B ステンドグラス・ストラテジー/1

ステンドグラス・ストラテジー/1

 

 二年生もはやいもので三学期になった。正月も終わった。今年はお父ちゃんのところに帰らなかった。タイミングってやつが合わなかったんだ。だから年賀状が来た。「楽しくやっているか、たまには遠慮せずに帰ってきなさい」みたいな言葉が、べったりとした龍の絵の横で恥ずかしそうにちぢこまっていた。佳恋は慣れない年賀状作成ソフトと格闘したであろう父の姿を想像しながら、それを机の中にしまい込んだ。

 

 二学期の終わりよりもとことん冷えた教室。二学期の終わりとかわらない席。ランダムに決定された配置。一学期は前の席に座った子が雲脂(ふけ)症で辛い思いをした。霜の降りていそうな合板の机にスクールバッグを載せる。久しぶりの教室は、いつもよりざわめいているように感じられた。

「あけおめー」

 だれにともなく声をかける。その声は喧噪の中に埋もれていく。いつもは佳恋も挨拶なんてしない。でも、正月明けの心は少し浮ついていた。ちゃんとした挨拶みたいなことは寮の食堂のおばちゃんと交わした程度だったから、ただの気まぐれに発した挨拶だった。こうした、学園に蔓延する薄情の覆いは佳恋にとって、不思議でもあったが心地よい風情であった。

 それでも、どこか物足りなかった。

「うん」

 隣席の男子がそう返してくれる。彼は佳恋よりもう少し早く学校に来ていたようで、コートを膝の上に掛け、片肘を机についていた。その男子は自分の出した声が、佳恋に向けられるだろう他の返事に埋もれてしまうと思ったのだろう。いつもならそうだけど、今日はたまたま佳恋にアンテナを向けている仲のいい女子などいなかった。

「――あ、あれ、俺か」

 寝そべらせた腕に顔を(うず)めてその男子は佳恋のほうにようやく目を向ける。

「早いね」

「うん、いつも何時に起きてたのか忘れたし、早めに」

「あはは、あるある。私、寮だから」

 寮だから、誰かが急げば急げばいい。気楽なものだった。

「ヤズは寮か、実家帰ったの?」

「ううん、今年はやめた」

「ふーん。大変だ」

「――うん」

 大変なのかどうか自分ではわからなかったけれど、佳恋は少し迷ってそう返した。実際、往復の電車賃を吝嗇(ケチ)ったのは確かなことだったから。それはきっと「大変な」ことなんだろう。この教室の大半にとっては。

 机の脇にバッグをかけ、やっと席に座る。冷気を溜め込んだ椅子にひやりとさせられる。自分の机の上にセーターに守られた両腕を伸ばし、だらしなく突っ伏すと教室の匂いがした。休みの間に埃を吸いながら降り積もっていた霜が空気に溶けているのかも知れなかった。冬に渇かされた掌がほんのすこしの湿り気を喜んでいる。

 教室はすこし騒がしいようだった。それは佳恋のあけおめが悪意無く拾われない程度に砂を削る(さざなみ)だった。

「なんかあったの?」

「んー……? あったというか、これからある、んじゃないかな」

 隣の男子は横たえた腕に埋めたままの顔を、より深みへと沈み込ませる構えだった。握られたままのケータイの画面はとっくにスリープモードになっていた。

「寝るの?」

「寝ない、寝ても起こさないでいい、さむい」

「うん、寒いね」

「――で、転校生だって」

「ふぅん?」

「シバタ情報――つってもさ、さっきキノシタとコムギコが話してたの聞いただけだし――でも、まあ」

「火のないところにムエン仏って?」

「うん、良かったね。女子だってよ」

「えーイケメンのほうがいいなあ」

「嘘付けぇ、ヤズはそんなのキョーミ無い癖に」

 ――そんなことないんだけど。

 佳恋はそう口を尖らせようとして、やめる。軽い沈黙。男子はなくしたボールを探すため、突っ伏していた顔を佳恋の方に起こそうとして、やっぱりやめた。

 今年最初のチャイムが鳴りはじめてしまっていた。佳恋は切断された会話の先を大脳の端っこで広げてみる。

 ――二年の三学期なんて中途半端な時期に、公立でなく、私立(わたくしりつ)の門を叩く転校生。

「――ま、不思議よね」

 謎とか陰謀とかには辿り着かない程度の些細な違和感が滲む。些細な違和感というのは想像の糊代(のりしろ)を引き延ばす。糊代がいっぱいあれば、その色紙で、どんなファンタジックな生き物を作り出すことが出来るだろうか。

 

「――お」

「来たぞ」

 

 教室が静まりかえる。教室の後ろのほうにある佳恋の席からみえる教室の中身は全ての席が埋まっている。小さく纏まった賢き世界だ。満ち足りた人々が満ち足りた未来を得るために設けられた波も高くない穏やかな凪だ。

 教室の窓が開いても、エアコンが止まっても、ちょっとした停電が起きても、誰かの教科書が一冊ばかり失せても誰も騒ぎはしない。この国のどこかで一日百人のお父さんたちが自ら天に昇ることを選ぶことより、誰かが流行の風邪をひくことや、あの大学の要綱に一つ科目が追加されることにわずか(どよ)めく静寂(しじま)なる世界。

 満を持してエイリアンが訪れる。

 

 ――ハジめまして。

 

 担任が新年の挨拶と連絡事項を前置きとしている間も、明らかに廊下に待たされているその誰かの気配をクラス中が探っていた。担任はうんうん頷き廊下にむけて手招きをひとつした。廊下に待たされていた転入生が敷居を跨いだ。

 それは果たして女子だった。くろいくろいセーラー服だった。

 異変はすぐに訪れた。エイリアンが教卓の横に立ったとき、足を揃える位置を直したとき、既に黒板には名前が書かれていた。担任は微動だにしていなかった。『真田瑛子』と記されたその字は少し丸みを帯びていて、しかしイリとヌキがはっきりとしたものだった。音もなく、名前が刻まれていた。

 教室はわずかにざわめく。「あれ、書いてあったっけ?」「バカ、手品じゃねえの」「いや、俺寝てたし、興味ねえし」「バッカ、見ろよマジかわいくね?」「そんなお前の方がかわいいよ」「止めろそういうのマジ殺すぞ」「おいお前らうるさいぞ、いまプリーツのシワ数えてんだ!」

 男子は総じてバカだった。

 

「ボクは、真田(さなだ)瑛子(えいこ)とモウします!

 

 細められた目に喋っていたクラスの男子五人が射すくめられ過呼吸を起こし、発せられた語尾の震えた声に女子二人が血中の二酸化炭素濃度を上昇させた。濃い緑色にも見えるその髪にやられた男子は卒業の日に三十ページの恋文を渡すことをスケジュール表に書き込み、素っ頓狂な自称「ボク」には十人弱の女子が数年前に封じ込めたはずの反感や嗜虐心を苦笑に変えて引き攣る口角に浮かび上がらせた。

 佳恋もクラスメイト達の例に漏れない、彼女の佇まいに酔うが如き眩み、蜃気楼の如き空気の淀み――眠すぎる五時限目の公民の如き茫洋(ぼうよう)の海に沈みそうになってしまう。

 転校生――真田瑛子の自己紹介は自称が「ボク」などというきょうびアニメヒロインだってろくすっぽ使わないようなものの上に、違和感を覚えるイントネーションを時折混ぜてくる――といった表層の特徴以外は普通の枠に収まる自己紹介だった。

 だから、転校生の自己紹介はずいぶん不用心ではないかと佳恋には思えた。前の学校ではどうだったのか知らない。けれど、こんな閉鎖された空間に来る際に、同性に疎まれるような容姿や、つけ込まれるような言動を併せ持ってやってくるというのは自殺行為にも等しいのではあるまいか。

 ――でも、そんなのだから来たんじゃないかな

 そうだ。と佳恋は思い直す。教卓の傍で目を細めっぱなしで線のような月のような笑みを浮かべ、エイリアン然としている真っ黒いセーラー服は変人に違いない。そして、人間は異物を吐き出すように出来ている。中から追い出したり殺したりしてしまう。けれど、この空間はそうではない。

 ――ここは、もっとつめたい。

 だからきっと、彼女はそれを知ってやってきたのではないか。安全だと判断してここを選び、ここに入り込むことを勝ち得たのではないか――ここは異物を磨り潰したりはしない。そんな暇があるならば、さっさと自分だけ上の方に行ってしまうのだ。後ろを振り返ったりはもとよりしない。手を掴まれれば振りほどきはしない。けれど、その後に手が離れても気にしない無情の群れなのだ。

 クラスの連中は、今も静かに値踏みをしている。

 ――ふうん。

 佳恋は鞄からメガネケースを取り出し、中身を広げる。赤いセルのメガネ。手に持ったまま教卓に目をやる。対象は緑色の髪の下、細められた目から覗く緑色の瞳。

 佳恋は、メガネをかけた。

 メガネをかけると視界が(くら)む。佳恋は既にコンタクトを装着しているから当然だ。これは佳恋が以前から使っているメガネで。だから、レンズが二重にかかって視界が歪む。今の二倍ほど目が悪くなったらこの度でないとダメになるのかと考える。いやいや、目の悪さは倍とかで比べられるものじゃないだろう。

 

 そして――佳恋の歪んだ視界には、歪んだものが映り出す。

 

 チエが机の中に隠しているいちごポッキー。ハマセンが定期入れに隠しているおっぱいパブ嬢の名刺、最低。マユゲムが鞄の中に隠しているエッチな本、誰かと交換するのかな。秀才カナセさんが財布の中に隠しているオタクショップの会員証、でも、みんな知ってるよ。ユウジが机の中に隠している英和辞書、これ盗品? ロポ助――エロボンスケベの略――が財布の中に隠しているコンドーム、アテはあるの?  鉛筆。CD。現金。スタンガン。願書――。

