A ソルベット・リベット/0

 

 

 燃えさかる炎を少女は眺めていた。

 クジライがコーヒーを淹れる時、下唇を突き出しながら眺めてるコンロの青いヤツとは全然違うニオイがした。そいつらは黒い煙をもうもうとあげて、少女の住処を食い荒らしていく。白い家と灰色の壁にまとわりついて何色だったかもわからなくしてしまうのだ。

 ほっぺたが熱くなって、まばたきをして、泣きたくもないのに自然に涙が流れて、そこでようやく少女は自分が何かを握りしめていることに気付いた。

 これから成長することを期待される華奢でちいさな身体を寄りかからせていた木の――枝と呼ぶにはいささか大きい。目の前の炎に投げ込めば燃え尽きてしまうだろうけれど、自分の身体を支えることは出来るそいつのことを""と呼ぶ事にした。

「大変なことが、起きてしまったわ」

 テレビで観たセリフだ。少女はその言葉をカッコイイと思っていたから、それを使えて少し嬉しくなったけれど、口を不用意に開いたことで入ってきた熱気と煙に驚いて、いつから一緒にいたのかわからない不思議な杖と一歩後ろに退いた。

 けんけんとひとしきり噎せる。炎は熱くてだらだらと汗は流れるし、不吉なオレンジ色と煙で目が見えなくなりそうだ。きっと煙を吸い込んだり、この中に飛び込んだら死んでしまうだろう。だから、近づいてはいけないし、逃げなくてはいけない。

「――死ぬ?」

 こんなにも熱いのに、小さな身体が寒気で震えた。「ねえにいさま、死ぬってどういうことかしら?」少女はそんな質問をしたばかりだ。

「なにもなくなるだろう、ぼくは死んだことがないからわからない。死んだ人は誰も教えてくれない。それが答えだよ、マナカ」

 兄は少女相手でも容赦も逡巡もなしにそう答えた。少女は賢かったから、死が個人の終りであり、人はそれを恐れて逃れるべきものだと悟った。そして、人はそれを克服してコーヒーを淹れることまで、少女は繋げることができる。それでも、油断してはいけないのだ、目の前で暴れるこの姿になったら、いかな賢い人間といえども、終わりへと誘われてしまうのだから。

 ――だのに。

 少女は一歩下げた足を前に出す。炎はより一層強く死をくすぶらせているから、それ以上前には進めない。そう、人間は、こんなところに居れば逃げなくてはいけない。緑色のプレートに描かれた人間の模式図はそこかしこで『ここから逃げて生き延びろ!』と叫んでいたはずだ。横を通る度に押したくなる赤いボタンも、天井に点けられたちいさなUFOみたいなものも、すべてこれを支配しコントロールするための装置のはずだ、それに助けられて、思い出や、財産を失っても、この破壊がもたらす最悪のもの。終わり。続きがないこと、続きがないことを知ることもできない恐怖から逃れるはずなのに。

「なんで……誰も、いないの?」

 この広い敷地の白い家、にいさまやクジライやミマサカが"研究所"と呼んでいた少女の家が失われていく。少女だけではなく、彼女や、その周りの人々が日々の暮らしを営んでいた。なのに、誰ひとりとして、辺りにはいない。

「兄様! クジライっ! ミマサカぁ!」

 返事はない。炎が、全部飲み込んだ。悲観すると、それとともにじわじわとしみこんでくる絶望にあわせて、一歩、また一歩と足が下がる。目が覚めたときに不安すぎて手に取った木の杖をまた強く握りしめる。じっとりと汗が滲む。木材がなけなしの冷たさで少女の冷静を誘う。

 少女が倒れていたのは、研究所の裏口近くだった。山の中腹にあることは知っていたけれど、少女は外に出たことはなかった。研究所にはいくつも白い家があったし、知らない人もいっぱい居たし、なにより少女はみんなに大事にされたり、なんとなく遠巻きに見られているのを知っていたので、外に出ようという発想はなかった。友達は欲しかったし、海も見たかったけれど、クジライの買ってくるケーキはおいしかったし、ミマサカの話は面白かったし、兄様のことは大好きだった。

 ドアノブは回りがわるく、もう熱を帯びて汗をかいている。手が震えて、滑って、うまく開かない。正門に回ったら人がいるかも知れない。正門なら開いている可能性が高い、炎に巻かれてしまう確率の方が高いだろう。

「あっ!」

 少女は、扉を押そうとばかりしていたことに自分で気付いた。なんていう初歩的なミスだろうと自分を戒める。押してダメなら引いてみるのだ。――けれど、引いてもドアは開かない。熱でドアが膨らんだのか、長く使っていなくてドアノブが回らないのか、そもそも鍵がかかっているのか。

「あ、あ、どうしよう」

 背中に熱が迫っている。少女は「燃える物もないのに、何故こんなにも炎が大きくなるのか」と疑問に思う。

「うそ、やめて」

 炎は、ドアを隠すように生えた樹を飲み込んだ。意志のある蛇のようにとぐろを巻いた炎は、そのまま、少女を丸ごと飲み込んで行く。

 少女は、ある程度覚悟し、来るべき苦痛に備えて意識をどこか遠いところにやってしまおうとした、その時。

 ――""

 少女は、呪文を口にしていた。 

 ――""

 杖に巻き付いていた一条の細い糸に気付いたのは、その時がはじめてだった。唇からひとりでにこぼれたひとつめの呪文で、糸は意志を持つかのように螺旋を描いて少女と杖を繋ぎ、そのまま力強く放たれたふたつめの呪文で、頼りなく螺旋を描いてふらついていた糸は繋がったまま二手に分かれると、認識できぬほどの速さで互い違いに交錯し、瞬く間に人ひとり入れるほどの蚕繭(さんけん)にその姿を変え、炎が少女を食い殺す前に少女を優しく包み込んだ。

「――!?

 炎は、温度を上げたのか青白く輝くと、そのまま少女とドアを飲み込んだ。ドアは恐るべき速さで炭化し、ドアノブは融解していく。少女を守る繭も熱に煽られてじわりと歪んだ。

 少女の身体が動いた。計算と言うよりは、熱の来る方向から逃げようと体重を移動させると、そのまま朽ちたドアを破って研究所の外へと転がり出すことに成功した。

 繭の侵食は、止まった。

 ――"""解除"

 口から呪文が漏れた。少女を包んでいた光の衣は解け、元のように糸に戻り、螺旋を描きながら杖の飾りとなって巻き付いた。

「ぷはっ、は。苦しっ!」

 夜の森に冷えていく頬にさっきまで浴びていた熱の異常さを伝えてくる。白い土壁がしずかに燃えている。炎は白い壁の内側だけをきれいに嘗めているように見えた。その中にあるものを一つ残らず焼き尽くそうとしているようだった。

「なんで、なにこれ……」

 マナカの過去が、燃えていく。

 

      ◇

 

 少女の名は、マナカという。

 マナカは記憶を辿る、兄様の部屋に行ったのだ。たまたまその日は鍵が開いていたのだ。ミマサカがしてくれた授業の後だった。あとでミマサカが怒られるかも知れないなんてことに想像が及びながらも、兄様を驚かせてみたくて、兄様の部屋に忍び込んだ。兄様はいなかった。その部屋には何度か入った事はあるけれど、難しそうな本ばかりが並んだ本棚、緑のケース、無骨なステンレスの装置がいっぱい、ガラスのドラフトケース。ベッド。小さいときは気にしなかったけれど、ここは薬と緑の匂いがとてもつよい。部屋に入ると違和感を覚えた。兄様は足が悪い。だからいつも杖をついていた。その杖が床に落ちていた。自然木を加工したその杖は持ち手を革で覆って、手にかけられるよう絢爛な紐が付いている。マナカはそれを行儀悪くも、足で跳ねさせて手元に引き寄せた。

「兄様の匂い」

 細くて長いものを持たされた子供のすべてがそうするように、マナカも杖を持って、切っ先を掲げる、ジャンプしたって天井にはとどきやしないけれど、兄様の机の上にはガラス製品が所狭しと並んでいる。分厚いラップの帽子を被せられたいくつもの器具を倒して、兄様を悲しませないよう、そおっと遊ぶ程度にはお姉さんなのだ。

 その中にアルコールランプがある、使い方はよく知っている。マッチは怖いけれど、引き金を引くだけで火が付く道具の置き場所を、マナカはちゃんと覚えていた。ビーカーに鉄の袴を履かせた自分のコップを取り出す。コーヒーは苦いから、クジライに頼んで買ってきて貰ったココアの粉を用意する。粉をミネラルウォーターで溶いて三脚台の上に置く。

