきらかに先端は血を集めていたんだ。

「――――ふぁ」

 摂氏三十八度の溜息が漏れる、その懦弱(だじゃく)声に佳恋は自分で驚き、一歩下がる。鍵の掛かったトイレのドアが鳴った。沈黙。佳恋は、踏みにじられた楽園の惨状に一発でヤられてしまったんだ。

 山の頂を結ぶ中心点には心臓をその真下から引っこ抜いたがごとき(こぶ)が結ばれていた。そこから下へ蛇は伸びていく。二度サイン曲線を縦にしたみたいな枝分かれをして、その三度目でスカートの中へと消えていっている。

 それを、きれいだと、思ってしまったんだ。

「――先輩、誰かに……言いますか?」

 酔っぱらった佳恋の意識を、三条のその声が呼び戻す。

「い、言わないッ」

 ――こんなこと、言えるはずがない。言ったらどうなる。この子は破滅ではないか。

「先輩が言ったら、わたし、おしまいなんですよ」

 (うつむ)いて佳恋を見る姿は当然上目遣いだ。佳恋は、世の男に媚びる女が、どうして揃いも揃って手を前で合わせ背を低くして上目遣いで甘い声を出すのか、この時までよくわからなかった。だけど、今身体で納得した。ああ――卑怯だ。

 佳恋の唇が動く。

「おしまいなんかじゃないよ」

 そう、言葉が漏れた。うわごとのように漏れた。それはまさにうわごとだと佳恋は言葉を漏らしながら思っている。けれど、三条は佳恋を見上げ、流れるように顔を上げた。泣いているかと思えたけれど、三条はきょとんとしていた。

「だいじょうぶ、味方だから」

 そして、佳恋は自分の吐いた言葉が、わりとしっくり来ていることに気付いてしまった。「味方」つまり――敵がいる。そう、さっきの「見られている」の主語は、佳恋ではなく別の誰かが――。

 佳恋は声をひそめた。そしてポケットからメガネを取り出し、かけた。

「せんぱい――?」

 視界が、揺らぐ。

 縄はもうはっきりとしない。見えるのは三条のポケットの中にある携帯電話――。なるほど、それと――。

「――ちょっとまって、ね」

 ぐるりと見回す。三条の背中にトイレットペーパーが積み上がっている。――そこと。

 足下の汚物入れ。

「――ん」

 胃から酸がこみ上げてくる。頭が痛くなる。最初にこの能力に気付いたときもそうだった。今はそれに加えて、自分の予想を裏付けるものが見つかってしまったことに、吐き気がしているんだ。

「――せんぱい?」

 佳恋はメガネを外すと、口の前に指を立てて静寂を求めた。そのまま、ゆっくりと汚物入れを覗く。汚物は入っていない。代わりに――ボツボツと穴の開いた部分を備えた電子機器。

「――!」

 それを引き上げると三条は声ならぬ声をあげた。佳恋はまだ指を立てたまま、もう片方の腕を三条の後ろに伸ばす。芳香剤の中で三条の髪の香りがしたけれど、気にせずに伸ばす。引き抜いた二段目のペーパーには、レンズが埋め込まれていた。

 レンズは逆さにして、盗聴器らしき機器から電池を外した。

 佳恋は、ようやく息をついた。

「ねえ、あなた――もしかして。なんか――。脅されてるんじゃないの?」

 火曜日のこの場所を選んだのは――。

 機器が予め仕組まれていたのは――。

 返事の代わりに、三条はパクパクと唇を震わせ、頷いた。

「――どうして」

「なんとなく、よ」

 即答した。こんなのぞき見みたいな能力は、人に言うものじゃないと佳恋は思っている。こうやって人を救えることもあるんだから、あって良かったとは思うのだけど。

「やっぱ、先輩が――? 『フェンリル』――」

 ――ああ、そうか。

 佳恋は悲しそうな顔で首を振る。

「えっと……これって信じてもらうしかないんだけど――。そのフェンリルってのが、あの――三条さんをそんな風にして――んのかな? でも、私がこう言うの見つけられたのって、なんていうか――勘みたいなのでさ……」