 そんなものが、歪んだ視界のなかで写真のネガのように浮かび上がる。3Dゲームの特殊効果のように。

 

 ――そう、これは、隠されたものだけが見えるメガネ。

 

 宝物と呼ぶにはあまりにもささやかな能力だった。この現象に気付いた日、佳恋の心はいくぶんか躍った。誰にも責められないくらいささやかに踊った。

 しかし、そのささやかさに佳恋はすぐに落胆した。こんなものは祝福に非ず、ろくでもない呪いだと思った。メガネをかけなければ起きない現象であることは不幸中の幸と信じた。ケースにしまいながら願った。

 これがもし、試験の解答を教えてくれる能力であったら。そして、世界の真理を教えてくれるような能力であったら良かったのに、と。

 教科書を隠されるような悲劇に出会ったら、その時にまた使おう――なんて、軽い気持ちで封じた力だから、メガネを持ち歩いていた。だから軽い気持ちでまた封を解いたのだ。

 いま教壇に立っている緑色の髪をした少女に覚えた違和感の正体を、わずかでも知ることが出来たなら、この能力を持っていた意味があるのではあるまいかと佳恋は考えた。

 ――本当に? あなたはせっかく手に入れた能力を、使う機会を(うかが)っていただけでしょう。本当は、そんなもの知らなくたって良かった筈じゃないの。

 どこからか声が聞こえる。

 佳恋は構わず教壇を、転校生を見据える。零したミルクを意地汚く(すす)るわけにはいかないから

 

 ――視た。

 

 すぐに、後悔した。 

 

「――ッ?」

 

 それは、教壇の上にいるものが人間の延長だという確信がどこかにあった。――おまえはバカか八頭佳恋。たった十数年生きただけの経験で、人間の隠すものすべてを知った気でいたのか――。

 喉がはしたなく鳴った。隣の男子がケータイから目を離し、佳恋を一瞥する。

「あれ、コンタクトじゃなかったっけ?」

「――ン」

 声が出なかった。誤魔化したくてコホンと一つ咳払いをした。

「うん、コンタクト。だからダブルだし目がクラクラする」

「ふぅん。――なんで」

「暇つぶし」

「あ、そう」

 そう悪意なく鼻先で笑うように言ってケータイに目を落とした。転校生には興味のないそぶりだった。ふるえていたことは、ばれていなかったと信じたい。

 佳恋はくじけてメガネを外した。視界が戻って行く。自己紹介は終わろうとしていた。

「外国暮らしが長く、わからないことも多いですが、一日もハヤく皆さんの中に溶け込めるようにしたいとネガっています。よろしくおネガいします――」

 席は佳恋の後ろだった。氷で作られた生ける釘が、滑るようにひたひたと歩いてくる。今見たものが近づいてくる。

 

 隠されるべきものは世の中に、色々あるだろう。

 

 例えば、ポケットの中に隠したタバコ。

 例えば、血流の中に隠れたクスリのヨドミ。

 例えば、腹の中に隠された、子種や、生命の痕――。

 

 そんなものなら、まだ佳恋は救われた。

 それは、どんなに悲しくても見苦しくても汚らわしくても、この世に有り得るものだから。

 

 だけど――!

 

 佳恋は弱々しく息をつく。後ろの転校生は気づいているか、席の傍にかけた鞄はどうしてそんなに重いのか、あなたが纏っているその制服は、どうしてそんなに黒いのか。その髪はどんなトリートメントをすれば保っていられるのか。ペンキ缶をアタマから被るのか、それとも、銅をふんだんに含んだ水道水でも利用しているのか。

 

 隠されたモノはいつも歪みの中で明らかに一層歪んで主張していた。だけど、そこに隠されているのものはいつも「この世のもの」だったからアタリをつけるのは簡単だった。

 ――しかし。

 佳恋は転校生に隠されたそれ(・・)を思い出す。

 

 ――(たと)えるなら、濁った湖水を顕微鏡で覗いた時のような

 

 それともまた違った濁りだったけれど「混沌」と字面で表すよりはほど近いと思える。それ(・・)ネガ写真のごとき逆転の色をしていた。彼女の身体全てが、纏うものすべてが、彼女にとっての隠された(・・・・・)モノ(・・)のようだった。歪みの中でそれを咀嚼(そしゃく)し、消化し、再構成し、排泄し、蔓延させている工場のごとき――。

「なによ……それ……」

 ――バカな。

 

 きっと何かの見間違いだ。

 見ろ、八頭佳恋。転校生は一時間目の授業が始まるまでのこの僅かな時間を見計らって、彼女に集まってきたクラスメイト達とあまりにも普通に会話をしているようではないか。そっちを向かないのはむしろ不自然ではないか。

 そんなこと言われたって、佳恋は後ろを振り向けもしない。いつのまにか佳恋の後ろに(しつら)えられていた座席にはゆるやかな笑みを(たた)えて、明らかに人でないものが座っているのだ。

 

 それでも。

 佳恋のうしろに何がいても。

 何事も無く、日々は過ぎていく。

 

A ステンドグラス・ストラテジー/0

ステンドグラス・ストラテジー/0

 

 八頭佳恋(やずかれん)は鷹である。(とんび)から生まれたたったひとりの気高く賢く静凛とした鷹であった。たったひとりと最初から決まってしまっていたその鷹には、やがてひとりになってしまう娘不憫(ふびん)を想い、生涯の良き伴侶を見定められるように「(よ)き恋」と名前を付けられた。そう小学校の作文には書いた。

 それを読んだ先生はあまりいい顔をしてくれなかった。それは誇らしく語るように教えられた自分の名前だったのに。佳恋はお父ちゃんの(こぼ)した悲しみにも、煤に汚れた顔にも気付いていたけれどなにもしてあげられていない。

 涙ぐむ佳恋にお父ちゃんは言った「鷹は、鷹の集まる場所に行きなさい」と。それに対し幼い佳恋は訊いた「お父ちゃんは鳶なの?」「鳶だけど、空は飛べなかったんだ」

 

 お父ちゃんは、今日も空の近くにいる。

 

 八頭佳恋は女子高生である。ひとり寮付きの学園にやってきた花の高校二年生である。この学園のカリキュラムは学問に重きを置いたもので、一年目に三年生までの教科書をなぞってしまうと、あとはそれぞれの道に進むための最適なレールを自分で選ぶ事の出来る「よくおできになる人々」の為の園であった。

 佳恋はこの学校を自分で選んだわけではなかった。佳恋が公立高校への願書をもらってきた次の週に「ここがいいじゃないか」とお父ちゃんはパンフレットをくれた。そこなら大丈夫だから、無理じゃないから、とお父ちゃんからの不器用なメッセージに違いなかった。

 ならばその期待に応えるのが一人娘のめざすところではないか。学力はどうせ問題なんかない、推薦を受けることだってできたけれど、望まれた場所があるのなら、その点を過ぎることを願われたのならば、佳恋はその期待に応えてみせよう。

 そう、将来の夢はお嫁さん。まだなったこともないけれど、もらわれるアテもないけれど、お嫁さんだ。幸せになるために、だ。お父ちゃんにその姿を、見せてあげるために。

 

 ――そうしたら私、寮に入るんだよ。さみしくないの?

 

 その言葉を飲み込んだ。だから空を飛んで見せてやればいいだけだ。あの人の泣いた顔を一度くらい見てみたいじゃないか。ママの過ぎた場所を通り越して、パパで無い人を傍において。そんな、ささやかな幸せを目指すんだ。

 

 

 どんなお勉強をすれば、なれるのか知らないけれど。

 

 

各タイトル時間軸

 ロードマップってやつ?(ちがう)

 

 

※「○」はタイトル相当 「・」はタイトル内キャラタイトル

 

 

過去

 

(・テレプシコル・アプレンティス)

 

 

 

2 ソルベット・ソリチュード

 ・ソルベット・リベット

 ・ソード・オブ・リチュアル

 ・フリュイド・フロウ

 ・オキシダント・トキシック

 

(3)アドミラル・ドライアド

 

 

(5)フリーズイン・ブレイズアウト

・ナイト・サイド・オキシダント

・キュート・コキュートス

 

 

グレイプニル・グレイブ

 ・ステンドグラス・ストラテジー

 ・ループロープ・インファント

 ・ユグドラシル(テンタティブ・テンタキュラ)

 

チョコレート・コレクト

 ・チョコレート・ゲート

 ・ペイル・ペリセイド

 ・ブラックスミス・スクラブル

 ・パーニシャス・パープレックス

 ・グラスランド・オーバー(テンタティブ・テンタキュラ)

 

(11)ブレス・オブ・デス

 

 ・チョコレート・トリチェリ

 ・(テンタティブ・テンタキュラ)

 ・ニードル・オブ・ニルギリス

 ・ブレス・オブ・ノブレス

 

 

 

(13)ポスタリック・ポータル

 ・ポスタリック・ポータル

 ・イデア・アイギス

 ・ソルベット・ベルガモット

 ・ブラックスミス・ミザラブル

 

 

(15)シュラインズ・ライン

 ・ソード・オブ・ソリチュード

 ・ブラックスミス・ミッシング

 

 ・ヨルベツクモ

 ・テルハカナエ

 ・クルワオノズ

 ・ミルモツブサ

 

 

○ドミネイト・ドナー

 ・チョコレート・レコメンド

 ・ミッドナイト・プレッジ(テンタティブ・テンタキュラ)

 

 

未来

c ペイル・ペリセイド/X

 

 壺井あさぎが夜の路地を歩いていた。赤いトレーナーにデニムを着ていた。サイド二つに結び直して、サングラスも拝借した。香水をぶちまけて、三件目の漫画喫茶でどうにかシャワーを浴びて、逃げた。ほんとうのひとりで生きていくのは、ことのほか大変だった。