 一呼吸。誰もいないのにきょろきょろと首をふってから、むふーと鼻息を吐いておもむろに。

「マジカル・ケミカル・ふれいむおーん」

 それでも、恥ずかしいのでちょっと小声で。左手に杖を、右手に着火装置を持って、アルコールランプに火を付ける。魔法だ。教育ビデオの他に、ミマサカが用意してくれた娯楽ビデオの中には、マナカと同じ年頃の女の子が魔法を使ってみんなを助けたり、人類の危機に立ち向かったりしていた。その姿に、マナカは憧れた。

 人間は、魔法を使えない。

 使えないからこそ、それに憧れる。燃え立つアルコールランプを眺めながら、そんなことをマナカは考える、これだってマナカにとっては魔法のようなものだ、だから、いつか今の世では考えられないような奇跡を、魔法みたいに使えることがあるかもしれない。

 だから、マナカは魔法のことをいつも考えている。兄様にもいっぱい話をした。マナカの考えたすばらしい魔法の数々だ。魔法の糸で織られた魔法の布でいつも新しい服を着ることが出来る。魔法の鞄にその服をしまって、空を飛べる靴に変わって、同じ革でできているから鞭にもなって、悪い人とそれで戦うことが出来る。

 ――そんなになんでもできるのかい。

「もちろん! 私は万能なのだもの!」

 万能。という言葉がマナカは好きだった。

 沸き立ったココアパウダーと少しのお湯をガラス棒でやけどしないように練り、また、水を足して火にかける。

 あとはほんの少し待つだけだとばかり、マナカはベッドに腰掛ける。ベッドというのもまた、マナカは魔法なのだろうと思う。だって、途端に得も言われぬ安堵に充たされてしまうのだから。

 ココアなんか淹れてくつろごうとしてしまっているけれど、本当は、計画としてはベッドの下か、本棚の間、ドアの裏辺りに隠れて、自分の居ないときの姿を観察して、じっくり楽しんだところで脅かすつもりだった。

「うん……」

 瞼がひっきりなしに降りてくる。

「だめよマナカ、あぶないから火を消さなくては」

 杖の持ち手で頭をこつこつと叩いてみる。ここで寝てまっては、当初の目的を果たせないし、クジライが先に自分を見つけたりなんかしたら、また額に「ホットケーキ」とか書かれてしまうんだろう。マナカの頭の中は、バターとハチミツとホイップクリームとブルーベリーのジャムを載せた、贅沢なホットケーキのことでいっぱいになっていく。

 

 目が覚めたら、火の海だった。

O ループロープ・インファント/X

ループロープ・インファント/×

 

「――ふ」

 三条結は声を出す前に、体温ばかりに上昇した熱を机の上に漏らす。そしてためらいもひっかかりもなく優雅に立ち上がり「キリツ」と「レイ」を無難にこなす。いつも通りの甘い声をそれなりの枠の中に入れて出荷する。あるものは即座に、あるものはめんどくさそうに立ち上がり、それでもなにごともなく本日すべての授業が終わる。

 クラスメイトたちが、用の済んだ教室から去って行く。

 チャイムはとっくに止んでいる、しかし三条結の中ではまだ音楽が響いている。体を揺らせば重い音が胎の入り口から響いてくる。

「おー……」

 ショッピングモールに誘われた結は、その誘いを所用で断った。それはなにも、今日、結が他人に言えぬいけない遊びをこうして愉しんでいるからではない。今日が火曜日でなかったなら――そして、今日のように歩く度に刃を振り回す慣性のなまくらや、冷える下着を纏っていたならば、断らずに愉しみの方向を変更するだけで済んだのだけど。

 火曜日はダメなのだ。

 だって、タイミングが悪い。羞恥に満ちた帰り道なんて、つい最近ひとりで愉しんでしまったばかりなのだ。

 試食コーナーを巡りながら二種類の欲求を満たし、帰ってすぐに三種類目の欲求を満たしたら朝になってひどく後悔した。下着を一つダメにしたことと、少しばかり目方が増えてしまったこと。それでも「クラスメイトにバレ無いように」というシチュエイションは、結にその日のための準備を怠らないよう決意させるだけの魅力があった。

 結は自分でも飽きっぽいという自覚がある。だから、世の中に限りあるかもしれない自分の興味が惹かれる物の寿命をできるだけ長く愉しみたいと望んでいる。おなじおかずを続けて食べ続けるよりも、ローテーションした方が良い。

 いま結が興じている「危険なあそび」も、彼女にとっては言うほど大したことではないのだ。

 ――かといって、露見したら破滅だという自覚も忘れてはいない。なによりも、破滅こそが愉悦の根源だと、結は知ってしまっているから。

 この遊びは結にとって「制服のポケットからかわいいストラップをこぼれさせる」ことや「髪に隠れた耳にこっそりピアスを付けてみる」ことの延長でしかない。要は自分が楽しめればなんだって――勉強だって、良かったんだ。

 だが、結はこと趣味においては偏食家だった。

 盛り場でサイケな音楽に身を任せてトリップ。部活で巡り巡った縦社会のクレバスとアスレチック。家に帰って体温の感じられないLANケーブルの向こう側とプラスチック。

 そのどれも結を満足させることはできなかった。

 だから、結は歴史に学んだ。本能の奥底にある箱を、世の人が設定した適齢よりも先にさっさと開いてしまった。「開けちゃダメ」なんて言われた物はどうせおもしろくもないものなんだから、さっさと開いてしまえばいいじゃないかケチケチすんじゃねーよ。そう思った。期待はしていなかった。いままでの「これおもしろいよ、結ちゃん」は(ことごと)く、ほんとうに悉くつまらないものだったから。それが良かったのかも知れない。

 これが意外と、楽しかった。

「ふ――――――ぁっ」

 立てば、こすれる。歩けばさらに振れる。刺激の足りない日はほんの少し丈を短くする。

 誰かがいる廊下より、誰もいない教室の方が、幾倍も心臓を揺さぶられることを結はこの遊びを初めてたった数週間で気づいてしまった。

「――――ひゅ――ぅ」

 三条結には決まった相手などいない。セックスなんてものはもうしばらく要らないかな、とまで思う。誘われて、その夜限りなら――もちろん相手次第だが――ヤったっていい。でも、数ヶ月前までにこなしていた飛び石を跳ねていくような遊びには、もう楽しさを求められなかった。

「く――――ん――――」

 僅かな声混じりの吐息で、結は廊下を進む。声を出さないことだって出来る。

 ――だけど、誰もいない廊下で、声を出しながら、誰かが不意に出てきやしないかと怯えながら甘い声を漏らせば、それだけで――アガる。

 結はそれを知ってしまった。そんな声を出すためのスイッチを張り巡らせる世界を知ってしまった。

 最後の男に、その世界の入口を教えてもらった。その男はつまらないし、乱暴だし、財布のヒモも堅かった。つまらない男は小道具を使って行為を愉しもうとあがいていた。結は全く反応しない自分の体と膝を抱えてあくびをしていた。癇癪と鞭が飛んできた。結は癇癪を起こして、そこらの荷物をまとめてホテルを後にした。

 ――赤い縄が、バッグの中に入ったままだった。

 その縄が今も、結の躰を巡っている。

「――んっ――んっ――」

 階段に差し掛かった。廊下を歩くのになれた頃に這い寄って来るものがいる。その襲来を期待しながら一段ずつゆっくりと上がる。途中でジャージに着替えた陸上の連中とすれ違い、会釈をする。心臓がほんの少し跳ねる。

 陸上部の連中は、そのまま降りて行ってしまった。

 ――ああ、足りない。

 結はそれではダメだった。

 陸上部の連中の最後が行ってしまうと、結はすかさず自らのスカートの前を盛大に持ち上げてみた。踊り場の空白を見据えたまま。振り返ったりはしない。振り返ったりしてはいけない。陸上部の連中は部活に向けて急いでいるから、自分を振り返ったりはしないと信じる。

 それでも、もしかしたら、遅れた奴が降りてきて、自分の奇行に気付くかもしれない――。もしかしたら、あいつら陸上部は火曜日に出る痴女の正体を探していて――そんな思考を巡らせて、ようやく結の心臓は満足なほど跳ねた。

 耳が遠くなるくらい、十秒にも満たない時間が三分ぐらいに感じられるこの瞬間が、結に恍惚をもたらす。身体が揺れる。身体が揺れると、結の内側に仕込んである(おもり)も揺れる。それで、結のキャパシティーはにわかにいっぱいになって、器が溢れる。足が震えてくずおれてしまいたくなる。――でもまだ、いま音を立てたら気のいい陸上部の彼らが、何事かと様子を見に戻ってくるかも知れない――。