 うまく言えない。

「その……えっと。あの、三条さん。だって学校でそんなの――ねえ、もしかして、自分で……?」

「違いますッ!」

 大きな声だった。反射的に掌で三条の口を塞ぎ、息を潜める。  

 ――どこからも音はしない。

「お、落ち着いて。ごめん。そんなわけないよね」

 そうだ、佳恋。失礼だぞ、うら若き乙女が自分からこんな事する筈ないんだ。こういうことを考えるのはいつも男子ばかりの筈だ。だから。

「やっぱり、脅されてるんでしょう……。もう、ここは大丈夫だから。ほんとのこと、話してみて? ね」

 手を三条の口から離しながら言う。

「――ぷぁ」

「ごめん。くるしかった?」

 ふるふると首を振られた。

「あの……先輩、まきこんでしまったんじゃ……! あたし、先輩がその……わたしに命令してくるひとなんだって思ったんです。でも、違ったん――ですよね……あ、わたし、どうしたら――」

「それが、フェンリルってやつなの? そいつが――こんなひどいこと、させるの?」

 肯定のジェスチャ。

 ――私はいったい。なにをしているのだろう。

「味方になるわ、だって、あなたの先輩だもの。泣かないで。さあ、――そのフェンリルって、きっとハンドルかなにかよね……教えて?」

 ――なにをいっているんだ。

「はい……あの」

「わかってるわ、公にしない、誰にもしゃべらない。でも、三条さん脅されてるんでしょ? ……どんな、感じなの?」

 そう。もうひとつ、気になるものを見ていたはずだ。

「えっ、はい……。そのですね。あの、ごめんなさい……」

 自分を責める言葉がでてきた。

「私、協力したいの、三条さん。……でも、こういうのあんまりわからないから……その、えっと」

 もどかしい。

 彼女は年相応の好奇心でもって、危ない橋を、自分の能力を過信してわたってしまったのではないか。

 佳恋もそういったものに興味がないわけではない。けれど、クラスメイトや、学外の子たちの話を聞いても、耳を塞ぐわけでもなく、ただ漠然と「そう言う世界があるのか」と、遠い外国の――いや、他の星の話のように思ってきてしまったんだ。

「わたし、が……これ……」

 しかし、佳恋はそんな話をする知人達の中になんとなくジンクスを見つけていた。おとなしそうな顔をした子ほど、そういうことには敏感だというゆるい傾向。今までそんなものに触れたことも無いのに、突然、ティーンノベルに出てくるような色恋沙汰とセックスに付随する汚い大人の遊びを覗き見ようとして、本物の穴に落ちてしまったのではないか。

「どれ?」

「これ、見て下さい」

 三条は自分のケータイを出して、少しばかり操作をする。佳恋が持っているようなものではなく、触れるだけで操作できるちょっとハイテクな奴だった。

「――こ、こういうのどうやるの? 壊しちゃったりしないかな……」

「だいじょうぶですよせんぱい、みんな使ってますよ」

 そう言ってくれた後輩の顔に、どきりとさせられる。同性なのに――。いや、そんなことより、今はもっと、切羽詰まっている状況なのに――この子はどうして笑っていられるんだ。

 もしかして、ちょっとどころかだいぶユルい子なのかもしれない――なんて失礼な想像をする。画面には、パソコンのメール送受信画面のようなものが映し出されていた。

「メール?」

「はい……これ」

「――――」

 その内容は佳恋に人生で三番目くらいに眉を顰めさせた。――縄で自分を縛って写真を送れ。学校のトイレでそれをやれ。やるときは自分で声を出しながらだ。ちゃんとできなかったときは、わかっているだろうね――。

 なんたる卑猥な言葉だろう。

「なにこれ……」

 忌々しいものを見るような声に、三条が縮こまる。恐縮しているのか、それとも、自分が命令された羞恥と下卑に(まみ)れた耶蘇(やそ)の指示を他人に――同性の先輩に見られたことを恥じているのかはわからない。