 半乾きの髪が重い。けれど、もう少し気付くのが遅かったらパクられていただろう。あさぎはすんでのところで逃れながら、危機に反応出来る自分を少し誇らしく思っていた。

 あさぎはあれから、毎日だれとも知らぬ人をめくらめっぽうに食べて、文字通り食いつないで居るのだった。壺の欠片で居るときはこんなにお腹は空かなかったのにいいい、とあさぎは悪態をついても、腹は減るばかり。折角手に入れた服もヘンシンする度に破けてしまうのは悲しいし、何より面倒だ。だからって脱いでから襲うのはあまりにヘンタイだし、おなかが空いているときにすっぽんぽんで出て行ってぱくっと行くのはサマにならない。

「あーああああ! おなか、すいちゃったあああああ!」

 そんな懸念も、空腹の前では何の足しにもならない。路地から大通りをきょろきょろと見渡し、また首を引っ込める。ここはあさぎが元いた街からしばらく離れた海辺の町。観光名所も多いここでは外国人を多く見かける。

「ほーらほらほらああ、ビッグアイデアあああてなもんですよおお、ひっひいい」

 そう、外国人ならきっと足が付きにくいだろうとあさぎは安直に発想した。そんなこともないと思うのだが、思い込みを修正する間もなく、こんな夜にスーツケースを持って裏路地に入っていくブロンドの少女を、あさぎは見つけてしまった。

 それにぴーんと来た。同性のあさぎから見てもそれはかわいらしい佇まいだった。有り体に言うと、とても食欲をそそった。クミちゃんを口にした、あの甘美な記憶が蘇る。自分よりも幼い、年端のいかない少女であることなんか、取るに足らないことだ。

 ――あさぎがこんなにお腹を空かせてるのにいいい、ノンキに旅行なんてしてるのがわるいんだもんねええええ!

 決めた。なんつってもオッサンよりオンナノコの方が明らかに腹は膨れるしウマい。シノちゃんほどウマいのは居なかった。シノちゃんは本当においしかったしおなかが膨れたなあと、あさぎは空きっ腹を抱えて少女を追う。横断歩道の上、青を待ってまっすぐ手を挙げて。

 ヘンシンするまえに服を脱いでおこうかとかって、やめた。だって旅行者だ。自分と背格好の変わらない少女がゴロゴロ引いていくそのスーツケースの中には、かわいらしい着替えが入っているに違いないんだ。あさぎちゃんはお見通しなのだ。

「やたらっきいいいいいいッ!」

 小声で叫ぶ。ガッツポーズなんかキメて浮かれていた。

 そう。

 あさぎは、空腹だったとしても、いや、だからこそもっと注意を払うべきだった。しかし、あさぎの中でアドバイスしてくれるかけがえのない友人達の声はかき消されていた。

 ――だって、ガイジンの女がひとりでいたんだろ? それって、もうやべェよ。

 ――壺さあ、食べたいって思っちゃったわけでしょ? 同類に決まってんじゃん、バカ。

 路地裏の入ったところ。ビルの谷間。いかがわしいネオンすらない砂利の敷かれた簡易駐車場。ブルーシートの被せられたトラックが数台両脇にならんでいる。

「――あれ、行き止まり?」

 こんなところに宿泊施設があるのだろうか? どのビルも非常口くらいしかありそうじゃない。なんだ、あの子も迷っていたのかなあ。そんなとぼけた思考で、簡易駐車場に足を踏み入れた。

 直後、背中に痛みを覚えてあさぎは後ろを振り返った。

 もうひとつ肩に痛みが増えた。あさぎは上を見た。

 誰も、いない。

 でも、攻撃の相手をさがす必要はもう、あさぎにはなかった。

 肉の打ち破られる音と共に、耐え難い痛みが次々と襲ってくる。

 あさぎはこれはいけないと思って壺にヘンシンしようとした。けれど、もう遅かった。脚が、身体が宙に浮いた。

「――――アッ」

 内側から生えた無数の釘が、あさぎを砂利に打ちつけていた。視界がくるくると回っている。新しい釘は次々と生えて、やわらかい皮膚を撃ち抜き、その衝撃でちいさなあさぎの身体は上に跳ね上げられた。壺になろうと頑張っても、その釘が邪魔してヘンシンできないのだ。

 その間にも次々と釘が生えていく。砂利が舞って肌に殴りつけられる、痛い。

「――――、――――」

 知らない言葉があさぎの耳に届いた。英語じゃないと思った。そんなことより、痛くてしょうがなかった。抜けない。目が見えない――。

「――――――、――――」

 外の国の言葉で唱われた般若心経のコンサートだった。観客は釘だらけの少女がひとり。でもきっと、もう何も聞こえていないだろう。

 あさぎの血を吸って、釘が新たな釘を産み、結晶の枝を成長させる。やわらかい部分を刮げ、引っ掻き、貫き、皮を破って飛び出す。あさぎが動かなくなっても、結晶の成長は止まらない、全ての血を吸い尽くし、カオス理論の教材みたいな鉄のオブジェを完成し尽くすまで。

 

 あさぎは動かなくなった。

 すると釘ももう、あさぎから生えてくることはなくなった。あさぎは少女のまま、砂利の地面に無数の釘で打ち付けられた。かわいらしいと誉められたこともあったけれど、もはやその面影は、どこをさがしても見あたらない。

 

「―――――――、――、――――。――――」

 

 異国の少女が、その国の言葉で祈っている。礼を尽くすように頭を下げたり、拳をもう片方の掌に押し当てたりとせわしない。少女はその儀式が一段落してやっとあさぎの所に近づいた。白い手袋に覆われた両手を無数の釘が生える隙間に器用に差し込み、両側に開くようにする。

 あさぎはふたつに割れて、血の抜けたピンク色の中身をさらけだした。

 異国の少女はへの字口のまま、目だけをきらきらさせてスーツケースを開く。誰にも聞かれていないがこくりと喉が鳴った。スーツケースの中には白い食器セットと塩、砂糖、胡椒、ソイソース、マスタード、タバスコ、包丁、フォーク、ナイフ、トング、カニスプーンまでそんな調理器具が背の順に並べられ詰まっている。

 少女はナプキンを取り出し、首にかける。

 スプーンを順手に構え、あさぎの内側に当てた。

 

 暴力的な音が、続いていく。

 

 

 もし、壺井あさぎがこの光景を自分で見ることが出来たら。

 ウニみたいだねと言って、笑ったかもしれない。

 

 

 

 

 

 おいしく食べてと、笑っていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

〈ペイル・ペリセイド 了〉

b チョコレ―ト・コレクト

チョコレ―ト・コレクト

 

「あははは、ははは」

 真田瑛子が草原の中で揺れていた。傍らであられもない姿をさらして寝ている片岡千代子の耳に、自らの唇を近づけてついばんだりを、さっきから飽きもせず繰り返していた。 

「チヨコ! まだ寝てるのかな? もしかしてボクの背中でずっと寝ているつもりじゃないかな! いいよ、キミはもうコノむまま、ボクとキミのユルす限りずっと! そこにいてカマわないんだ! でも、かりにキミがボクの殻になってボクを蝸牛にシタてあげるのなら、ボクは殻をどれくらいこまめにミガかなきゃいけないだろう!」

 千代子は瑛子のあまりのやかましさに目を覚ました。

「――瑛子さま?」

 寝ぼけ眼であたりを見回す。そこは現実ではないように思われた。草原の匂い。

「おはよう、チヨコ」

「おはよう、ございます……なんですか、これ」

 千代子はじっとりとした目で、自分のあられもなく前をはだけられた姿について、黒髪の瑛子に詰問する。

「寂しかったからね。シラべたり、詳らかにしたり、厚かましくオガんだりしただけだよ!」

「――そ」

 それを聞いて。くーっ、と千代子の顔が赤らむ。

「――そんなの、だ、だめです!」

「――え?」

「だめです!」

「なんで? どうしてダメなの千代子! それにもう、タノしんでしまった後なんだよ!」

「だってここ、外ではありませんか! だからいけません。ダメです!」

「でもチヨコ! ここはチガうよ! ボクらのはじめては、電車の中だったじゃないか!」

「……あれはその。な、中だから良かったんです!」

「あはは、わかったよ、ここはキミにとって情緒が――ええと、ムードが足りないんだ!」

「違います! 私が怒っているのは、寝ている間に服を脱がしたりしたことです!」

「うーん! ボクは今とってもタノしんでいるんだけどね! それはさておきとして、チヨコがなににオコっているのかわからないんだ! ああ、タノしい!」

「楽しくなんかありません!」

 瑛子がずっと笑っている。

「その分だと、ボクがここにベッドを作っても怒るかな! ――そら、とっくにオコってる。困ったねえ。ボクはタノしんでるんだ! 善意が踏みニジられたら、こんな気持ちなんだろう! でも、ボクの喜びはいまや、キミに微笑んでモラうのがなによりの喜びなんだからね!」

 瑛子は言う。前からやってみたかったことをしているだけなんだと。折角の拾い直した幸福の味なら、味わってみなければ損ではないかと。

「もう! それなら起こしていただければよかったんです!」

「チヨコ! 甘い香りがしてきているじゃないか! キミは期待をしているんだ!」

「えっ! ちょっと、そんなことありません!」

 この地平線ばかりの緑色の世界も、魔法なのだと瑛子は言った。なぜか、ここで瑛子が話す言葉は、外の世界でよりも聞き取りやすい。けれど、瑛子はあまり細かいことを千代子に教えはしなかった。ともかく、魔法の受け渡しは誰にでもできることではないのだ。