 まだ、はやく、まだ、はやく――。

 足の震えは、回り回って、結の敏感なところ全てを(むし)って行く。

 程なくして、陸上部の連中の何事もなかったかのような笑い声が、階下から聞こえてくる。結は(つま)んでいたスカートの裾を離す。下着の上に縄を纏い、その内側に音立てぬ錘を(くわ)え込んだ異常な下半身が(うすぎぬ)に再び隠されていく。

 内より滲みはじめた熱が、ささくれをなだめている。

「――ああ」

 体温をじわじわと上昇させながら、結は階段を上る。踊り場はオアシスのようだ。それでも暑いことに変わりない。

 三階に到達するころには、波がやってきており。

 四階に到達するころには、海になっていた。

 結は上ってきた階段を眺める。三階と四階の間に佇む薄暗い踊り場だけが見える。もし、この階段を駆け降りたら、結は一気に楽になれそうな気がする。階段の途切れてしまった四階が屋上に届かない構造がうらめしくて、踊り場を見る目が物欲しさだけで満たされていく。

 そして貪欲な結はそこに人がいることを想像して、また、さっきのようにスカートの裾を持ち上げてみる。内側から水音がする。触ってしまえば――。ここに続く縄を、どの縄でもいいから引っ張ってしまえば――。

「――だめ。決めたんだし」

 結はそういって自分にお預けをくれてやる。

 そう、どの男もここの機微がなっちゃいなかった。ただ力任せに、ポルノビデオと同じセリフを再生して――それを自分でもわかっているのか苦笑いをするのだ。それが結にはとんだシラケだったんだ。

「――うん」

 結は疼く躰に鞭をくれる。そしてその先に飴を置く。そう。だって――階段の上り下りを続けるのは――もうやったじゃない。今日は――。

「――今日は火曜日だよ、ゆい」

 かすれるこえ。物欲しげに餌をねだる猫と、お預けしてその反応を愉しむ飼い主の声が混ざる。

 結は施設棟四階のトイレの前に立つ。何事もないようにトイレに入る。誰もいない。すべての個室が空いていることを確認する。洗面台が二つの奥に個室が三つ並んでいる。その真ん中の個室に結は決めていた。

「――――ふぅ」

 背中から毒が子宮に、そしてそこを伝って大地に流れ落ちる。ドアではなく壁に背を持たせ、フタの上にスクールバッグを載せる。そしてトイレットペーパーの端が折られているのを確認した。漂白剤の臭いが、幽かに残っている。

 結は知っていた。――いや、調べていた。火曜のこの時間、この界隈には人がいない。だから清掃業者は一番上だしここから掃除をはじめる。専門棟のここで火曜日に部活をする部がない。祭りの前なら話は別かもしれないけれど、結はまだ一年だった。

 だからこそ、邪魔が入らない……しかし、いつ入ってもおかしくない。

 この時間のこの場所にチャンスがあるのだ。

 三分。

 心臓の音が穏やかになっていく。誰も来ない。壁に付けた耳に足音も誰の音も聞こえてこない。結はまだ個室のドアを閉めていない。だから他の個室と同じようにわずかな隙間をあけて「ここが空室です」と主張している。けれど、これは結の怠慢ではない。結はこう思う――もしも誰かこのトイレに入ってきたときに、埋まっていれば変だと思うはず。そっちの方がリスクが高い。だって結なら――すべての個室が空いているなら、一番手前か一番奥を選ぶからだ。

 もし――まかりまちがってこれから結が成し遂げようとしている淫奔(いんぽん)の最中に、誰かが真ん中の――結がいる個室を開けてしまったなら――。

「――――ふぁあ」

 声が漏れる。

 それを想うだけで、結は冗談ではなく達してしまいそうになる。全身のうぶ毛が静電気を寄せ集めて発電をはじめてしまいそうな勢いだ。その電気はぐるぐるとめぐって、子宮のあたりにたまって、結の一番敏感なところを責め立てる――。

「――だ、だめ。まだだめ」

 結は両手を壁に付き、静かな声で再び自分をいましめる。そうだよ結、これからもっと楽しいことをするんだから、先にデザートをたべたりしちゃダメなんだよ。

「そう――いいこ――結」

 結は上履きを脱いで、腰に手をやる。そこには縄がある。その赤い縄は、結が最初に手にした縄で、今日は下半身だけを彩っていた。日常身につけるにはどうしても痛かったから、今でも結は下着の上にこれを付けることにしている。湿りが乾きだして、結の熱を持っていくその絞れそうな布を縄の隙間から――競泳水着を下着の上から脱ぐ要領で取り出していく。

「――たぃ」

 縄をずらす。そもそもすこしゆるめにしてある縄は、結が力を抜けば安全な場所へずれていく。

 結はバッグを開ける。チャックの音が響く。空けきったら一呼吸。人の不在を確認し、その不安を愉しむと共に、さっき腰の縄を下ろしてしまったせいで、ささくれの先だけがこよりのごときもどかしさでいたずらをする。

 それがまた、歯がゆかった。

 バッグの中には、また縄がある。長い。そして今腰に付けている赤いのよりも伸縮性がありやさしいものだ。結は器用にその先を結んだり、結び目を付けたり、時に自分の躰や腰の縄に通していく。

「――っし」

 荷物掛けに縄の真中をかける。ドアはまだ開いているから結が動く度にきいきいと軋む。

 

 ――やめなよ。

 

 どこかで、まだ生き残っていた人のままの三条結が、みだらな三条結を見て泣きそうな顔をしている。みだらな結が、蕩けた目で、冷静なまま、低い声で言い放つ。

 

 ――ざまあみろ。あんたは、一生ここに来れやしないんだ。

 

 口で縄を咥え、たるみをつけながら作業をする。

結の左手はとっくに動きを封じられている。左を無理に動かせば、赤い縄に沿って捻るように這わされたこの縄が、結の茂みをかき分けていく。右手を引くと荷物かけが引かれ、その先に繋がった右足が持ち上がる。

「――――ふっ」

 笑い声をあげる。しゃっくりのようでも、鳴き声のようでもあった。

 ――もし、今ドアが四十五度開いたときに、誰かがいたら。

 ――もし、今ドアが四十五度開いたときに、足音がしたら。

 ――もし、今ドアが四十五度開いたときに、ナニもカモをご存じの誰かがドアを開け閉めして、結のまたぐらに這わされた快楽の縄を引き絞ったあげく、崇高な趣味の証拠を電子メモリーに記録されワールドワイドウェブの大海で釣り上げた(はし)から増殖していったら――。

 ――そして、泡を吹きながら嬌声をあげる自分の姿を、液晶越しに見せられでもしたら―――――。

「―――――――――ああ」

 きゅっと結を巡るすべての縄が張る。そうなるように、そんな刺激がほしくて結は手と足を動かした。そして、一拍。

 右足と荷物かけに繋がった右手を一気に後ろに。フラッシュバルブの突起に張った縄が掛かる。そこをしめる最後のたるみは、左足がやってのけてくれていた。

「――――できたァ」

 半開きのドア。

 左足だけ自由な体。

 部屋の中に張り巡らされた土色の縄は、結の身体を戒める。

 その中でひときわ鮮やかな赤色の縄は、結の快楽を高める。

 ここに入る誰かを遠ざけるすべなんかない。ドアは力学に乗っ取り四十五度開いている。だれかが入ってきて、誰かが入ろうとすれば、異常に気づくだろう。

 見捨てられるかも、しれない。

 それはそれでいいのだ。結はちゃんと、この状態から脱するすべを隠し持っている。その術は役に立たなくとも、あとで目と耳で結を楽しませてくれるものだ。それでも、そのことすらも忘れる程に、今の状況が楽しくて、心臓が跳ねる。心臓が跳ねる度に、もどかしく全身の縄が擦れる。

「あ――。あ――――!」

 声を出せば、さらにその気が高まって、止まない。痙攣を起こしたような息が止まない。寸断するふるえが結の躰を責め立て、また痙攣を呼んでくる。あまりにも良くできた永久機関だった。そしてこの痙攣はあまりにもやさしかった。

 

 はじめてのくせに、どの男よりも焦らし上手だったんだ。

 

「もう――もう――もっと――……! はや……く……ッ! ――――ッ! あ! ふぁ――」

 

 この結線が完結してまだ五分も経っていない。

 なのにもう、三条結は、誰かがこのドアを開けてしまうことを願っている――。

 

 

 

 

 

〈グレイプニル・グレイブ 了〉

N テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/3

テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/3

 