「……これ、送っちゃったことあるの?」

 肯定。

「顔、見れるやつ?」

 しばしおいて、肯定。

 そりゃちょっとマズいなあ。と佳恋は思案する。

 ――個人情報ってやつをどこまで握られているのだろうか。痛みを覚悟で、警察に頼んでみるのがこじれた縄を解くのに尤も適した方法のように思えた。

 しかし、そんなことできるはずがない――。ここは高い山につづくこの地にかぞえるほどしかない赤い煉瓦でふかれた道の途中なのだ。落ちたら、最後だ。

 ――そんな場所で、興味本位で踊る奴が悪い。お前らは、まっすぐ歩いてりゃいいんだよ。落ちねえように。

 そんな声が聞こえて来た。海の中で集団をなす魚群から、はぐれた一匹は、すぐさま捕食されてしまうと言う。佳恋は三条を見る。三条も、こっちを見ている。

 ――この娘の不安はいかばかりか。

 いや、そんなものはとっくに振り切っているはずだ。その上で、突然現れた佳恋が不安要素になってしまっているんだ。この人物が、他人が、自分が不慮で招いたこととはいえ、この危機を確定させてしまうのではないかと。

「――なんとか、するわ」

 想像して、奮い立った。(しっか)と声が出た。

「えっ?」

 肩を掴む。ひとまず、ハイテクな携帯を返す。

「私が、なんとかしてみせる」

「そんな! 無理ですよ――それに。私……いいんです。この人だってじきに飽きるかもしれないじゃないですか……」

「そんな――」

 そんなうまくいくものだろうか? ウソだ、三条の顔はそう言っていない。

 飽きたら、きっと今まで略取されて来たのであろう三条の痴態の数々は、取引材料としての価値を失うではないか。この状況を見ただけの佳恋だって、それくらいわかるのだ。

 でも、それを口には出せなかった。

「せんぱいは――なんでか優しいですけど。そのうれしいんですけど……。わたしそんなに、助けてもらえるほど、立派じゃないんです……」

「りっぱ――? 立派ってなによ……」

「立派じゃないってことは、わるい子、なんです」

「そんな」

「みせます」

 三条はケータイをバッグの上に置いた。

 スカートのチャックに手をかけて、おろして、そのまま手を離した。重力にスカートが引かれていく。

「――――あ」

「――わたし、こんな子なんですよ」

 まず、臭いでわかった。

 トイレの臭いと芳香剤とスカートが、ずっと隠してくれていた。緞帳が上がった(・・・・)舞台の上には――予想通りの縄の芸術が鎮座していた

 だが、佳恋が言葉を失ったのは、それが為ではない。その光景が予想外だった為ではない。

「せんぱい、わかりますか?」

 三条の言葉が挑発のように響く。電話口のセールスレディよろしく訊いてもいない新商品の詳しい説明をはじめてしまいそうだった。でも、わかる、わかりますとも。そこまで(うぶ)じゃありませんとも――。

 上半身よりも、紅をもっと深くさせた縄――。

 それは下に白い布があるから、対比でそう見えた――ということもある。けれど、三条の肌は元々白いから、上半身の縄と比べて(こと)(さら)に色が濃い理由にはならない。では、なぜ赤い、なぜなぜ、赤い。どんな実を食べたら、そんな水を零したような色に――――。

「これ、おしっこじゃないんですよ」

「――や」

 ――それでは、問題です。

 ――なんで、濡れて(・・・)いるのかわかります

「せんぱい」

 ――言わないで。

 佳恋は動揺する。心臓がバクついて、耳が熱くなる。(うぶ)じゃないなんてウソだ。佳恋は、今まで自分でシたことすらないんだから。――いや、借りた雑誌の白黒特集ページを参考にやってみようとしたことはあったんだ――けれど、よくわからなくて途中で諦めてしまったんだ。

「は――」

 弱い声が漏れてしまう。

「せんぱい、こんな子を助ける必要なんて……無いんじゃありません?」

 三条は――下級生は続ける。

 ――わたしはこういう事に興味があって、自分で踏み込んで、こんな事になったのだから。もう、ちょっとばかり巻き込んでしまったけれど、もし、わたしを助けようとしたせんぱいが、傷つけられたり、もっと脅されたりしたらどうするんですか? と。

 佳恋はそれを、上の空で聞いていた。三条の言いぐさを聞きながら、佳恋は自分の中での羞恥や、三条への引け目に類するものがすうっと引いていくのを感じていた。

「――それ、解くとバレるの?」

「え……?」

「そのまま、付けて帰るって命令なの? その――フェンリルってのとは」

 佳恋の顔はまだ熱かった。それで冷静なような、不思議な声色で、俯いたまま三条と対話を試みていた。

「そうです……あの……一度、メイレイに逆らったら……掲示板に……ぐすっ」

「あ、ごめん、ごめんね……あの――掲示板って?」

「えっと……インターネットの」

「ああ、そういうの詳しいの、三条さんは」

D テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/1

テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/1

 