「瑛子さま。なぜ、私だったのですか?」

「言わなかったかな、たまたまだよ」

「ではなぜ、一度捨てたもののところにいらしたんですか?」

「壺のカレを、頂戴する為だよ!」

「うそ。だって壺井さんを食べなかったではありませんか」

 そう。瑛子は壺を打ち砕いたのに、摂取しなかった。どういう理屈かはわからないが、食べることが出来ない状態だったと瑛子は言い訳をした。

「あはは! (あぶく)(いびつ)の隙間にはカクしごとがいっぱい詰まっているんだよ、チヨコ!」

「誤魔化してらっしゃいますね? それで枯渇されては世話はありませんよ」

 そう、千代子の魔法(チョコレート・ゲート)は、ちゃんと瑛子にも効いていたのだという。「だから、つい、あんな恥ずかしい告白に答えてしまったのだ」と瑛子は千代子を茶化した。しかし、話はそれだけでは終わらない。その魔法は、千代子に移植されることで進化を遂げていた。千代子が魔法を垂れ流しながらも、食わずに居られたのはその進化のおかげだった。

 他人の情動を呼び起こし、それをエネルギーに変え、術者に還元させる。それでからっぽになりかけた瑛子は、千代子に渡しすぎた魔力を、とても明るいところでは描写できないような甘ったるい方法で戻した。それが先日、丸二日ぶっとおしの情事だった。

「あはは、そうしたらまた、チヨコが分けてくれるだろう? ほら、また香りが強くなった!」

「知りません! でしたらまた、私ごと魔力をお摂りになってはいかがですか!」

「あはは、強気になったねえチヨコ! あんなにシトやかだったのが嘘のよう!」

 瑛子はすこし口角を締めて、でも笑顔のまま、千代子に向き直る。

「――でもね、オボえておいて。ボクらはもう、幸せにはなれないんだ。それが、魔法なんだ! だからボクは、今日も明日も、笑顔をダンじることはないよ!」

「――瑛子、さま?」

「――ほら、癪じゃないか。ボクらだけ不幸の竃の底で這いずりマワるのは! それなら、溶けた鉄を煮立てる硫気の渕で短くとも、カナわずとも、オドり続よう――!」

 千代子はその時はじめて、瑛子の怯えを、恐怖を、ここに至った揺るぎなき故の一端を垣間見た。同時に、その孤高を恐ろしいと思う。今、自分の立っている場所は思ったよりも高く、危険で、いつこの人を見失ってもおかしくない場所に居ることを。

「――チヨコ! そんな顔をしても、ボクはユルいだりしないから。だって――」

「キミはアンじることはなかったのかな! キミのハカりがツウじていたなら、ボクはあそこに居る必要なんてなかっただろう!」

「――――えっ?」

 その顔を見て千代子の目が開かれる。イタズラ小僧のような顔をいつも貼り付かせた瑛子は腹を抱えてけらけらと、本当に楽しそうに笑い出す。涙まで流している。

 いつの間にか、手が離れている。

「瑛子さま!」

「あはははははははは! いいのかいキミ! ナガらえるにはカタすぎる! ああほら、ハナれてしまっているじゃないか!」

 ひとしきり笑って、瑛子はもう一度、千代子に手をさしのべる。千代子は手と瑛子の顔を二回くらい見比べると、促されるままその手を取った。

 瑛子は嬉しそうに千代子を引き寄せて、そのまま唇を奪う。

 触れるだけの儀式が済み、瑛子が呟く。

「そう――、この手をニギってしまったキミがワルいんだからね、千代子! さ、食べソコねた分を、またサガしにいかなくちゃいけない!」

 闇夜に溶けてしまいそうな黒髪が、目の潰れそうな緑色の光の中で海藻のように揺れていた。

 緑色の世界は、瑛子の沈黙を待っていたかのように色を薄め、その分を髪の中に染み込ませていく。いつの間にか、瑛子の髪と背景の境目は失われていた。瑛子の髪にあざやかな緑色が戻って行く。そこは、鉄塔の上ではなかった。

 次の町に続く、夜の線路の上。千代子は左手を差し出す。それは、いつの間にかちゃんと動くようになっていた。まるで、魔法のように。

 魔法そのものの少女が、右手で、その左手を取る。

「ほら歩こう、千代子! ボクはともかく、キミは雨にふられたくはないだろう!」

 少女が二人、星の加護無き漆黒のやみに熔けていく

 

 ――この宙に破滅しか無くとも

 ――この背に破滅しか無くとも

 

  星になんか、なれなくとも

          〈チョコレート・コレクト 了〉

a ペイル・ペリセイド/7

ペイル・ペリセイド/7

 

 砕かれた壺井あさぎはしばらくそのままだった。

 原因不明の落下物による事故(エンゼル・フォール)なんて名前を付けられたあと。「運がなかったですね」なる心ない為政者代理のオコトバとともに倉庫は閉鎖された。肉は廃棄され、ヤバいものは回収されていったけれど、瓦礫の散乱した床はそのままだった。電源を落とされてからもそのままだった。

 あさぎにとっては不幸中の幸いだった。気絶から目を覚まし、エネルギー効率の良いまどろみの中で夢のような現実と自分の行く末を夢想するには充分な時間を得ることが出来たのだ。

 

 ――――こーん

 

「サクライさん、これもッスか?」

 声が聞こえて、あさぎは目を覚ます。

 若い男性の声だ。それに応えるように歳のいった男性の声がいくらか、そしてドリルとエンジンの音が聞こえる。床にまんべんなくあさぎは散乱していたから、映画館ばりの轟音が響いてやかましくなる。あさぎは耳を塞ごうとするけれど、散乱するセラミック片となった自分の感覚器の閉ざし方がわからない。

 ――――んもおおおお、うるっさいいいいぞおおお。

「ウメモト、なんかいったか?」

「だからァ! これ、これ全部動かすッスかァ!」

「これじゃわかんねえよ! タケ! ハイブツもやんだからチャッチャいこうぜァ!」

「ヘーイ。ほらウメェ――、全部ったら全部だぁ――なんも、かんもだよぉ――」

「ラジャーっす!」

「で、ウメモト。なんか言ったかァ?」

「ハァ? 聞こえねぇース!」

「ンだその返事は! ハイブツと一緒に再処理に計上すんぞ!」

 若い作業員は、上役が荒げるイミフなイチャモンを聞こえないように、持っているハンドドリルを鳴らして愚痴っていた。

 いまのあさぎには視界はない。けれど、少し古い3Dゲームの様な色のはっきりしない濃淡と質感ばかりがリアルな視界が三百六十度に感じられる。その間隔は全体に広がっており、マトモに散乱したすべてのあさぎで感じようとすると酔ったような変な気分になるので、キケンな気がしたからそれをやらない。

 若い作業員が、ドリルを固定什器の金具にあてがいながら、愚痴を張り上げている。

「おうやってみろ――ッ! 手当増やせおらァ―――!」

「おうお前そんなこと思ってたのかァ―――――軍法会議じゃァ―――――!」

「うるせえぞ労働基準監督署でましょうッスかァ―――――?」

 途端、後ろに上役が居ることに気付いてなかった彼と上役の醜い争いがはじまってしまった。

 それで、あさぎはまったく目が醒めてしまった。

 作業員達は壊れた什器を運び出しに来ているようだった。じゃあしょうがないなあ。とあさぎは心の中でごちる。本当はもうちょっと休んでいたかったのだ。でも同時に、そろそろ行かなきゃいけないと思っていたところではあるのだ。だって、このまま待っていたって誰かが来るわけじゃないから。

 ――クミちゃん、どうしたかなあああ。

 最後の瞬間どうなったのか、あさぎはよく覚えていない。自分の意識がまだあるのも不思議だが、槌田紅実が無事なのかどうかも知りたいところだ。あさぎはクミちゃんが自分を助けてくれようとしたことはちゃんと覚えているし。あさぎもクミちゃんを助けようとした。だから、クミちゃんが生きていればいいなと、純粋に願っている。

 ――――ぎゃ、いったあああい!

 散乱したあさぎのどれかが安全靴に踏まれたようだった。

 物思いに耽るにはうるさくて埃っぽすぎる場所。あさぎはここから移動しておかなかったことを後悔する。しかし、移動は出来るのだろうか。この――なにかをするためには人の命を、同族の命を、食いつぶさねばならない身体で、思考以外の行動をすることは正しいのか――?

 ――ねえ、クミちゃん、どうすればいいのかなあああ?