 今から――あのトイレの中で。

 年下の子に弱みを握られたあたしが――。

 甘い声をあげて、それを全部映像に残されて――。

 今度は、街中を、コート一枚で――。

 寒くて――、粗相してしまう八頭佳恋――。

 そして、お仕置き――。

 その予告みたいな映像を、他人事みたいな総集編でずっと夢と見ていた。あの四階のトイレに行く途上で、佳恋はずっと、自分のそんな行く末を頭の中で想像していたんだ。

「――あれ」

 八頭佳恋は、トイレでも、図書室でも教室でもないところにいた。草原のようだった。まるで夢の中か、幼い日の記憶のような曖昧な世界の輪郭。

 白黒かと思えば、ふかいふかい緑色の空間のようでもあった。認識するとこの緑色はすぐさまはっきりと、零した水性絵の具のように拡がっていき、のぼせかけていた佳恋に、即座にある人物のことを思い出させた。

「――真田さ……!」

 声が出た。明らかにおかしい世界の中で、声が出ることを不思議に思った。意識できないというよりも「意識が向かない」世界。佳恋が生きてきた中で思い当たる節はひとつしかない。

「――ようこそ、カレン! キミのノゾんだ。ボクの景色だよ!」

 案の定だった。

 しかし、佳恋は今四階に向かっていたはずだ。施設棟の四階に。結と逢瀬を重ねたあの場所で、結に最後までシてもらって、育て上げられた風船を空に放って、飛べるはずだったんだ。

「――あなた、なんなの。結は」

 さっきまで――いや、あれからどれくらい時間が経っているのか、まったく佳恋にはわからなかったけれど――あんなに佳恋を蝕んでいた熱は、もうどこにも見あたらなかった。

「――ボクは、ボクさ」

 声はするが、見えない。どこからの声かもわからない。そもそも、声なのかもよくわからない。ただ、その端に残念そうな感じがあることに佳恋は気付いた。

 長く付き合ったわけではないけれど、それはとても珍しいことなのではないか。口には出さなかったけれど、直感で佳恋はそう思った。

「ここは、ノドかで――ワルくなかったんだ! けれど――ああ、これは、カレンをナジっているわけじゃないんだ。でもね――ボクはキミらのムツまじさに、カスかにサワられてしまったんだよ――」

「――なんの」

「ユイは、かわいいからね」

 佳恋はその名前を聞いて、胸の内がぐるぐるするのを感じる。わけのわからない真田なんかに、その名前を唱えられるのがひどく癇に障るのだ。そして真田が、自分たちの逢瀬のことを知ってしまっていることも――いまの一言で視えてしまった。

「真田さん、あなた――! ゲッ」

 縄が佳恋の喉を捕らえていた。

「アバれないで! 今ボクはコウじているんだ。キミのショし方を! 本当は、あのミダらの続きをキミにテイしてからでも、カマわなかったんだ!」

「――ゲ」

 いつのまにか佳恋の四肢は封じられていた。それは数多の縄のごときもので、結が縛ったそれらとは違う無数の蹂躙だった。たどたどしさも、それによる微笑ましさもない。ただ緑色の縄が、ありもしない服の中へずるずるとためらいもなく、じらしもなく、ただ犯すために入り込んでくる。そこには快楽も痛みもない。ただ押しつぶされそうな圧迫感。

「――イッ!」

 女同士のじゃれ合いでは、生まれない痛み――。

「――これくらいは、モラってもいいかな」

「なんで――ひどいよ――」

「ああ、キミはニラんでる。ボクをコクでハクだとソシる! もっとハヤくツカえにナラえばゼンだったのだけど! ――このフルえをボクはオソれたんだよ、カレン――これはボクのマミれなのかもしれないね。ボクもまだ、ボクのままなんだ」

 錯乱したような言葉を、真田瑛子は朗々とうたいあげる。悲しそうな口調を隠しもしない癖に。踊るように楽しそうな仕草で佳恋を追い詰めていく。

 数多の緑色の縄は、結が結んでくれたたどたどしいものとはまったくの別物だった。色も温度も、表皮に生えた繊毛すらもすべてが劣っていた。

 真田瑛子が踊る度に、一本一本が意志があるかのように。指先や目や唇や、舌や髪の一本一本の先が揺らめくのに合わせて、今佳恋を侵略しているすべての指先が荒々しい蹂躙を完成させようとする。

「ツラいなあ」

 歪で、歪んで、焦点も輪郭もはっきりしないこの世界の中で、死の予感だけが確かなものだった。

「――もうツイをヒラいてシマおうか。さあ、目をヒラいて――カレン!」

 言われずとも佳恋の目はまだ開いている。

 背景には変わらぬ緑色の草原、緑色の空、雲の形は古城のようでもあった。ぼやけているのは佳恋の能力が故か、何もわからない。目を細めると何かが結像したような気がした。

「――――ぁ?」

 一瞬の少女。一瞬の屋上。佳恋の首を絞めているのは、ささくれだった縄でも、繊毛を生やしたしなやかな蔦でもなかった。それは、たった二本の細い腕。ダサくて緑色でもないくたびれた黒髪の少女が、奥歯を食いしばりながら細い腕に精一杯力を込めていた。

 こんなかよわい拘束、すぐにでも抜け出せてしまえそうに思えた。

「あはは、モガいていいよカレン! でも、キミは相手にされなかったのに――。カナわぬシタいなのに――。ムクわれぬオモいだったのに――。それが、キミだったんだねえ――」

 俯いていた少女が顔を上げる。まるで幼いが、それは確かに真田瑛子のものだと佳恋は判じる。

 次の瞬間、その顔はずるりと溶ける。六方にシンメトリックな線が刻まれ、肌色が鮮やかな緑色に染まっていく。顔の内側に蔦で出来た渦巻きが生まれ、収縮し、内側の収束点からそれが開いていく。

 それはもはや、何者でもなかった。その奥は、まさにあの転校の日に佳恋が見たものと同質の――。

 

 ばけものだった。

 

 その奥の奥から、煤けた声が聞こえる。

 

「――カレン、キミは――ボクをどこまで、ロウじてくれたかなあ!」

 何を間違えたかも、わからない。

 返事はもう、どこにも無い。

 

 捕食者と、熟れた餌がいるだけだ。

 

 

 真田瑛子はひとり施設棟の屋上にいた。

 誰も見ていないけれど、はしたないから口を隠してげっぷをひとつ。悲しいけれど腹も膨れた。なら離れるのが瑛子の決まりだ。

 くろいくろいセーラー服をはためかせて、早すぎた目と彼女の名前が、瑛子になるのを待っている。

 

 

 魔法少女がひとり、かりそめに充ちている。

 そうやすやすと、泣いたりしない。

M テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/2

テンタティブ・テンタキュラ・ユグドラシル/2

 

「せんぱい、我慢しなきゃダメですよ。最弱にしてありますから、わたし、いつものところで待ってますから。五分後に来て下さい、そしたらきっと十分後には着くと思うんです。わたしが中でどんな風に待っているかちゃんとソウゾウしながら一段ずつゆっくり上ってきて下さいね。誰かが来ても平然として、誰かとすれ違ったら背を向けたままスカートを上げるんです。そうしたら、もっと気持ちよくなれますからね。……十五分したら、帰っちゃいましょうか?」

 

 結が十分前にゆっくりと耳元で囁いたその言葉を、噛みしめながら佳恋は施設棟の階段を上っている。

 ――はやくして、結、はやく、はやくして。誰もいないところじゃなくたっていいじゃない。ここだっていいじゃない。結、ねえ、結。もう、私、もうせつなくてたまらないの。被服室でもうあんなに焦らされたから。ねえ、あなたの唇どうしてそんなに水飴みたいに――。

 人の気配がした。

 考え事をしてなかったから、わからなかった。

 ――誰かと、すれ違ったら、スカートを上げるんですよ。

「あ」

 上げなきゃいけない。と佳恋は(ゆ)だりきった頭で、思う。夢見心地一歩手前の、マルチタスクお断りの、ピンボケあたまで思う。すれ違ったんだから上げなきゃ。大丈夫、見られたりなんかしない。結はいつもこうしてるって言ってたじゃないか。

 

 下着も穿いてない、ミダらな下半身をサラさなければ!

 大丈夫、キミの目には何も見えてないんだから!

 

 ざわざわと、世界がざわめいている。

 

「――あれ?」

 

 佳恋の目にはいつからか、魔法が宿っていて。

 その魔法は、人が隠したものを見つけられるちからがあった。でも、魔法は変質する。佳恋の恋は盲目を呼んでしまった。指向性を手に入れた魔法は同時に他のものを阻害することがある。

 例えば――誰かが隠したものだけ見えるように願って、それが叶ったあと――他の誰かが隠したものが、なにもかも見えなくなったら?

 

 ――ねえ、カレン! 見えなくてもカンじることはできるだろう! この(きざはし)にタカる群のサワぎとドヨみを――!