 ――真田瑛子は、魔法(まほう)少女(しょうじょ)である。

 

「真田さん、上手じゃーん」

「そうかな!」

「いま余所見してなかった? すげー」

「あはは、ボクにはワカっていたんだ。――冗談だよ!」

「真田さん、面白いなあ。もっと冷たそうな印象だったけど」

 真田瑛子は埃の舞う校庭にいた。施設棟の四階を横目でイタズラっぽく見据えたまま、クラスメイトと話をしていた。

「ねえ真田さん、どっか運動部入りなよ、って――今入っても、三年まで時間ないか、勿体ないね」

「あはは、時間はいくらでもあるよ! それでも、ボクはおなかが空いてしまうのを、キラうんだ!」

「食細そうだよねー、真田さん」

「あはは、こう見えてお腹は空いてしまうよ! 見えないところでミタしているのだからね!」

「へー、なんか水の中でバタ足する白鳥ね、真田さんは」

「……何あんたのその喩え」

 線の一本抜けたクラスメイトの漫才にも真田瑛子はかまわず、いつものように自分のペースで会話する。

「空を舞うなんてひどく難しいね! ボクはアルくだけで、いつだって精一杯だから! あはは」

「真田さんけんそーん」

「けんそーん」

 

 化け物というものはこの世界において多くもなく、少なくもなく存在し、ひっそりと生きている。その中で特に少女の姿であるものを誰かが魔法少女と呼んだ。

 それらは姿通り人の少女だったのか。もしくは生まれながらにして化け物であったのか、いつの間にやらそうなっていたりするものなのか――きっと本人たちですら知らない。

 ともかく、真田瑛子は魔法少女である。黒い服と緑の長い髪を(なび)かせて、人を騙し、(くら)まし、ただみずからの享楽と続く為の食欲(・・)を満たす為、奔放に生きている。世界の泥の奥底に沈まぬよう足掻いている。

 時にひとり、時にふたりで。

 時にただの気まぐれで。

 

 

 少女だった頃の事は、覚えていない。

 けれど、今は少しばかり、腹が減っている。

 「ああ――何をロウじてしまったのかな? カレン――!」

 ネットの向こう、砂埃に呟いてスパイクを打つ。

 軽い運動は、最高の調味料のはずだ。

                                       

 

 ――魔法(ごち)少女(そう)を食べに、やって来た。

C ステンドグラス・ストラテジー/2

ステンドグラス・ストラテジー/2

 

 一月も半ばだった。

 八頭佳恋は憔悴(しょうすい)していた。一つ前の授業はわかりにくいと評判の化学だった。コロイド溶液は我々でチンダル現象は人間社会の隠喩ということらしかった。なによりも罪なきクラスメイト達を憔悴させるのは長ったらしい小数点以下の並びや、想像の枠を超えた乗数ではなく「チンダル現象」を失敬なイントネーションで連呼する禿頭(とくとう)教師の性根だった。

 しかし、佳恋を(むしば)んでいるその憔悴は「ワシももう十年ばかり『チンダル』でのう! フォッフォッフォッフォーッ!」によるものではない。男子ですら苦笑を通り越して世を(はかな)みながら天を仰ぎ天井のシミで精神(ロール)鑑定(シャッハ)している。

「――ふーっ」

 ため息が出る。佳恋も天を仰ぐ。呼吸をするのをど忘れした身体に一から呼吸の方法を教えなおす。ボールペンを筆入れにしまい、次の授業の準備をしようと顔を上げる。

「カレン!」

「――ッ、はい」

 名前を呼ばれた。佳恋の尻がふわりと持ち上がる。声をかけてきたのは目下佳恋の懊悩(おうのう)を深刻にさせている張本人だった。

 しかも下の名前だ。下の名前で呼ばれるのは親しみの証だと思っている。でも、いま佳恋の名前を呼んでくれちゃった一月の新しいクラスメイトに親近感などは抱いていない。それどころか、はじめて見えたあの日から、佳恋の胸に(くすぶ)りと懊悩(おうのう)を与え続けているのは他ならぬこの敵意(・・)だ。