 答えなどあるはずがない。わかってる。人でいるよりは楽な体だけれど、あさぎの中にあるなけなしのちからは減り続けているのがわかる。食われてないのを喜んでも、消えてしまうのは、どうしたってこわい。こんな体だってこわいもんはこわい。

 だったら、悩むまでも無いじゃないか。やれることを、やろう。

 まずそうでも、あれで満ちることはなくとも、今残ったちっぽけな力よりはいいだろう。そうと決めればこの状況は願ったり叶ったりではないか。

 そうと決めたら、早速だ。

 

 ―――― こ―――――――ン

 

「―――――ん?」

 若い作業員が振り向く。音がした気がした。高い音だ。そこにはなにもない。梅本はひとつ首を傾げると、作業に戻った。飛行機でも通ったんだろうと納得した。同時に起きている無数の細かい音には気付かなかった。カチャカチャと彼の周りで音はしていた。けれど、あさぎはちゃんとドリルの音がしている間だけを狙って確実に仕事をこなしていく。

 ――バカなあさぎでもだいじょうぶい。あさぎはバカだけど。あさぎの体はかしこくて、ちゃんとだれがどこにいるべきか、わかっているんだよおおお。

 この空間に散らばったすべてのあさぎが、ずるずるとそれぞれがあるべき場所に戻って行く。

「なんか……動いたっスよね……? あれ……? なに、ツボ?」

 獲物の背後で、ひび割れた冷たい白の刑場の口が開く。

 

             ◇

 

「おい、タケ。今日三人きりだよなァ?」

「へえ――――」

「だよな……ァ……今、何か……」

 ――動かなかったか? と言う言葉を上役・桜井泰造は省略した。

「ドリルの振動じゃね――――ですかね―――ェ」

「ドリルの音、しなくねえか? おいウメぁ! サァボってんじゃねェぞ!」

 ドリルの音はいつのまにか止んでいた。屋内で空調も働いていないはずなのに、なにやら気流が乱れている。床の埃が僅かに舞っている。桜井はダミ声を上げた。僅かに声が震えている。隣の歳のいった作業員の竹座譲吉はこっそり鼻で笑った。

「見てきまさ――ァ」

 桜井に何か言われる前に、竹座は自分から、しゃがれた地声で呟くと、梅本のいる冷凍室に移動していく。竹座の方が桜井より年上だが、竹座はピリピリする桜井から離れる口実ができたとばかりに、若い作業員・梅本大海を捜しに行った。「大海」はこれで「オーシャン」と呼ぶらしいが。現場では「梅」で通っている。経理のババアが「おーちゃん」と呼んで飴玉をくれている姿を見てから、誰も下の名前で呼ぶ事は無くなった。

「梅――ェ、どうかしたか――ァ」

 かつて、冷凍室だったと思しき場所。上にはフックリールがずらずら並んでいる。作業しているはずの梅本はそこにいなかった。

「梅本――――ぉ?」

 水音が聞こえた。水道は止まっているはずだ。しかし竹座は「どっかで水でも漏れてんのかな。まさか梅本め、やらかしたんじゃないか」と考えていた。だが、そんな管をぶっこわしちまいそうな場所での解体をやらせたりするはずがない。ましてや責任を取りたくなくて毎朝怯えるあの桜井はそんなヘマはしない。なんだかんだ理由をつけて、慎重で臆病な竹座にお鉢が回ってくるのが常なのだから。

 では、この水音はなんだ。この目の前に突如出現した、つるつるしてまるくて、味のある壁はなんだ。模様の代わりに罅の入った「人ひとりくらい中に入っていてもおかしくなさそうな」バカでかいものは、なんだ――――?

 ――あ、いけないいい。みちゃったああああ?

「―――――――ォ!」

 竹座譲吉は四年前に喉の腫瘍を取ってから、大きい声が上手く出せない。よしんば、出たとして何と叫んだものか、今となってはわかるはずもない。

 壺は、罅の全てから赤黒い人だった物の汁を滲ませ、うやうやしく仏壇のごとく開帳に至り、そのはらわたをちらっと見せつけて、竹座を射程に入れるとすかさず閉じた。

 あさぎは、自分でもだいぶ上手くなったと思っている。

 ――もーうううう! ひとり食べ終わってからのつもりだったのにいいいい。

 そこにパンも白米もコーンフレークもありはしない。人間だったときと同じように、中で何が起こっているのかあさぎは知らない。シノちゃんのときははじめてだったし、邪魔が入ったから上手にいかなかった。けれど、今となってはふたりだって中に入ってしまえば同じだ。すぐに消化してみせる。あさぎは勇ましく不敵に笑った、つもり。

 ――それにしたって美味しくなさ過ぎじゃないのこのひとたちいい。シノちゃんはこんなんじゃなかったもんん。やっぱり服を着せたままなのがマズかったんじゃないかなああ。でも、あさぎだってオトメなわけですから、おじちゃんはともかく最初の若いおにーさんの服丸剥きしちゃうなんてそんなのはしたないっておもったんですうううううう!

「……た、竹座ァ! 梅本ぉ!」

 誰も帰ってこないのに怯えて、止せばいいのに桜井が様子を見に来た。何か起こると責任問題になるからとのこのことやってきて見事に腰を抜かした。

 ――――んもううう。

 あさぎは揺れてイヤイヤをする。だって、食事はゆっくりとしたいものだ。

 右を見て、左をみて、前を見て小便を漏らしていた。罅から漏れる血や、あさぎの汚い食べザマをまじまじと見られている。「食べながらしゃべんな」ってクミちゃんに言われたので、あさぎはそれからちゃんと飲み込んでから喋るようにしていた、えらい。あと「リスじゃないんだから、詰め込むのやめなさい」とシノちゃんに言われた気がする。これはなかなかやめられなかったけれど、シノちゃんはその一回しか言わなかった。シノちゃんのハの字になった眉をみて、やってしまってから思い出すんだ。 

 ――あーあ、どうして、シノちゃんに言われたことはできなかったのかなああああ。

「ば、ば、ばけものォおおおッ!」

 へっぴり腰で軽トラックの止めてある入り口へと逃げ出す桜井の動きはとてもノロいものだった。大の大人が情けない体たらくだと思った。

「あ! ああッ! ひあああああッ!」

 騒ぐし動くから一気にいけなかった。外に辿り着く前に追いついたけれど、クミちゃんの時みたいに挟んでしまった。

「ひィぎィ――――――――ッ! 痛ェ―――――――!」

 腰から上を取り逃した。かわいそうなことをしたとあさぎは後悔する。中に入れなくては痛みを取ってあげられない。まだまだうまくできない。仕方ないからもう一回だ。開くときに、血糊が貼り付いて若干の抵抗を感じる。醜く逃げようとする上半身は、切断されず潰されただけの皮膚に捕まってもがいていた。

 カッコワルイし、くさいし、情けないし、おいしくない。けれど、我慢して食べなきゃならなかった。モロヘイヤと同じ。なんかドライバーとか色んな物を持ってるから、食べるのに吐き出さなきゃならなくて、噛んで飲み込んだら身体にわるそうで、すごくめんどくさい。

 小学生の給食では、煮物の中に入ったひじきが嫌いだった。それを食べないと遊べなくて、無理矢理口に放り込んだ。あの時みたいに口に放り込む。あの時みたいに、摘む鼻がないけれど、味わいもせずに飲み込んでいく。

 ――まっずいいいいい、もうひとりっ!

 あさぎの身体は勝手に咀嚼し、すぐさま吸収する。他のふたりもそうしたように消化できない物を粘液に包んで上の口から排出する。力が足りたのか、さっきまで治らなかった全身の罅が埋まっていくのがわかった。

 ――あ、戻れそうだああ

 ぐ、と腹に力を入れる。脳から酸素を追い出す。頭の中に浮かんだちかちかの数を数えてみる。ふわふわしてきたら深呼吸。にわかに壺は青い光を纏い始め、その中で粘土のような形状を経て、少女であったころの姿を取り戻した。久しぶりの、本当に久しぶりの色の付いた視界だった。目に入る物で鮮やかな色なんて、血の色しかなかったけれど。

「やっっったあああああああああああああい!」

 あさぎは全裸だった。全裸のわりには肌色が少ないが、それはまだ吐き出す前だった消化できないものが、血糊で貼り付いているからだった。あさぎは平然とそれらを剥がしていく。爪でばりばりと貼り付き渇いた粘液を刮げ取り、大胆にも臭いなんか嗅いで顔をしかめる。そんな怖気の立つ臭いすら逃れる為に壺に戻ろうかとも一瞬あさぎは考えた。

「シャワー、あっっびたいなああああっ!」

 手を逆手で組み、伸びをする。伸びをするとずっと固まっていたらしき身体はばきばきと悲鳴をあげた。そこであさぎはふと違和感を覚え、右手に注視。たっぷり五秒考えたあと、左手を並べてもう一度十秒間目を細めて間違い探し。

「……あっっれえええ、た、たんないじゃーんん!」

 手の平を上にかざしてひらひらさせながらあさぎが愚痴をつく。元からそうだったかのように四本しかない。小指が再生していなかった。

「ええええええ……」

 繋がっていた物が無くなってしまった。あさぎは嘆く。自分を世界に留めてくれていた物を全て失ってしまった。それでも、生きていたいと身体が願っている。だから、余分な部分がないのかも知れないって思う。

 もし、この世界のどこかに、自分の小指が、人だった頃の思い出を持っているというのなら、この化け物の自分は昔のことを忘れて生きて、後腐れ無く生きていけるのだろうか。

 ――きゅるるる。

 あさぎの腹が返事をするように悲鳴をあげた。

「なにそれええええ……」

 この姿に戻ったせいか、なけなしの満腹もとっくに過ぎてしまって、もう空腹が押し寄せてきていた。あんなに食べたのにおなかはぽっこりしちゃくれない。誰もが羨むきっと太らないこの身体で生きて行かなくてはならない。おいしいものをたべなければならない。

「まあっったくううう、めんどくさいよねええええ」

 作業員達が乗ってきたと思しき軽トラックに鍵は掛かっていなかった。座席にはコンビニ弁当があり、あさぎは一も二もなく飛びついたけれど、食べても食べても身体が受け付けなかった。好物のたこ焼きを見つけて、無理矢理押し込もうとしたけれど、全身が拒否するように痙攣し、座席を汚した。吐瀉物は変わらず胃液の臭いがする。

 裸だから服は汚れないで済んだ――なんて思ってから、あさぎは自分の思考のナンセンスに気付く。そう、生きていくなら服を調達しなくてはならなかった。あの夜持ってきていた着替えは誰かが持って行ってしまったようだし、彼らが着ていた作業着はさっき余分を吐きだした時にはもうズタボロになってしまっていた。

「やっぱり、脱がしてからにするべきだったよねええ」

 残念そうに、裸の尻を前ドアで振りながら後部座席を覗き込む。埃塗れで塩を吹くリュックを開けていくと、そのうちの一つに綺麗に畳まれた作業着の替えがあった。

「やった」

 石鹸とタバコの臭い。最初に食べたおにーさんと同じ臭いだ。そういえば、女の人の名前を呼んでいた。一緒に入っていたシャツを着て、仕方ないからパンツは直履きで、裾をいくつも捲る。ずり落ちるズボンのベルト穴を両側に三つずつまとめて、ひも状にしたコンビニ袋で結び、どうにか服を着ているような形になった。