 

 声がする、背筋に寒いものが走る。目には見えていないけれど、はっきりと聞こえる。佳恋はスカートを上げて、秘密を晒したまま立ち尽くしている。それは佳恋にとっては誰も居ない場所だったけれど――。

「あはは――とんだ格好だね! そのニクはどこにフクまれて、誰にツバキをテンじられるのだろう! ――キミをこの上にヨウするわけにはいかないんだ! だって、だってキミの目にウツるものが、ボクにはどうしたって気にくわないんだからね――! キミにロウずるボクのカクれは、キミをスクえるかな――?」

 もう、破滅は明らかだった。

 踊り場の上に、ひとり、ふたりではない誰かがいる。その誰もが好奇心と好色と侮蔑と唾棄を混ぜて佳恋に投げつけていたんだ。誰かは先生を呼びに行くだろう。さめざめと泣く誰かの声にいくつか覚えもあるだろう。ゲンメツを呟く声に義憤を募らせる男子がいることすら、感じてしまうだろう。

 佳恋にはもう、見えないことだけれど。

 佳恋は震えている。魔法が役に立たなくなったことでも、いつのまにか人ならぬ身になってしまったことでも、真田瑛子や、他の自分を知る誰かにこの痴態を見られてしまったことでも、結のことでも。――そのどの恐怖でも、ない。

 

 佳恋は、震えている。

 甘い声を出して震えている。

 

 

 緑色の髪を波打たせた真田瑛子の舌先から、

 赤い蛇をのたうたせた佳恋のまたぐらから、

 歓喜の雫が、

 落ちていく。

L ステンドグラス・ストラテジー/7

ステンドグラス・ストラテジー/7

 

 八頭佳恋にはもう、三条結の言うことを聞く以外の選択肢はなかった。

 佳恋がこの沼の中に沈まない選択肢はいくらでもあった、選択肢のどれかはもしかしたらこれよりも救われない悲劇が待っていたかもしれないけれど。

 最後の選択肢はとっくに過ぎてしまっていた。それがどの時点のことかなんて、当事者の佳恋にはわからない。けれど、佳恋がこりゃヤバいかもなんて思ったとき、既にスカートには(いかり)がくくりつけられていたんだ。

 錨は底につくまでは――また鎖を延びきらせるまではその存在を主張しない。腰から泥の中に引き込まれたときにはもう。心電図はフラットを表示していたんだ。ハチミツのごとくあまいあまい塩水が、肺をゆっくり満たしていく。苦しくないくせに、こんなにもキモチいいのに、佳恋の身体は確実に水の底に沈んでいくんだ。

 佳恋のうすっぺらいスカートの中では安っぽいピンク色の錨が、笑い声をあげている。

 

「――――ふぁ!」

「せんぱい、静かにしてください、はい、この問題教えて下さい」

 二人は放課後の図書室にいた。佳恋は結の座る机の横に立っていた。図書室に人はまばらながらも、誰もが行儀良く作業や、それぞれの想像の世界に没頭しているようだった。

 それは、二人にも当てはまる。

「ふ――っ……」

「せんぱい、聞こえますよ」

 いたずらな声音とともに、結の暖かい吐息が耳にかかった。佳恋の肌は、つまり耳までも張りつめた状態になってしまっているから、声を押し殺すだけで精一杯だった。

「――うそ」

「うそなんかじゃないです」

 ――疑うんですかぁ? 

 せめてもの平静さを結は乾いた声で打ち捨てる。横に直り佳恋のリボン端を握ってぎゅっぎゅっと引っぱってくる。それだけで佳恋は鼻の奥から熱の塊を垂れ流しそうになるのだ。

「やめ、やめて」

「それじゃあ、きこえませんよ」

「やめて、やめて――ください」

「もうひとこえですね」

 ぐっ。

 リボンが引っ張られる。傍目(はため)にはリボンを結びなおしてあげる先輩後輩の仲睦まじいやりとりに見えるだろう。

 リボンはやがて襟の中に消えていく。引っ張られたリボンに伝わった力は佳恋のうなじを責める。けれど、それだけじゃない。リボンは背中で、上着の内側、ブラウスの外側の隙間を縫うナイロン線に繋がり――腰骨のまた隙間から侵入し、佳恋の全身を下半身から持ち上げるように締め付ける。

 ナイロン線の先に繋がれた縄によって。

「おねがい、おねがいだから」

 たまらず、佳恋は結の手を掴んで、制止しようとする。

「はい、はい、先輩かわいいですよ。そんなにせっぱつまっちゃって。あれ、あれあれなんですかこの手。ナメてるんですか? やくそくしましたよねー」

 そう、この遊びの間、佳恋の手は結に触れてはならない。そういう約束(ルール)を決めておいたのだ。

 だから結はお仕置きの実行にかかる。結にとっては単純な話だ。一緒に決めた約束を破ったのは「先輩」のほうなのだから。

「え、えっ、あっ、やめ」

 佳恋の能力はこの数日で劇的に変化した。変化したのは、きっと結のせいなのだ――。誰彼構わず見ることが出来た隠しものなのに、今では、結が「隠そうとしているもの」しか見ることが出来なくなってしまっていた。

「だめー……ぇ」

 きりきりっ。

 そして、メガネなんか無くても、結のものなら見えてしまう。

 だから、結の身体にかけられた縄も、結が握っているプラスチックのダイアルスイッチも、それによって振動をはじめる結と佳恋の内側の振動体も、すべて(つぶさ)見えてしまうのだ。

 ――――ッ!

 佳恋は歯を食いしばる。身体を強ばらせると全身の縄が締め付けて、さらにその振動体を敏感な場所に押しつけてしまう。

「せんぱい、どうしたんですかァ?」

 結のイタズラな声が、リボンを操る手つきを変える。

「やあ……っ。あ。あ。」

 緩急の付いたたかが二往復、それでも、衆人の目がある中で禁忌を犯している――という状況は、佳恋を思いの外敏感にさせた。腕が跳ねる。シャープペンシルが転がって、落ちる。

「落ちちゃいましたね、拾って、せんぱい」

「えっ……あッ――――ッ」

 手を伸ばしても届かない。床に落ちたそれを取ろうとすれば屈まなければならない。急に屈めば、縛られる。

「はやくしないと、こう――」

「えっ――、だめ、これいじょう――ゆ」

 その時、隣を通った生徒がシャープペンシルを拾ってくれた。

「どうしたの?」

 その生徒は一年で、三条の知り合いだった。

「ん、先輩に教えてもらってんだ」

「へー、でも三条さんって部活入ってたっけ?」

「ううん?」

「じゃ委員会――? なんか先輩具合悪そうじゃない?」

「私がぜーんぜんできないから、頭痛くなったんですって、ね。せんぱい。ごめんなさい」

「――え、はい。ごめんなさい」

「なんですかそれ、先輩おもしろーい。三条の成績上がったらあたしにもお願いしますよ」

「う、うん。いいよ。人におしえてあげられることなん――」

 善意が終わる前に、結がかぶせてきた。

「えーッ! わたしの成績なんて、そう簡単にはぁ――」

 結は話に合わせながら、了解メールを打つときくらい気楽に、手軽に、しぜんに、一瞬で無駄なく鞭を降りあげてノータイムで降りおろしていた。

 黒くて無骨で――でも安っぽい作りのダイアルがその目盛を無機質に増した。

 ――ぁ、くる。

 それが佳恋には見えている。

「――上がらないぞ」

「ごけんそーん」

 ぴりっ。

「――――ッ!」

 信号が飛んできた。その指令はとてもゆっくりとやってきた。佳恋は電波を感じるタチだ。だから着信やメールがきたときは、本人曰く「ピリッ」とした感覚があるのだ。さっきからちろちろと(な)めるようなふるえを佳恋に与え続けてきていたショッキングピンクが容赦なく(は)ぜる。来ることがわかっていたのに――いや、だからこそか佳恋は身構えていたみずからの躰、その表皮で最も敏感な部分への責めを、完璧に味わってしまう――――。 

「あ、あっ――――ふぁ。だめ、だめ……! ――ぇッ!」

 スカーフの先につながれた赤い縄。それと肉の間に小さな爆弾は仕組まれている。さっきからずっとじわりじわり引かれ絞められこすられていた躰と縄の間。そこに(おり)となり溜まった情動が、衝動が、劣情が、衆人環視の中にある事実が、急速に発酵をはじめ、全てがひとところに集まって――、

 

 ――すうっと引いていく。

 

「――どうしたんですか。せんぱい」

 佳恋の身体は小刻みに痙攣している。

 振動は、止められていた。

 結の同級生は、軽く挨拶して行ってしまっていたようだった。三条が楽しそうな目で佳恋を見ている。

「バレてないですよ、良かったですね」

「――あ、うん。え……なんで」

「なんで――? なんでって、なんですか。せんぱい」

 結は本当に楽しそうだった。

「なんで――なんでだろうね……」

 佳恋はヒクつく身体をおさえようとして、もう完全に図書室の机に中腰で突っ伏している。とても真面目に後輩に勉強を教えている様には見えなかった。 

 敗北しかけた自分が、現実に引き戻される。いや「敗北しかけた」なんてうそ、うそだろうよ佳恋、あんたはとっくに敗北を喫している。ただ、目の前の勝利者は、あんたの支配権を実力で勝ち取った王様はね、タダで畑を耕させちゃあくれないってことなんだよ。こうやって、領民は、領民であることを教え込まされるんだ。