「カレン! 次の授業、ボクははじめてなんだ。そう、要領をオシえて!」

「――いいけれど、次は」

「グラマーかな!」

 横一線に裂けたような口から、歌うような言葉が漏れる。この降って沸いたような同級生はなぜだか佳恋につきまとっていた。席が近いから当然の帰結に見えるのだろうけど。

「英語は、得意分野ではないのよ」

「それは残念! でもボクよりは上手くコナすね!」

「――そんなことないわ、本質の見えないものは苦手なの」

「あはは。カレン、キミは謙遜をシキるね。――それなのにメガネはかけないんだ!」

「――えっ」

 ――ギぃ。と椅子の足が不吉な悲鳴を上げる。床の木目ひとつ分の後退。目を合わせないようにしていた異邦人(ストレンジャー)の顔を恐怖から見上げる。真田瑛子の顔は穏やかで企業パンフレットの表紙みたいに微笑んでいる。

「かけてただろう、メガネ。オボえてる、キミはそのままでもボクの顔を見ることが出来たのに、メガネをかけた!」

「えっ、あ、うん」

 なんだ、なんなの――? だとして、それが、何――?

 佳恋は混乱していた。このエイリアンになにを言われているのか判断が付かなかった。

「ああ、授業がハジまってしまう! 次の授業では――何を――用意すればいい?」

「次は、グラマーでしょう……あなたが今、教えて欲しいって言ったんじゃない。どうしたの?」

 真田瑛子は一層目を細めて、その分だけ薄く口を開ける。白い歯が見える。

「なんでだろうねえ、キミ。キミなら、知っているかなあ?」

 そしてチャイムが鳴る。彼女が転校してきてからこっち、佳恋はこういった揺さぶりか追及のごとき行為に晒され続けていた。聞きたいことがあるならスッパリと聞いてくればいい。そうすれば佳恋にだって打つ手はある。

 しかし真田瑛子は、のらりくらりと、臨界間際(クリティカルポイント)の水風船にマジックインキで落書をするようなことしかしてはこなかった。割れることを望んでいるのではなく、水風船の中で遊ぶ水の様子や、ペンの摩擦でひりだされるゴムの悲鳴を楽しんでいるように佳恋には思えた。今の質問のように。

 先日、佳恋は油断していて、クラスメイトのある隠し事について、うっかり知った口をきいてしまった。佳恋の油断は、そこに「居なかった(・・・・・)はず(・・)の真田瑛子」がいたことだ。自然に話題を逸らそうとしたけれど、真田瑛子は佳恋を見逃さず、 ヒマワリのように笑ってこう言った。

 

 ――あはは、まるで探偵のようじゃないか!

 

 佳恋はあの日見たものに確信が持てないでいた。けれど二度目を見ようとしていない。怖ろしい。八頭佳恋はいくつも怖ろしい。真田瑛子が怖ろしい。初めての日に垣間見てしまった、あのエイリアンの内側が怖ろしい。それを見透かしているかのような彼女が怖ろしい。得体の知れないものである筈なのに、知っていることを知られているはずなのに、敵意を持たれているはずなのに、まだ生きている自分が怖ろしい、それだけの恐怖を前にして、のうのうとしている自分の性根が、怖ろしくて怖ろしくて仕方がない。

 

 とっくにグラマーの授業は始まっている。

 真田瑛子が流暢な英語を、でもやっぱりアクセントの歪つさを教師に注意されながら、でも直さずに読んでいる。

 そのひとつ前の席で佳恋は考えている。 

 昼休みになったら、真田瑛子に声をかけられる前に逃げよう。高いところがいい。

 

 

 そう決めた手前、昼休みは一人で施設棟四階にやってきた。

 鍵の掛かった屋上よりも、静かで風のない場所だ。全面ガラスで景色もいいのに、マジックミラー仕様で外からは見えないようになっている。この曜日にはだれも教職員が居ないことは、意外と知られていない。かくいう佳恋も、この場所はメガネの能力で知ったのだった。