「落ち着かないなああああ」

 財布からのぐっちゃんを数枚抜き取る。ひぐっちゃんも福ッチもいなくてあさぎは非常に残念だった。けれど、こんなダサいナリで店に入って買い物なんてできるはずがない。

「服の自販機とかないのかなああああ!」

 財布はどれもダサいので捨てる。リュックもイケてない。コンビニ袋ぶら下げていた方がまだ見れそうで、今は手ぶらでいる。帽子の一つでもあれば、少しはマシかもしれないのに。

 さて――。

 とりあえずの衣食をでっちあげたあさぎは考える。自分はどこに行けばいいのか。ねえ、シノちゃんならしっている? 「あんた、自分にあてはめて考えてみなさいよ。壺頭だってわかるでしょう」うーんシノちゃんはやっぱりかしこいねええ。でもあさぎはシノちゃんみたいに賢くないから、ねえクミちゃんん。「おまえバカ。バカなんだからシノみたいにうまくいかないのはあったんまえだろ。でも真似してみりゃうまくいくこともあんだろ」そうだねえ。たまにはいい事言うじゃん! 「バカ、いつも良いこと言ってんだろ!」そうだっけええええええええええ? やああああああだもおおおおおおうううううあはははははははははははははははははははははははははは

 

 辺りにはだれもいない。笑っている自分はどれだけ滑稽に見えるだろう。だれもいないのは良いことだ。と言うよりも、誰かが来たら終わってしまうだろう。だって、こんなに悪いことをしているんだ。よかった、パパもママもシノちゃんも、クミちゃんもいなくてよかった。良かったんだ。たったひとりでも、こんなに、こんなにあさぎは賑やかなんだ。

 

 ――行こう。

 

「――ゆびきりいい、げんっまん」

 

 透明な小指を、空に差し出す。

 

 

 作業着のポケットに輪ゴムがひとつ

 後ろひとつに髪を束ねて

 

 少女は

 死から逃れ、死の懐へ

 

 

 

〈ペイル・ペリセイド 続〉

Z ブラックスミス・スクラブル/6

ブラックスミス・スクラブル/6

 

 痛みで槌田は目覚めた。髪を解いた全裸の少女の後ろ姿が見えた気がした。槌田はその背格好が、どことなくあさぎに似ている様な気がした。けれどあさぎはツーテールだったはずだ。あさぎはあんなに大きくないし、つるつるともしていなかったはずだ。

 少女は振り向かなかった。

 ――足が痛い。

 槌田は痺れ刺すような痛みに足元を向いた、片足がひどく痛かった。体中もところどころ擦ったのかヒリヒリするけれど、足の痛みは尋常ではなかった。だから振り向いた。そして、まばたきを三度して、トリックを疑った。

 ――ああ、見たことあるぜこれ、うまく刳り抜いた鏡を挟んで、消えたように見せてるアレだろ。テレビで観たことあるし。マジで趣味わりいわ――。

 そう予想して伸ばされた槌田の手はものの見事にスカ。足の前に立て掛けられているはずの鏡など存在しなかった。伸ばした手は、太い大根の代わりにべたりとしたものに触れた。

「――んだ、これ」

 ベラベラになった皮膚が、槌田のふくらはぎの下に垂れ下がっていた。ああ、こんな感じのパスタあったわ――。なんてぼーっと考えながら、パスタを持ち上げて落とすとべちゃりと鈍い水音がした。まず、ものすごい痛い。

「あ――がッ!」

 落下の衝撃で、その部分から波打つようにより強い痛みが伝わってくる。痛みから逃げるようにのたうつとまだ生きていた神経が床に直接触れてさらに気絶を誘う。やっと気付いた槌田は、しばらく奥歯を噛み、じっと我慢して痛みに神経がある程度慣れるのを待つ。

「なんだよこれ――! なんだよ! どうなってんだ――これぇッ!」

 槌田が自分の片足が喪失していることを受け入れられない。気絶しそうな痛みに、思わず立ち上がって逃げ出すことも、足が無くてできなかった。

 槌田は傷口に、片足が消えているという事実に気を取られすぎていた。決定的瞬間は待ってはくれなかった。あさぎがすこし離れたところに置いてくれたから、埃舞う最終大怪獣決戦がもう最終的な展開を迎えていたことに「ガーン」とデカい音がするまで、気が回らなかった。

「――なッ?」

 ものすごく分厚い窓ガラスが一気に割れたら、こんな音がするのかも知れないと思った。

 乾いた音がタイル床を一面に撥ねていく。

 不吉な化け物の声が、聞こえる。

「ああ――キミらのマミえはここでツイえた!」

 こんな夜の食肉冷凍庫で、楽しそうに叫んでいやがる女がいた。さっきからどうやらずっといた。少女の背中の向こうにいたんだ。髪を緑色に染めて、体中のあちらこちらから人ではあり得ない不愉快の具現みたいなものを生やして。その何本かを空中に衝きだしていた。きらきらした粉が、白色灯をバックにしてヘッドライトを当てられた朝の雪のように光っている。

 今、目の前で砕かれたのであろう物体の一部が、倒れたままでいる槌田の腕を引っ掻いて、止まる。手に取る。陶器の破片のようだった。

 あさぎ――――?

「あ……」

 槌田は覚えている。その陶器の白さを、描かれた丸く幸せそうな藍色の太い線を。槌田は指でそれをなぞる。辺りにはそれと同じ物が雨のようにバラバラと落ちて、大粒のスコールが地面を叩く時よりもなお楽しげで甲高い音を演じて、スコールよりもいち早く、音は止んだ。

「――――あさ――ぎ――――?」

 壺は、とっくのとうに砕け散っていた。

 落ちきらず宙に舞うセラミックの粒子がゆっくりと降りていく様は、ほんのりと不吉に赤い非常灯に照らされて赤い雪を演出していた。化け物は楽しそうに叫んでいる。

「あははははははは! これは、これはやった! やられた! キミのエグり取ったまごうことなき勝利だ! ボクはここまでツカわされて、ノガれゆくしかなくなった! やはりボクらの欲だったんだろう! キミのイノりとネガいが、どうかまっとうされますように!」 

 その言葉は、あさぎの勝利を祝うもののように聞こえた。槌田にはなんだかわからなかった。あさぎは今、槌田の目の前で砕かれたのではないのか、今、槌田の手の内にある欠片は――何だというのだ。痛みで気が遠くなる。槌田は欠片を握りしめる。手の平にも痛みが走った。

「ちくしょう――」

 蹲って、静寂に顔を上げると、もう化け物はいなかった。

 意識を保つに必要な血を、とっくに失っていた槌田は、緊張の糸が切れて気を失う。

 

 非常ベルが遠くで鳴っている。

 赤い光で、肉と破片と槌田紅実を照らしている。

 他にはもう、誰もいない。

 

 

 槌田紅実は、すんでのところで保護された。

 悪夢かマンガか映画かドッキリカメラのような映像だったのに、銀色の服を着た人々が踏み込んできても、失った足は戻らなかった。

 病院には黒い服の人々が来た。何を言えば通じるのか、どうすれば理が通るのか、そんなの槌田にだってわかるわけがない。結局、槌田が夜の食肉冷倉庫に忍び込んで、なんらかの爆発物によるわるい遊びをしていて――。というシナリオが一旦は用意されたものの、硝煙反応も火気の痕もなかったし、そこには槌田がいた痕跡しかなく事件性を立てることはできなかった。

 槌田の片足が失われ、食肉業者の倉庫がひとつダメになり、槌田の家族が倉庫一個分の負債を背負っておしまい。

 ――と思いきや槌田にとって幸か不幸か倉庫をダメにされた食肉業者は、ちょっとした小遣い稼ぎをしていたのだ。肉の方がついでに見えるくらいの景気の良いアレやコレや。肉の中から中南米生まれのまっしろなチョコレートがという笑える話だった。

「……チョコレート、ねえ」

 それによって面白いように矛先は逸れ、ようやく病室は静かになった。母親の薬の量は増え、父親は出世コースを外れ、兄は就職に失敗した。槌田はいつのまにか中退扱いだった。

「中退かー」

 口に出してみても実感はわかない。今まで生活の中に刻み込まれていた「学校」なる過程が丸ごと失われた。もう少しすれば不安にもなるのだろうかと、槌田は窓際で揺れるカーテンを眺めつつ考える。未だに右足がないと言う実感がない。切断面は明らかにずきずきと痛むし、痛み止めと抗生剤のブレンドされた吐き気のする薬液が管を通して浸入してくる。

 首を横にする。左手を伸ばすと冷たいセラミックに触れる。軽いのにあざやかな白地の藍線、槌田の友人――壺井あさぎ――だったものだ。助け出されるときまで、ずっと握っていた。

「どこに行っちまったんだ、おまえ」

 どこに行った、もなにもない。目の前で砕け散ったではないか。人の脚一本持って行ったあげくに、なにもせずに死んでしまったではないか。

 槌田紅実は長女だった。やんちゃな弟がいて、おてんばな妹がいた。お陰様で子供のお守りは、意外と得意な方だった。あの日、紅実はらしくもなく家の些細な出来事でセンチメンタルだった。勢いに任せて隣のクラスのヤツを怒鳴った。ケッタクソ悪いことをしてしまった。その昼休み、中庭にでんと構えるケヤキの枝についた葉っぱの数を数えていたら、腕の下にまんま叱られた子供のようにしくしくと泣き続けている高校生がいたんだっけ。