「ど、どうもない……よ」

 この強がりになんの意味があるのか、佳恋は王様の顔を見てしまった、今は佳恋が刃向かったような言葉を吐いたことに、不満の表情を見せている。けれど、ほんの一瞬だけど、もしかしたら本人ですらもその表情を見せたことに気づいてないんじゃなかろうかって間。見せた、嗜虐。

 ――あたしは今から、この嗜虐に晒されるんだ。

 ――今、自分はどんな顔をしているんだろう。

「先輩、四階行きましょう――? 今日は、火曜日ですから」

「――え?」

「だって、まだでしょう? 先輩。あたし、やさしいんです」

 

 ――いいんですよ、付いてこなくても。弱みなんて、どこにもないんですから。でも、そしたら、明日の朝まで、ずっと、そのままでいてもらいますからね――。

 

 そんな風に耳元で囁かれたって。

「やだ――」

 この縄は、解けないんだ。

 

 ――せんぱい、いいんですよ。狼なんていなかったんです。

「して――」

 手が、掴んでいた。結の上着に縋って皺を作る。あの日、あの場所で逆だったように。そしてこれからあの場所で落ちる。八頭佳恋は落ちる。今ここでされたように、目の前の賢き狼に舌なめずりされながら、全身に蛇をのたうたせて。

 

 

 想像しただけで、顔がほころんでしまう。

K ループロープ・インファント/2

ループロープ・インファント/2

 

 三条結は、自室のPCの前で、三角形の口をしている。

 

『――るぅちゃんは、どんな格好しているの?』

『えー、るぅは、まだせいふくです』

『そーなんだ、今どんな感じ?』

『どんなかんじって?』

『どんなってさーぁ、わかってんでしょ。もう濡れてる?』

『う、うん。今日はずっと我慢してたんだぁ・・フェンさんも?』

『そう・・いいこだね。じゃあ・・前教えたとおり、ちゃんとおねだりできるか・・な?』

『フェンさんのほしい、なー』

『んー、聞こえないな。ちゃんと言って御覧?』

 

 ――あーあ。

 結は大きくため息をついた。

 こんな文字が真っ黒い画面に並んでいる。こんないかがわしい話をするチャットルームに結は常連であった。もちろん『るぅ』は結で、フェンは『フェンリル』というハンドルネームの男で、結を御し易しと見たのか調教したいしたいとしつこく言い寄ってくる芸のない男だった。

 ――なァにが「言って御覧?」だ。

 結が『退室』ボタンを押すと、画面の殆どが黒くなった。

「――クーズ」

 悪意も熱意も興味も籠もっていない声を結は零して、ベッドの上に自分の身を投げ出した。

 最初は面白いと思ったんだ。こんなアンダーグラウンドを見つけたとき、結は確かに心躍った。想像だけ、文字だけで自分の為される様を想像しシーツをこてんぱんに濡らした。

 すぐに飽きてしまった。だから、貪欲な結はそれを入り口にして、次の楽しみを見つける筈だった。

 しかし、結は結局満足できるパートナーなどを見つけることは出来なかった。かりそめの支配を得て、脳を騙して、その夜の射精が出来れば満足の――素直で率直で、しかし性欲を持て余した豚しかいなかった。その豚たちは「アワヨクバ」「アワヨクバ」と鳴く現実主義者達だったんだ。

「もーちょっと、いい感じになると思ってたんだけどなァ!」

 結は肌を露出したままの両手両足を天井に掲げる。足の指に絡まったままのウェブカメラが、そのまま接続されたノートパソコンを引っ張って大惨事になりかける。股間を映したままいたら、二百人近くが見ていたこともある。その全ては結を満足はさせなかった。

「どいつもこいつも、口ばっかり!」

 結は悟る。結局自分の楽しみは、自分で創り出すしかないのだ。貪欲に。しかし結は知ってしまっている。やはり計算されたものだけでは楽しみは得られない。そこに他者の思いも寄らない介入が無ければ面白くない。

「――そう、例えば」

 ノートPCがメールの着信音を告げる。結はもう、渇きはじめた身体をもてあまし、だるそうにノートを手元に寄せた。『フェンリル』様からメールが届いています。さっきのチャット相手だ。 彼は勘違いも甚だしい男――多分――だ。メールの内容もお決まりで、どこかで見たような調教メニューのコピペをせっせと貼り付けて送ってくる。小娘なら顔も赤らめようが、結にとってそれは――見飽きたものだった。少なくとも、気の利いた言葉一つよこせないケーブルむこうの醜男(ぶおとこ)のいいなりになりたくなんかない。白けるだけだ。

 ――つまらないなあ。

 もうちょっとで何か掴めそうなのに。

 もうちょっとうまくやってくれれば、いいのに。

 例えば――ああそう、三条結がこの『フェンリル』だったら――いいぞ結、面白くなってきた。どうやって、本当のそれを演出する?

 考えろ――この三条結の中で暴れる獣を、××××させてあげられる、上手い方法を!

 

 結はベッドの中でずっと考えている。こうして編んだ妄想はいくらでもある。そして結は準備をしておくんだ。いつの日か、この遊びが、楽しみを満たしうるチャンスが来るのを。

 細い細い繊維を、幾重にも結わえてこそ、強くしなやかで風雨に晒されても負けぬ縄が(あざな)えるのだ。そう、獲物を捕まえてからでは、縄を(な)うには遅すぎる――。

 

 

 舌なめずりはそれが終わった後でいい。

 飢えたまつろわぬ狼の如く。

 貪欲に、ただ貪欲に。

J ステンドグラス・ストラテジー/6

ステンドグラス・ストラテジー/6

 

 三条結はいつも縄をして学校に来た。佳恋は登校してくる結を自分の教室から眺めるのが日課になっていた。メガネを掛けて見ていた。いつも彼女の身体に掛けられた縄が見えた。

 佳恋はそれを眺めながら、想像する。あの縄はどこで手に入れたのか、フェンリルから貰ったのか、買ったのか、買ったとしたらどこで購入したのか、どんな顔をして、あの子はいやらしいことに使うしかない色とりどりの縄なんかを買いに行ったんだろう――、私服で? 制服で? そんないかがわしい店で結みたいな子がいたら――、声を掛けられて大変な事になってしまうのではないか――。

「――いや、通販があるよね……」

 そこまで妄想を広げてから、佳恋は我に返る。その想像の中で結はたくさんの股間にモザイク処理をされたのっぺらぼうに犯されていた。

「――私、バカだ」

 守るべき後輩を、想像の中とはいえ酷い目にあわせてしまったことを悔やんで眉を顰める。それでも、品の無い妄想は佳恋のどこかで続いている。

 ――結はまだ、おとめ、なのかしら。

 そんなことまで考える。そして突き詰めてしまって、胃から後悔が上がってくる。佳恋は結におとめであってほしいと願ってしまっていることに、気付いてしまったから。

 美しさ、その表情、(つや)

 そのすべては結が経験豊かなことを物語っているではないか。そうでなければ、あんな危ないものに引っかかるはずがないのだ。それにあの自縛の巧みさはどうだ。特段ぶきっちょな自覚はない佳恋だけど、あれを再現しろと言われたら――羞恥はひとまず置いておくとしても――あれだけ見事にはやってのけられないと思った。それくらい、いつも結を縛る縄は美しくあり、いつ見ても変化があった。

 ――これも、フェンリルのメイレイなんですよ。それに ……同じところを締め付けると、痛いんです。

 強調される双胸を持ち上げながら、結はそう言った。

 そのフェンリルの捜索は進んでいなかった。どれだけ校舎を巡っても、授業を休んで結に張り付いてみても、歪んだ視界の中で結を狙う隠れたる悪意は見あたらなかったんだ。

 お陰様で、佳恋の目には、いつもはっきりと結を(かたど)る縄の形が焼き付いてしまっている。目をつぶっても思い出せてしまうくらいなんだ。――特に寝る前なんか、その肢体や、結が今まで見せた痴態のことを思いだしてしまうんだ。

「――はァ」

 ため息をつく。

 メールの着信があった。フェンリルの指令を知らせる結のメールだった。フェンリルの指令は結に留まらず、少しずつ佳恋を絡ませていこうという意図が佳恋にも見て取れた。そしてもちろん「拒否をすれば、破滅が待っているぞ」というお決まりの文句も忘れずについてきた。