 サンドイッチとあげぱんをひとつずつ平らげる。その頃になると、尻に敷いたハンカチの下、床から冷気が滲みて座っていられなくなる。立ち上がるとタイツにまとわりついていた湿気が気化してなおさら寒くなった。

 目下の校庭では、食の早い生徒達が食後の球技を楽しんでいた。おおよそは男子だが、たまに女子が混ざっている。その殆どが四限か五限が体育で、ジャージを着ている生徒だ。制服が混ざっている時は、だいたい隅の方で羽根つきがごとき優雅なバドミントンが催されている。

「――あ」

 校庭の中にひどい違和感があった。

 真っ黒なセーラー服が舞っている。

「――真田」

 好色な男子達が黒い街灯に夜の蛾のごとく集まりだしていた。真田瑛子は校庭でのなんちゃってバレーボールに興じていた。他に女子も居るけれどもちろん下にジャージを穿いている。真田瑛子に無理矢理連れてこられたのか、制服のままでへっぴり腰だったけれど。

「――――」

 男子達が(どよ)めく。真田瑛子のスーパープレイ――ではなく、それに伴って、彼女の長いスカートが(ひるがえ)ったからだ。いかに長目だからといっても、跳んだり跳ねたりすればあわよくば見えてしまうだろう。

「……恥ずかしくないのかしら」

 手の平サイズの野菜ジュースを啜りながら、佳恋は思う。

「――あ」

 そこでふと思い出す。これはチャンスではないか。

 佳恋は手提げに入れてあったメガネを取り出す。この距離なら、遠目ながらも真田瑛子に気付かれず、あの「わけのわからないもの」をもう少しじっくり観察することが出来るに違いない――。

「――く」

 視界が歪む。

 球遊びに興じる転校生を、その歪む視界の中心に据え――。

 

 ――見ているのは、自分だけだとオモったのかい?

 

 そんな声――が――。

 やにわに聞こえたと思った。その時は既に遅かった。校庭にいるあまたの生徒の目が真田瑛子のそれになって、一斉に佳恋に向かい――見開いた。

「――ひいいッ!」

 たまらず佳恋はメガネを外した。勢いよく外したものだから(つる)が鼻先を引っ掻いていった。心臓が懸垂逆上がりを試みて、失敗して落ちたくらいの衝撃だった。コンタクトだけを通した佳恋の視界には、全くさっきと同じ、穏やかな校庭が拡がっている。

「な、に?」

 手が震えている。でも一瞬だった。視界は歪んでいたし、なにかを光の加減で見間違えたのかも知れなかった。そういうことはある。あまりにも佳恋は真田瑛子を怖れすぎて、見えもしないものまで頭の中で創り出してしまったのではないか――。

 取り落としていたメガネを拾う。

「――もっかい、もいっかいだけ……」

 佳恋の好奇心は、意外と強くゆるがない。

 幼い頃、彼女の父親は「母親に似たんだナァ」と苦そうに零した。佳恋はその事を覚えていないのだけれど。

 メガネを再びかけて、校庭を見据える。

「――ひ」

 真田瑛子が明らかに佳恋を見ていた。やさしそうな顔をして、目は笑っていた。口はほんのりと空いていた。飛んできたボールを見ずにトスをあげた。

 歪んだ視界の中で、真田瑛子の輪郭だけが枠を(ゆるが)せにしていなかった。マクロ写真で彼女にピントを合わせたかのようで、見てきたものの中ではじめてだった。転校の日、彼女だったうすら気味の悪いモノは、切片すらも、彼女のどこにも見あたらない。

「なん――で」

 ここに自分が居るのは、見えないはずなのに。

 まるで歪んでいるのは「ボクじゃなくて、世界だよ」と佳恋に言いたげにしている。

「え――」

 校庭の真田瑛子が指をすっとあげた。

 明らかに四階の、遮光シート越しの、そこからは見えないはずの佳恋を指している、そして口をぱくぱくとして何をか言っている。

 

 ――うしろに目をソナえないのはなぜ!

 

「えっ!」

 後ろから――いや、脳の内側から反響する声。

 佳恋が振り向くと、誰も来ないはずのこの施設棟四階に、誰かがいた。

 女生徒だった。 

 丁度階段を上がって来た女生徒は、佳恋の歪んだ視界の中で体中に赤い縄をぐるぐると巻き付けていた。