 撫でてやると、よく笑ったんだ。

 自嘲が漏れる。個室の外からノックの音がした。

「――どうぞ」

 ノックの音に反応する。槌田の家族はそんな上等なことはしない。医師の巡回や看護婦なら同時に声がかかる。学友や教師の見舞いにしては朝っぱらすぎる。残された可能性はそんなになかった。

「入っても?」

「――どうぞって言ったけど、耳ねえの?」

「お嬢ちゃんはいつもキッツいねえ……」

「あんた、何度来たってさ、話さねーから」

 可能な限りの三白眼で睨め付ける。入ってきたのは刑事。いつもは二人組で来るのに、今日はいけ好かないおっさんの方だけだった。刑事ドラマなんてものは油臭い気がして槌田は見ないクチだったけれど、いかにもデカといったヤニ臭いくたびれたスーツとネクタイ、そして眠そうな目が目覚めたての槌田にぺらぺらと余計な事を喋らせたのだ。

「そんなこと言わないでよ、クミちゃん」

「それ、マジやめろ」

「そうかい、お嬢ちゃん。きみが年上への敬意をちゃんと払ってくれれば、刑事サンもきみの言うこと聞いてあげちゃうかもよ?」

「はァ?」

 刑事は来客用の椅子の上に置いてあった、誰かの持ってきた見舞いの品を机の上に寄せて、空けた席に自分が座ってしまう。

「今日はさ、クミちゃんに。あの日のこと聞こうと思ってサ」

「それ、何度目だよ。もう何度も話したじゃねえか。何も知らないってさ! あとクミちゃん呼ばわりマジやめろ。キショいんだよオッサン」

「それは二回目からだよ。最初に会ったときにクミちゃん言ってたじゃないの。これでも刑事さんはさあ、これでおまんま食ってるから、食いついたら離さないよぉ。まァ――今日は時間があるからさ、ゆっくりしていけるから。気が向いたら話してくれナ――。刑事さんはここで、スポーツ新聞でも見てるから。――読む? エロい記事」

「うっぜえ、帰れよ!」

 最初に槌田は口を滑らせてしまったのだ。あそこにいたのは自分だけと言っておけばよかったものを壺井と中村の名前を口走ってからややこしくなった。平和な街で、その学校のいち学年でいきなり女学生の失踪が三件続き、そのうち一件は全国紙を騒がすほどの血みどろの一家全滅だ。原因も動機も不明、そしてその全員は顔見知りだと来ている。槌田はものすごいグレーだったのだ。あの夜、何の妨害も無しに倉庫に行けたことですらも不思議なのだ。

 いや、不可能だったのだ。普通なら。

 これで、脚を失いながらも生きている槌田に嫌疑がかかるのは、本人が考えても当然の事のように思える。何か知っていてしかるべきだと思われるのは仕方のないことだった。

「まあ、イヤがられても、仕事だからねえ。それに、マスコミの連中が最近来ないのはおじさんたちのお陰だよ。な? だからさァ、教えてくれないかなあ。本当のこと」

 槌田は目をつぶった。逃げの一手だ。脚が十全ならば、ベッドを蹴っ飛ばして病室を出て行くところだけれど、今の槌田にはこんな抵抗しかできない。

「はは、嫌われたもんだ」

 刑事がため息をつく。スポーツ新聞をめくる音だけが病室に響く。

 ――じゃあ、信じるのかよ。

 槌田はその聞こえよがしな紙擦れの音に、胸中で毒づく。本当の事を言ったら、信じてくれんのかよ。あたしのダチとかクラスメイトがなんだか揃いも揃って化け物で、急に殺し合いを――それどころか食い合いをはじめちまったんだ――って。自分だって信じられねえことを、どうして他人に言えるッてんだ。

 だから、刑事に激しく追及されたらしい中村の彼氏とやらが、神妙な顔で病室に入ってきても、槌田にはどうすることもできなかった。そもそもその存在を始めて知ったから槌田は目を丸くした。あとで、その男と中村はとっくに別れており、自称彼氏はマスコミの差し金でやってきたのを知った時、槌田は自分でも何故かわからず悲しくて、人知れず泣いた。

「――クミちゃんさァ、寝た?」

 刑事の声がする。槌田は無視を決め込む。

「そんなに、オトナを嫌うなよ。刑事さんも悪かったと思っているよ。最初のきみのことばに耳を傾けなかったこと、後悔しているんだ――な?」

 槌田はそんな甘言に揺さぶられない。だれが、そんなのに引っかかる物か。

「――やれやれ。未成年はめんどくせえなあ。きみらはいつの世も逸脱する。逸脱して死んでいく。大人達は平和に生きていきたいだけなんだけどなァ?」

 ――なにを勝手なこと、じゃあ、あんたが若い頃は――! そう飛び起きそうになる身体を槌田は抑える。こんな見え見えの揺さぶりに負けてはいけない。

「でもねえ、刑事さんは知っているんだ。犯人はクミちゃんじゃないんだろ? きみみたいにイキがる子はこういう陰湿なやりかたはできない。きみはどちらかというと義理とか人情を知っていそうだからねえ」

 落として、持ち上げて、また落としてくるのだ。そのくりかえしだ。刑事が根負けするまで寝たフリを決め込むのが正解だ。本当に寝てしまえればそれが最も良い。しかし、刑事は槌田が起きているのを知っているかのようにとうとうと続ける。

「じゃあ犯人は、真相はなんなのか。やはり壺井くんが最もあやしいよね、片岡くんもあやしい、きっと中村くんは殺されてしまったんだろうね。三倉山の鉄塔そばで、彼女の物と思われる懐中時計が見つかったよ。詳しく聞きたい? いや、寝ているんだから無理だな、ハハハ」

 ――無視だ、ちくしょう聞きたいけれど無視。無視ったら無視!

「……壺井くんも、片岡くんもきみが匿っているんじゃないかって話もあったどさ。けれどそれじゃあ、クミちゃんの脚がそんなになってしまった理由がつかないよね。グループの制裁? ドラッグ? 壺井くんの家からも、中村くんの家からも、片岡くんのところからも、もちろんきみからも、そんなものは気配すらしなかった。片岡くんは、ほかのお薬を常用していたみたいだけれど。それは誰でもお世話になりうる、便利な道具のひとつに過ぎなかった」

 片岡は隣の席だったけれど、槌田は結局片岡のことをよく知らずじまいだった。あの夜こそ、一番多く会話をしたのではないか。もしかしたら、槌田こそが最も校内で片岡と関連の深い相手なのかもしれなかった。

「すると行き詰まってしまうんだよね。片岡くんはみんなから避けられていたようだし、壺井くんとやりあったのをみたクラスメイトもいるし、でも電車の中で倒れた片岡くんを壺井くんが助けたのを見たって人もいる。どうもねえ、そんなリクツなんてのがよくわからんのだよね」

 ――あさぎは、まだ片岡にちょっかいかけてたのか。

 あさぎは何度か槌田に聞いてきた。でも槌田は隣人の事がずっと辛気くさくてきらいだったし、特に知っていることもなかったから「知らねえよ」とだけ言って話を変えたんだ。

「片岡くんは隣の席だったんだろう? 彼女は住まいを変えているし、そこでもあまり穏便な関係ではなかったようだよ。だから――というわけではないが、疑うには充分なんだ。でも、彼女の家は捜査に非協力的でね。――槌田くんの家とは、また違う距離の置かれ方だ」

 槌田は刑事の話を聞き流しながら思考をまとめている。あいつは、片岡は敵だった。あさぎは――? そんなのわかりきっている。槌田を食おうとして、脚を奪って行ったのは壺井あさぎじゃないか。ではあれは敵なのか。目の前で人ならぬものにヘンシンしてみせた。そしてあさぎは中村も殺したという。しかし、あさぎを殺したのは――片岡と消えたあの蔦の化け物だ。

 倉庫でマグライトを備えていた片岡は、本当に敵だったのか。もっと話をしていれば、あいつだって悪いに決まってるんだけど、自分だってもっとすり寄っていれば。協力できたんじゃないだろうか。そうしたら、もう少しマシな状況になっていたんじゃないだろうか。

 ――かたん。

「ん? なんか落としたかい? 拾おうか? いやあ、寝てるんだっけなァ?」

 壺井あさぎだったものの陶片が、床に落ちた音だった。サイドテーブルの真ん中に置いておいたはずだったのに、何故落ちたのかはわからなかったけれど。中腰になった刑事は、気にするものでないとわかると、また椅子に腰を落として、長い独り言の続きを始める。

「――最初にいったろ、クミちゃん。『化け物』だって」

 ――言った。でもさ、刑事さん。あんた笑っただろ。

 けれど、それは刑事の方から歩み寄って来たように、槌田は期待して、目を開けた。

「――それ、詳しく聞きたいんだ」

「ほら、起きてた」

「るせぇ、オッサンまだいたのかよ――今、起きたんだよ」

「嘘だなあ、一度本当に寝ているときに来たけれど、クミちゃんは寝ていないときは、寝息まで止めてしまうんだ。な? 刑事さんちゃんと仕事してるだろ?」

 槌田は、舌打ちをひとつ。

「刑事さんに情報をおくれよ。録音とかはしてないから」

「あんたもたいがいしつっこいな。何度聞かれたってしらねえんだよ」

「わかったわかった、じゃあ先にこっちからな。とっておき。アから行くよ」

 素知らぬふりで革張りの使い込まれた手帳が開かれ、アからはじまるフルネームがひとつ口に出された。知らない名前だった。

「は? なんだ急に」

 刑事は続ける。呪文のように抑揚無く唱えられる名前の羅列。どうやらそのすべては、どこにでもいそうな少女の名前に違いなかった。

「んだそれ、出席簿か?」

 動揺を隠して、軽口を装って槌田は尋ねる。

「――そう、五十音順だものな。で、ひとつでも聞き覚えはあったかい?」

 刑事は手帳のその頁を広げる。槌田からは逆さに見えるが、名前がカナで走り書きで羅列されている。どれにも覚えはないが、槌田の目は五十音順の羅列が終了したあとに名前が濃さの違う筆跡で追加されているのを見つけた。中村紫乃、片岡千代子、壺井あさぎ――。