 ――もう、いいんですよ、せんぱい。

 結はまだそう言ってくれる。けれど、佳恋にはフェンリルからくる脅しが陳腐で軽薄なものに見えてきていた。臆病なやり口は、結が指摘したとおり「口先だけ」の可能性が高いように思えたんだ。

 しかし、それなら。なぜ結は言うことを聞いているのか。

 (こば)む方法なんて、ごまかす方法なんていくらでもあるのではないのか。それで相手の出方を(うかが)おうとすると「そんなことをしたら、破滅ですから」って結は会話を切ってしまう。この点において、結の行動は矛盾に満ちていた。役立たずな自分の目がうらめしかった。

 

 佳恋は時計をみる。まだ今日は始まったばかり。

 狼の待つ放課後が、待ち遠しい。

 

 

 役立たずの、進展しない思考を一日巡らせて。その合間に結の痴態を挟んで、ほんのりと体温を上げた佳恋は被服室に向かう。

 今日は、金曜日だから。

 

「あ、来てくれたんですね、せんぱい」

「――当然でしょ?」

 目の前には、前をはだけた後輩。

「せんぱい――あの、もし、私がどんな目にあっても、ちゃんと……先輩自身があぶなくなったら、見捨ててくださいね。わたし、人を巻き込むなんてイヤですから」

 何度目かの形だけ、口ばかりの拒否と警告。

「……うん。でも、そんなことにはしないよ」

「せんぱい」

 きっと締め付ける縄よりも、ぴんと張った声。

「ほんとうにそんなことになったら、私は臆病だから……ちゃんと、……三条さんを見捨てて、逃げるよ」 

 嘘だ。

 全身に縄を、その組み方を明らかに上手にさせた結の裸身。こんなものがなければ、この子の体はきれいなのに。ささくれた指が全身を這い回っている。それは、佳恋の目にはっきりと映っている、制服に隠されているところも。制服とセーターの紺色の陰から主張をしていた。

 結はきっと嘘をついている。

 でも、見捨ててくれと言っている。佳恋にはもう、なにがなんだかわからない。この絶望的な状況にいるこの後輩はどうして泣いたりしないんだろう。「問題が解けなくてよく泣いたりします」といったこの子は、どうしてぴんと張った背筋に無骨な縄を張られても泣かずに凛と立ち、年に似合わぬ艶を湛えているのか。それは、現代文の教科書だって顔を真っ赤にしそうなくらいの、艶っぽさだった。

 でも、それが佳恋には悲しい。

 

「ねえ、さわっていい?」

「……はい?」

「――お願いよ、三条さん」

 驚くほど、冷たい声がでた。

 寒気を含んだナイフのような声だ。佳恋が言われていたらたまらず漏らしてしまうような人殺しの親戚の声だ。

 そして乾いていた。地図帳でみただけのタクラマカン砂漠、ありがたーい教典を探しに行った三蔵。その途上で尽きた従者のように(しゃが)れた声なのだ。水を求めて、乾いた声に違いないのだ。

「なにを、ですか?」

 戸惑いでもなく、はっきりとした声が返ってきた。

「……えっ」

 戸惑いを露わにしたのは佳恋のほうだった。自分の冷たい声に、そしてその内容に、そして戸惑わずに聞く結に、その顔に。おぞけがはしる。

「せんぱい、よくきこえなかったんです」

「え、えっと、触っていい?」

「なにをですか……? あ、おててですか。ぎゅう」

 手が握られた。いや、封じられた。

「いや、そうじゃなくて……」

「じゃあ、なんですか?」

 トボけはじめた。この子は知っている。トボけたふりをしながらも、佳恋が既に、三条結の支配下にあることを知っている。

 佳恋は知っている。この子が賢いのを、泣かずにいきていくことができる強さの内在を悟ってしまっている。

 では、縛られているのは、誰だ。

 縛っているのは、誰だ。

 明らかに結の精神を蝕みはじめたこの目。それですら見えない罪の在処(ありか)は、どこだ。

「せんぱい、て、つめたいですね」

「うん、だから触らせて」

 あたたかいあなたに触らせて。

「だめです」

「――なんで。いいじゃん」

 だめ。ということばがぐるぐるする。いたずら心をふんだんに含んだ拒否。言うことを聞けばおやつの場所を教えてあげると言わんばかりの母親じみたいたずらな「まて」だ。

「ねえ」

 ぎゅっと握られている。手が縛られている。

 佳恋は不思議だった。さっきまで結は泣いていたはずだった。佳恋が、結を守ってやって、悲しみや苦しみを共有し、結を谷底に落ちないように頑張っているはずだった――そのはずだったんだ。

 ――いつ、逆転した?

「触りたいんだけど。ねえ、その縄は。……三条さんを縛り付けてる縄はほんとに」

「いいですよ」

「えっ」

「でも、左手だけですよ」

「あ」

 握られた両手のうち右だけが解放される。遊びが始まっている。作りものの腕みたく白い。この腕にこの目に見える黄土色の縄が這い回ることを考える。

 いや、これは手がかりを辿るための手段だ。それに、結が勝手に遊びへ仕立てあげているだけだ。

 でも、佳恋は言うとおりにした。

 左手だけを、結の胸元にのばす。右手は結の両手に捕まれている。その掴む力はけして強くはない。

 ――ねえ。きもちいいの、それ。

 そんな言葉を飲み込んで、一緒に飲み込んだ唾液の衝撃が、体を揺らす。驚いた左手の中指がささくれにふれた。

「あっ」

 それはどちらがもらした言葉だったか。あの夕暮れ、色気もなにもないピンク色のタイルに囲まれた個室の中でふれた布ごしのそれではない。無骨さ。佳恋には信じられないささくれだった。冬の手入れをしない唇だって、倦怠期と戦い始めた奥様のかかとだって、こんなにガサつくはずがなかった。

 ――その棘は、指先を通り、血管を流れ、佳恋の心臓をたやすく貫いた。

「ねえ、きもちいいの――これ」

 さっき言えなかった言葉が、飛び出た。

「うん、いいですよ。せんぱい」

 両手が放される。

 ――ああ、私は負けたのだ。

 負けたのを認められず、言葉だけが烈しくなる。

 佳恋は自由になった右手を左手に追いかけさせる。その頃、佳恋の右手は、縄と肌の間に滑り込んでいた。指一本でもその張りを確かにするめぐり、左手が無理にこじ開けるその隙間。縄を退けても、ふたりの間に皮膚があることが悲しかった。

「せんぱ、だめ――。いた……い……」

「がまんしてよ。――淫乱」

 ――なんだ、この言葉は。

「ひどい――。ひどい、せんぱい」

 なめらかにのどを滑り、拒否の言葉を床に押してける。その言葉を出した本人を、その喉と肺をいたぶるようにささくれた縄を、追いついた右手が引く。

「くうっ」

 こすれる。

 佳恋は忌々しく思う。なにを? この目だ。彼女を見る度に視えてしまうこの縄だ。忌々しい縄だ。しかし、佳恋の目に見えるのは縄だけだ。結の縄だけだ。

「みせてよ、ほら」

「もう、みられてます――よ」

 ――なんでそんなに、うれしそうなの。

 ――ねえ、あなた本当に、脅されているの。脅しているのは、誰なの。あなたの肌はどうしてこんなに白くて。

「どうしてこんな、に、上手なん――」

「え――」

 指が、結の乳房を掴んでいる。縄にうばわれていた肉の塊を鷲掴みにしている。気づけば佳恋の両腕の甲には痒みにもにた痛み。ヤスリで(こそ)ぐような熱さ。その痛みの代わりとばかりに手のひらにはマシマロのような――自分のそれでは味わえない実りが、重力を伴って落ち続けている。

「……痛いです」

「――やめてほしいの?」

 佳恋は自分が信じられない。自分の口が信じられない。そんな言葉を吐いて下の腹に血を巡らせている自分が信じられない。こんな暴力が喜ばれると、結が拒まず自分の歪んだ愛撫を受け入れると信じているのが――全部信じられない。

「せんぱい――」

 指は乳房にあった。縄が(はば)むのも利用した。ささくれた縄と肌の間にある手を焦らすと、結が悶えるのが面白かった。

 結は足をじたばたさせていた。佳恋の足は対照的にリノリウムの床を掴んで微動だにしない。そこを軸に結が踊っているようにさえ見えた。ステップを踏んで、鹿鳴館の貴族のように、たどたどしく。

 でも、結の上半身は上気していた。佳恋はもっと上気しているのを感じていた。いや、結のステップの描く滑稽さに一瞬だけ正気がもどったのだ。

 そう――ここは学舎で、特別教室だけれどやっぱり学校の中で、昼間には勉学にいそしむ学友や後輩が、きゃあきゃあいいながら、使いもしない子供っぽいステッチを入れる部屋で。あろうことか鍵もかけずに、こんなに――こんなに――。

「――よかった」

「なんです?」

「ここが、ミッションじゃなくて」

「あはは」

 ――カミサマデスカ?