「……なんだ、それ」

 声が震える。その三人の名前が最新の物として並んでいるのはどういうことだ。あの三人と同じ末路を辿った少女達がそれだけいる――ということなのか。その名簿の中身はずっと、増殖を続けていることを表しているに違いなかった。

「なあ、なんで中村や、壺井の名前がさぁ、あんだ……?」

 すると、刑事達は知っているのか。中村や、壺井や――おそらく片岡もこの忌まわしい墓碑に名前を連ねてしまって然るべき理由を。

「知らない? いっこも聞いたことない? 思い当たるフシ、ない? ……なさそーねえ。じゃあいいの。まあ、刑事さんもねえ、よくわからんのよ」

「ハァ? ふざけろ。わからないってなんだ。あんた」

 声が震えるのを隠せない。刑事はそんな槌田の怯えにとっくに気づいている。だからよりいっそう落ち着きを、その優位を維持する。

「だから、言ったでしょクミちゃん。わからないから、当事者さんたちから詳しく聞きたいって――。刑事さん達は疑う商売だから、信じてくれだなんて言えるお仕事じゃないんだけどね。そう、君らくらいの年頃の子と、ご老人たちと話をするのは難しい。何故かぼくらが、騙そうとしているって言うんだ。ぼくらは公務員だから、みんなを騙すはずなんてないのにねえ」

 刑事のやさしさを繕った皺の寄った目は槌田を見ていなかった。手帳の名前も見ていない。死者に興味はないと言わんばかりの凄みを感じずにはいられなかった。

 この刑事には、槌田のところにひとりで来る理由があるのだろう。そして、その理由はきっと知らされることはないだろう。槌田にはその資格がないのだ。友達を守れず、ただの名前に貶めた女に、与えられるはずがないものだ。

「――取引だ」

 くやしさに奥歯を噛みしめても、気丈をふりしぼってもまだ声が震える。心臓が痙攣を起こしている。血を巡らせるから右足の切断面が熱を持ち痛みと痒みで槌田を苛む。

「取引ぃ――? おいおい、クミちゃんになにかあげたり、刑事さんにはできやしないよ」

 刑事は微笑みを槌田に返す、垂れた細い眼を開き、下から覗き込むようなバカにした仕草。

 その仕草は「おいおい、バカにしているのはどっちだお嬢ちゃん――。オレはこのまま帰ったっていいんだ。お嬢ちゃんがあの日有ったことをつぶさに話すなら、オレが持ってる情報を少しだけくれてやってもいいってことだよ」と言っていた。

 槌田は負けを認めた。

 覚悟も、知識も、執着も、なにも持っていやしないのに、駆け引きなんて成立しやしない。槌田にできるのは、富豪に慈悲願い、藁纏って頭を石畳に打ち付ける物乞いのやり口だけだ。

「ったよ! あんた、何を話せば、納得するんだ――」

「いやあ、おじさん嬉しいよ。聞き分けの良い子には、サービスしてあげたくなっちゃうなあ!」

 槌田が折れたことがそんなに嬉しいのか、ケタケタと笑っている。

 

 

 「疲れた」と槌田は久しぶりに感じていた。刑事にあの夜のことを知っているだけ話した。刑事は「それで全部?」と下唇を突き出しながら聞いた。槌田の悪態もどこ吹く風で「ハズレじゃねえかなぁ、コレ」と呟いた。もう、声を荒げる気力もなかった。

 そして刑事は、人を食う化け物について、大儀そうに話しはじめた。全ては突拍子もない要素で構成されていて、にわかには信じられないものだった。だが、「バカか」と思う度に脳裏にぱっくりと開いた壺井あさぎの壺が、あの化け物から逃れようと足掻いたあの夜の光景を思い出す。どんな映画よりもリアルで情けなくて怖ろしかった。

 だから、信じないという選択肢は、もうなかった。

 目の前で、常識と現実の体現をしている刑事なんて職業が、その妄想の裏付けをしていっているのだ。ここ数年、もしかしたらもっと前から少女なんてものは消えてしまうものだった。少しずつその化け物たちの「ほころび」が見えてきたんだという。

 どうして生まれ、どうやったら殺せるのか――。

 そんなこともあまりわかっていない。わかっていることは少ししかない。その化け物達は、およそ人智や摂理を外れた力をもち、人や、同類を食う――。その為だけに生きている。

「じゃあ、やっぱり中村も、壺井も、どうでもいいけど片岡も――、し、死んだのか?」

 刑事は歯を見せずにしめやかに笑みを湛える。

「刑事さんもさ、実際これ全部信じてる訳じゃ無いわけよ。失踪しちゃって、その理由のよくわかってない、お年頃のお嬢さんがいっぱい世の中にはいてさ。そして、高い確率でその場所ではなにかしらの怪奇現象じみた未解決事件が起きている――ってこと。そして、その三人も、他のお嬢さんたちと同じように「行方不明」でしかないワケ。――あ、余計なお世話だけど、探偵のまねごとなんか、するもんじゃないぞ。クミちゃんはさ、運が良かったんだから」

 最後にそんなよくわからないことを言って、刑事は去った。

 槌田は今、名刺を弄っている。城内孝男刑事がメアドを書いてくれた名刺だ。骨ばった身体に似合わない丸みを帯びた文字。樹脂でコーティングされたそれには、黒い磁気線が入っている。曰く「それ公衆電話に突っ込めば、刑事さんに直通ってワケ。ハタチになったら、そいつでデートのお誘い待ってるよン」だと。

「――しねーよハーゲ」

 手がかりは少ない。でも、あさぎや中村だけじゃなかった。あの化け物の姿の先にあるものはなにかを知りたい。――知ってどうする。あんな化け物とまた相対しようというのか、それで、あさぎや紫乃を取り返すことができるのか。様々な後悔と諦めが、槌田の背中を押してくる。槌田は段々と前のめりになる、シーツ越しに、あさぎに砕かれた足が熱を持って槌田を戒める。砕かれなかった今の身体。「運が良かったな」という刑事の言葉が蘇る。

「――疲れた」

 今更、瞼が重くなってきた。

 まどろみの中、槌田は、あさぎとしたある日の約束を思い出している。

 いや、あれは約束なんて高尚なやりとりのつもりじゃなかった――。

「ねえねえクミちゃんんん! 指切りいいい!」「何をだよ、このまえたこ焼き割ったときてめー一個多く持ってったろ、それ返す約束か?」「うっわクミちゃんけっちいいいいいい! ちがうよおお! ほら小指出して」「だからなんの約束だよ」「なんでもいいじゃんんんとくにきめてないんだしいいい、いましたいのおお」「おまえ契約書にサインしちゃなんねえっていわれなかったのか……あっ、こら、てめっ、意外とパワーあんだよなっ――――!」

 

 戻らない日常に穿たれた、楔の思い出だ。

 

 

「で、つっちーどうでした?」

「うん、まー便利な世の中だよね、ETCだっけ? 最近のはうっすいんだねえ! アレより薄いんじゃないの? きみちゃんと使ってる? 計画してる?」

「……GPSです。あんまり大きな声はヤバいですよ。あとセクハラマジ勘弁です」

「まあどっちでもいいわい。そろそろ人間様の逆襲といきたいところですがね」

「駄目そうですか」

「だって、こんなのどうすんのよ。警察のやることじゃないんじゃないの?」

「まあそういわずに、市民の安全とかそういうの守っていきましょうよ。で、片岡の実家の方ですけど、上からストップ来ちゃいましたよ。誰なんです、これ」

「えっ、気付いてないの? きみ入った時さあ、多分並ばされてさ、挨拶してると思うよ?」

「―――――まったまたァ、そんなわけ、あるはずないじゃないですかあはははは」

「まあったくだ、そんなことに首をツッコもうとするバカがいるはずねえよなガハハハハ。なんでその実家の一人娘が地方都市の遠戚におっぽられてるのかとか、桃色事件の目撃でちょいちょいその娘がでてくるかとか考えるだにおっそろしくて考えたくねえよなあ?」

「これ、最後に回しましょうよ」

「同感。あとさ、あの倉庫どうなってん?」

「アレ、厚労省噛みはじめちゃいましたから、アレですよ」

「えー、アレかあ、じゃあまあ、いいかなーめんどくさいし。まあ、何もないことを祈ろうぜ」

「しがらみですねえ、刑事の勘ですか?」

「いンや、推理だよ。あーあ、探偵でも出てきてパッパラパーって解決してくれないかなァ!」

「そんなの商売上がったりじゃないですか」

 

 

 槌田は夕食の前に、まどろみから醒めた。そろそろアンモニアとクレゾールの臭いを帯びた不吉な笑顔の看護士がうっすい味の食事を運んでくる時間だ。

 カーテンの向こうがほんのりと赤い。夕焼けだろうけれど、ひとりでは体を起こすことができないから、それが夕焼けだと空をみて確認することはできないのだ。

 じわりと腹の痛みを覚えて、ぐっと手を握ると、セラミックの欠片を握っていた。

 それは、ぼうと暖かい。二度寝しそうな体は、まどろむ前に見た夢を反芻する。

 

「……ほら、ゆびきりいいい」

 

 ふと、あいつの真似をして小指を差し出す。天井の向こう、カーテンの向こう。願う。

 

 空に。

 

 この先に、どうか繋がっていますように。

        〈ブラックスミス・スクラブル 終〉