 きっと結が口にした、そんな敬虔(けいけん)ならない言葉は、淫声にかき消された。乳房に(あて)がわれていた佳恋の手のひらは、山の頂上に到達した。

「感じるの?」

「――――」

 声もでないんだ。そう、佳恋は後輩を罵り、五本の指のうち、登頂に成功したたった一人のひと差し指に踊りを、喜びの舞踏を舞わせる。ステップ、ターン、ターン、ジャンプ、ステップ、スクラッチ。

「――っ!」

 ――あ、ここ、感じてるんだ。

 結の顔を見ながら、佳恋は色々と動きを試してみる。ゆっくりだったり、急いだり。軽く爪を立ててみたり。そんな行動の逐一に対して、反応をする結が愛おしい。

 どうして最初に、あんなに乱暴にしてしまったんだろうという後悔が、跳ね上がってくる。縄目の付着して取れない、ぎざぎざの身体だから、構わないと思ってしまったんだろうかと自分を責める。

 佳恋の指は止まりはしない、罪を償おうとゆっくりと、しっとりと、縄の周りを中心になぞっていく。

 汚いはずのところも、縄が沿っているからなぞっていく。まるで、小学校低学年がかきかたの教科書に書いてあるから、そうするんだといわんばかりに愚直に、どうしたら鉛筆の黒鉛が教科書に染み込むか試すように、うまくいかなかったところをもう一度なぞって試すように。

「――あ、あ」

 甘い声の遠慮が無くなってくる。鼻腔から漏れる吐息がひどく温い。

「どうしてそんなに――、声をあげるの、結」

 ――そんなに、気持ちの良いものなの?

「――だってせんぱい。声を出した方が。いいんですよ」

 結は口をあけた。粘ついた唾液が糸を引くのが見える。綺麗に生えそろった歯、赤い口腔、絡みつくような淫欲の臭いを伴う獣のような口の中だと思った。

「手が止まってますよ、せんぱい」

「――あッ」

 見とれていたら手が止まっていた。その手を結は掴む。そしてもう片方で、まだ服をまとったままの佳恋の内側に、手を伸ばす。

「こんなに焦らすなんて、どこで学んだんですか。せんぱい――ひとを焦らしておいてこんなにしてたんですか――この―――――――淫乱め」

 楽しそうに、結が、さっき佳恋の口から漏れ出た言葉を跳ね返してくる。

「ちが、ちがうの――」

 佳恋は本当に、今気付いたのだ。

 自分の下着が、もう履いて帰れないほどになっていることに。

 その場所に結が手を伸ばした。

「ひ、やぅ――」

 結の指は、それぞれで濡れていないところと、濡れているところを往復しだす。布に触れるか触れないかのところを探るようなもどかしさを与えながら、たまに、布を突き破りそうに深く触れてくる。もちろん布は破れたりしないけれど、静かな被服室の中に水音が響いてしまう。

「や、やだ――結」

「まだ、まだ」

 こんな低い声が出るのかという押し殺した結の声に、佳恋の身体は触れられてもいないのに戒められてしまう。結は、その隙を逃さず、佳恋の手を戒めていた方の手を佳恋の戒め――スカートと上着――を外していく。

「や――」

「ゆいばっかり、ずるいでしょう? きもちいいのは――」

 ――だから、せんぱいにもあげます。

 前がはだけさせられる、ブラジャーの上から責められる。

「せんぱい、こうやって試してみたんでしょう。せんぱい、ゆいのこと思い出しながら、自分でやってみようとしたんでしょう! ほら――ここも、ここも、ここも――」

「やめ、やめてえ。あ、また、そん、なッ……」

 結の指は虫のように自在に動いているようだった。結は、さっきまで自分がされていたもどかしい愛撫への仕返しをするかのように、佳恋の未熟な精神を、処理できないような手数で責めていく。痛みは理性を取り戻させるためだけに、快楽は獣性を目覚めさせるために。 

「――――――――――――! ―――――――ッ!」

 佳恋はもう、声も出なかった。自分がどうなっているのかもわからなかった。さっき、結をこうしてあげられなかった自分をふがいないと思った。

「ほら、せんぱい、無駄な事は考えないで――いいですから――ね。せんぱい、さっき教えたでしょう?」

「――ぁ」

「声を、出すんです――、ほら。誰も来ませんよ――!」

 爪が、濡れた下着の上から甘く立てられる。

 佳恋は、いつのまにか半分はだけられた未通の肌を、結の縄に押し当てる。その先に柔肌がある。佳恋はたまらず、両手をその後ろで組み、自分の躰を押し当てた。

 縄をサンドイッチする形。佳恋は結が弄っているそこを、結と同じ部分に、縄が邪悪なコブを付けて待ち構える地獄の縄に、腰ごと、丸ごと、自分のなかの獣がそう教えるままに。

「あ、せんぱッ! それ! 駄―――」

 勢いよく、こすりつける――――――――。

 

 

 二つのみだらな声が、みずからの脊椎を支配していく。

 

 

「――ねえ、寒くない?」

「はい――」

 ふたりは殆ど裸だった。結の縄は解いてしまっていた。縄を解くと、結の身体の赤い縄の痕はよく見えた。床に布の切れっ端をいっぱい敷いて、即席のベッドにしてふたりで並んで寝転んだ。冷たくて、固かった。だから、必然としてふたりは寄り添うことになった。

 

 ――もう気づいているくせに、せんぱいったら卑怯ですね。

 

 結の口がなにか動いたような気がした。

「――なに、結」

「いつのまに、名前で呼んでくれるようになったんですか?」

「……そっちのほうが、かわいいから」

「もう、せんぱい。知ってるんでしょ?」

「なんて?」

フェンリルが、わたしだって――」

「……しらない」

「うそ」

「……」

「うそまでついて、わたしとセックスしたかったんですか」

「だましたのは、結のほうでしょ……?」

「――三条結はちゃんと言いましたよ、もう、関わらないで下さいって、せんぱいをまきこみたくないからって」

「……悲しいな」

「……ねえ、せんぱい。これからもせんぱいを脅して良いですか? 結はたまにフェンリルになって、せんぱいをおもちゃにしてもいいですか? いいですよね。たぶん、結は――」

 いつのまにか、結の自称は「わたし」から「結」に変わっていた。それはいつの間にか戻ったけれど、きっと、三条結は。ずっとひとりなのではなかっただろうか。私よりも。そう、佳恋は思う。

「たぶん、結はせんぱいのこと、すぐ飽きちゃうと思うんです。結も捨てたし、捨ててきたんです。せんぱいは、ほんとに――すごく上品で、きっと生まれも」

「ちがうよ、八頭佳恋は、鳶職の娘。母親は居ない」

「そうなんですか?」

「ひとは見かけによらないみたい。……おかしいね、自分だってそう見られているのに、そんなこと忘れてしまっていたなんて」

「そんなものですよ、せんぱい――えいっ」

 結は突然寝返りを打って、佳恋の上に乗ってきた。

「な、なに、なにするの――」

 起き上がろうとするのを制止される。結の手には、さっきまで結自身を戒めていた縄がある。

「うそ――」

 佳恋の口はそう言っている。でもわかっている。佳恋は自分自身で、ちゃんとわかっている。こうなるかも知れないこともちゃんと予測できていた。その気持ちも、期待も、はしたない腹の底からの湿りが外に滲み出てきていることすらも、全て結にはわかられてしまっていることさえも。

 だから、結の次の言葉もわかっている。

「今度は、せんぱいにやって差し上げるんです」

 結はまだ湿りを残している部分を、佳恋の口元に持ってきた。

「――ん」

「わかりますか? 思い出しますか?」

 ――最初、トイレで出会ったときと、同じ臭いでしょう。

 そんな結の言葉の続きは結によって省略された。縄越しに唇が重なる。

 互いの舌の間に、ささくれた繊維が生い茂ったキス。女の子とのキスなのに、こんなにも痛い。だからそんなに長くは続かない。その代わりと言わんばかりに結は次のイベントを用意していた。

 

「ほら、せんぱい。結が、いま縛ってあげますからね――」

 

 その言葉に。

 こんなにも、佳恋の身体は期待してしまっている。

 ひとりの淫液と、ふたりの唾液を飲み干す音が、被服室に響いている。

 

 

 カーテンの隙間から、夜間照明の強い光が注ぐ。

 暗い部屋に映し出された狼は、

 赤い頭巾の代わりに縄を被っていた。